十五、過去
日曜日、律子の家に行った。
師匠の「藤巻要一」から、雨宮家に行くのを止められていたが、師匠の真意を探りたいという想いがあった。
それよりも、律子と一緒に居たいという気持ちの方が大きかったのだが。
いつもの通り、父親の「雨宮健一」は不在だった。
いつもだったら三人でセッションをするのだが、今日は止めた。師匠に止められているので、それだけは守らねばならなかった。話をする位なら許されるだろうと僕は考えたのだ。
一番ガッカリしたのは、母親の奈津子だった。奈津子は、このセッションをなぜか心地よく感じていたのだ。奈津子の楽しみでもあったのだ。
「あーら、残念。その師匠さんも厳しいわね」
僕は、母親の奈津子にその様子を話した。
「うちの師匠、あんなに怒ったのは初めてなんです。『雨宮の家には行くな!』って凄い剣幕でした」
母親の奈津子も困った表情をしていた。
「うちで弾いちゃダメってどういうことなのかしら?」
僕は、母親の奈津子に聞いてみた。
「師匠の名前は『藤巻要一』っていうんです。心当たりありませんか?」
その名前を聞いた途端、母親の奈津子の動きが止まった。そして、ティースプーンをカチャカチャと音を立ててソーサーに置き、震えるようにして、紅茶をすすった。
母親の奈津子は、明らかに動揺していた。その様子を見て、律子が言った。
「お母さん、どうしたの? なんか変よ」
母親の奈津子は、ティーカップを両手で抱えたまま、独り言のように、か細くて小さな声で一言呟いた。
「あの人、戻ってたのね。ピアノ、教えてたのね」
母親の奈津子は、震える手でカチャカチャと音を立てながらティーカップを置いた。
「そうだったの。だから何処かで聴いたことがあると思ったはずだわ……」
いつも気丈な奈津子だったが、動揺を抑えきれなかった様子だ。
「ごめんなさい。ちょっと気分が悪いから席を外すわ。駿クン、ゆっくりしていって。律子、後はお願いね」
そう言い終わると、席を立ちフラフラしながら応接間を出て行った。
僕と律子は、顔を見合わせた。
「どういうことなんだ?」
律子も首を振った。
「解らないわ」
二人は狐につままれた感じだった。どうも要領を得ないでいた。
「お母さんの口ぶりでは、師匠さんを知ってるみたいね」
「そうだな」
「昔、何かがあったのかしら?」
「たぶん、そうだろうな」
それだけしか解らなかった。
ただ、明るくてたくましささえ感じる母親の奈津子が、気分を害してしまうほどの出来事が隠されていることだけは間違いなかった。
「それ以上は解らないわね」
「あぁ、僕らにとっては過去の闇の中さ」
僕と律子は、途方に暮れていた。
駿平が帰った後、律子は母親の奈津子の部屋をノックした。
「どうぞ、入って」
律子が入ると、母親の奈津子はベッドで横になっていた。
「ごめんなさいね、お相手できなくて」
律子はベッドの端に座って、母親の手を握った。
「ううん、いいのよ。それに、駿平は私のボーイフレンドなんだもの」
奈津子は微笑んだ。
「そうね、そうだったわね」
「でもね、彼のピアノを聴いているとそんな感じがしなかった」
「昔の彼が弾いているようだったのよ」
律子は、眉間にシワを寄せた。
「昔の彼?」
奈津子は右手を額に当てながら話し始めた。
「えぇ、そう。藤巻要一は昔の彼氏だった」
律子は、母親の衝撃的な発言に驚いた。だが、律子の様子などお構い無しに、奈津子は話し続けた。
「今の、駿クンと律子のように、いえ、もっと仲が良かったわ」
「私達は、共に高め合っていた、人間的にも音楽的にも」
奈津子の表情が少し曇った。
「だけど、藤巻は突然、私の前から姿を消したの」
「何も告げず、さよならさえも無かったわ」
「ホントに突然よ。昨日まで逢っていたのに!」
奈津子の頬を涙が伝った。
「悲しかったわ。辛かったのよ。だから音楽に打ち込んだわ」
「それからあの人と、雨宮健一と結婚して今の地位を築いたの」
律子は母親の手をさすりながら、相槌を打った。
「……そうなの。知らなかったわ」
「ごめんなさい、辛いことを思い出させて」
奈津子は涙を拭いながら起き上がり、律子の肩を抱いた。
「いいえ、そうじゃないのよ」
「お母さん、昔を思い出して楽しかったのよ」
「ただ……」
律子は尋ねるように復唱した。
「ただ?」
母親の奈津子は、律子に微笑んだ。
「ただ、名前を忘れていただけよ」
そう言って母娘は抱き合った。