十一、師匠
「駿平、もう一回だ」
僕は「ベートーベン・ピアノソナタ五番・第一楽章」を、もう一度弾いた。
照明のトーンが少し落ちた、コンクリート打ちっ放しの壁で、グレーの分厚いカーペットが敷かれた床に、フルサイズのコンサートピアノが置かれた部屋で、僕、戸倉駿平は、ピアノのレッスンを受けていた。
「もう一回だ。もう一回弾いてみろ」
繰り返し演奏を指示するのは、師匠である「藤巻要一」であった。
師匠は、ピアノから少し離れたところで、椅子に座り、腕を組んで、タバコをくわえていた。
「えーっ! 何回弾けばいいんです!?」
僕はつい、そう愚痴をこぼしてしまった。
師匠は、くゆらせたタバコを灰皿でもみ消して、ピアノに近づいてきた。
「いいから、弾くんだ!」
師匠は、先程より強い口調で言った。僕は仕方なく、もう一度弾き始めた。
どうしてなのだろうか。
師匠の機嫌がいつのまにか悪くなった。
レッスンが始まった時は、こんな風ではなかった。いつもの調子で、師匠は僕に声を掛けてきた。
「駿平、元気だったか!」
「今日も下手くそなピアノを聴かせるつもりか?」
「たまにはちゃんと聴かせてくれよ」
そんな冗談からレッスンが始まったのだが、僕が弾き始めたと同時に、師匠の眉間には深い溝が刻まれ、タバコを急に吹かし始めたのだった。
そして「もう一回弾け」のセリフが出たのだ。
僕が三回目のソナタを弾き終えた時、師匠はピアノの端に両手をついて、下を向いて考え込んでいた。そして、こちらに僕の方に顔を向けた。
「お前、最近、誰かにピアノ教わったか?」
僕は身に覚えが無かった。当然、答えは「ノー」だった。
師匠はまた、突っ伏して考え込んだ。そして前と同じように僕の顔を見た。
「誰かの作品を弾いたか?」
この質問には「イエス」と答えた。ジャズやポピュラーをライブハウスで弾いていたからだ。
「いや、違う!」
師匠の言葉は鋭く、そして師匠の目は厳しかった。
「そうじゃない……。そう、ピアノで何かを弾いたことはないか?」
「それもクラシック系の現代音楽だ」
僕は必死で考え、思い出そうとしていた。
「う〜ん……」
ほとんど諦めかけた時に、僕はハッと気が付いた。
「あ! 律子の家かぁ!」
師匠は突っ伏して考えていた姿勢から、素早く僕を見返した。
「律子?! 律子って、雨宮律子のことか!」
師匠の大声に僕は驚き、ビビッた。
「雨宮の家に行ったのか?! そこで何をしたのだ!?」
師匠は捲くし立てるように僕に質問した。
「えーっと、律子の家に呼ばれて。お袋さんと律子と僕とアンサンブルを」
師匠は、そう答える僕の顔を覗き込み、食い入るように僕の言葉を聴いていた。
「親父さんが作曲した、三人のためのアンサンブルの曲、でしたけど」
僕は、師匠の迫力にオドオドしながら答えた。
「お前は何を演奏したんだ? ピアノか? トランペットか? どっちなんだ?」
師匠はさらに迫ってきた。
「え、あの、その、ピ、ピアノ、ですが」
僕がそう言った途端、師匠は振り向き様に、ピアノの縁を「バン!」と叩いた。そしてもう一度、僕を振り返り、僕を指差して、こう言った。
「いいか、駿平! もう二度と、雨宮の家には行くな! 分かったなっ!」
師匠はレッスン室を出て行こうとしていた。
ドアのノブに手を掛けたまま、振り向いた師匠は、僕に言った。
「今日のレッスンは、これで終りだ。それから、来週はハノンだ。一からやり直す。分かったな」
そう言い終わったか終らないかのうちに、師匠はドアをバタンと締めて出て行った。
僕はキョトンとしたまま、レッスン室にとり残された。
「師匠、どうしたんだろ?」
僕は訳が分からないまま、しばらくの間ピアノの前で佇んでいた。