八
「ほらどうしたよ。“鴉”の実力はそんなもんか?」
唇の端を吊り上げながら、膝を突いて肩で息をしている異母兄を見下ろす。
二人のまわりには鮮やかな赤や黒く濁った暗紅があちこちで燻っていた。
「決着をつけるって言い出した割に、てめーは乗り気じゃねーようだな」
「……」
迅は切れ長の目をより鋭くして紅を見据えると、徐に立ち上がった。
「澄ました顔しやがって……そんな余裕あんのか、ああ?早く俺を殺さねーと、てめえの大事なひなが殺されるぜ……ククッ……」
「紅……お前の目的は俺を殺すことだろう。なぜひなを狙う?」
「ハッ、そんなの決まってる!てめえの一番大事なものを壊すためだ」
「天津風家が……お前の一番大事なものを奪ったからか」
迅の言葉に、紅は眉根を寄せた。
「ああそうだ。てめえの母親が、父親が、天津風家が、母さんを殺したんだ!天津風なんかに関わらなければ俺たちは悲劇に遭わなくて済んだんだ!」
紅は興奮したように叫んだ。対照的に、迅は静かな声で言った。
「だがお前も天津風の血を引いている。天津風の血が無ければ、お前はこの世に生まれることさえ出来なかった」
「なんだと……!」
平常と変わらない迅の恐ろしい程の落ちつきぶりに、紅の神経は逆撫でされた。
「俺は天津風の人間じゃない!!」
「違うな。お前は天津風左京の息子だ」
迅の声と言葉が静かに紅を追い詰めていく。
「違う!!」
「俺とお前は兄弟だ」
「違う違う違う違う!!」
「お前は天津風の人間なんだ」
「違う違う違う違う違う違う違う違う!!」
紅はその端正な顔を苦痛で歪ませ、蹲った。迅の言葉を必死に否定しながら頭を抱え、今にも死んでしまいそうな程苦しげな声で呻く。
「紅、お前は……」
「やめろ……!俺は双海紅だ!!」
見開いた目は混乱と怒りで血走っていた。迅はそれを冷ややかな瞳で見下ろす。いつもと変わらない人のその瞳も、復讐に囚われた今の紅にとっては、その怒りを爆発させる起爆剤でしかなかった。
「その目……!俺はその澄ました顔が昔から大っ嫌いだった!!その何でも見透かすような目が気に食わなかった!!」
今まで押し込めてきた感情が全身から噴き出し、とうとう完全に冷静さを失った。
その目も口も指先も全身を巡る血液も、迅と天津風家への復讐を求めている。 興奮で血管が浮き出し、憎悪の念がそこから噴き出そうとしているかのように、全身の傷口が開き始めた。迅に付けられた刀傷の疼くような痛みも、溢れだす感情に流されている。
「俺はてめえの全てが憎い!!」
もはや感情の制御が利かなくなっている。自分でも何を言っているか分からない状態だった。だがもう止められない。
「てめえが母さんを殺したんだ!!てめえが俺たちの居場所を奪ったんだ!!てめえが……!」
「なら俺を殺してみろ」
駄々を捏ねるように自分への罵倒を吐き出す紅に、迅は冷たく言い放った。その瞬間紅は、自分の中で何かが切れる音を聞いた。
「殺してやる……!!」
これ以上ない憎しみを迅にぶつけると、両腕を交差させ、そのまま頭上に掲げた。迅は繰り出される炎に、体勢を低くして構える。
紅は交差した腕を解きながら勢いよく振り下ろした。すると、紅の目の前から巨大な烈火が現れ、迅に向かって突っ込んだ。
「そのまま焼け死ね!!」
迅を呑み込んだように思われた炎は、しかし対象を失ったようで、その勢いを弱めた。
「どこだ……!!」
「ここだ、紅」
背後から声が聞こえたかと思うと、首筋に冷たいものが触れた。両手首も片手で拘束されている。
紅の灼熱の炎とは対照的な、氷のような冷え切った刃先。少し滑らせただけでもその刃は紅の肌を切り裂き、頸動脈を断ち切る。
だが今の紅に恐れも躊躇いもなかった。
「はあああああ!!」
紅が声を絞り出した瞬間、迅の目の前は完全に鮮やかな赤で覆い尽くされた。
「何……ッ!」
気付いた時には、迅の身体は炎に絡め取られていた。ジュウゥ……と音を立てて全身が焼かれる。
迅は確かに、紅が炎を出すモーションが取れないように腕を拘束し、炎を出せば紅自身も炎に巻き込まれる位置にまで距離を詰めたはずだった。それなのに―――。
「ぐうぅ……」
「ククッ……迅……何故だ、って顔してるな。特別に教えてやるよ。俺はな、モーションを取らなくても炎を発生させることが出来んだよ。モーションを取ってたのは技の精度が上がるからだ。けどさっきみたいに極端に間合いを詰められると、逆に技の精度は関係なくなる。そのまま敵も炎に巻き込んじまえばいいんだからな」
つまり紅は意図的に全身から人体発火を引き起こし、自分もろとも炎に包んだのであった。迅は多大なダメージを受けるが、使い手である紅は微塵も受けない。
「てめえをこのまま一気に焼き殺してもいいと思ったが、やっぱりそれじゃつまんねー。だから少しずつ殺してやるよ。消えない炎で緩やかに死に近付かせてやる。もういっそ一思いに殺してくれと泣いて懇願したくなるぐらいの地獄を味わいやがれ」
紅は喉で笑うと、壊れたように高く笑い始めた。
先程よりは意図的に弱められたと言っても、炎は迅の身体に纏わりついて消えはしなかった。肉が焼け焦げる臭い。鼻が曲がりそうな程酷い臭いと、消えてくれない灼熱に、迅は苦しげに呻き声を上げる。
「痛いだろ、苦しいだろ」
紅は蹲る迅を満足げに見下ろすと、その脇腹を蹴り上げた。
「ッ……!」
さらに加えられる苦痛に、迅は顔を歪めた。
憎らしい程端正なその顔を自分が歪ませているのかと思うと、紅はえも言われぬ高揚感を覚えた。
これこそが長年追い求めてきたもの。天津風への復讐。迅への苦痛。
「逃げたいだろ」
乱暴に蹴られて仰向けに転がった迅の鳩尾に、勢いよく踵を落とす。
「ぐああッ!」
そのままグリグリと踏みつけると、迅は額に脂汗を浮かべ、苦しげに喘いだ。
「死にたいだろ……なあ、迅?」
紅は軽蔑するように迅を見下ろすと、迅も紅を睨み上げた。
「くれ……ない……ッ!」
「けどそう簡単には殺してやらねーよ」
紅は一旦踵を離し、そして再び落とそうとした。しかしその瞬間迅は、離れた足とは逆の足の足首を片手で強く掴むと、自分の方へ思いきり引き寄せた。
「なッ!」
バランスを崩した紅は後ろに倒れかける。その隙を狙い、迅は上半身は地面につけたまま、腹筋だけで下半身を勢いよく浮かせた。そのまま、反応が遅れた紅の顔を容赦なく蹴り上げた。
「ぐッ……」
口の中が切れた。血の味がする。
蹴りを食らって鈍く痛む頬に手を当てながら、忌々しげに舌打ちをした。
思わぬ反撃に集中を切らし、迅の身体に纏わりつかせた炎は消えてしまった。
「まあいいさ……ここで終わっちゃ呆気ないもんな」
「終わるのはお前だ、紅」
「あ?」
紅が目を細めた時には、迅の姿はすでにそこにはなかった。
「相変わらずこれだけは見極め切れねーぜ……」
神経を研ぎ澄ませ、視線を周囲に張り巡らせる。五感をフルに使わなければ、迅の次の一手に反応出来ない。
迅は、体術を得意とし、それを神速で繰り出すスピード重視の戦法を取る。迅の能力は、彼の力を最大限に引き出すこれ以上ない賜り物である。
五感のうちどれか一つだけでも集中を欠くと、自分でも気付かぬうちに殺されているというのが落ちだ。と言っても、そこらの雑魚相手に迅が本気を出すこともなかったが。
次は背中か、足か、はたまた再び首を狙ってくるか。どの手にも反応出来るように頭の中で思考を組み立てる。どれも一瞬の判断を誤った瞬間に―――死ぬ。
「来い、迅!!」
そう叫ぶと、視界の右に鋭い刃先と腕が見えた。切っ先は真っ直ぐ紅の首筋に向いている。闇から現れた迅の長い腕が紅との間合いを詰めていく。
「甘い!」
紅は迅の目の前に右手をバッと広げて見せると、そこから火炎を放射した。迅は烈火に呑み込まれた。
「ククッ……アハハハハハ!!」
可笑しそうに笑う紅は、しかし次の瞬間、ハッとした。迅の姿がなかった。
「どこを見ている」
背後から低い声が聞こえた。
「まさか……」
―――今のはフェイク……!
目の前には黒い羽根がはらはらと舞っている。
首だけ背後に向けると、本物の迅は紅の足下に伸びた影から現れた。そしてすぐさま紅の頸動脈を断ち切らんと地面を蹴って再び間合いを詰めた。
「紅……これで最後だ……!」
さっきのように人体発火を起こそうにも、一気に迫る迅のスピードに追い付けない。
燃える瞳と凍った瞳が交差した刹那、紅の唇がニヤリと吊り上がった。迅に背を向けたままの紅の表情はよく見えなかったが、その顔が絶対的な自信に満ち溢れていたのは分かった。
「しょうがねーな……」
形の良い唇がそう呟いたかと思うと、紅は瞬時にジャケットの内側に手を差し込んだ。
―――何をする気だ?
迅は一旦引き下がるか迷ったが、このまま紅を瞬殺することを選んだ。
しかし、切っ先が紅の首筋に届くか否かの瀬戸際、迅の指先には予想外の感触が伝わった。
二人の間に響いたのは、キイィンという甲高い金属音だった。
迅は、紅の手にあるそれに目を見開いた。
「それは……!」
「そのまさかだ。“紅蓮”だよ」
短刀のこれ以上の侵入は阻んだのは、扇だった。近世の武士が護身用として使っていたという鉄扇。その名も“紅蓮”。紅く染められたそれはまさしく“紅蓮”の名に相応しい輝きを放っていた。
「それは天津風家に代々伝わる家宝……。だがあの時、それも焼けてしまったはず。何故お前がそれを……!」
迅は一旦距離を置き、紅を睨んだ。
「母さんに渡された」
「何だと?お前の母親に……?」
「だからこれは俺のものなんだよ!」
「違うな。それを持って良いのは天津風の人間だけだ。返せ」
抑えた声で言うと、紅はギリッと歯を噛み締め、鋭い視線を迅に向けた。
「うるせーんだよ……!俺に指図するな!!」
怒りにまかせて紅蓮を振ると、そこから烈火と熱風が起きた。迅は能力を使うことも受身も取ることも出来ず、その身に直に炎を受けた。熱風のせいで呼吸さえままならない。
「これ……俺の力を何倍にも増幅させてるのか……!」
紅は予想外の力を発揮する紅蓮をまじまじと見つめた。
今まで母親の形見として肌身離さず持ち歩いていたが、戦闘の中で使ったことは一度もなかった。まさかこんなに使える代物だったとは計算外だった。
「ゴホッ……ゲホッ……!」
凄まじい烈火と熱風で気管支をやられてしまった迅は激しく咳き込んだ。酸素が思うように取り込めずに酸欠状態になっていた。
―――喉が焼けるように熱い……苦しい……。
さっきの攻撃に業火も混じっていたかも知れない。視界が霞み、意識が朦朧とする。
立っていることもままならず、くずおれるようにその場に膝を突いた。平衡感覚が失われ、視界がぐらりと歪む。
「ハッ、いい眺めだ!俺はずっとこの時を待ってたんだ!」
そう言って紅は額に手を当て、壊れたように笑い出した。森に囲まれた静かな空間には、迅の苦しげな呼吸の音と、紅の高笑いだけが響いていた。
「紅……」
紅のもとへエリカが駆け寄ってきた。
それまで紅に言われていた通り少し離れた場所にいた彼女は、二人の命懸けの戦いを冷や冷やしながら見つめていた。
「見ろよ、この無様な姿を」
そう言って顎で示した先には、その身体に炎を燻らせて苦しげに喘ぐ迅が倒れていた。
エリカは目を伏せて彼を見つめていたが、やがて意を決したように紅の腕を掴んだ。
「紅、もうやめましょう……こんなこと……」
その言葉に、紅はギロリと彼女を睨みつけた。血走ったその目に息を呑んだ。
「こんなこと、だと……?」
「紅……やめて……!」
紅はエリカの細い腕を強く掴んだ。
「痛ッ……!」
「俺を否定するな!!」
振り上げられた右手に、エリカは反射的にきつく目を瞑った。
しかし、頬に痛みは訪れない。
恐る恐る目を開けてみると、紅の右腕は、空中で制止していた。おまけにそこには鎌で付けられたような傷がいくつも生じていた。さっきまではなかった傷である。
紅の瞳はすでにエリカには向けられておらず、ある方向をじっと睨んでいる。その視線の先を辿ってみると、そこには少女がいた。
「ひな……!」
エリカは思わずそう叫んだ。それを聞いた迅はハッとして目を見開き、なんとか身体を起こした。
息を切らしたひなは、その手に扇を持っていた。
「お前か……」
ひなの姿を認めた紅は舌打ちをし、ゆっくりと歩み寄った。
「ひな、逃げろ!!」
迅は無意識のうちに叫んでいた。自分でもこんなに大きな声が出るのかと冷静に思考する自分もいた。
紅は今、憎しみに囚われ理性を失っている状態だ。それに相手は憎い異母兄にとって最も大切な少女ときている。このままではひなが殺されるのは火を見るよりも明らかだった。
「ククッ……震えてやがる……」
狂気に血走った目に射竦められたひなは恐怖に震えながら、懸命に立っていた。その銀色の扇を大事そうに胸に抱き締めながら。
「その“神風”……」
「こ……これは迅様が私に預けてくださったんです!何かあった時に自分の身を守れるようにと……。そ、それより聞きたいのはこっちの方です!何故あなたがぐ、紅蓮を持っているんですか……!」
「決まってんだろ、俺のだからだよ」
「それはあなたのじゃありません!迅様のものです!返して!」
ひなは不思議と恐怖を忘れ、負けじと紅を睨みつけた。
「相変わらずピーピーうるせーな。……死ね」
舌なめずりをすると、紅はひなに手のひらを翳して見せた。
「やめろ!!」
「紅!」
エリカと迅は同時に叫んだ。迅は必死で止めようとするが、肝心の身体が動いてくれない。
―――こんな時に俺は何も出来ないのか……!?
自分の不甲斐なさに怒りと絶望を覚えながら拳を握りしめても、一向に力が入らない。
「じゃあな」
そう聞こえたかと思うと、紅は紅蓮を手にした右腕を広げ、一つ、煽いでいた。
紅蓮は火を噴き、生き物のように蠢き、そしてひなを呑み込んだ。
「ひな―――!!」
ただ呆然とする迅を振り返った紅は、これまで感じたことのない達成感と充実感に身を委ねていた。
至福とは、こういうことを言うのだろう。
これまで押し殺してきた修羅を思う存分解放させ、憎き異母兄の顔を苦痛に歪ませ、彼の命より大事な少女を殺した。なんという幸福だろう!
「迅……今日のこの瞬間を味わわせるために天津風が俺たちを苦しめてきたんじゃないかと思える程……今が幸せだ……」
恍惚の表情を浮かべながらそう言う紅の言葉は、もはや迅の耳には届いていなかった。紅は苛立った。
「迅、聞いてん……」
「ひなちゃん、先に行かれると困るよ。僕、道分からないんだから」
凄まじい殺気。紅の背中を駆け上がるそれに全身が竦んだ。
“最狂”と恐れられる自分をも動けなくなるほど殺人的な殺気を発せられるのは―――。
「儀同優一……!!」
何とか背後を振り返ると、ひなを抱えた“番犬”―――優一が立っていた。