二、うわさ
実を言うと僕は以前から知っていたのだ、「雨宮律子」という名前を。
それはピアノのコンテスト会場でだった。彼女は様々なピアノコンテストに出場し、いつも入賞しているのだった。ただ、優勝したという話は聞いたことが無かった。
ピアノのテクニックも上々で、優しい音色で心休まる響きだったが、選曲が悪いのか、曲想を表現し切れていないのか、何かしらインパクトに欠けるのだ。
雨宮律子の父親は中堅のピアニストで、この地方では名の知れた演奏家だ。若い頃はヨーロッパで演奏していたこともあるらしいが、今はもっぱら後進の指導を中心としている。
そして雨宮律子の母親は、ヴァイオリン奏者だ。地元のオーケストラでコンミスとして活躍する他、ソロ活動とヴァイオリン教室を主宰している。
そんな演奏家の両親の元で英才教育された彼女に期待が集まるのは、周囲を含めて仕方のないことだ。彼女はいつもプレッシャーと戦っているのだ。
どうしてそんなことを知っているかというと、この僕もピアノを弾くからだ。「そこそこ出来る」と自分では思ってるが、師匠に言わせると「十年早いんだよ!」といつも叱られた。
そんな訳だから時々、師匠にピアノコンテストの出場を強制させられた。師匠は、僕を千尋の谷に突き落とすのだ。いつも返り討ちに遭ってボロボロになるが、一度だけ「優秀賞」をもらって師匠の鼻を明かしたことがあった。その時も、彼女は入賞していた。表彰式でずっと下を向いていた彼女の印象が、僕の中にずーっと残っていたのだ。
だが、最近の僕はもっぱら、ピアノよりもジャズトランペットに傾倒している。マイルスを知ってからはジャズにのめり込んでいる。さらに僕は、マイルスに近づくためにトランペットを始めたのだった。師匠にはまた「それこそ二十年早いんだよ」と釘を刺されている。
初めは独学でやっていたのだが、同じ師匠にピアノを習っていて、学校の吹奏楽サークルでホルンをやってる友達が「一人でやるよりいいぞ」と、市民吹奏楽団に誘ってくれたのだ。
でも、この吹奏楽団に彼女が在籍しているとは考えもしなかった。ましてやクラリネットを吹いているなんて全く想像すら出来なかった。
雨宮律子は、いろいろな噂がある。
彼女には、いい意味でも悪い意味でも存在感がある。例え彼女が物静かな人物で、ひっそりとした性格であっても、音楽の世界では否応無しに、彼女のことは話題に上るのだ。
まずは、レッスンのことだ。彼女の父親は、彼女に相当な過酷なレッスンを強いているという噂だ。週に六日で、残りの一日も父親がレッスンしているという。もちろんピアノだけでなくて、聴音やコールユーブンゲン、楽典の音楽の基礎も含まれているのだが。いつ練習してるんだ?って話だ。それでも彼女は、そのレッスンをこなしているという噂もあるから、末恐ろしい感じもするが、それだけ彼女に才能があるということなのか。
前回の練習の時にデートに誘ったけど、振られた理由がレッスンだった。やっぱり、本当なのかもしれない、そのレッスンの過密さは。
楽団の練習の時、フルートの女達が雨宮律子のことで喋っていたのを見逃さなかった。僕は知らん顔でそっと盗み聞きをした。
「雨宮さん、大変そうね」
「ピアノの気分転換に、って言ってたのに」
「初めは明るかったのに」
「でも、息抜きで吹奏楽をやられてもねー」
「今はもう、息抜きで無いそうよ」
「え、どうして、どうして?」
「両親に言われたんだって」
「『ピアノか、クラリネットか、どっちなんだ』って」
「ひゃー、究極の選択だわー」
「今じゃ、クラも習いに行ってるって!」
「彼女、何か楽しみはあるのかしら?」
「さぁ……」
彼女達のうわさ話をきいて、僕は思わず拳を握り締めた。
『雨宮律子が、彼女達に哀れまれる理由なんてないぞ!』
『彼女は十分に頑張ってるじゃないか。お前達よりも立派だよ!』
僕は心の中でそう叫んでいた。
彼女のクラリネットはホントに上手いのだ。リードミスを聴いたことがないのだ。
『いつ、練習してるんだ、ホントにぃ?』
僕は、ますます彼女のことが気になっていた。