七
「火を放ったですって?」
信じられないというような顔で窺う優一に、ツカサは目を合わせようとはしなかった。唇を噛み締め、固く口を閉ざしている。余程つらい出来事だったのだろう。優一はそれ以上聞こうとはしなかった。
代わりにひなが重々しく口を開いた。
その日は年に一度、天津風家の方々が一斉に集まる日で、散り散りになっていた分家の方々もお屋敷に集まっていらしていたんです。早乙女家も全員呼び出され、私たちも当然お屋敷に行きました。
一族の大事な会合だったので、子どもの私たちは出られませんでした。ツカサ兄さんや迅様は会合に出ても問題なかったと思いますけど、まだ幼かった私たちの監視役も兼ねていたんでしょうね。そもそも私たちはどうして多くの人たちがお屋敷に来ているのかもよく分かっていなかったんですけれど。
迅様、ツカサ兄さん、ユキト兄さん、ミカゲ兄さん、茜さん―――連れ子のお姉さんの方です―――、紅さん、そして私の七人はお庭で遊んでいました。お屋敷の中では静かにしていなければならなかったので、外でかくれんぼや鬼ごっこをしていました。
遊びに夢中になっていた私たちがお屋敷の異変に気付いたのは、会合が始まって三十分程経った時でした。会合が行われている部屋から黒い煙が上がっていたんです。
私たちが慌てていると、他の部屋からも煙が上がり、瞬く間にお屋敷全体に炎が広がりました。
あの炎の勢いや広がり方は尋常ではありませんでした。まるで誰かが火を付けて回っているかのようでした。
お屋敷には天津風家の方々だけでなく、早乙女家の者も多く集っていました。
私たちはすぐに中に入ろうとしました。しかし、迅様とツカサ兄さんはそれを制し、「俺たちが助け出すから、お前たちは助けを呼びに行け」と私たちに言いつけました。お屋敷は街から外れた所にあったので、誰かがこのことを知らせに行かなければなりませんでした。
私たちは極度の緊張状態の中でただこくこくと頷き、ユキト兄さんとミカゲ兄さんは私の手を引いて無我夢中で森を駆け抜け、助けを呼びに行きました。その間、お屋敷の中で何が起こっていたのかは分かりません。ただ、茜さんと紅さんが私たちと一緒じゃなかったことは覚えています。
火事を知らせて助けを呼んだ私たちは、再びお屋敷に戻りました。
迅様とツカサ兄さんは火の海に飛び込んだまま、未だ出てきていませんでした。二人が戻って来なかったらどうしよう、と不安で不安で仕方がありませんでした。私たちはただ呆然と、燃え盛る地獄を見つめることしか出来なかったのです。
やがてレスキュー隊が駆けつけ、懸命に救助活動、消火活動が行われましたが、火の勢いが鎮まるまで三日もかかりました。それほど酷い火事でした。
レスキュー隊がお屋敷の中に飛び込んでから暫くして、数人の隊員さんがそれぞれ人を両脇に抱え込み、転がるように火の中から現れました。そのうちの二人が迅様とツカサ兄さんだと分かった時には、不思議と涙は出ませんでした。極度の緊張状態で感覚が麻痺していたのでしょう。ただ心底ほっとして、神様に数えきれないくらい感謝の言葉を送りました。
しかし、左京様や凪様、私たちの両親、天津風家の方々、早乙女家の人たちが紅蓮の中から助け出されることはありませんでした。これは後で知ったことなのですが、茜さんと紅さんもあの時朱さんを助けようと、迅様たちに続いてお屋敷に飛び込んだのだそうです。紅さんはなんとか救出されましたが、朱さんと茜さんは亡くなりました。
焼け跡は本当に悲惨なものでした。質素な装飾ながらも気高く堂々とそこにあった洋館は黒い炭と化し、もはや誰なのかも判別出来ない程に焼け焦げた遺体があちこちに転がっていました。目を覆いたくなる程酷い光景だったのに、私は磁力で引きつけられたように、そこから目が離せませんでした。今でも目を閉じるとあの光景が浮かんできます。
結局、生き残ったのは迅様と私たち四兄妹、そして紅さんの六人だけでした。
お葬式の時、私は泣かないように懸命に涙を堪えていました。父も母も親戚も皆一度に亡くして本当に本当に悲しくて辛かった。だけどそれは兄さんたちも一緒だったし、そして何より一番辛いのは迅様だったからです。
私たち兄妹は皆、運良く無事でした。まだ家族がいるという安心感がありました。けれど、迅様は本当に独りになってしまったのです。左京様も凪様も一族もお屋敷も何もかも失くしてしまった。そんな迅様の横でめそめそ泣くなんて出来ませんでした。
迅様はやはり泣きませんでした。それどころか、まるで能面を被ったように、顔を動かすことを忘れたかのように、微塵も表情を変えませんでした。その横顔からは何も分かりませんでしたが、迅様の心が泣き叫び、壊れそうなくらい悲鳴を上げていたのは伝わってきました。そして迅様は私の頭を撫でながらこう仰ったのです。
―――ひな、お前は俺が絶対に守る。何があっても守ってみせる。だから今は泣いてくれ。ご両親のために、俺の父と母のために。そして―――もう二度と涙を流さないと誓った俺のために―――。
一族全員を失った私たちの代わりにお葬式を開いてくれたのは、天津風家と親交が深かった一族の方々でしたが、朱さんと茜さんのお墓は建てられませんでした。全ての元凶は奴らだと、凪様を苦しめて天津風家を陥れたのは奴らだと言って。
独り残された紅さんは、散々罰を与えられました。まだ幼かった紅さんは抵抗も出来ず、ただ殴られ続けました。私たちはやめてくれるように必死に嘆願しましたが、聞き入れられませんでした。
その後、紅さんは許されましたが、街を追い出されました。その後、紅さんがどうしていたかは分かりません。
そしてその二年後、紅さんはいくつか年上の一人の少女を連れて、私たちの前に姿を現しました。その瞳はまるで人が変わったようでした。私たちは驚きましたが、一番驚いたのは、紅さんが炎を自在に操っていたことでした。まるで魔法のように炎を出したり消したりしてみせる紅さんに恐怖を抱きました。
ただただ驚愕する私たちに、紅さんは唇を歪めながらただ一言、「風を殺す」と言い残し、その場を立ち去りました。
そしてそれから紅さんは頻繁に私たちの前に姿を現すようになり、―――何度も殺そうとしたのです。激しい憎悪と復讐の念を宿したあの炎で。
私たちは最初、ただ逃げることしか出来ませんでした。もはや人間業ではない紅さんの炎の前ではなすすべもなく、ただ防衛本能のままに。
水や消火器を使って炎を消そうとしたこともありましたが―――儀同さんや桜子さんがあの雨の日に見た通り―――、炎はその勢いを弱めることもなく燃え盛るばかりでした。
そして紅さんの強襲が両手で数えきれなくなった頃、ついに迅様は覚醒してしまったのです。
ある夜、紅さんに追い詰められた迅様と私は、どこかの倉庫に隠れて息を潜めていました。それで紅さんから逃げきれるとは思っていませんでしたが、あの時はただ無我夢中で逃げ込んだんです。
でもやっぱり紅さんは私たちのいる場所を突き止めました。広い倉庫に足音が恐ろしい程に響いていました。
私は息を殺し、ただひたすら神様に祈りました。せめて迅様だけでも助けてくださいと。その時迅様が何を考え、何を見つめていたのかは分かりません。しかし、紅さんのにじり寄るようなゆっくりとした足音がすぐ近くで響き、もうダメと諦めかけた瞬間、私を抱き締めていた迅様の気配が消えていたことに気が付きました。
驚いて、閉じていた目を開けてみると、そこには信じられない光景がありました。
迅様が背後から紅さんの首を腕できつく締め上げていたのです。そして反対の腕に持った小型のナイフを紅さんの喉元に立てていました。
ついさっきまで私のそばにいたはずでした。それなのに、迅様は音もなく消え、逆に紅さんに王手をかけていた―――。
それが、迅様が闇を操る力を手に入れた瞬間でした。
覚醒した迅様と紅さんは交戦状態に入りました。紅さんは全てを燃やし尽くすように何度も炎を繰り出しましたが、迅様は闇に溶け込むように音もなく消え去り、気付いた時には紅さんの背後をとってその首を狙うというような感じでした。
互いにやるかやられるかの攻防戦を繰り広げていましたが、とうとう紅さんが再び王手をかけられました。
私は息を呑んで一部始終を見つめていることしか出来ませんでした。しかし迅様が紅さんの首に手をかけ、その身体を吊し上げるように締め上げようとした時、私は無意識のうちに迅様の名前を叫んでいました。
その時、それまで酷く冷たい顔で紅さんを見上げていた迅様は、ハッとして我に返ったようでした。驚いたように、締め上げていた手を緩めると、紅さんは崩れるようにその場に倒れ込みました。その瞳には、憎しみと共にいくらかの怯えも含まれていたような気がします。
二人は暫く静かに睨み合っていました。痛いような沈黙の中、時間の流れが止まったようにさえ感じられました。
張り詰めた空気に呼吸をするのも苦しくなった頃、紅さんの傍らにどこからともなく少女が現れ、迅様をじっと見つめた後、紅さんの肩に手を置きました。紅さんに何やら囁くと、紅さんは悔しげに舌打ちをしました。
そして紅さんは迅様を鋭い眼付きで睨みあげると、少女とともに煙となって消えてしまいました。
その少女というのが、現在紅さんのマネージャーを務めている方です。名前は確か「吉原エリカ」といっていたと思います。
「なるほど……つまり紅君は、自分の母親と姉を殺し、自分をも消そうとした天津風家への復讐のために、迅さんやひなちゃんを襲っていたんですね……」
優一は重々しく息を吐くと、二人を振り返った。
「迅様は……」
ひなは震える声を絞り出すように言った。
「迅様は、なりたくて〈狩る者〉になったわけじゃないんです……!ただ私を庇って戦っているうちに……。迅様のことを噂に聞いて戦いを挑んでくる〈狩る者〉は山のようにいました。迅様は戦うのを極力避けようとしましたが、先に〈狩る者〉として覚醒していた人たちから戦わずに逃れることは出来ませんでした。だから迅様は……その人たちを必死で殺すしかなかったんです……。本当は殺したくなんてなかったのに……!」
零れ落ちる大粒の涙を拭うことを忘れ、ひなは赤い目を優一に向けた。すんすんと啜り、しゃくり上げるその姿は健気で、今にも壊れそうだった。
「お願いです。迅様を助けてください。迅様はきっと、命を懸けて紅さんとの決着を付けるために私たちから離れていってしまったんです。だから急に解散なんて……」
「紅君は強い」
優一はひなの言葉を遮った。
「油断していたとは言え、この僕をここまで苦しめる程だ。迅さんとは戦ったことがないから分からないけれど、二人の実力差は今どれくらいなのかな」
その問いにはツカサが答えた。
「おそらく互角か……、あるいは紅の方が僅かに上、かと」
「紅君は明らかに殺意を持って挑むでしょうけど、迅さんの方はどうなんですか」
「迅はもともと争いを好まない性格なんだ。それに紅のことは本当の弟のように可愛がっていた。その弟を本気で殺しにかかるとは思えない」
優一は低く唸ると、何か考え込むように腕を組み、再び闇夜に輝く月に目を向けた。
「儀同さん……」
ひなは縋るように優一を見つめる。
―――だが、迅さんにも守りたいものがある。自分の命よりも大事な、早乙女ひなという存在。彼がそれを蔑ろにして、ひなちゃんを殺そうとする弟に情けをかけるだろうか。
目を閉じて思考を巡らせていると、寝室のドアがゆっくりと開く気配がした。 咄嗟に振り向いて目を向けると、そこには壁に手をついて立っている桜子がいた。
優一が慌てて駆け寄ると、桜子は力が抜けたように優一にもたれかかった。肩で息をしており、立っているのもやっとらしい。
「桜子ちゃん、まだ身体が治っていないんだから……」
「行って……優一君……」
彼女の掠れた声に、優一は目を見開いた。「でも……」と言いかけた唇を、桜子の細くて綺麗な人差し指が制した。
「迅さんのため……じゃない……ひなちゃんの……ため……。独り……残される……のは……寂しい……」
喉が焼けて苦しいはずなのに、桜子は懸命に優一に想いを伝える。その姿が、その言葉が、優一の心に重くのしかかる。
火傷だらけの桜子の肌に刺激を与えないように、そっと抱き締める。優一自身も火傷を負っていたが、やはり桜子のものと比べると大したことのないように感じられた。
桜子は紅の業火を自らの身に受けてまで、優一を守りたかった。あの状況で、瞬時に作ることが出来る結界はせいぜい一つだった。何者をも通さない“絶対防御”を誇る桜子の結界を以てしても、あの業火から守るには一つに集中しなければならなかったのだ。
桜子を傷付けたのは他でもない自分だと、優一は分かっていた。しかし桜子は、自分が優一に傷付けられたのだと思われることを心から嫌う。だから―――。
「ありがとう、守ってくれて」
桜子にだけ聞こえるようにそう囁いて、優一はひなとツカサを振り返った。
「行きましょう、二人のところへ」