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神の番犬  作者: 沈丁花
神の番犬 第1章
6/23




「ま、アンタを倒すのは後でも良かったんだがな」

 今は廃墟となったビルの屋上で、紅はぽつりと呟いた。数メートル離れた先には長年待ち焦がれた“最強”の男がいる。

「さあ、お好きなようにどうぞ」

 優一はポケットに手を突っ込み、僅かに首を傾げた。

「そんじゃあいくぜ……」

 紅はまた舌なめずりをすると、両手をそれぞれ握りしめ、パッと開くと炎を出した。そしてフーッと強く息を吹きかける。

 火の玉は紅の手から滑るように飛び出すと、優一めがけて飛んできた。かなりのスピードに乗っている。

 真っ直ぐに飛んでくる火の玉をじっと見据え、優一はひらりと身をかわして避けた。しかし背後に気配を感じて振り向くと、そこには“三つ目”の炎が浮かんでいた。

「なるほど……君はこれで放火事件を起こしていたんだね」

 紅に向き直ると、フッと吐息を漏らした。

「僕は事件の犯人を君だと疑い始めた時から、人気俳優の君がどうやって事件を起こしているのか考えていたんだ。スケジュールもいっぱいだろうし、スクープを取ろうと付き纏う週刊誌の記者たちもいるだろうしね。だけど今分かったよ。君の炎、消えるんだね」

 紅はニヤリと笑った。

「ご名答。だが正確に言えば、消えるのはこの“狐火”だけだ。これは探索に適した技で、水の中でも消えることはねえ」

「それは前に見せてもらったよ。あの土砂降りの日にね」

「ククッ……、やっぱりあの時、俺の狐火を消したのはアンタだったか」

 愉快そうに笑うと、紅は同じように手をグッと握った。すると、優一の背後にあった三つの火の玉は瞬時に消え去った。

「こんなにもあっさりと僕の背後を取るなんてね。ちょっと甘く見ていたかな」

 優一は笑みを浮かべた。その顔はどこか楽しそうで。

「犬の後ろを取るなんて造作もねーことさ。ほら、次いくぜ……」

 紅は両腕を広げ、握った拳を開いて炎を出した。それをそのまま優一に向かって投げた。これもかなりのスピードに乗って襲いかかってきた。

 さっきと同じようにじっと構えて炎を見据えていると、二つの炎は空中で分裂した。

「……!」

 優一が瞬きをすると、その間にも分裂した炎がまた分裂し、その炎がまた分裂した。瞬時にこれが何度も繰り返された。分裂のスピードも極めて速い。それでいて炎の大きさは保ったままである。

 何とかかわしても、次々に襲ってくる炎をただ避けることしか出来ない。一縷の隙も生じない徹底した攻撃である。

「甘いな、まさかこれが狐火と同じだと思ってるわけじゃねーよなあ?」

 その言葉にハッとした時にはすでに、優一は数えきれない数の火の玉に囲まれていた。

「これは……」

「これは“篝”。俺が編み出した技だ」

「なるほど……。僕は篝火を焚くかごの中に閉じ込められたというわけか」

 視界を覆うように自分を取り囲む火の玉と、その先にいる紅をじっと見つめながら言った。

「そんな余裕ぶっこいてられんのかよ?これは避けられねーぜ、儀同優一ィ!」

 そう叫ぶと、優一を取り囲んで浮かんでいた火の玉がグルグルと渦を巻くように急速に動き出した。優一はまさに炎の渦に閉じ込められてしまった。

「ッ……!」

 紅は満足げに笑みを零すと、パン!と音を立てて顔の前で手を合わせた。炎の渦が凝縮し、優一に巻き付くように襲いかかる。

「あっけねーな……ククッ」

 紅は燃え盛る渦をうっとりと眺めた。

 渦の中に閉じ込められた優一の姿はもはや見る影もない。篝は紅の最も得意とする技であり、それだけに絶対的な自信がある。

「しかし、あっけなさすぎてがっかりだぜ……“最強”と謳われた“狼”が……」


「……散れ……」


 微かに声が聞こえた瞬間、渦が弾かれるように消え去った。

「なっ……!?」

 見ると、そこには何事もなかったかのように整然と立っている優一がいた。服にも身体にも焦げ跡一つ付いていない。

―――俺の篝を自力で振りほどきやがったか……。けど、なんで傷一つ付いてねえんだ……?

「ふう……あれ、なんで傷一つ付いてないんだ?って顔してるね」

 服に付いた煤を手で軽く払いながら、優一は微かに笑む。

「君の篝とやらをコントロールしただけだよ。能力を使って」

「そうか、確かアンタの能力は……言霊を操る力だったな。すっかり忘れてたぜ」

 紅は相変わらずニヤニヤ笑っていたが、内心冷静に状況を考えていた。

―――さすがに一筋縄ではいかねーか。だがこの程度は想定内。篝を解いたのは少し驚いたがな……。

「久しぶりに能力を使ったよ。すっかり鈍っていた」

「ハッ、アンタのその能力、使わねえなんてもったいねーことするなあ。絶対的な能力、それを使えば何でもアンタの思い通りになるだろうに」

 その言葉に優一は一瞬、悲しげな顔をした。しかしすぐに困ったように笑うと、首を振った。

「僕は〈狩り〉をやめた日から、この能力を使うこともやめたんだよ」

「アンタほど力を持った男がなんで〈狩り〉をしない?それに〈狩り〉をやめてから、他人に今まで〈狩った〉“時間”を分け与えてるらしいじゃねーか」

 その時初めて紅は歪んだ笑みを消し、怒りを秘めた瞳で優一を睨んだ。

「分け与える能力……どこで手に入れたかは知らねーが、イライラするんだよ。アンタみたいな甘っちょろい人間がこの世界にいることが……!」

 優一は何も言わず黙って紅を見つめる。

「アンタは何なんだ?神にでもなったつもりか?〈狩る者〉なら〈狩り〉をしろ!“他人に与えて優越感に浸ってんじゃねえよ!」

 それでも優一は何も言わない。紅はギリッと奥歯を噛み締め、優一を睨む瞳をさらに鋭くした。

「その目もムカつく……!あいつと同じ……、その余裕ぶった目がムカつくんだよ!!」

 紅は顔の前で手を交差させた。すると、両手から炎が起こり、彼の手を燃料にするかのように燃え上がった。炎は黒ずんだ暗い色をしている。

「俺が“最強”だ……!“烈火”!」

 紅はそう言うと大きく息を吸い込み、一瞬呼吸を止めたかと思うと、一気に息を吐き出した。吐き出された息は紅蓮の炎となり、優一の視界を覆った。

―――避けられないか……!

 優一は受けるダメージを極力減らそうと、咄嗟に態勢を低くした。だが襲いかかる炎を直で受けるとやはり尋常でなく熱い。服は焼け焦げ、腕や足や顔が炎に焼かれて痛みを覚えた。

「ぐっ……」

 苦痛に思わず顔を顰める。

「これで終わると思うなよ?」

「何……?」

 紅は優一を襲って燃え上がる炎に向かって駆け出した。火柱の前で右足を強く踏み込むと、高くそのまま火柱の中へ飛び込む。

 炎の中で片膝を付いて蹲っている優一の姿を捉えると、ニヤリと唇の端を吊り上げた。

「!!」

 優一は咄嗟のことで反応が遅れた。それを紅が見逃すはずもなく、暗い炎を宿した右手をすかさず優一の首めがけて伸ばした。

―――まずい!

 危機察知能力が、紅の両手の炎に反応した。

 優一は反射的に後ろに大きく下がると、何とか攻撃を防いだ。

「烈火の中にいながらまだ動けるとはな。さすがに“最強”と呼ばれるだけはあるぜ」

 赤銅色の炎を宿した両手をブラブラと揺らめかせながら、じりじりと優一ににじり寄る。

「オラ、どうした?アンタの力、もっと見せてくれよ」

 再び喉元目がけて飛びかかった。優一は己を逃がさんとばかりに燃え盛っている壁に飛び込むと、烈火の中から抜け出した。

「はあ……はあ……」

 この時期になると夜になっても気温は高いままだが、今の優一にはかなり低く感じた。焼けてひりつく肌に、夜の風が滲みる。

「その両手の炎には捕まらない方が良いみたいだね」

 はは、と苦笑すると、シュウゥと煙を上げる肌の痛みに目を細めた。

 紅は手刀で空を切るように手を滑らせると、それまで生きたように燃えていた烈火が次第に弱まり、やがて跡形もなく消えた。

「さすが“番犬”。この“業火”は俺の技の中でも最も殺傷能力が高い技だ」

「見たところ……毒かな」

「そこまで見抜いてやがったか。……そう、この業火はパワー型の技じゃねえ。その真髄はまさしく毒。一度触れたら身体中を毒に侵され、三日ともたずに死ぬ」

「恐ろしい技だね……まったく」

「ククッ……、アンタほどじゃねえと思うがな」

「そう謙遜しなくても」

「そんな軽口を叩く余裕があるなら、はやく本気を見せてくれよ。アンタの力はまだまだこんなもんじゃねーだろうよ」

―――でないと本当に死ぬぜ。

 紅は左手を口の前に持ってくると、大きく息を吸った。

―――毒炎か?

 優一が瞬時に判断して構えた瞬間、高い声が響いた。

「優一君!」

 その声に弾かれたように振り向くと、そこには息を切らした桜子がいた。

 表情を見るに、今の状況は飲み込めているようだ。街の灯りで微かにしか分からないが、優一は明らかに負傷している。身体中の焦げ跡は二人が戦いの真っ最中ということを示している。

「どうして来た!はやく逃げろ!」

「でも優一君、怪我して……」

「僕のことはいいから!」

 言って、優一はハッとした。

 紅に目を向けると、彼は突如として現れた桜子をじっとなめるように見ていた。その顔は悪魔のように歪んでいた。

「やめろ!彼女は関係ない!」

「もう遅い!」

 言うが早いか、紅は大きく息を吸い込み黒ずんだ炎に吹き込んだ。巻き起こった黒ずんだ炎は、先程の烈火より威力も範囲も大きい。ある程度距離がある優一と桜子も十分飲み込まれる規模である。

「散……」

 優一が言霊を使おうと口を開いた瞬間、喉元に物凄い勢いで狐火が叩きつけられた。

「ぐはっ……!」

 鉄球を投げつけられたように重い一撃で、優一は能力を発揮し損ねてしまった。

―――桜子ちゃん!はやく自分に結界を!

 目で訴えると、それに応えるように桜子は両腕を前に伸ばした。

 炎が届くか否かの瞬間、何もなかったところに透明な結界が現れた。


 ただし、桜子ではなく、優一のまわりに。


 炎は優一のまわりだけ結界に阻まれて悔しげに流れていく。

「さ……桜子ちゃん!!」

 優一はそれまで見せなかった動揺の色を瞳に映し、叫んだ。彼女の名前を呼ぶ声が僅かに震える。

「散れ!!」

 腹の底から叫ぶと、二人の間を阻むように燃え盛っていた赤銅色の炎は一瞬にして消えた。

―――かなり強めに業火を放ったつもりだったが、こいつ、一瞬で消しやがった。やっぱ只者じゃねーな。

 紅は小さく燃える残り火を眺めながら考えると、ふと女に目を向けた。

―――業火を堪え切れる程の結界か。さすが“番犬”の〈花〉だな。

 優一は結界を消すと、倒れている桜子のもとに駆け寄った。服は焼け焦げ、全身火傷だらけだ。

「桜子ちゃん!桜子ちゃん、しっかりするんだ!桜子ちゃん!!」

「ん……優一……君……」

 桜子は薄く目を開けた。

「よかった……無事で……」

「桜子ちゃん……どうして……」

 優一が顔を苦しげに歪めると、桜子は安心したように微笑み、またゆっくり目を閉じた。気を失ったらしい。

 優一はうな垂れて唇を噛み締めると、徐に立ち上がり、紅に向き直った。

「やっと本気を出す気になったか?けどもう遅いぜ。さっきも言った通り、業火の毒を食らったら最後、三日三晩苦しんで死ぬだけだ。アンタの〈花〉も……」


「……死ね」

地獄から這い上がってきたような低い声。


「っ……!?」

 紅は突然の苦しさに自分の首を押さえた。何かに首を絞められているような圧倒的な圧迫感。呼吸を止められる。

 酸素を取り込むことを許されず、身体は悲鳴を上げた。

 だんだん薄れていく意識の中で、金色に輝く双眸だけが目に映った。

―――あれが……“狼”……!

 自分を冷ややかに睨むその目は、穏やかな鶯色を消し、かつて“最強”と謳われた“狼”のそれに変わっていた。

 紅は無意識のうちに死を覚悟した。

―――俺は死ぬのか……?

 首の骨を折らんとする“狼”に、紅は高揚した。

 こんなに強い奴がいる。俺はもっと強くなれる。

―――んなとこで……死ねるかよ……!



「紅!」

 悲鳴のような声が響いた。

 優一は視線を女に向けると、紅は拘束が解かれたようにその場に崩れ落ち、地面に片膝を突いた。

「ゲホッ……ゴホゴホッ……」

 女は激しく咳き込む紅に駆け寄った。

「あなた何やってるのよ!どれだけ探したと思って……」

「うっせー、引っ込んでろ……今、“狼”と戦ってんだよ……!」

 女―――エリカはハッとして紅の視線の先にいる青年を見た。

 負傷しているようだが、その目を見る限り、紅の息の根を造作なく止めるくらいの力は残っているらしい。

「そう、あなたが……。あたしは吉原エリカ。この子のマネージャーよ」

 そう言いながらまだ少し苦しげに咳をする紅を睨みつけた。

「喧嘩を売ったのはきっとこちらなんでしょう。この子は決着を付けたがっているようだけど、あなたには拒む権利があるわ。それに紅はこの後も撮影が入ってるのよ。そちらにはもう瀕死の負傷者がいるようだし、どうかしら、ここでお互い手を引いて……」

「この子を侵した毒を解毒しろ。そうすれば命は助けてやる」

 優一は抑揚のない声で言い放った。俯いていた紅は顔を上げてニッと笑った。

「ハッ……その毒は俺を倒さねーと……消えないぜ」

「……ならばその首、へし折ってやる」

 優一が大きく目を見開いた瞬間、「待ちなさい!」という凛とした声が響き渡った。

「紅、ふざけるのもいい加減にしなさい。彼を挑発して……死にたいの?」

「……ゴホッ……俺はあいつと戦いたいんだよ」

 エリカは呆れたように大きく溜め息を吐くと、優一に向き直った。

「今回は引き分けということで勘弁してくれないかしら」

「解毒が先だ」

 優一は頑として譲らない。金色の瞳は獲物を狙う獣のように瞬き一つしない。

「それなら“天使”に治してもらうといいわ」

 それだけ言うと、エリカは蹲ったままの紅の背に手を置き、瞬く間に煙になって消えた。

「待て!」

 優一は言霊を使ったが、エリカの瞬間移動の方がはやかった。赤みを帯びた煙はすでにもう跡形もなく消えていた。

「くそっ……!」

 苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをすると、苦悶の表情を浮かべて倒れている桜子を見つめた。

透き通るような肌は赤くただれ、見ているだけで痛々しい。

「桜子ちゃん……絶対助けるから……」

 頬の黒ずんだただれにそっと触れると、桜子の苦しみ、痛みが肌を通して伝わってくる心地がした。

「……っ……!」

 視界がぐらりと揺らいだ。

 烈火の中で喉元を狙われ間合いを詰められた時、僅かに業火の毒を食らったらしい。僅かな毒でもこれだけ苦しいのに、全身でそれを受けた桜子はどれだけ苦しいだろう。

 肩と膝に手を入れ、桜子を抱き上げようとしたが、全く身体に力が入らない。全身が痺れ、呼吸さえままならない。

―――それでも僕はこの子を……!

 優一は唇を強く噛み締めた。血が滲んで鮮やかな赤が口元を流れて滴る。

 雨が降り出した。ひなと出会った時のような、ひどい土砂降りになった。

 優一を嘲笑うかのように、生温い雨が容赦無く身体を打つ。

―――考えろ、考えるんだ!どうすればいい?

 薄れゆく意識の中で、上手く働かない脳を懸命に動かすが、思考が巡るだけで何も進まない。

 “天使”。

 “天使”に治してもらえばいいと、吉原エリカは去り際に告げた。

―――だが“天使”とは誰だ?どこに行けばいい?

 治してもらうにもどこに行けばいいのか、誰に縋ればいいのかも分からない。

 誰か助けてくれ―――。

 無意識にそう呟くと、優一は意識を手放した。





 優一が目を覚ましたのは、それから丸一日経ってからだった。

 何故かリビングの床に転がっていた。

 身体中がズキズキと痛む。手当てもしていない火傷が炎症を起こしている。相変わらず意識ははっきりしない。頭もあまり働かない。

「うう……」

 呻き声にハッと顔を上げると、ソファに桜子が横たわっていた。

「桜子ちゃん……!」

 火傷でただれた肌はさらに赤黒く黒ずみ、かつそれは範囲を広げていた。苦しげに乾いた吐息を漏らしている。

「……誰が……」

 部屋を見回すと、テーブルの上に何か小さなメモ用紙が置いてあるのに気が付いた。

手に取って顔の前に近付けると、優一は目を細めた。


  「先日の借りは返す。 後のことは運と“天使”に任せる」


 たったそれだけだったが、優一はこれを書いた人物の顔がすぐに思い浮かんだ。

 天津風迅。つい最近、彼の〈袖の花〉である早乙女ひなを助け、追手から匿っていた。借りとはそのことだろう。

「どうせなら“天使”とやらも教えてくださいよ……」

 懇願するように独り呟くと、テーブルに手を突いた。

 今ほど、自分に治癒の力があればと思った時はない。

 言霊を操ると言っても限界がある。

 壊れたものを直す、傷付いたものを治す、死んだものを生き返らせる―――つまり再生することは優一には出来ない。

 優一は、大切なものを守る力しか持っていない。だから一度守れなければ、優一は永遠に失うのだ。命より大切な桜子を。

―――そんなの絶対に認めない。僕が絶対に助ける。

 “天使”とやらに頼めばこの毒を癒してもらえる。だがいつ現れるか分からないそれをただ待っていることも出来ない。業火の毒は三日で人を死に陥れる。

 もう一日経ってしまったのであと二日。悠々と“天使”を待っている時間など無いに等しい。

―――やはり双海紅を叩くしかないか……。

 ふらつく身体を何とか動かすと、自分と桜子の傷の応急処置をした。

 霞む目を瞬きながらなんとか包帯を巻き終わると、桜子を横抱きにしてベッドまで運んだ。そっと布団を掛けて枕元に水差しを置いておく。

「桜子ちゃん……ごめん、巻き込んで。だけど待ってて。君だけは絶対助けるから」

 額に優しく口付けると、Tシャツの上にゆったりとした木綿羽織りを羽織った。目立つ傷を隠すのに丁度いい。

 部屋の電気を消して玄関のドアに手を掛けると、インターホンが鳴った。

 優一は顔を顰めた。こんな急いでいる時にと皮肉を言いたくなったが、平静を装ってドアを開けた。

「どちら様ですか。僕はこれから行かなければならないところが……」

「儀同さん、どうしたんですか……!?」

 以前聞いたことのある声が目の前から聞こえた。美しい鈴のような澄んだ声。一度聴いたら忘れられない魅力的な声だ。

 その声に顔を上げると、そこにはひなと長身の男性が立っていた。男性の方は迅ではなかったが、彼に負けず劣らず端正な顔立ちをした男だ。

 だが今はそんなことに構っている場合ではなかった。

「……何か用ですか」

 優一には珍しく、無愛想な声が口から零れ出た。

「君にお願いがあって来たんだ。迅に、君のもとを訪ねればもしかしたら助けになってくれるかもしれないと言われてね」

 長身の男はいかにも洒落者な雰囲気を漂わせていたが、目は笑っていない。というよりも、真剣そのものである。

「迅さんに……?」

 優一は怪訝な顔で男を窺った。助けて欲しいのはこちらである。

「そんなことより儀同さん、その怪我、どうしたんですか!?ひどい怪我じゃないですか!」

 ひながさっきと同じ驚いた声を上げた。瞳には困惑の色が見える。

「これは……」

「もしかして、紅にやられたのかい?」

「!」

 唖然とした優一にひなは「桜子さんは大丈夫ですか?何か、黒い火のようなものを受けませんでしたか?」と問いかけた。

「受けたよ……業火という技を全身に受けた」

「全身に……」

 男は目を伏せて顔を顰めた。どうやら二人はそれを知っているらしい。

「だから今から彼を倒しに行こうと思っていたんですよ。そういうわけなので……」

「私に任せてください!」

 ひなは、自分と男の横を通りすぎようとする優一の言葉を遮って言った。優一はその言葉に動きを止める。

「私なら治せます」

 優一はゆっくりと振り返った。彼女の瞳とその静かな声には、揺るぎない意志と自信が見えた。



「儀同さん。桜子さんの手、握ってあげててください」

 優一は深く頷くと、ベッドのそばに跪いて桜子の華奢な手を両手で包み込んだ。

 用意された椅子に座ったひなは大きく息を吸い込み、そして目を閉じてゆっくりと吐き出した。

 桜子の胸の上に両手を翳すと、突如その手が光り出した。手から発せられた輝きは次第に大きくなり、やがて桜子の身体全体を包み込んだ。

「これは……」

「静かに」

 思わず声を発した優一に、男は唇に人差し指を当てて制した。

 ひなは目を閉じたまま、じっと動かない。光は強まったり弱まったりを繰り返している。ひなが調節しているのだろうか。

 何度か休憩を挟みながら、“治療”は三時間に及んだ。ひなは集中を途切れさせることなく、無言で桜子を治療し続けた。優一はその間、手を握って祈り続けることしか出来なかった。

「ふう……何とか終わりました」

 額の汗を手の甲で拭うと、ひなは優一に微笑みかけた。

 目を閉じて祈っていた優一は顔を上げ、桜子の顔を見つめた。火傷の痕はまだ残っているが、黒く這うようにあった業火の毒傷は消えていた。

 苦しげに喘いでいた桜子の顔は安らかで落ち着いており、顔色も大分良くなっている。

 優一は大きく安堵の溜め息を吐き出すと、ひなに深く頭を下げた。

「ありがとう……、本当にありがとう……!」

「いえ!そんな……頭を上げてください。この前助けていただいたお礼です」

 ひなはえへへ、と微笑んだ。

「毒は取り除いたので、とりあえず命に別状はありません。あとはゆっくり休養を取って……、見たところ業火と烈火の複合技を受けたみたいなので、本当は烈火の火傷の方も治してあげられたらいいんですけど、業火の毒を消すのに思いのほか力を使いすぎてしまって……」

「十分だよ。僕なんて何も出来なかったんだから。彼を倒して毒を消そうと思っていたけれど、それだとやはり少し時間がかかってしまうから、桜子ちゃんを余計に苦しめてしまうところだった」

 自分は何も出来なかった。優一は悔しげに拳を握り締める。ひなと男は目を伏せて黙って聞いていた。

「君は紅君の技に詳しいようだけど……」

「とくに詳しいというわけではないんですけど……。私も食らったことがあるんです。業火を」

 ひなは困ったように苦笑した。男は何か言いかけたが、口を噤んだ。

「そうだったんだ……。嫌なことを思い出させて、ごめん」

「いえ、全然気にしないでください。今までは迅様に守っていただいてましたし」

「今までは……?」

 優一はそこに違和を覚え、訊き返した。ひなは目を逸らし、俯いた。

「何かあったんですか……?」

 男を振り返ると、彼も苦々しく顔をしかめて咳払いをした。

「迅が突然、『GENUINE BLACKは解散する』と言い出したんだ」

 優一は息を呑み、ひなを振り返った。

 俯いた顔はよく見えなかったが、前髪の間から、頬を流れる大粒の涙だけは見えた。







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