徴兵制度を復活させよう 後編
先に前編を読んでください!!
国民が集団的自衛権を容認し、
関連法案が採決される1週間前のことだった。
『自衛隊に数百人の使者が出てもしょうがない』
『米国の戦争に巻き込まれる』
A新聞の一面に与党議員の発言が載った。
次の日には『C国と戦争』と載った。
この発言を境に世論は逆転した。
彼は「発言を抜粋された」と弁明した。
しかし、世間の激しい反発を察したメディアは、議員を見捨てた。
だが、彼の発言は集団的自衛権の必要性の的を射たものだった。
「確かに米国の紛争に巻き込まれて、自衛官の犠牲が数百人出るかもしれない。
しかし、C国との戦争が起これば数十万、数百万人の犠牲が出るだろう。
C国との戦争に米国を巻き込むには日本の覚悟を見せなければなりません」
彼はいぶかしがった。
この発言をしたのは、与党議員また支持者だけの勉強会で、
マスコミ関係者はいなかった。
その翌日だった。
『若者の意見は無視』
またA社の新聞だった。
その見出しの下には、十数万人のデモが、
国会議事堂を取り囲む写真が掲載されていた。
これも与党議員の発言の抜粋だった。
若者のデモの参加についてのコメントだった。
「若者の意見に耳は貸しますが、
その意見に従う必要はありません。
私は私を支持してくれた有権者の代表ですから」
次々と与党議員の失言が紙面を舞った。
そして政権支持率は40%を切った。
そのため与党は集団的自衛権関連法案の採決を見送った。
翌年に控える参議院選挙のためだった。
このまま可決したら、参院選の負けは確実だった。
その翌週、不幸が重なった。
沖縄の米国海兵隊のオスプレイが訓練中に墜落したのだった。
離陸した後、飛行モードに切れかえた直後だった。
墜落した機体は民家に墜落したが、幸い住民は留守で、
パイロット及び搭乗員にも死者は出なかった。
沖縄県民の怒りに火が付いた。
米軍基地反対運動がその日の内に始まった。
与党議員は高をくくっていた。
「いつものことだ」と。
しかし、そうはいかなかった。
沖縄県警の現場検証を米国が拒否したからだった。
米国は、沖縄県や日本との関係より軍事機密を優先した。
政府も地位協定を結んでいるため、
本国に共同調査を要請するだけで手も足も出せなかった。
沖縄の若者は愕然として口にした。
「時代錯誤もいいところだ」
これにより米国への不信感が日本中に漂うことになった。
当然、基地移転問題は棚上げされた。
それだけでなく基地撤廃運動まで始まった。
社長の木下は調査部長の服部を呼び出した。
「おい、どうなっている。
政権交代までありえるじゃないか。
今までの献金が無駄になるぞ」
「プロジェクトは進めています」
服部は淡々と答えた。
「いくらかかっていると思ってるんだ」
木下は呟いた。
その翌日、木下の会社がA社の一面を飾った。
『軍事企業、与党議員らに高額献金』
そこには政治家の氏名と金額を表したリストが掲載されていた。
取材に来たメディアに木下は堂々と答えた。
「不正献金ではございません。
ちゃんと政治資金収支報告書に掲載されています。
我が社の利益と関係ないとは言えませんが、
日本の危機を思えば当然なことだと思います」
木下の率直さが評価されたのか、会社への批判は静まった。
しかし、変に言い訳をした政治家たちへのメディアの攻撃は凄まじかった。
その結果、政権支持率は30%を切った。
野党は政府に対し解散を求めた。
日米安保見直しをマニフェストとして掲げた。
そして、内閣総理大臣への不信任案が提出され、
総理は衆議院解散を宣言した。
衆議院選挙公示の前日だった。
『婦女暴行、米兵の疑い』
沖縄県で起きた婦女暴行事件で米兵が関与している疑いがあると報じた。
被害者の証言によると犯人は、外国人で英語を話していたと言った。
被害者と映る監視カメラの映像を検証したところ、ある米兵にたどり着いた。
しかし、その米兵は事件直後に帰国したという。
沖縄県警の捜査はまたも地位協定に阻まれ、
さらに世論は安保見直しに傾いて行った。
選挙結果は明らかだった。
与党は200議席減らし、全体の3割も満たなかった。
若手論客の酒井も落選した。
政権交代が起こり、米国との関係は冷え込んでいった。
政権交代後、2年が経った時だった。
尖閣諸島沖の公海で米国艦船とC国艦船が衝突した。
砲撃戦が始まり、米国は日本に援軍を要請した。
政府は対応に困った。
明らかに憲法違反だった。
議員から野に下った酒井は、
「憲法違反を問われても、総理は決断するべきだ。
我が党は、罪に問わない」
と報道番組でコメントした。
株価は敏感に反応した。
世界同時株安が起こった。
第3次世界大戦の危機が迫っていると投資家は危惧した。、
これを受け、すぐさま米国とC国との首脳会談が開かれた。
戦争は回避され、株価は戻りつつあった。
しかし、米国と日本との関係はさらに冷え切って行った。
そして、ついに米国は日本を見限り、
日米安保条約の破棄を日本に通告した。
その翌年から米軍基地の撤退が始まった。
この現実に日本国民は青ざめた。
政権支持率は10%も満たず、衆議院は解散した。
再度、政権交代が起こった。
米国と日米安保復活の交渉したが、
「日本人は信用できない」と米国は渋った。
これにより政府は自衛官の大幅な増員を図った。
募集はすぐにいっぱいになった。
米国との関係冷え込みは日本経済にも影響を与えていた。
失業者らはこの募集に応じたのだった。
しかし、これは新たな問題を提起した。
自衛官応募者のほとんどは低所得者の家庭出身だった。
野党議員は「格差社会のひずみだ」と盛んに声を上げた。
野党は平等を主張した。
また自衛隊の必要も認めた。
そして「平等を担保するには、徴兵制が必要である」と主張した。
その2年後、日本に徴兵制度が復活した。
それは例の会議からちょうど5年後だった。
調査部長の服部は百地主任を呼んだ。
「どこまでお前がやったんだ」
百地は微笑むだけだった。
政権交代は百地の工作によるものだった。




