一、アプローチ
黙々とクラリネットを吹くあの娘。淡々と、練習メニューの音出し、運指、スケールをこなしてゆく。
彼女の名前は、雨宮律子。
ショートボブで、アースカラーの色の服が多い彼女。目立つ娘ではないけれど、割と美人なのだ。物静かで、休憩時間もみんなの後ろで、みんなの話を聞いているだけ。
でも、演奏はみんなに負けていない。なんたって彼女は、ファースト・クラリネットだ。彼女の性格上、主席って訳ではない。
いつも市民吹奏楽団の練習に来ると、そんな彼女のことが気になって仕方がないのだ。
そうなんだ、僕は彼女のことが好きなんだ。
そんな僕は、戸倉駿平、トランペットを吹いている。だけど、このトランペットが曲者なんだ。三十分もすると息が苦しくて、唇が疲れてくる。ハイトーンなんか出やしない。
でも、僕はこのトランペットが好きなんだ。マイルスのCDを聞いてからは、もうメロメロ。こんな風に、トランペットを泣かせるように吹きたい。
だけど、いつまで経っても上手くならない。ファーストなんかやったこと無いよ。だから、彼女に引き目を感じてるんだ。いつもは騒がしい僕でも、ナイーブな部分もあるのさ。
ある日の、練習の休憩時間のことだった。
僕は珍しく練習場に残って練習していたら、彼女と二人っきりになった。彼女は、紅い原典版のピアノ譜を見ていた。僕は近づいて、彼女に声を掛けた。
「誰の作品のピアノ譜?」
彼女は急に声を掛けられてビックリしたようで、鋭く僕を注視した。それから、どもりながら答えてくれた。
「モ、モーツァルトの、ピ、ピアノソナタ集」
僕は楽譜を覗き込んで言った。
「雨宮さん、ピアノも相当上手いんだね」
彼女はビックリした表情を僕に向けた。僕はことも無げに答えた。
「だって『十八番 ニ長調 K・五七六』を開いてるから」
彼女は更に目を丸くして、僕に聞いた。
「な、なんでそんなこと、解るの?」
僕は、はにかんで答えた。
「それは、ひ・み・つ」
僕は自分の席に戻って、トランペットの練習を続けた。彼女はずーっと僕を睨むように見つめていた。休憩が終わって合奏が始まったが、チラチラと僕の方を見ていたようだ。
僕の中の何かが囁いた。
練習が終わった後、思い切って彼女に声を掛けてみた。彼女は丁度、ロビーを歩いていた。
「雨宮さ〜ん」
僕の声に彼女は振り返って立ち止まった。僕は急いで彼女に駆け寄った。
「あのさ、明日、時間あるかな? あのさ、よかったら、ピアノのコンサートに行かない?」
彼女は僕の顔を見て僕の話を聞いていたが、僕が言い終わると彼女は下を向いて言った。
「明日はダメなの」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、彼女は走り去っていった。
立ち続ける僕に、同僚のホルン吹きが声を掛けた。
「振られちゃったのか、駿平。大丈夫、大丈夫。何とかなるって」
僕は、気のない返事をしてごまかした。
「あぁ、そうだな」
僕は、彼女の走り去った方向をずっと見つめていた。