表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/30

二十七、嵐のあと

 窓から吹き込む、静かで優しい風が、レースのカーテンを揺らしていた。

 同じ風が、律子の髪も揺らしていた。

 律子は、自分の部屋のベッドの隅に座り、窓から外を眺めていた。

 外を眺める律子の目は当てもなくさ迷い、宙を見据えていた。

 部屋にドアをノックする音が響いたが、律子は微動だにしなかった。

 鍵が掛かっていないドアが開いて、母親の奈津子が入ってきた。

「律子」

 そう呼び掛けた奈津子の声にも律子は反応しなかった。

「律子、気分はどう?」

 そう言って奈津子は、ベッドに座っている律子の横に座った。

「お父さん、ビックリしてたわ。……私もビックリしたけどね」

 優しく笑顔で語り掛ける奈津子に、律子は未だに微動だにしなかった。

「一度にいろんなことが起こっちゃったわね」

 奈津子は一度、律子の顔から視線を外した。

「お父さんの仕業なのは、薄々感じ取っていたわ」

 奈津子は、改めて律子の顔を覗き込んだ。

「だけど、私と要一さんみたいにはなって欲しくなかったから」

 律子は、母親の奈津子の顔を見た。

「私、私……」

 律子はしゃくり上げそうになるのを抑えながら、搾り出すように言った。

 その嗚咽のような言葉を聞いた奈津子は、そっと律子の右手に左手を重ねた。

「大丈夫よ。お父さん、分かってくれるわ」

 律子の頬に涙が一筋、流れ落ちた。

 奈津子はそっと律子の肩を抱きしめた。

「選ぶのは、あなたよ。律子の想うままでいいのよ」

 律子は母親の肩にうな垂れた。


 雨宮家から帰り道、僕は師匠に話し掛けた。

「師匠、今日は僕のレッスン日じゃないですよ」

 師匠は前を見たまま、答えた。

「いや、今日はレッスン日だ」

 師匠は立ち止まって僕を見た。

「お前の、最後のレッスンだ」

 言い終わると、師匠はまた歩き出した。

 ロフトのレッスン室に着くと、藤巻は鍵を開けた。

 見慣れた、ピアノが置かれたレッスン室だ。

 僕がピアノのカバーを外そうとした時、師匠は僕に声を掛けた。

「今日、ピアノは弾かない。そこのソファに座っていろ」

 僕は「え?」と思った。

 レッスンなのにピアノを弾かないなんて有り得ないことのように思った。

 師匠は、コーヒーメーカーのスイッチを入れてドリップさせ始めた。

 そして、マグカップになみなみと注いだコーヒーを僕の前に置いた。

 師匠は、コーヒーをすすりながら僕にこう言った。

「もう、お前は卒業だ。俺の所から巣立つ時が来たんだよ」

 僕は、すすったコーヒーを噴出しそうだった。

「え? 卒業って? どういうことなんです?」

 師匠は、コーヒーをゴクリと一口飲んでから言った。

「阿川真理に会ったよ」

 師匠の言葉に、僕はビックリした。

「真理さんに会ったんですか?」

 師匠は「フフフ」と笑いながら言った。

「阿川にはレッスンしたことがある。彼女は立派に成長した」

 師匠は再び、マグカップのコーヒーをすすった。

「彼女に付いて行っても悪くないぞ。いい機会だ。修行してこい」

 僕はちょっと嬉しくなった。師匠に認められたこともそうだが、真理や桜沢と仕事が出来ることに嬉々とした。

 だが、それを察知して師匠は言った。

「それでお前、律子さんのことはどうなんだ?」

 師匠の言葉で、忘れていた大切なことを思い出し、僕は少し下を向いて答えた。

「あ、はい。それなんですけど……」

 藤巻は腕を抱えて唸った。

「うーむ、難しいことだな。俺の時と同じだな」

 師匠は立ち上がって、宙を見ながら言った。

「お前達には、将来がある。だが、それを決めるのはお前達だ」

 師匠は腕組みをした。

「俺でもない、雨宮でもない、阿川でもない。……解かってるな」

 僕は、コクリとうなずいた。

「だがな、雨宮健一は簡単な奴じゃない。たぶん、律子さんはお前とは一緒に行けないだろう。それぞれで頑張れるのか?」

 そう言って師匠は僕に向き直った。

 僕は、師匠を食い入るように見つめた。


 律子は、大通りにあるオープンカフェで待ち合わせをしていた。

 グレーのショートジャケットにオフホワイトのタートルネックセーター、黒のプリーツスカートにベージュのウエッジパンプスという、律子にしてはちょっと大人びた格好だった。

 そこへ、息を切らしながら近づいてきた女の人がいた。セミロングの栗色の髪、白のスキッパーシャツの上に黒系のレイヤードニット、カーキグリーンのカプリパンツにバックルベルト、スエード調パンプスの装いで現れたのは、阿川真理だった。

「ごめんなさい」

 真理は、抱えていた衣装バッグを隣の席において、律子の前に座った。

「呼び出しておいて、遅れるなんて」

 目ざとく近づいてきたウエイトレスに、真理はエスプレッソを注文した。

「ホント、ごめんなさい。打ち合わせが長引いちゃって」

 真理は、律子に頭を下げた。律子は首を横に振って応えた。

「いいえ、まだ10分くらいですから」

 律儀に答える律子に、真理は微笑み返した。

「ふーん、そっか。駿平はもっと待たせるんだ」

 そう言われて、律子は赤くなって顔に手を当てた。

「いえ、そ、そんなことはないですっ」

 真理は、律子に更に深い微笑を返した。だが、すぐに真顔に戻った。

「もう一度、あなたに謝らなくちゃね。ホントにごめんなさい」

 真理は膝に手を置いて頭を下げた。律子は、恐縮して肩が吊り上がった。

「そんなこと、ありません。私も誤解してたから……」

 真理は顔を上げて、ニッと笑った。

「途中までは本気だったのよ、今でも、駿平に恋しているわ」

 真理にそう言われて、律子はドキッとした表情を見せたと同時に、ムッとした表情も見せた。

 真理は律子の表情に構わず話し続けた。

「もっとも、今は『駿平の音楽に』だけどね」

 律子は、ちょっとホッとして溜息をついた。

「横恋慕は、音楽だけよ」

 真理は、ウエイトレスの持ってきたエスプレッソに口を付けた。一口飲んでから、真理は話を続けた。

「それでね、駿平を貸して欲しいの」

 律子には何のことだか、戸惑いの表情を見せた。

「彼の音楽に、私は惚れたの。彼を育ててみたいのよ」

 律子は、真理からの思い掛けない言葉に戸惑った。

「それって、どういうことですか?」

 律子は、話が分からないことを真理に伝えた。

「彼をアメリカに連れて行って、あなたに恥ずかしくないミュージシャンにしてみせるわ」

 律子は、更に混迷を深めた。そして、正直な気持ちを口にした。

「分からないわ、突然にそんなことを言われても……」

 律子の顔を見つめていた真理は視線を外して、冷めかけたエスプレッソを飲み干した。

「そうよね。急に言われても困るわよね」

 そして、真理は何かを思いついたようにテーブルに肘を付いて、律子に迫った。

「それとも、あなたも駿平と一緒に来る?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ