十四、真理
僕は気晴らしに、一人で出掛けた。向うのはいつものライブハウス。
今日は律子と一緒じゃない。律子は、いつものレッスンだった。
律子が初めて来た頃はそうでもなかったが、最近はいつも律子と一緒だった。
ライブハウスのドアを開けると、マスターが声を掛けてきた。
「よぉ、駿平。今日は一人か」
僕はちょっと苦笑いした。
「ふられた訳じゃないだろうな?」
マスターは肘でグリグリしてきた。
「違うよ。今日は一人で来たかったんだ」
僕がそう言うと、マスターは怪訝な顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「まぁ、いいさ。そんな気分の時もあるさ」
僕はマスターの言葉に反応もしないで、ジャズが演奏されているステージに気を取られていた。
ふと見ると、ピアノには見知らぬ女の人が座って、ジャズのスタンダードを演奏していた。
肩より少し伸びたセミロングの栗色の髪はマッシュレイヤーベースで丸みをもたせたカットに、内巻きと外巻きのパーマをミックスさせたスタイル。
卵形の顔に、クリッとした大きな目が印象的で、左側だけに出来る笑窪が可愛い印象だった。
紺色のパンプスに、黒のタイトスカート、赤のノースリーブのポロのシャツで、ピアノの前に座って弾いていた。
「駿平、気になるか?」
僕はマスターの言葉でふと我に返った。
「え、あ、うん」
生返事してから、僕はカウンターのコーラを飲み干した。
「誰? 見たことないヒトだけど?」
マスターはニヤケながら言った。
「いい感じだろ。最近、時々来て弾いてくれるんだ」
いい感じでスィングさせて、ベースとドラムをリードしていた。
僕はカウンターに座って、身体を反り返して彼女の弾くジャズに聴き入っていた。
そのあと二曲を演奏した後、彼女はピアノ前を立った。大きな拍手の中、お辞儀してからカウンターに彼女がやってきた。
「マスター、お水をください」
マスターはタンブラーにミネラルウォーターを注ぎながら、ふざけて言った。
「ビールじゃなくて、水でいいのかい?」
彼女は「今日は水がいいのよ」と言って、マスターからタンブラーを受け取った。彼女はタンブラーをあおりながら僕の横に座った。
「君ね、マスターお気に入りのピアノ弾きは」
彼女はそう言って、カウンターにグラスを置いた。
マスターが、彼女を紹介してくれた。
「阿川真理さん。アメリカから帰ったばかりだ。向こうで音楽をやってたんだ」
彼女は右手を振って答えた。
「落ちこぼれよ。何とか卒業できただけ」
マスターは、真理に僕を紹介した。
「戸倉駿平。昔からピアノを弾いてもらってる。いいモノを持ってると思うんだがなー」
彼女はタンブラーの水を飲み干してから言った。
「じゃあ、何曲か弾いて。聴かせてちょうだいよ」
そう言って、真理は微笑んだ。
僕は、ちょっと頬が赤くなった。それから軽くうなずいて、ピアノに向った。
まずはクラシックで、モーツァルトの「K四八五・ロンド」を、それからジャズのスタンダード「星に願いを」を、そして最後に「リトル・ルル」を弾いた。
彼女は、カウンターチェアをこちらに向けて行儀よく背筋を伸ばして聴いていた。
僕がカウンターの席に戻ると、真理は拍手で迎えてくれた。
そして、最初のあいさつの時には無かった、優しい笑顔を、真理は僕に向けてくれた。
「駿平クン、上手いわ。あたし、ちょっと感動しちゃった」
僕はちょっと照れた。
最近の行き場の無い想いをぶつけたのだ。それの想いが伝わったのがちょっと嬉しかった。
「今度、一緒にやりましょうよ」
そう言って、真理は僕の腕を握った。
僕は更に照れた。
「『一緒に』って、どうやって?」
僕がそう言うと、真理は僕の顔を覗き込んで言った。
「決まってるじゃない。駿平クンはトランペットよ」
僕は「?」な感じだった。
「なんで、僕がトランペットをやるって知ってるの?」
真理は気まずい顔をしながら、マスターを見ながら言った。
「だって、マスター、そんなことを言ってなかった?」
マスターは驚いた表情だった。
「駿平がペットやるなんて初めて聞いたぜ」
マスターは(どうなってんだ?)という調子で駿平に詰め寄った。
「俺は知らなかったぞ。ペットなんて出来るのか?」
マスターは既に違うことを妄想していた。
「そうか、駿平がペットかー。面白いぞ、うん!」
真理はごまかすように言った。
「ほ、ほら! マスターもあぁ言ってることだし」
そう言って、真理は僕にしがみ付きながらウインクをした。
僕は微妙な違和感があった。だが、真理があまりにも積極的だったので、思わず僕はうなずいてしまった。
「あ、あぁ、分かった。いいよ」
僕がそう言うと、真理は来週の金曜日を指定した。金曜日は楽団練習日だ。そして律子も付いて来るはずだ。
「金曜日は……」
そう言い掛けた僕を、真理は制止して言った。
「どうせ『遊び』なんだから、軽く考えてよね。じゃあ、来週ね」
そう言い終わると、真理はライブハウスを出て行った。
僕は唖然としていた。
僕の横にマスターがさりげなく、静かに座った。
「モテる男はツライねー」
マスターは僕の腕を突っついた。
「律子ちゃん、どう思うかな?」
マスターはそう言って、僕の肩を叩いた。
僕の肩は、マスターに叩かれる前に、ガックリと落ちていた。
ライブハウスで気晴らしのつもりが、僕には、更に悩みが増えてしまった。