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神の番犬  作者: 沈丁花
神の番犬 第1章
5/23







「双海紅って最近よくテレビ出てるよね」

 心地良い風が吹く暖かな春も過ぎ、梅雨真っ只中のある日の夜。

 桜子はテレビを見ながら何気なく呟いた。

「んー?どの人?」

 優一は愛読書にしおりを挟んでパタンと閉じ、視線をテレビに移した。

 そこにはバラエティー番組にゲストとして出演している芸能人の姿があった。

 簡単な紹介VTRによると、某有名ファッション誌の専属モデルを経て、ドラマや映画の世界にも進出し、今や舞台やCMにも引っ張りだこの人気俳優らしい。もはやこんな紹介など必要ないと言わんばかりの短いVTRだったが、あまり芸能界に通じていない優一には十分役に立った。

「一応僕たちより年下なんだね。大人っぽく見えるけど」

「それあたしも思った!二十歳になったばかりらしいけどもう大人の雰囲気醸し出してるし、それでいてたまに見せる無邪気な笑顔が良いと思うな」

 桜子は評論家さながらに語り出した。

「桜子ちゃん、彼のファンだったっけ?」

「あ、ううん、別にそういうわけじゃないんだけど……」

なんか、優一君に似てるなって。――――桜子は胸の内で呟いた。

「けど、何?」

 首を傾げて顔を覗き込む優一の頬を、照れ隠しに「なんでもないの!」とつねった。

「あ、そういえばこの前歌手デビューしたんだっけ」

「へえ、モデルに俳優に歌手か。何でも出来るんだね、彼」

そう言いながら、優一は画面の奥の紅をじっと見た。

 燃えるような赤い瞳。暗い光を宿した紅蓮は美しいが、どこか不気味な感じがする。笑った時に細くなる、妖しさを秘めたその目もどうも引っかかる。

―――念のため、用心しておいた方がいいか。

「歌手もやるんだったらいつかGENNYともコラボするかも!」

「コラボ?」

「優一君知らないの?GENNYは色んな歌手や演奏家たちとコラボしてるんだよ。楽曲製作もそうだけど、ライブでもゲストに呼んだり呼ばれたりして共演してるの」

 流れるように出てくる桜子の解説に、優一は少し苦笑した。

 桜子は先日、HINAとJINと巡り会ったのをきっかけに、GENNYの熱烈なファンになったのだった。


―――GENUINE BLACK。通称GENNY。JINがリーダーを務める四人組音楽グループだ。ボーカルのHINA、ベースのYUKITO、ドラムのMIKAGE、そしてギターのJINは今大人気の四人組である。


「でもこの前テレビで共演してた時、迅さんと仲悪そうじゃなかった?」

 優一は以前見た音楽番組を思い出した。

 紅は数日前に発表したデビュー曲を披露していたが、同じくゲストにJINとHINA―――もとい迅とひなも登場していた。もともと知り合いだと言って紅は親しげにしていたが、迅は紅と目を合わせずに軽く相槌を打つ程度であった。  その噛み合わない二人の様子が面白かったのかスタジオは終始笑いに包まれていたが、迅と紅の間には他人に見えない、ただならぬ空気が漂っていた。

「んー、確かにそうかも。ひなちゃん、笑ってたけどちょっと緊張してたみたいだし」

 桜子は人差し指で唇を撫でながら言った。

 二人のこの鋭い洞察力は、〈狩る者〉とその〈袖の花〉として数えきれない程の修羅場をくぐり抜けてきた産物である。

「あの二人には何かありそうだね」

「お、“番犬”の鼻が何か嗅ぎ付けた?」

 桜子は好奇心に満ちた悪戯っぽい瞳で優一をちらりと見た。しかし優一はソファに沈み込むと、手を顔の前で振った。

「さすがに僕にも深いところまでは分からないよ。……それより、彼らにはなるべく関わらない方が良いと思う。とくに、双海紅には」

 優一は目を細めて画面の奥を見つめた。桜子は優一の横顔をじっと見つめていたが、やがてこくりと頷いた。

「優一君がそう言うなら、そうした方が良いね」

 桜子はそう言うと、愛しい恋人の肩に頭を預けた。

 その時、見ていたテレビ番組の賑やかな雰囲気が消え去り、神妙な面持ちのアナウンサーが映し出された。どうやら臨時ニュースが入ったらしい。

『番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします。東京都○○区で大規模な火災が発生しました。レスキュー隊が懸命に消火活動を行っていますが、炎の勢いは弱まる気配を見せていません―――』

 続けて映し出された中継の様子に、桜子は不安げに顏をしかめた。

「また放火魔……?一体どうなってるの?」

 この一週間で同じような事件がもうすでに三件起こっている。これで四件目だ。死傷者は十人を超えたが、犯人はいまだ捕まっていない。警察は連続放火事件ということで犯人は同一人物と見て捜査しているが、愉快犯の可能性も捨てきれないだろう。

「相当巧妙な手口なのかな。こう何件も立て続けに放火事件が起きれば、警察の目も厳しくなっているだろうに」

 優一は僅かに眉根を寄せた。

「ねえ、優一君。まさか……」

「桜子ちゃん、僕もそう思い始めていたところだよ」

 二人の胸には言わずとも分かる、一つの疑念があった。

 先日、異様な光景を目の当たりにしたばかりだった。

 ひなを追いかける炎。土砂降りの雨に打たれながらも消えることのないその火の玉は、やはり異様としか言いようのないものだった。

「あれを操っていた人間が今回の連続放火魔事件の犯人だろうね。まだ断定は出来ないけれど」

「だけど、心当たりはあるの?優一君」

 その言葉に優一は少し考えるような素振りを見せた。

「うーん、“番犬”の僕が推察するに、僕の知る人の中で一番怪しいと考えられるのは一人しかいないんだよなあ」

 腕を組んで唸る優一の姿に、桜子は怪訝な顏で首を傾げた。

「誰?あたしも知ってる人?」

「うん。ていうかさっき話してた人」

 その言葉に桜子は少し身を引いて驚いた顔をした。

「ま、まさか……迅さん!?確かに冷たそうな顔はしてるけど……」

 優一はガクッとうな垂れると、苦笑を浮かべた顔を横に振った。

「違う違う。迅さんは確かに“三鬼”の一人だし、“鴉”の異名もあるけど、炎の使い手ではなかったと思う。聞いた話によると、彼は闇を操るらしい」

「そういえばこの前ひなちゃんを迎えに来た時も、一瞬で闇に消えちゃったもんね!……ってことは怪しい人って、双海紅のこと!?」

 うそ!信じられない!と口元に手を当てながら桜子は半ば悲鳴のような声を上げた。

「僕も信じたくはないけれど、おそらく彼が“狐”だ」

 桜子は弾かれたように優一を振り返った。

「“狐”って……じゃあ彼も、“三鬼”の一人なの?確かに噂に聞いていた名前とは一致するけど、同姓同名ってこともあり得るんじゃ……」

「僕もそれは考えた。でもやっぱり『双海紅』なんて名前はそう簡単に一致するものじゃないと思う。たとえこの芸能人の『双海紅』の名前が偽名だったとしても、“狐”の『双海紅』と何らかの関係があると考えるのが道理だ。僕たちは心のどこかで気付かない振りをしていたんだ」

 桜子は何か言いたげだったが、諦めたように口を噤んだ。

「それに、いつか聞いたことがあった。“鴉”と“狐”の間には昔からの因縁があると」

「因縁?」

「詳しくは僕にも分からない。けれどそれもこの前の音楽番組の二人で繋がった」

「なるほどね……だけど双海紅は人気俳優で、マスコミにも付き纏われてるだろうし、怪しい行動を取ればすぐにバレちゃうんじゃない?それにどうしてわざわざ身動きの取りにくい芸能人に……」

 一生懸命考えても、桜子には全く分からなかった。優一を見ると、何か考え込んでいる。

「彼がどうやって事件を起こしているかはまだ詳しくは分からないけれど、彼が何故芸能界に入ったかというのは、二人のその因縁とやらと関係しているのかも知れないね」

「うん。けどこのままじゃゆっくり買い物も出来ないじゃない!何してくれちゃってんのよ、双海紅!」

 優一君と似てると思ったけど、前言撤回!ぜんっぜん似てない!

 唇を尖らせてふて腐れたような顔をする。子どものような無邪気な桜子を、優一は抱き寄せた。

「まだ彼だと決まったわけじゃないけどね。とにかく、桜子ちゃんは僕が絶対に守るから」

 優一の柔らかな笑顔に、桜子は機嫌を直したのか、「うん!」と頷いた。




「今日の予定は」

「九時半から番組の打ち合わせ、十時半からはずっとドラマの撮影よ。それより早く朝食を済ませてくれない?」

 高層マンションの最上階で、双海紅は大きなあくびをした。昨日の仕事の疲れがまだ取れていない。

「ずっと……って何時までだよ」

「終わるまでよ」

「はあ……なんでそんなハードスケジュールなんだよ」

「何言ってるの。あなたは人気俳優なんだからしょうがないでしょう。それに、あなたよりハードなスケジュールをこなしている芸能人なんてたくさんいるわよ」

 紅のマネージャー、吉原エリカはテーブルに朝食を並べながら呆れ気味に言った。

「俺はこんな仕事をするために芸能界に入ったわけじゃねーんだよ」

 乱暴に椅子を引き、その上で胡坐をかいた。柔らかい赤毛の髪には寝癖が付いている。

「あなた、マネージャーとしてのあたしの存在を否定するのね」

 エリカはキッと睨んだ。それを受け流すように紅は視線を逸らした。

「俺はあいつ……天津風迅に近付いて、苦しめ続けるためにこの仕事を選んだんだよ」

「迅に近付くなら確かにこの方法が一番手っ取り早いとは思ったけれど……やっぱり他の方法もあったと思うわ」

「うるせーな。お前は俺の言う通りに動いていれば良いんだよ」

 吐き捨てるようにそう言うと、紅はコーヒーを啜った。

「それより、この前のあれでどれくらい稼いだ?」

 カップを置き、伏せていた目をエリカに据えると、唇の端を吊り上げた。

「そうね……ざっと“650”といったところかしら」

 エリカはその長く細い指をテーブルの上で絡ませながら言った。

「背中、見せてみろ」

「そんなのいつでもいいでしょう。それより今は早く朝食を……」

「いいから見せろって言ってんだよ」

 低く唸るようにそう言うと、エリカは大きく溜め息を吐いて紅に背を向け、シャツのボタンを一つ一つ外し始めた。紅は黙ってそれを見つめる。

 きめ細かい白い肌が、部屋を満たす朝日に照らされて輝いていた。

「おい、髪をどけろ」

 言われるがまま、エリカはその長いダークレッドの髪を胸の前に垂らすと、白い背中が紅の前に晒された。

「……まだ足りねえか」

 紅は独り言のように呟いた。

 女の背中を這うように渦巻くアザ。一見ただのアザに見えるが、それは確かに、燃え盛る炎が背中に宿ったような存在感を放っていた。

 背中のアザ。それは〈狩る者〉が〈狩った〉“時間”をその体内に留めておく〈袖の花〉である証。“時間”が溜まれば溜まるほど、アザは次第に広がっていき、女の背を侵食していく。

 吉原エリカは間違いなくその〈袖の花〉である。そしてパートナーは双海紅。

二人は人気俳優とそのマネージャーという隠れ蓑を纏いながら、着々と〈狩り〉をしていた。それを知る者は他に誰もいない。――――天津風迅と早乙女四兄妹以外は。

 左右の肩甲骨のあたりから始まり、そこから腰のくびれの上あたりまで広がった、炎を思わせるアザを見つめながら、紅は満足げに顔を歪ませた。

「もういいでしょう」

 エリカは溜め息混じりに言うと、そのまま無造作にシャツを羽織ってボタンを留めた。

「んだよ、もうちょっとくらいいいじゃねーか。今までの〈狩り〉の功績だぜ?」

「その功績とやら、あなたには見えてもあたしには全然見えないのよ。いいから早くご飯食べなさいな」

 機嫌を損ねてしまったらしい。エリカは家事も仕事も何でもこなす出来た女だが、一度怒ると機嫌を直すまで時間がかかるのだ。

「はいはい。悪かったよ」

 紅は軽く肩を竦めると、トーストにジャムを塗って黙々と食べ始めた。

 エリカの機嫌を損ねた時は黙って言うことを聞いているのが一番良い。長年の経験から紅は学んでいた。

「紅、今日は放火事件を起こしている暇なんて無いわよ。朝から晩まで予定が入っているんだから」

「わーってるよ。敏腕マネージャー」

 全く悪びれない紅にエリカは眉根を寄せたが、何も言わなかった。

「そろそろ“番犬”が嗅ぎ付けてるかもな……さすがに立て続けに事件を起こし過ぎたか」

 そう言いながらも、紅はククッと喉を鳴らして愉快そうに笑った。

「そうよ、さすがに目立ち過ぎだわ。もう少し控えて」

 皿を洗いながら、不機嫌そうな声を投げかけた。

「けどこれでもしかしたら“番犬”に会えるかもしれねーんだぜ?ゾクゾクするじゃんか」

「“番犬”……そんなに会いたいのね」

「ああ。いつか会って戦ってみたい。そして俺が奪ってやるんだ。奴が今まで〈狩った〉“時間”をな」

 エリカはニヤニヤと笑う紅をチラリと一瞥すると、溜め息を吐いた。そして目を洗い物に移すと、止まっていた手を再び動かした。

「男ってみんなこうなのかしら……?」

紅に聞こえないようにぽつりと零した。



 「おはようございまーす」

 スタッフに愛想よく挨拶と会釈をすると、紅は撮影現場に入った。打ち合わせはさっき終えたので、あとはひたすらドラマの撮影だ。

「今日はこのシーンと、クライマックスの場面ね」

「分かりました」

 監督と演技のことについての相談を始めた。エリカはそれを少し離れたところで見つめる。

 今までドラマには出演していたが、主演はこれが初めてだった。

 気合いの入った引き締まった表情は現場の雰囲気にも影響しており、紅の放つオーラで現場は適度の緊張感に満ちていた。

 歌手の夢を追いかけて上京した男。故郷に恋人を残し、東京で一流のミュージシャンになることを目標に日々励み、目の前に立ちふさがる壁にぶつかりながらそれでも前に進んでいく青年。今回紅が演じるのはそういう役だった。

「じゃ、よーい……はい!」

 監督の声と同時に紅の瞳の色が変わる。

『千尋……お前、どうして……!』

 青年の視線は雑踏の中で一人の女性だけに注がれていた。

『決まってるじゃない!あんたを……追いかけてきたのよ』

 千尋と呼ばれた女性は青年―――桐彦を涙交じりの声で詰るように言った。桐彦は驚きに見開いた目を伏せると、「ごめん」と小さく呟いた。

『ごめんじゃないわよ……。いきなり出てくんだもん、心配したんだから……!』

 勝気な瞳に隠れた弱さが抑えられず、晒け出される。通り過ぎる人たちの目がこちらに向いているとしても、今はそんなことはどうでもよかった。

千尋は桐彦に会えた嬉しさに、今まで堪えていた涙を零した。青年は反射的に彼女を引き寄せ、きつく抱き締めた。

『会いたかった……!』


「はい、カット!」

 掛けられた監督のカットに、張り詰めていた空気が少し緩んでほっとしたような雰囲気が漂った。ここは昨日やって上手くいかなかったシーンだったので尚更である。

 早速カメラをチェックした監督も満足げに顎の髭を撫でると、「オッケー!」と親指を立ててみせた。

 これには演者もスタッフも安堵の溜め息を吐いた。しかしその中で紅だけは、引き締めた顔を崩すことなく、凛としてそこにいた。そんな紅に皆、次のシーンのために気合いを入れ直した。



 「休憩入りまーす!」

 撮影を開始して九時間。途中何度か休憩を挟んではいるが、さすがの紅も集中力が限界を超えていた。

 そろそろ休みたい。そんな時にかかったスタッフの一言に内心ほっと溜め息を吐いた。

「お疲れ様、差し入れに肉まんが入ったみたいよ」

エリカは紅に労いの言葉をかけて、一緒に楽屋まで歩いた。

「そっか。さすがにお腹空いたよ」

 紅は肩を竦めてみせた。もちろん、作った苦笑をその整った顏に浮かべながら。

「そうでしょうね。ちゃんと食べて次も頑張りなさい」

「はーい」

 傍から見れば、仲の良いマネージャーと芸能人に見えるだろう。誰も彼らが、現在世間を賑わせている連続放火魔事件の犯人だとは夢にも思わない。(正確に言えば火事を起こしているのは紅だけなのだが)

 「いただきます!」と手を合わせた紅は、差し入れの肉まんをもぐもぐと黙って食べ始めた。

 エリカと二人きりの時は「いただきます」などと礼儀正しい言葉は口にしないし、行儀も悪かったりするので、人の前に立つ時の差はやはり甚だしい。

 家での紅を見たら、今の紅の好青年イメージが音を立てて崩れ落ちていくのは不可避だろう。

「美味しそうに食べるわね」

 微笑みを浮かべて紅をぼんやり見つめた。

 態度は偽りだったが、空腹なのは本当だったのだろう。紅はパクパクと食べて進め、すぐにぺろりと平らげてしまった。まだ物足りないような顔をしている。

 このような、ごくために見せる少年のような素の紅をエリカは愛しいと思っていた。もちろん二人きりの時の野心に満ちた顔も愛しいが、彼女はその紅の瞳に射竦められるたびに、どこか寂しい、不安な気持ちになるのだった。

「……ちょっと出てくる」

 低く囁くように言われた言葉に、エリカはハッとして声を潜めた。

「何言ってるの……!今日はそんな暇ないって……」

「ちょっと外の空気吸ってくるだけだって」

 エリカの肩を押すと、ひらひらと手を振って楽屋を出て行った。

「ちょ……待ちなさいってば……!」

 苦々しく顔をしかめると、出て行った背中を追いかけてドアノブに手を掛けた。




 帽子と、念のためポケットに入れておいたマスクを装着し、紅は街をブラブラと歩き出した。

 サングラスは余計目立つのでしない。彼の変装は意外とバレないのだ。

 それに今は日が長くなっているとは言え七時半を過ぎている。夜の暗さでさらに隠せる。

 何気なく歩いていると、人気の少ない道に出た。

 結構遠くまで来てしまったかとまわりを見回してみると、ひっそりとした土地に建っている古い木造の建物が目に入った。見たところ公民館のようだ。

 近付いて様子を窺ってみると、建物の中は見えないが何やら人の声がする。耳を澄まして聞いてみると、何人かの老人が楽しそうに話をするのが聞こえた。何か会を開いているらしい。

 紅はマスクの下でニヤリと笑った。

 人の気配がないことを五感を研ぎ澄まして確認すると、右手をグッと握り、そしてその手を開いた。すると、命を宿したように彼の手の上に燃え盛る炎が現れた。

 紅は炎が乗った手のひらを顔の前に持ってくると、すう、と息を吸った。そして炎に息を吹きかけようとしたまさにその時。


「やめた方がいい」


 背後から何者かの声がした。

 紅は身体を強張らせてゆっくりと振り返る。

―――こいつ、どこから現れやがった……!

「いやあ、すみません。迷ってしまって、ちょっとウロウロしていたんです。不審人物に見えちゃいましたかね」

 マスクは着けたまま、目を細めて苦笑すると、困ったように頭を掻いた。

「そうだったんですか。でも最近ここらへんは物騒ですからね……気を付けた方がいいですよ、人気俳優が怪我でもしちゃ大変ですから」

 青年は微かに浮かべた笑みを崩さずにそう言った。

 紅は内心驚いたが、それは表に出さなかった。

「あはは、バレてましたか……」

「そりゃあ今大人気の俳優さんですから。だけど……“狐”がこんなところにいちゃいけないなあ。ここは僕のテリトリーだから」

 青年の笑みを含んだその瞳は、さっきとは全く違う冷ややかなものに変わっていた。射竦めるような、見透かすような金色。紅は一瞬その目に釘付けになった。

「アンタ……何者だ」

 マスクを外し、柔らかい目元を崩して鋭く引き絞ると、その紅い瞳を金色の瞳にぶつけた。

「僕は儀同優一。君は双海紅君だね」

 その名を聞いた瞬間、紅はハッとした。それと同時に、全身を流れる血が騒ぎ出すのを感じた。

 駆け巡る血潮と脈打つ鼓動。紅は自身を襲うゾクゾクとした感触に動けなくなった。

「近頃の放火魔事件は君の仕業だね」

 優一は感情を映さない瞳で、俯いている紅を見据えた。

「僕も〈狩る者〉だったから、君の行動を咎める気はないよ。君は君の能力を存分に活かして〈狩って〉いるだけなのだから。けれど、君のやり方はいささか目立ちすぎる。さすがにあんなに大規模な火事まで起こさなくてもいいんじゃないかな」

 諭すように静かな声でそう言うと、優一は紅の反応を待った。依然として黙ったままの紅を怪訝な顔で覗き込むと、その唇は歪んでいた。酷く楽しそうに。

「……うるせーんだよ。〈狩り〉をやめてただの犬になりやがったアンタにどうこう言われる筋合いはねーよ」

 ククッと楽しそうに喉を鳴らして笑うと、その紅い舌が薄い唇を這った。

「確かにそうだね。だけど君なんかに『ただの犬』呼ばわりして欲しくないなあ。僕は案外“番犬”の名を気に入っているんだから」

「俺はアンタの『昔の名』の方が好きだったけどな。今の名の方が気に入ってるだと?笑わせんな。“永遠”を掴み損ねた負け犬のくせに」

 嘲るようにそう言うと、紅は高く笑った。優一はその姿を黙って見ていた。

 日が落ちて互いの顔の輪郭もはっきりしなくなってきた暗さの中で、金色の瞳はよく映えた。紅の燃えるような瞳もそれは同じだった。

「おい、俺と戦え。アンタと一度戦ってみたかったんだ」

「……分かった。けど場所を変えよう」

 紅の挑発に乗ったわけではない。しかしこの誘いに乗らなければ紅は、罪のない人たちが楽しく会を開いているあの公民館に火をつけるだろう。

―――おそらく通常の火とは違う、彼独特の殺意を込めた火を。

「ああ、いいぜ。アンタと戦えれば俺は何でも」


―――まさか、こんなに早くアンタに会えるとは思ってなかったぜ、儀同優一。


 “最狂”と恐れられる紅だったが、同じ“三鬼”の中でも段違いの強さを誇る優一を密かに畏怖し、尊敬していた。

 どれだけ強いのだろう。どんな男なのだろう。早く戦ってみたい。

 少年だった紅はいまだ会ったことのない“最強”の男と戦う日を待ち望んでいた。

 しかし風に乗って流れてきた噂に耳を傾けると、なんとその男は〈狩る〉のをやめたというではないか。もう二度と、〈狩り〉はしない。戦わない。

 紅は失望した。〈狩る者〉として、男として失望した。

 しかも、聞けば儀同優一は自分と三つしか歳の違わない少年らしい。そんな男に自分は憧れていたのか。紅は自分にも失望した。

 その日から紅は、“番犬”と呼ばれ始めた優一を倒して、自分が“最強”となることを胸に秘めてきたのであった。






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