三
「私は早乙女ひなといいます。ご存知の通り、〈袖の花〉です」
HINA――――早乙女ひなは静かに言った。だがそこから口を濁して先を言おうとしない。
優一と桜子に助けられてから一日半、まだ十分には身体は治っていないが、普通に起きていられるくらいには回復した。
「やっぱり言いたくない……?」
桜子は心配そうに顔を窺った。ひなは僅かに目を逸らし、毛布に視線を落とした。
「そういうわけでは……ないんですけど……」
「裏切るような気がして、気が進まないのかな」
窓のそばに立って外を見ていた優一が振り向いて言った。
「君のパートナーはGENUINE BLACKのJINだね?」
ひなはハッとして顔を上げ、優一を見た。
「昨夜街に出てみたら、誰か人を探しているような男を見かけた。黒いロングコートを着た、鼻筋の通った美青年だったよ」
「あー!もしかして昨日あたしを置いて出掛けたのってそれだったの!?」
ごめんごめん、と拝むように謝る優一だったが、桜子はぷいっ、と顔を逸らした。優一は思わず苦笑したが、ひなに向き直ると、その顔は引き締まったものとなっていた。
「君と彼のことを聞かせてもらえるかな」
優一のまっすぐな視線に、ひなは躊躇ったようだったが、覚悟を決めたように頷いた。
「私の主は儀同さんが思っている通り、GENNYのJINです。あの方の本名は天津風迅といって……名家である天津風家の長男です。事情があって今はミュージシャンとして活動しています」
「ひなちゃん、熱にうなされていた時、『迅様、迅様』って譫言を言っていたけど、その迅さんとはどういう関係なの?」
「私、そんなことを……。
早乙女家は代々、天津風家にお仕えすることになっていて、私や私の兄たちも幼い頃からお屋敷に行っていました。迅様は天津風家の嫡男なので、『様』を付けて呼ぶ癖が付いているんです。さすがにメディアに出る時は気を付けてはいるんですけど……やっぱり素に戻ると昔からのお名前で呼んでしまって……」
「なるほどね……」
桜子は納得して頷いた。今度は優一が訊ねた。
「もしかして、彼は“鴉”じゃないのかな」
優一の指摘に、ひなは無言で頷いた。
「やっぱり。天津風迅……、彼が“鴉”か」
“鴉”―――。“三鬼”の一人の通称である。闇に紛れて獲物を〈狩る〉姿は、三人の中でも“最凶”と恐れられている。
まさか彼が“鴉”だったとは。
同じ“三鬼”の一人でも、会ったことは一度もない。
いつも黒い服を着て、頭の切れる男としか聞いたことがなかった。
ただ優一は、テレビに映る迅を見るといつも、“鴉”と呼ばれる男は彼のような人間なのだろうと常々考えていた。それが本当に的中するとはさすがに思ってもみなかったが。
「そういえばどうしてミュージシャンなんてやってるの?名家の長男だったら、その家を継ぐものじゃないの?」
「それは……言えません」
私の口からは。そう小さく付け足して俯いた。桜子は優一を見たが、優一は肩を竦めた。
「じゃあそれはいいとして。あの時、何から追われていたの?」
「そ、それは……」
「少なくとも、能力型の人間だよね」
「……!」
ひなは明らかに動揺していた。
「僕たちはね、一昨日の夜、君が火の玉に追われていたのを見かけて君のあとを追ったんだよ。あの火の玉は大雨でも消えることのない異質なものだった。恐らく能力型の人間が操っていたんだろう。誰が操っていたのかまでは分からないけど」
「ひなちゃんはそれが誰かは知ってるんだよね?」
「はい……だけどそれも……」
きゅっと固く結ばれた小さな唇に、桜子はひなの強い意志を感じた。
「そっか。……ごめんね、嫌なこと聞いて」
「いえ……こちらこそ助けていただいたのに何も答えられなくて……すみません」
「いいよいいよ。それより今は体調を治すことが一番。早く良くなって、迅さんのもとに帰らなくちゃね」
桜子の優しい微笑みに、こくんと頷いてひなも控えめに笑った。
一人きりになったひなはそろりとベッドを抜け、ベランダに出た。
すっかり春になった今でも、夕方になると少し肌寒い。沈みかけた夕日と、紫が混じった空をぼんやりと眺めた。
ひなは深呼吸をしてみた。冷たい新鮮な空気が病み上がりの身体に染み渡っていく心地がする。何度かそれを繰り返した後、大きく息を吸った。
そして囁くように歌い始めた。
あなたの瞳には何が映っているの その暗い瞳
わたしの瞳には何も映らないわ あなたの闇が
わたしを包み込むから
透き通っていて芯のある美しい歌声。ひんやりとした空気に溶け込むような優しい歌声。
ひなは短いフレーズだけ歌ってやめた。
髪を弄ぶ風に目を細めながら、ただ沈んでいく夕日を見つめた。
「見つからない!」
「落ち着け、ツカサ」
迅、ツカサ、ミカゲの三人は、迅の家に集まっていた。
ひなを捜しに出ていたツカサとミカゲが戻って来ている。今戻っていないのはユキトだけだ。
「俺の大事な妹が行方不明なんだ!これで落ち着いていられるか!」
「ツカサ兄、ひなは俺とユキト兄の妹でもあるんだけど……」
「そんなこと分かってる!だが俺はひなが赤ん坊の頃から可愛がってきた。あいつへの愛は誰よりも深いんだ」
四兄妹の末の妹、ひなへの並々ならぬ愛を語りながら、長男ツカサは部屋を忙しなくうろうろしている。
普段は何でもそつなくこなす、面倒見の良い洒落者の彼が、今は別人のように取り乱している。
三男ミカゲはそれを半ば呆れながら見ていた。
誰か一人がやたらそわそわしていると、他の者はむしろ落ち着いていられるということがよくある。早乙女四兄妹の場合は兄が前者で弟が後者であるらしい。
「でもとりあえず、スケジュールが空いてて良かったよな。撮影も収録も終わらせたばかりだったし」
ミカゲが肩を竦めて言った。
「ああ、これで何か予定が入っていたら、『HINA』の行方不明が一大ニュースになっていただろうな。とりあえず今回の事件は俺たちだけで何とか出来そうだ。さすがにこれ以上安否不明の状態が続けば隠し切れないだろうが……」
ツカサはそう言いながら、絶えず貧乏ゆすりをしていた。落ち着かない様子で視線も揺れ動いている。
次男ユキトの連絡を今か今かと一心に待つ三人の部屋に、時計の秒針だけがやたら鳴り響く。
「と、とりあえずテレビでも見ますか」
ミカゲが努めて明るく話しながら、リモコンのスイッチを押した。
『十七歳の少女がダンプカーに撥ねられる事故が……』
ブチッ。ツカサは弟からリモコンを奪い取って即座にテレビを消した。
「あっ、ちょ、もしかしたら……」
「縁起でもないことを言うな!」
兄弟が言い争いをし始めた時、迅の携帯が鳴った。三人が瞬時に制止する。
見ると、ディスプレイには「早乙女ユキト」と表示されている。
「……出るぞ」
迅の言葉に二人はごくりと唾を呑みこむと、ゆっくりと頷いた。
「ユキト」
『……歌声を感知。場所は特定済み……』
耳をそばだてて聞いていたツカサとミカゲの顔がパアッと明るくなった。
「ユキト、よくやった!さすが俺の弟だ!」
ツカサは迅から携帯をひったくると、大きめな声で早口に喋り始めた。電話の向こうのユキトはそれを黙って聞いているのだろう。
ミカゲも何か言いたかったが、兄はよほど興奮しているのか携帯を放そうとしないようだ。
「ユキト。場所は?……分かった。すぐ向かう。お前は戻って来い。あとでなでなでしてやるからな!」
そう言ってツカサは電話を切った。最後の一言はいらないだろうと二人は思いつつ、とにかくひなの安否と居場所が分かって彼らはようやく安堵の溜め息を吐いた。
そしてツカサはソファにどっかと座った。
「ツカサ兄、ここは迅様の家なんだから……」
「構わない。ツカサにはずっと捜しまわってもらったんだ。ミカゲやユキトにもな。ひなは俺が迎えに行ってくるから、お前たちは休んでいろ」
「だが迅、お前もろくに休んでいなかっただろう」
「問題ない」
それだけ言うと、迅はベランダに出た。日はすっかり沈み、あたりはもう真っ暗だ。
手すりに飛び乗り、そのまま闇に飛び込むと、迅は闇の中に滑り込むように消えていった。
「来たみたいだね」
優一と桜子は、もうベッドから起きて普通に食事が出来るようになったひなと一緒に夕食を食べていた。
「ひなちゃん、ベランダに出てごらん」
言われるがままリビングのカーテンを開けると、そこにはずっと会いたかった人の姿があった。
「迅様!」
窓ガラスを開けてベランダに出ると、ひなは思わず迅の首元に抱きついた。
迅はその姿に小さく微笑むと、ひなの頭を優しく撫でた。そしてリビングからこちらを見ている男にちらりと目を向ける。
「はじめまして。僕は儀同優一と言います。迎えに来てくれて良かったです。この前、渋谷で会いましたよね?」
「やはり貴様だったか……なるほど、道理で見つからないはずだ。“番犬”の住処に隠されていてはな」
迅は切れ長の目をさらに鋭くして優一を見据えた。
「違うんです、迅様。儀同さんと桜子さんは私を助けてくれたんです。熱を出して倒れた私の看病もしてくれたんです」
ひなは二人を庇うように言った。
「……そうか。……この子を救ってくれたことには心から礼を言う。だが金輪際、この子には関わらないでもらいたい」
「心配しなくても大丈夫ですよ。うちの“番犬”はもう〈狩り〉をしませんから」
桜子が肩を竦めておどけたように言うと、優一は苦笑した。
「お二人とも、今回は大変お世話になりました。本当にありがとうございました!」
「うん、元気でね。ツアーも頑張って」
「いつでも遊びに来てね!今度はいっぱいお話しようね!」
ひなが「はい!」と嬉しそうに返事をすると、迅は静かに頭を下げた。
そしてひなを抱き寄せ、着ていたロングコートで彼女の華奢な身体を包み込むと、そのまま音もなく闇夜に消えた。
「見事だね。“暗殺型”にはこれ以上ない能力だ」
「優一君。あの部屋のベランダだけ結界解除したでしょ」
「あ、やっぱり分かった?」
「ひなちゃんの歌を届けてあげるためでしょ。じゃなきゃこの場所が他の〈狩る者〉に分かるはずないもの。居場所が感知されないようにあたしが厳重に結界を張ってるんだから!」
エヘンと得意げな様子で笑う桜子に、優一は「参りました」と首を垂れた。
「あ!サインもらうの忘れた!」
ご機嫌な笑顔が一転、悔しげな表情に優一は苦笑した。
「せっかく芸能人に会えたのにー!『HINA』と『JIN』なんて滅多に会えるもんじゃないよお」
「今度会ったら二枚でも三枚でも貰えると思うよ」
「じゃあ今度一緒にGENNYのライブ行ってくれる?」
ずい、と迫る桜子に優一は「喜んで」と額に口付けた。
「遅くなってすまなかったな」
「いえ……信じてましたから。迅様のことも、兄さんたちのことも」
「……身体はもう大丈夫なのか」
「え?」
「熱を出して倒れたと言っていただろう」
「あ、はい。もうすっかり良くなりました。……迅様。儀同さんに、迅様が“鴉”であること、言ってしまいました」
「問題ない。そんなものどうでもいい」
「あと、私たちが『JIN』と『HINA』であることも」
「それは見れば分かるだろう」
「そうですね。うふふ……ああ、でも紅さんのことは言わないでおきました」
「……そうか」
「でもいつか、話さなければならない時が来る気がします」
「……ひな、帰ったらあいつらに礼を言うんだぞ。寝ずにお前を捜しまわっていたんだ」
「はい。……迅様、心配かけてごめんなさい」
「……無事で良かった。本当に」
「あなた、何のために迅に電話したのよ」
紅のマネージャー――――吉原エリカは呆れ気味に訊いた。
「別に」
紅は一人掛けの真っ赤なソファに腰かけながら、ふて腐れた顔をしている。
「あなたのあの言葉――――『知っててもお前にだけは教えない』っていうのは、『自分はひなの居場所を知らない』、もしくは『こちら側にはいない』ってわざわざ教えてあげるようなものでしょう」
「あ? なんでそうなるんだよ」
「あなたの性格だったら、もしひなを捕まえたら真っ先に迅にそれを知らせるでしょう。ありとあらゆる嫌がらせをして彼を苦しめるのを趣味としているあなただったらね」
「随分と言ってくれるな。けど俺はそんな駆け引きなんてしてるつもりはねーよ。自分のことは自分が一番よく分かってる」
紅は行儀悪くテーブルに足を乗せると、エリカを横目で睨んだ。
「バカね。自分の姿は自分では見えないのよ。あなたのことはあなた自身よりもむしろ、あたしや迅の方が分かってるわ」
エリカは紅の足をぺしんと叩いて下ろさせると、フフンと鼻で笑った。紅は苦虫を噛み潰したような顔で赤ワインを一気に飲み干した。
「そういや、ひなを追わせるために飛ばせた炎……あれを消したのは恐らく“番犬”だ。名はたしか……儀同優一だったか」
「どうして彼だと分かるの」
「勘。……だが俺の炎を消せる奴はそうそういない。しかも、この手に伝わった感触から察するに、そいつは俺の炎を一瞬で消し去りやがった」
自分の左手を見つめながら、紅は忌々しげに言った。
「なるほどね。じゃあもしかしたらもうすぐその儀同君に会えるかもしれないわね」
「ああ。その時はこの俺が〈狩る〉さ。生ぬるい“番犬”に成り下がった犬をな」
唇の端を皮肉に吊り上げると、彼は左手をぐっと握った。そしてその手を開くとそこから火の玉があらわれ、紅の手の上でゆらゆら揺れた。
手のひらの上で燃え盛る炎を、紅は満足げに見つめた。