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三、約束

 楽団の練習がいつものように始まった。

 最初に個人での音出しとウォーミングアップが終わると、パート毎にスケールとアルペジオ、アンサンブルの練習、その後はウッドセクションとブラスセクションでの曲練習を行う。休憩を挟んで、全体の合わせ演奏というのが楽団の練習課程だった。

 雨宮律子はクラリネット、僕はトランペットだから、一緒に練習できるのは、休憩の後の全体練習しかない訳だ。全体練習の時でないと、彼女の様子は伺えないのだ。

 今日の彼女の様子はいつもと変わらなかった。ひた向きに楽譜を追い、指揮者の指示をメモし、演奏に没頭していた。顔を上げるのは、指揮者を見る時、指揮者の指示を聞く時だけ、あとは前下がりのボブカットが彼女の顔を隠して、表情がよく読み取れなかった。

 僕はやっぱり気になっていた、雨宮律子のことが。無駄かもしれない。無理かもしれない。だけど、もう一度だけ彼女に声を掛けてみようと思った。それは義務感なんかではなかった。僕の素直な気持ちだった。


 楽団の練習が終わると直ぐに僕は慌てて楽器を片付けて、彼女の姿を追った。そして、ロビーのところで彼女に声を掛けた。前回と同じように。

「雨宮さん、待ってよ」

 僕の声に、足早に歩いていた彼女はすっと立ち止まった。そして振り返って僕の方を見据えて言った。

「何か、用ですか?」

 彼女は、練習の時と同じように、前下がりのボブカットが彼女の表情を隠していたが、その返事の声の低さや抑揚のぶっきら棒な感じで彼女の気持ちが伝わってきた。『私に関係しないで』と言わんばかりの雰囲気だった。

 そんな彼女の態度に、僕はたじろいだ。だが、後には引けなかった。僕は声を掛けようと思った時の気持ちを思い起こして、声を振り絞った。

「え、えっと、今日はこれから暇かな?」

 彼女は、相変わらず下を向いていた。そしてそのまま微動だもせずこう言った。

「時間なんて……空いてないわ」

 僕は、その答えは予想済みだった。だけどその答えに対抗する手段を持っていなかった。だから、なおも食い下がる以外に方法がなかった。

「それじゃあ、いつなら空いてる……かな?」

 彼女は何かを考えている風ではなくて、全てを受け入れる余裕がないといった感じだった。全く顔を上げずに、諦め切った、力ない小さな声で答えた。

「空いてる時間なんて……」

 僕は、聞き取れない小さな声になっている雨宮律子に少し苛立った。後から考えたら『どうしてこんなことを言ったのだろう』と思ったのだが、それでも彼女のことを思って、気に障らないように恐る恐る訊いた。

「それって、レッスンだから?」

『レッスン』という言葉に彼女は異常な反応を見せた。突然僕の方を向いたかと思うと、大きく目を見開き、口を尖がらせて、彼女の声としては聴いたことのないような大きな声を発した。

「そうよ!」

 そして、カバンと楽器ケースをキュッと握り直して、玄関の自動ドアへ走り出そうとした彼女の腕を、僕はまるで条件反射のように、とっさにグイッと掴まえた。

 彼女は、腕をつかまれた拍子に走り出そうとした身体が制止され、髪の毛と体勢が崩れた。そして、彼女は乱れたれた髪のまま、僕を睨みつけた。

 僕は、自分が思わず行動してしまったことと、その行動自体が大胆だったことに自分自身が驚いていた。そして、ほんの一瞬のパニックが過ぎ去り、自分が彼女の手をつかんでいることを認識した時、僕はゆっくりと脱力しながら彼女の腕を離して静かに言った。

「乱暴にしてごめん。そんなつもりじゃないんだ。僕は君のピアノが聴きたいだけなんだ」

 僕が喋り終わるまで、彼女はずーっと僕を睨みつけていた。それは数秒間、そのまま続いた。

 その数秒後、彼女はやっと僕の言葉を理解したようだった。急に彼女の鋭い厳しい表情が崩れ、身体の力が抜けた。そして、僕の言葉に対して彼女の感想めいたものが、嗚咽のような言葉で漏れてきた。

「え!?」

 信じられないという表情と、不思議に優しい表情が、彼女の顔に入り混じっていた。僕が今までには見たことのない彼女の顔、彼女の表情だった。

 僕は、出来るだけ静かに、優しく、祈るように、懇願するように言った。

「君のピアノが聴きたいんだ」

 だが、その言葉は逆効果だったようだ。その言葉を聞いた彼女は、その言葉が頭の中のいろいろなところを駆け巡って、悲しい思い、嫌な思いを通過したのだろう、また表情を暗く、悲しく、冷たく、硬くした。だが、今度は下を向かずに真っ直ぐに僕の顔を見て、振り絞るように彼女はこう言った。

「ごめんなさい」

 彼女はそう言って、下を向いてカバンと楽器ケースを持ち直して、玄関の自動ドアに向って走り去った。

 僕は、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、何かを感じ取った。だから、僕は最後の望みを掛けて、彼女の後姿に向って大声で言った。

「来週はいいよねっ?」

 間髪を居れずに、僕はもう一声掛けた。それは念を押すように。

「約束だよ!」

 彼女は一瞬立ち止まったが、足早に自動ドアの向こうに消えていった。

 僕は、彼女が出口で左に曲がって見えなくなるまで、立ち尽くしていた。見えなくなった途端に気が抜けて、肩を落とした。

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