二十九、その後
何日かが過ぎた後、僕は律子と母親の奈津子と共に、師匠のレッスン室を訪ねていた。
「あの人、遂に折れましたわ。『律子の好きにしなさい』って」
奈津子は、満面の笑みで藤巻に語り掛けていた。
「でも、さすがに海外へ行くことまでは無理でしたわ」
奈津子は少し残念そうだったが、藤巻は相変わらず微笑んでいた。
「雨宮の性格から言って、それは固持するだろうな。それにヤツの立場も微妙になるだろうし」
藤巻は、律子の方を向いて尋ねた。
「それで律子さん、どうするつもりなんだ? 俺が力になれることがあれば言ってくれ」
藤巻からの言葉に、律子は晴れやかな顔で藤巻にこう告げた。
「私、師匠さんに教わりたいんです。駿平がどんな風に習ったのか、知りたくて……」
そう言うと、律子は赤くなってうつむいた。
藤巻は頭をかきむしった。
「力になるとは言ったが、そいつはなー」
藤巻は引きつりながら奈津子に言った。
「雨宮の奴、俺では首を縦に振らんだろう」
奈津子は横目で律子を見ながら、未だに笑みが絶えなかった。
「あの人もいろいろと条件を出してきましたわ。ところが、要一さんならOKをくれましたの」
奈津子はこれまでに見たことも無い笑顔でこう言った。
「是非、ご教授をお願いします」
藤巻は頭をボリボリと掻きながら驚いていた。
「ふーん、あの雨宮がね。娘にゃ弱いんだな、やっぱり」
師匠は僕のほうを向いて、鋭く言った。
「ところで、駿平! 律子さんとはどうするんだ?」
僕は師匠に向き直って姿勢を正した。
「僕は、真理さんとアメリカに行きます。そして、研鑽を積んできます。その間、律子は師匠に鍛えてもらいます」
律子はコクリとうなずいて言った。
「そして、いつか一緒に演奏します。それが、今の私達の目標なんです」
師匠は腋の下をポリポリと掻きながら言った。
「逢わなくて大丈夫か? 頑張れるのか? ……音楽の方じゃないぞ! 二人のことだ!」
僕は律子を見た、律子も僕を見た。
そして師匠に言った。
「大丈夫です。頻繁に日本へ帰ってきますから」
師匠は僕の額にデコピンをした。
「バカヤロー!」
そう言って師匠は「はっはは」と馬鹿笑いした。
僕も、律子も、奈津子も同時に笑い始めた。
僕は阿川真理からの電話で呼び出された。
あの、Nスタジオの二階の三番スタジオに。
スタジオの重々しい扉を開けてコントロールルームに入ると、そこには阿川真理と彼女のマネージャー、そして師匠である藤巻要一も居た。
「ハンコ、持ってきたか?」
師匠は、ぶっきら棒な言い方で僕を迎え入れた。真理はフフフと笑って、師匠をいなした。
「先生、サインでもいいんですから」
師匠は分かっているという表情を見せて苦笑いした。
真理は、突っ立ている僕をソファに座るよう促した。
「戸倉君、この世界は契約社会だから、契約してもらわないといけないの」
僕はうなずいた。真理は続けて説明した。
「簡単に説明するけど、君は勉強しながら、私達と活躍してもらうことになるわ」
真理は微笑みながら、僕を見つめていた。
「ピアノは私に師事、トランペットは桜沢に師事、というカタチね」
真理は簡単なスケジュール表を見せてくれた。僕はその表を覗き込んだ。
「それで、これが年間のステージ回数。大きなホールから小さなライブハウスまで百八十回程度。結構キツイわよ」
真理は僕に微笑みかけた。僕は少しビビっていた。
「僕で大丈夫でしょうか?」
真理は、僕の肩を叩いた。
「何を言ってるの! 私と桜沢が見込んだのよ。やれるわよ。私が立派に育てて見せるわ」
僕は精一杯の笑い顔を真理に見せた。
「大丈夫よ。君なら必ずやれるわよ」
真理にそう言われて、僕は照れて耳まで赤くなった。
「まだまだ、くちばしの黄色い雛だがな」
師匠は、僕に対する嫌味を忘れていなかった。でも、それは本当のことだった。
「いよいよ、これで駿平もミュージシャンよ」
そう言って真理は僕に微笑んだ。師匠が拍手をして僕を祝福してくれた。
そこへマネージャーが割り込んできた。
「さぁ、駿平クン。君の記念すべき第一歩を記してくれたまえ。その前に、契約書の確認を」
マネージャーは、僕に契約書を読み上げ始めた。
「その前に、一つだけ……」
僕がそう言うと、マネージャーは優しい微笑を湛えて言った。
「大丈夫だよ。君の望んだ『二ヶ月に一回の帰国』の条項は入ってるよ」
僕は、赤くなりながらホッとした。
その様子を見て、真理が言った。
「シッカリやらないと、私が帰国許可を出さないかもよ」
僕はビックリして真理の方を見た。
「脅かさないでくださいよ」
真理は大声で笑い、師匠の藤巻は失笑していた。