二十六、対決
気だるい日差しの日曜日の午後、僕と師匠の藤巻要一は雨宮家の応接間に居た。
当然の如く、父親の健一は不在だった。
母親の奈津子が一番好きなディンブラのストレートティと、奈津子が手作りしたクッキーを、四人は無言で口にした。
奈津子は、藤巻の顔をジーッと見つめていた。藤巻も、奈津子を時々見つめていた。そして、二人は時々うなずき合った。
時間が引き伸ばされたように長い沈黙が横たわっていた。時間が流れていく音が聞こえそうだった。
奈津子と藤巻は、目と目で会話して楽しそうだったが、僕と律子も居たたまれない雰囲気だった。
久しぶりに律子と逢ったのだ。
Nスタジオのあの一件以来、逢うことはもちろん、メールも電話も何一つ連絡が無かったのだ。
僕は目を合わせるのも辛いくらいで、演奏会やコンクール以上にドキドキしていた。
だから、時々チラッと律子を見るのが精一杯だった。
律子も時々見ていたようだが、ほとんど下を向いていた。
まんじりともせず、四人がソファに座っていた。
お互いに目を合わせることもなく、姿勢を変えずにジーッと座っていた。
奈津子と藤巻は一緒にうなずいたと同時に僕と律子を見た。そして同じ意味の言葉を吐いた。
「私達の話を聞いて」
「話を聞いてくれ」
僕と律子は、ソファに座り直した。
奈津子は藤巻に微笑んでいた。
そして、藤巻も奈津子に笑い掛けていた。
「俺達は、恋人同士だったんだ。だが、奴に引き裂かれたんだ」
藤巻がそう言った。
「あの人の策略に、私達は嵌められたの」
奈津子がこう付け加えた。
僕達は、驚きの表情で顔を見合わせた。
そして、僕はおずおずと訊いた。
「あの人って?」
二人は同時に答えた。
「うちの人よ」
「健一だ」
藤巻はゆっくりと語った。
「健一と俺は、同じピアノ科の学生だった。よきライバルだった」
奈津子が言った。
「そして私はヴァイオリンの学生。私と要一さんは、高校から付き合っていたわ」
藤巻は溜息をつくように言った。
「ま、奴の方が音楽以外のことは上だったんだな。俺は、残念なことに音楽バカだった。だから俺は、奴に言い包められて身を引いた」
奈津子が涙目で語った。
「辛かったわ。あの人の言葉を信じてしまったの。その後一年も経たないうちに、それが『策略』ってことに気付いたわ」
奈津子と藤巻は顔を見合わせた。そして、フフフとお互いに笑った。
「私達のことはいいのよ。こんな地位になったのもあのヒトのお陰だし」
奈津子はそう言い、藤巻はこう言った。
「俺も、奴の後押しでヨーロッパに行った。アメリカでも活躍できた」
奈津子は紅茶をすすり、藤巻はクッキーをかじった。
「今度、私のリサイタルで、ピアノを……」
「君の伴奏をしたいな」
二人は、苦笑していた。そして、声を出して笑い始めた。
二人の和やかな会話に、僕と律子もくつろいだ。
だが、二人は僕と律子をキッと睨みつけたのだった。
「問題は、君達二人のことだ」
藤巻がそう言うと、奈津子は大きくうなずいた。
その時だった。
律子と奈津子、そして駿平と藤巻の四人が、応接室で現状と今後を和やかに語り合っていたその時、応接室の扉が突然、バン!と開け放たれた。
「私は許さん! 絶対に許しはしないぞ。絶対にだ!」
そこに立っていたのは、雨宮健一だった。般若のような形相で、四人を睨んでいた。
「律子っ! お前は頂点まで昇り詰めるんだ。その為に、私はどれだけ努力してきたことか! お前はそれが解かっているのか!」
奈津子が何か言おうとしたのを健一は押し留めた。
「奈津子、君は黙っていなさい」
健一は律子に向き直り、優しく語りかけた。
「いいかい、これは『試練』なんだよ。乗り越えて会得しなきゃならない『憂い』なんだ」
律子は、膝に置いた手を握り締め、ワナワナと打ち震えていた。
健一は、律子の様子を見てから、向き直って藤巻を睨んだ。
「それにしても藤巻よ。貴様は何しに来たのだ!」
健一の声は打ち震えていた。
「私の邪魔をするとはどういう了見なのだ! 貴様にチャンスをやったのは誰だと思ってるんだ?!」
それから、健一は駿平の方に視線を変えた。
「それに、戸倉君。いい想いをさせてあげたのだがね! それだけじゃ不満か?」
駿平は握り拳で立ち上がろうとした所を、藤巻が首を振りながら腕で押さえた。
健一はもう一度、律子の方に視線を戻した。
「いいか、律子。私の後継という意識はあるのか? 日本で一番賞賛されるピアニストになれるんだぞ」
健一は懇願するように言った。
「私は、お前をそうさせたいのだ。解かってくれるな、律子」
律子はずっと顔を伏せたまま、震えていた。
健一はニヤリと笑って、藤巻と駿平を見た。
「さぁ、藤巻さん、それに戸倉君。お引取り願おうか」
藤巻は苦虫を潰したような顔で、駿平は握り拳が震えたままだった。
だが、どうすることも出来なかった。
その時だった。
律子が突然、スクッと立ち上がった。そして目を見開いて、父親の健一を睨み付けた。
「私、お父さんの人形じゃないわっ!」
健一はたじろいだ。
「おいおい、律子。何を言い出すかと思ったら……」
律子は更に健一を睨んだ。
「お父さんの音楽は、音楽じゃない! だって、だって、全然楽しくないわっ!」
健一は驚きで顔が強張っていた。
「私、駿平とライブハウスで演奏した時、楽しかったわ。心が躍ったわ。初めてピアノを弾いていて楽しいと思ったわ。みんなの拍手、優しい掛け声、とっても嬉しかった……」
律子の頬に涙が一筋、流れた。
「楽しくない音楽なんか奏でたくないっ! もう、お父さんなんかに教えて欲しくないわっ!」
律子は急に頭を左右に振り始めた。
「もう嫌よ、イヤーッ!」
そう言って、律子は応接室から飛び出して行った。
奈津子は、追いすがるように律子の後を追った。
健一は、呆けた顔で立ち尽くしていた。
唖然としていた駿平の肩を叩いた藤巻は帰り支度を始めていた。
「帰るぞ。今日はレッスン日だったよな」
和やかに駿平を見詰める藤巻はそう言った。駿平はうなずいてソファを立ち上がった。
藤巻は応接室を出る前に、雨宮健一の肩を叩いた。
「なぁ、雨宮。いつもいつも自分の思い通りになる訳じゃあ、ないんだぜ」
健一は、いまだショックから抜けきれずに、膝から砕け落ちるようにしゃがみ込んだ。
藤巻と駿平は、雨宮家を後にした。