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私が語れることは以上です

「根本的に勘違いされていることですが、御業とは神に祈りが届いて発現するものではないのです。祈った神が垂れ流している力を勝手にかすめて、起こしている奇跡なのです」


 そう語るフォケナスは傍らでお座りしている魔獣神を見て、苦笑を浮かべる。


「言わば、神の力を無断流用しているものですが、発散しているものを少し持っていかれているだけなので、神の方も気にするだけバカバカしいのでしょう。我ら御使いの行為を放置しておられます」


 物心ついた時から地母神に祈り続け、ある日、地母神の存在を感じ取り、御使いとなった少女は、語られる奇跡の舞台裏に唖然呆然となり、ウィル、ユリィ、ルウもあんまりな真実に沈痛な表情を浮かべ、セラに同情を禁じえない。


 だが、そのような反応に構わず、フォケナスはさらにいい加減な奇跡の内実を語る。


「もちろん、神にとってはどうでもいい力ですが、それを誰もが使えるわけではありません。まず、それを感じ取れる素質がなければ話になりません。これは才能と言い換えることもできます。無慈悲な話ではありますが、素質がなければ神の力を行使できないのです。神が意図して人に与えていないのですから、公平なこととならないのも仕方がないでしょう」


 たしかに無慈悲で不公平な話だが、だからこそ誰もが御業が使えないのも得心がいく。


 強い信仰心を持っていても御業の使えない神官はいくらでもいる。彼らが報われないのは、信仰がまだ足りないのではなく、元々から無理という真実は救いであるのかないのか。


「ただ、素質があっても、認識が伴わなければ、御業は発動しません。この際に信仰が底上げの役割を果たすのです。神と面識のない場合、信仰、神の実在を信じる心理作用が御業の発動と強弱に関わってきます。素質のある者が祈り続けていると、ある日、いきなり御使いとなるのは、その心理作用が一定域に達したからにすぎません」


 当然、セラは地母神と会ったことはない。一方で、魔獣神とは直に見えている。それゆえ、信仰という底上げがなくとも、面識の有無が認識の度合いを仕える神を上回り、魔獣神に祈った際に御業が発動しただけではなく、地母神より強い御業となったのだろう。


「説明の途中ですまんが、一つ質問だ。ゴッズ・ホルダーが優れた御使いであるのは、仕える神と面識があるからなのか?」


 ウィルの質問するとおり、ゴッズ・ホルダーは神と面識があるので、最高の認識を得ている。フォケナスの説明するとおり、認識が大きな役割を果たすなら、神との面識の有無が御使いの優劣を決める決定的な要素となるはずだ。


 この問いにフォケナス眉間にシワを寄せて考え込み、


「難しい質問です、それは。何しろ、卵が先かニワトリが先かに等しいことですから」


 元々、仕える神に会えるほど、優れた御使いなのだ。だから、神と見えたから優れているとは、一概に言えない。


 神に会ったから優れた御使いであるのか、優れた御使いだから神に会えたのか、どちらとも言えないのである。


「それに先の戦の中には、神と面識のない御使いがゴッズ・ホルダーを破った例もあります。稀有な例としても、ゴッズ・ホルダーの優位性が絶対とは言えない事例ではありましょう」


 魔王を導いた癒しの女神に仕える聖女は、ゴッズ・ホルダーではなかったが、戦女神に仕えるゴッズ・ホルダーに御使いとして上回る実力を示した。


 これは珍しくとも、フォケナスの言うとおりゴッズ・ホルダーであることが御使いの優劣を確定することのない証左だろう。


「さて、話を戻しますが、最後の相性は詳しく語ることはありません。神が垂れ流す力は神によっていくらか違いがあるそうです。そして、人も一人一人は違いますから、人によってある神の力は感じ取り易いが、別の神の力は感じ取り難いという差異もあるみたいなんですよ。推測になりますが、そこのお嬢さんは認識と相性で信仰する神を上回ったので、我が神に祈った際により強い御業が使えたのではありませんか。特に我が神との相性が良かったがため、無意識に強く感じ取った方の神の力を危機的状況で用いたとも考えられます」


 フォケナスの説明に一同はうなずくことはなかったが、それは納得できていないからではなく、忘我に陥っているセラをおもんばかってものものだ。


 簡潔にフォケナスの語る内容をまとめるなら、信仰と御使いとしての力量は無関係ということになる。


 信仰とは聖職者、信徒としての在り方を行うことである。敬虔に信仰することは、聖職者、信徒として間違ってはいない。ただし、信仰心と御使いの力量を混同するのは間違いと、フォケナスは言っているだけだ。


 そして、御使いの力量と信仰が因果関係にないのなら、セラが魔獣神に祈っても御業が使えたとしても得心がいくとは、いかない。


 理性的には納得できる。だが、これまで信じていたものがこうまでくつがえっては、にわかに首肯するなどできようはずがない。


「私が語れることは以上です。それをどう受け止めるかは、当人の心の問題。私が口を挟めるものではありません。私の言えることは、お帰りになるなら、ロック鳥なりエンシェント・ドラゴンを手配しますので、いつでも仰って下さい。もちろん、何日か逗留してもらっても構いませんが」



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