六
――― GENNY解散 ―――
迅がそう言い出したのは、優一と紅が廃墟の屋上で睨みあっていた、まさにその時だったらしい。
「どうしてそんなことに……」
優一は突然告げられた一日遅れの報せに怪訝な顔をした。何故突然そんな流れになったのか全く読めない。
「私もテレビの報道で初めて知ったくらいで……」
ひなは目元や頬を拭いながら、俯きがちに言った。優一は目を瞬かせた。
「メンバーも知らなかったの?」
「迅のやつが突然決めてしまったんだ。俺たちの意見も聞かずに勝手に。発表はまだしていないしするつもりもないけどね」
男は苦々しく顔を歪めた。
「ところであなたは……?」
桜子のことで頭がいっぱいで、他のことがすっかり頭から抜けていた。優一はひなの傍らに立つ男を窺った。
「俺は早乙女ツカサ。早乙女四兄妹の長男だ」
「じゃあ、ひなちゃんのお兄さん?」
「ああ、そしてGENNYのYUKITOとMIKAGEは俺の弟なんだ。俺はGENNYのマネージャーをやっていたんだが……」
そこで言葉を切ると、ツカサは額に手を当てて大きく息を吐いた。精神的に参っているようだ。
「迅さんはどういう意図で突然こんなことを……」
「おそらく紅のことだろう」
「どういうことです?」
優一が訊き返すと、ひなは「ツカサ兄さん、それは……」と窘めた。
「何があったか分かりませんが……さっきツカサさんは、僕のもとを訪ねれば何か助けになってくれるかもしれないと、迅さんに言われたと言っていましたよね」
「ああ、それで君に頼みがあって来たんだよ」
「頼み?」
怪訝な顔で訊き返すと、ツカサは俯くひなの肩を抱き寄せた。
「この子をここに置いて欲しいんだ」
優一は呆気に取られたように目を瞬いた。
「ひなちゃんをここに?僕にひなちゃんを守れということですか?」
「そうなんだ。突然のことで申し訳ないんだが、どうか引き受けてくれないか」
そう言ってツカサは頭を下げた。優一は、悲しげな顔で俯いたままのひなを黙って見つめる。
「……とりあえず事情を聞かせてください」
優一は立ち上がると、リビングに二人を促した。
天津風家は古くからある名門の一族で、俺たち早乙女家は代々、天津風家にお仕えしていた。
当主の左京様は、物腰は柔らかく非常に寛大な方だったが、同時にまわりに流されず、自分の意志を常に持ち、それを固く信じる強さも持っていた。周囲には常に人が集まり、誰からも慕われるような人だった。
奥様である凪様は物静かな方で、誰にでも優しい聖母のような女性だった。とても美しかったし、聡明でもあった。
俺たちは子どもの頃からお二人によく可愛がられた。俺たちもお二人が大好きだった。
お二人には一人息子がいた。それが迅だ。
本来なら俺も『迅様』と呼ばなきゃならなかったが、迅には『様』を付けて呼ぶことや、敬語を遣うことを禁止された。歳が近いこともあって、余計な気を遣わせたくなかったんだろう。あいつは幼い頃から真面目で頭が良かったんだ。
だがユキトやミカゲ、ひなは、親たちが『迅様』と呼んでいるのを聞いて、その呼び方が気に入ったらしい。あいつがどれだけ『様』を付けるなと言っても、ずっと『迅様』と呼んで慕い続けた。
毎日が平和だった。みんなで左京様や凪様に勉強を教えてもらったり、庭で遊んだり、とても楽しかった。
しかしある時、一人の女が現れた。『朱』と名乗る女は、一人の少女とまだ幼い男の子を連れて、左京様に会いたいと言ってきたんだ。
俺たちはどういうことか分からなかったが、何かただならぬことが起き始めていることだけは察した。
左京様は女の申し入れを受け、女を自室に通した。何やら話し込んでいるようだったが、話の内容までは分からなかった。
数時間後、部屋から出てきた左京様の言葉を聞いて、俺たちは唖然とした。
彼女たちを天津風家に置くというのだ。この少女と少年は自分の子なのだと。
その後、俺たちの父親がいくら事情を問いただそうとしても、左京様は何も答えてはくれなかった。ただ、「あの子たちの父親は僕だ」と。そして静かに笑うだけだった。
俺は左京様の言葉に驚くほどに何も感じなかった。失望も衝撃も。ただそこに突如として現れた現実を受け止めただけだった。ただし受け入れるのは難しかった。
当主の決定だから、他の者は何も言わなかった。だが皆、凪様が憐れに思えて仕方がなかった。何も答えない左京様を非難がましく陰口を叩く者もいた。彼女らは愛人とその子どもなのだ。凪様と迅という家族がありながら、なぜ彼女らをここに留めておくのか。なぜ自分たちには何も事情を話さないのか。
左京様は凪様や迅のことを深く愛していたし、大切に思っていたのは間違いない。けれど左京様はとても優しい方だったから、彼女たちの事情を聞いて放っておけなかったのだろう。俺はそう思った。
それから左京様は敷地内に離れを作らせ、そこに彼女たちを住まわせた。
凪様と彼女の仲は実際どうだったか分からない。二人は顔を合わせると、嫌な顔をせずにお互い挨拶や会話をしていたし、二人で食事もしていたようで、他の天津風家の人間や早乙女の者たちが驚く程だった。しかしやはりどこか思うところはあったのかも知れない。
唯一救いだったのが、迅と連れ子が意外にもすぐに打ち解けたことだった。俺たちはいつも迅と一緒にいたから、俺たちも二人と仲良くなった。
左京様がこれからどうしていくのか、誰も分からなかった。しかし名門天津風家として、ずっとこのままというわけにもいかないというのは皆分かっていた。 ひなはその時赤ん坊だったし、ミカゲや連れ子の男の子の方もまだ小さかったから当然何も知らなかっただろうが、俺や迅、ユキトや少女は口には出さずとも分かっていた。
そして三人が天津風家に来てから三年が経ったある日、悲劇は起きた。
窓際に立って月を見ながら話を聞いていた優一は、二人をゆっくりと振り返った。
ツカサは唇を噛み締め、握り締めた拳を膝の上で震わせていた。ひなは隣に座るツカサを心配そうに見つめている。
「……その連れ子というのが」
優一は一旦言葉を切ると、目を伏せた。
「紅君なんですね」
「……ああ」
ツカサは頷いた。
「迅と紅は異母兄弟なんだ」
そして呻くように声を絞り出した。
「そうだったんですか……。しかし紅くんの父親が左京さんというのは事実なんですか」
「それは確かだと思う」
「なるほど……ところで、連れ子のもう一人は今どうしているんです?」
優一はふと疑問に思ったことを訊ねてみた。しかしツカサは目を逸らして口ごもった。
「ツカサさん……?」
「……死んだんです」
口を開いたのはツカサではなく、ひなだった。
「え?」
優一は小さく呟いたひなの言葉の意味をはかり兼ねて訊き返した。
「彼女は死んだんです」
「死んだ?」
「はい……あの事件で」
「事件?一体どういうことです?」
怪訝な顔でそう訊ねると、ツカサは諦めたように大きな溜め息を吐き、口を開いた。
「凪様が屋敷に火を放ったのさ」
「ユキト、ミカゲ。あとは任せた」
皺一つ無い紺色のシャツの上に、ふくらはぎまで届く黒のロングコートを羽織ると、迅は二人を振り返って言った。
「はい……だけど、本当に行くんですか」
ミカゲの真っ直ぐな瞳を、迅の涼しげな漆黒の瞳が受け止める。
「ああ」
短くそう答え、袖に腕を通す。そして二人の頭に手を乗せ、微かに、ごく微かに頬を緩めた。
「ツカサの言うことをちゃんと聞くんだぞ」
「迅様!俺たちもう大人なんですから、子ども扱いしないでくださいよ!」
ミカゲは拗ねたように唇を尖らせた。もう二十二になるはずだが、その表情は年齢より幼く見える。それが彼の魅力でもあるのだが。
「……」
「ほら、ユキト兄!迅様に何か言いたいことは?」
ユキトはその小さめの唇を僅かに開くと、「……音楽」とだけ呟いた。迅は目を瞬かせ、ミカゲに視線を移した。
「また、GENNYとして音楽がやりたいそうです」
迅はフッと微笑んだ。ユキトは群青色の瞳を迅に向けただけで、他には何も言わなかった。
「ああ、そうだな」
それだけ言うと二人から手を離し、玄関に向かった。
―――もしかしたら、ここに戻ってくるのもこれで最後かも知れないな。
そんなことを考えながら、迅は黒の革靴に足を滑り込ませた。
長くここに住んだが、天津風の無駄に広い屋敷より、このマンションの方が断然居心地が良かった。ひなやツカサ、ユキトやミカゲと共にここで過ごしてきた日々が自然と思い返される。
仕事のことで笑ったり泣いたり、時には喧嘩をしたりとごく普通の生活だったが、自分にとってかけがえのない時間だった。
靴を履き終えて立ち上がると、ふと後ろを振り返った。そこにはユキトとミカゲ、その後ろには彼らと長いようで短い時間を過ごした部屋がある。
「……ひなを頼んだ」
迅は前に向き直りそう言うと、
「了解です!」
「……承知」
と返ってきた。何も変わらない二人に悟られないように微かに笑うと、玄関のドアを開けた。
「……絶対、帰って来てくださいね」
ミカゲは迅に聞こえないくらいの声で呟いた。その隣でユキトはやはり何も言わなかったが、祈るように目を閉じていた。
背後でゆっくりドアが閉まる音がした瞬間、迅の瞳は“鴉”のそれとなった。
「紅……決着の時だ」
低く囁くと、闇に身体を溶け込ませた。
行き先はただ一つ。天津風邸の“跡地”である。そこで十二年の因縁に幕を下ろす。
紅は“狐”の異名を持つ“最狂”の男である。そう簡単には倒せまい。しかし自分は紅を倒しに行かねばならない。これ以上大切なものを失わないために―――。
昨今の放火魔事件、それだけではない、未だ解決に至っていない殺人事件の犯人は間違いなく奴の仕業だ。
紅は着実に“時間”を“狩り”、着実に〈袖の花〉へ貯め込んでいる。十二年分の量を考えると、おそらくそろそろ“満ちる”頃だろう。
奴はきっと、その大詰めとしてひなを襲う。有終の美を飾るために。
自分はこれまで多くの人を殺してきた。それが自分の意志ではなく、“結果として”〈狩って〉しまったにしても、それは同じことである。そしてその“時間”がひなに蓄積されているのもまた事実。
紅は〈狩り〉の締めとして、かつ自分への“復讐”としてひなを殺そうとするだろう。それは絶対に阻止しなければならない。
―――たとえこの命が尽きようとも。
迅は闇に紛れ、夜の街を見下ろすこともなく、立ち並ぶビルを風の如く跨いだ。
「『あの場所で待つ』……か……」
自室の壁に小型のナイフで留められたメモにちらりと視線をやると、紅は鼻で笑った。
「フン、何を今更……散々逃げてきたのはどこのどいつだよ」
皮肉を込めて吐き捨てるように言うと、ベッドに寝転がった。寝返りを打ち、ナイフが刺さった壁をぼんやり眺める。
部屋のドアが数回ノックされた。紅は大儀そうに身体を起こすと、「入れ」と素っ気なく返事をした。
「起きてたのね。……ねえ紅、本当に行くの?」
「当たり前だろ。あいつがわざわざ出向いて宣戦布告しに来たんだぜ。受けない手があるかよ」
壁に留まったままのメモを顎で示すと、紅は皮肉な笑みを浮かべた。
「……そうね」
エリカは薄暗い部屋で紅く光る彼の瞳を見つめた。
紅はベッドを下りると、エリカに歩み寄り、その細い肩に手を置いた。しかし彼女はその手を振り払い、紅の肩を力いっぱい推した。
「……!」
バランスを崩した紅はベッドに倒れ込んだ。エリカは紅の上に跨って馬乗りの体勢になった。
「……どういうつもりだ」
下から睨みあげると、エリカは紅の首に手をかけた。
徐々に力を込めると、皮膚を通して紅の鼓動が両の手のひらに伝わってくる。
「紅……」
エリカは吊り気味の目を細めた。紅は黙ったまま、ただエリカを見上げている。
彼女は長い睫毛の影を落とすと、唇を強く噛み締めた。
「……どけ」
紅は吐き捨てるように言うと、エリカは力が抜けたように、素直に従った。
「心配すんな。俺は負けねーよ」
その言葉に弱々しく顔を上げると、紅の手に触れた。
部屋には痛い程の静寂と、幻のように漂う微かな煙だけが残った。
〈狩る者〉は大きく二つのタイプに分けることが出来る。
戦闘において、自らが本来持つ能力を第一とし、その特殊能力だけで〈狩り〉をする者。
戦闘において、自らが持つ能力はあくまで第二―――つまり補助的なもの―――として武器などを駆使し、物理的な攻撃を加えて〈狩り〉をする者。
この二つである。前者は能力型、後者は暗殺型と呼ばれる。
言霊を操る優一や炎を操る紅は能力型であり、迅は闇に紛れて〈狩る〉暗殺型である。
能力型と暗殺型は戦闘スタイルの違いから、相性はあまり良くないと言われている。
個人の能力にもよるが、能力型の方が僅かに上。一般的にはそう囁かれる。
そんなことをぼんやりと考えながら、迅は闇に輝く月を見ていた。
目の前には何も無いただの平原が広がっているのみ。黒く焼け焦げたような地面には、花はおろか草も生えていない。森の奥の、自然に囲まれた場所だと言うのに、ここだけ不自然に開けていた。
ここに来るのはいつぶりだろうか。
あの悲劇が起きて以来、ここには一度も足を向けなかった。十二年経った今でも、自分にとっては辛く、苦い思い出の地である。
目を閉じると、あの頃の楽しかった記憶が鮮明に蘇る。
自分を見つめる父と母の優しい瞳。些細なことで起きたツカサとの喧嘩。ミカゲとユキトの自由研究のための昆虫採集に付き添った夏の早朝。転んでぐずるひなを背負って帰ったある日の夕暮れ―――。
何でもないそんな日々が、かけがえのない宝物だったと迅に気付かせたのは、ある秋の日に起きた出来事だった。
今でも夢に見るあの恐ろしい一日が、すべての始まりだった。
―――いや、本当はもっと前から事は動き出していたのだ。
閉じていた目をうっすらと開けると、その瞳に、平原と闇と月だけの静寂の世界を映した。ふわりと生温い風が頬を撫でる。
「意外に早かったな」
迅は静まり返った空間に声を発すると、少し離れたところから煙が現れた。
煙が風に吹かれて流れると、そこに二つの影が動いた。言うまでもなく、紅とエリカである。
迅は目を細めた。
「離れてろ」
そう言われてエリカは紅から手を離し、何も言わずに数歩下がった。
「迅、まさかお前から招待してくれるとは思ってなかったぜ」
迅に向き合い、まっすぐ視線を据えて紅は言った。
「俺がお前に引導を渡してやる」
ニヤニヤと笑う異母弟に、迅は表情を微塵も変えずに言い放った。
「ハッ、とうとうその余裕ぶった綺麗な顔を歪ませられると思うとゾクゾクするぜ……!俺はこの時をずっと待ってた!てめえに復讐することだけを生きがいにな!」
「紅、冷静さを失ってはダメ……!」
「うるせー、お前は黙ってろ」
不安げな表情を浮かべるエリカをじろりと睨んだ紅は、再び迅を見据えた。そして人差し指をまっすぐ迅に向ける。
「その首、母さんの墓に捧げてやる」
そう呟くと、手のひらを上に向けて強く握った。
迅は見極めるように視線を鋭くすると、ゆっくりと構えた。
黒い革手袋を嵌めた右手を、前が開いたコートの内側に滑らせる。左の内ポケットには、常に短刀を携えている。
紅は造作もなく手のひらに炎を生み出すと、それを弄ぶかのように真上に投げ、そして手に収めた。それを何度か繰り返すと、その手を胸の前に掲げた。
「死ね、天津風迅!」