十、アンサンブル
「じゃあ、律子はクラリネットね」
母親の奈津子は、モタモタしている律子を見て言った。
「早く、用意しなさい」
遅れてレッスン室に入った途端、母親の奈津子は娘の律子にそう言うと、自分はヴァイオリンを構えた。
大きなレッスン室だった。防音の効いた部屋に置かれた、フルサイズのコンサートピアノが、小さく見える程広い部屋だった。少人数の室内管弦楽なら練習出来るように作られた部屋のようだった。
「駿クンは、ピアノね。三人で、アンサンブルをするわよ。初見くらいは大丈夫よね?」
母親は早口でそう言って、僕に譜面を渡した。
譜面は手書きで書かれていた。どうやら、オジリナルのようだ。タイトルを見てビックリした。
『奈津子と律子と駿平のアンサンブル』
僕はまたまたビビッりまくった。今日の、このために作曲されたものなのだ。しかも、作曲者は「雨宮健一」と署名されている。律子の父親だ。もう、驚くしかなかった。
律子は、父親との関係はどうなのか解からないが、少なくともこの母親とは実に密な意思の疎通が出来ているのは、明白だった。
「さぁさ、ピアノの前に座って、弾いてみて」
母親の奈津子は、ヴァイオリンを構えたまま、僕がピアを弾くのをワクワクしている様子だった。
僕は楽譜を譜面台に載せて、椅子に座って調整し、指を鍵盤に置いた。
<ポロン、ポロポロ、……>
僕は、譜面を見ながら弾き始めた。所々に難しい運指があって多少つまずきながらも、それでも何とか弾けるレベルの曲だった。
多少、細工してるな、という部分は見抜いた。……っていうか、それ位は想像がついたけれど。
律子は、僕のピアノのレベルを、実に的確に、父親と母親に伝えていたのだ。
僕がピアノを弾き続けていると、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。母親の奈津子が、待ち切れない様子でヴァイオリンを弾き始めたのだ。
律子はそそくさとクラリネットを組み立てて、音出しを始めた。その様子を見て母親は、ヴァイオリンを止めて、律子に言った。
「律子はさっき、練習したからいいじゃない。さっさと合わせるわよ」
そう言って、母親は律子を呼んだ。
律子はプッと脹れて言った。
「私はいいけど、駿平クンには時間をあげて。初めての楽譜なんだし。お父さん、意地悪してるし」
母親は律子の言葉を無視して言った。
「大丈夫よ。駿クンが弾くのを聞いたけど、全然、問題ないわよ」
それからすぐに、母親は僕の方を向いた。
「そうよね?」
僕は楽譜から目を離さず、弾き続けながら答えた。
「えぇ、大丈夫です」
母親は得意そうに言った。
「ほーらね、り、つ、こ」
母親の奈津子はヴァイオリンを構えた。
「じゃ、いくわよ。ワン、ツー、ハイ」
母親の合図で、合奏に入った。
初めの一回目は、どうしてもつまづいてしまったが、二回目は、何とか弾き通した。
「じゃ、アーティキュレーションをシッカリとね」
母親はそう言うと、また合奏を始めた。
合奏開始から二時間近くが過ぎていた。
「じゃあ、休憩しましょう」
母親はそう言うと、レッスン室から出て行った。
僕は少々ばてて、クタクタだった。レッスンでもライブハウスでもこんなに長時間、ピアノを弾いたたことがなかった。僕は、近くにあったソファにどっかりと腰を下ろした。
「大丈夫?」
律子は、くたばってソファに座っている僕を心配して、声を掛けてくれた。僕の肩に置いた律子の手を、僕は握り締めて言った。
「あぁ、大丈夫さ」
律子は自分の手を握り締められていることに気付いていなかったが、紅茶とクッキーをトレイに載せて入ってきた母親は、すぐに気が付いたようだった。
「あらあら、お熱いお二人さんね」
律子は、赤くなって手を引っ込めた。僕は、視線を母親から外した。
「いいわよ、別に。照れなくても」
テーブルに、紅茶とクッキーを置きながら、母親は溜息をついた。
「私だってそんな時期があったわ」
母親は、思い出を探るように遠くを見るような目をした。
「あの人に出会う、もっと前のことだけどね」
言い終わるとさっきまでの表情に戻って、紅茶のポットに目を落とした。
「さ、お茶にしましょ」
僕と律子は、レッスン室の端にある、テーブルの席に着いた。
紅茶を飲みながら、母親の奈津子はブツブツと独り言を言った。
「律子から聞いていたレベルより少し上ね。なかなかいいわよ、駿クン」
奈津子は、僕と律子に構わず喋りまくった。
「でもね、何か引っ掛かるのよ。駿クンの弾き方、何処かで聴いたような……」
奈津子は、額に手を当て、しかめっ面で考え込んでいた。
「思い出せないわ」
僕と律子は顔を見合わせた。
「あ、いいのよ。私の独り言だから」
母親はそう言って、紅茶をすすった。
「今日は楽しかったわ」
僕が玄関で靴を履いている時に、母親の奈津子は満足そうに言った。
「お母さんが言うことじゃないでしょ!」
律子はまた、プッと怒った。
「また来てね。セッションしましょうよ」
母親の奈津子は懲りずに僕に話し掛けた。
「んもう、お母さんったら!」
律子はホントに悔しそうだった。
律子が近くの駅まで送ってくれた。
「今日はごめんね。お母さん、張り切り過ぎちゃってて」
律子がそう言うと、僕はニヤリと笑って言った。
「そんなこと無いよ、楽しかったよ。お母さんとセッションが出来てさ」
僕は横目でチラリと律子を見た。
「お母さんのこと、よく分かったし。律子の家庭が、よーく分かったしね」
律子はちょっと照れた。
「ここでいいよ、送ってくれてありがとう。またな、楽団の練習で」
僕は、そう言って律子に手を振った。名残惜しそうに、律子も手を振った。
「うん、またね」
律子の、はにかんだ笑顔が可愛かった。