二十二、晴天の霹靂
「また音色が冴えてきたね」
雨宮健一は、律子にそう告げた。
律子は、黙々とショパンのエチュードを弾いていた。
「嫉妬の気持ちがよく出ているよ」
そう言われて、律子はミスタッチした。
「いいねぇ。動揺してるところがもっといい」
健一は嫌味としか意味が取れない言葉を吐き続けた。
律子は弾き終えると、溜息を吐いた。
そして、父親の健一を睨んだ。
「おっと。そんな目を向けるとは。さては、戸倉君にふられたのか?」
律子はピアノをバンッ!と叩いた。
「そんなんじゃないわ!」
健一は、ニヤリと不敵な笑いをした。そして、軽くうなずいた。
「そうか、『まだ』そうではないのか」
律子は、健一の言葉に首を傾げた。
「『まだ』って?」
律子は健一を睨みつけた。
「それ、どういう意味?」
健一は、咳払いをしてごまかした。
「いや、他意はないよ。ちょっと言い間違えただけだよ」
あくまでも優しいトーンで、健一は話をした。
「そろそろ、コンクールの準備をしなくてはね。いつまでも生温いことをやっていてはいけない。土曜日、場所を変えてレッスンをしよう」
律子の表情は暗くなった。
その様子を見て、すかさず健一は言った。
「どうした? 浮かない表情だね。土曜日はダメなのか?」
土曜日は、駿平とデートのはずだった。だが、駿平が断ってきたのだった。律子はそれを思い出していた。
「大丈夫です、空いてます」
その言葉を聞いて、健一はほくそえんだ。
「じゃあ、Nスタジオでレッスンをするから」
律子はコクリとうなずいた。
土曜日のお昼、律子は健一と一緒にNスタジオに入った。二階の二番スタジオでレッスンだった。
健一はいろんな曲を、律子に初見で弾かせた。
古典派のハイドン、モーツァルト、ベートーベン。
ロマン派のシューベルト、ショパン、スクリャービン。
近代のラヴェル、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ。
「どれもシックリこないな」
健一は首を傾げながら、様々な楽譜を律子に弾かせた。だが、律子にはコンクールの選曲しているようには思えなかった。いつもの健一なら、こんな手間は掛けないはずだった。ただ、闇雲にピアノを弾かせているようにしか、律子には感じられなかった。
五時間もピアノを弾いていた律子には、明らかに疲れが見えていた。
その時、健一の携帯電話に着信が入った。その着信音を聞いた健一は、律子にこう言った。
「疲れただろう。廊下で休憩するといい」
律子は無言でピアノの前を去ってスタジオを出た。二階のロビーの自販機でジュースを買い、近くのソファに座って飲んでいた。
律子がロビーでしばらく佇んでいると、隣のスタジオから人が出てきた。
書類カバンを持った男とセミロングでワンピースの女性、そして楽器ケースを持った男が二人だった。
二人の楽器は明らかにトランペットで、一人は派手は服を着ていた。もう一人は学生風の何処かで見覚えのある服だった。学生風の男は、どこかで見覚えのある、プロテックのトラベルセミハードケースを持っていた。そして、セミロングの女性と腕を組み、手をつないで、仲良さそうに話をしていた。
その学生風の男を見て、律子は紙コップを落とした。
そして、大きな声で叫んだ。
「駿平!」
律子は、思わずソファから立ち上がった。
「駿平がなんでここに居るのよ!」
その声に気付いた駿平は、振り返った。
駿平には青天の霹靂であった。
駿平は、この世の物ではないモノを見るような目で律子を見つめ、口をパクパクとしていた。
「え、あ、なに? どういうこと?」
腕を組み、手をつないでいたセミロングの女性も、こちらを振り返った。
律子は、それが阿川真理だとすぐに分かった。
「え?!」
律子の顔からは、血の気が失せていた。
「なんで!? なんで阿川さんと一緒なの!?」
真理はビックリしていなかった。むしろ、薄ら笑いさえ浮かべていた。そして、わざとらしく駿平の腕にしがみ付いた。
「あら、駿平の『お友達』の律子さんじゃない」
真理は平然と答えた。
「どうしたの、こんなところで?」
そして真理は、律子に流し目で究め付けの台詞を吐いた。
「まさか、駿平を追っ掛けてきたのかしら?」
律子は、真理の言葉が終わらないうちに、駿平の前を走り去り、階段を駆け下りて行った。
律子を追おうとした駿平の腕を真理は放さなかった。
「ダメよ、駿平。これから桜沢宗和と食事なのよ。君が抜けたら、とっても困るわ」
駿平はその場でうな垂れた。
スタジオのドアを半開きにして、その様子を覗いていた雨宮健一がいた。
真理は、すかさず雨宮の表情をチラリと見た。雨宮は真理と視線が合ったことを確認するとシッカリとうなずいた。そして、雨宮の満足気な顔に、真理は背筋が寒くなった。




