一
儀同優一は、小さなペットショップで働く青年である。物腰は柔らかく、いつもニコニコと笑っており、その親しみやすさから多くの客に人気がある。
いわゆる典型的な「優しいお兄さん」タイプだ。彼が犬や猫や他の動物たちと無邪気に戯れている姿は、「優しいお兄さん」以外の何物でもない上に、頭に「森の」と新しい形容詞が付いても何ら不思議ではない。
「優一君、仕事中だよ?」
そんな彼を、一種の不安を抱えながら見守る女性がいた。彼と同じ職場で働く真城桜子である。
「ああ、ごめんごめん」
優一は困ったように頭を掻いた。自然と集まってくる女性客を何とかあしらいながら、止まっていた手を再び動かす。
「まったくもう……お人好しなんだから」
ぽつりと呟いた桜子の言葉は優一にも女性客にも届いていない。……はずだが、女性客の方からやたら視線を感じる。桜子は痛い視線を背中で受け止めながら、微かな優越感に浸っていた。
優一と桜子は幼馴染で、相思相愛の仲である。桜子の優越感は優一の恋人であることに由来していた。が、それが微かであるのは、優一の人気が確かなもので、恋人である自分の立場もいつ崩れるか分からないという危機感ゆえである。
「でもでも、あたしと優一君の間には誰にも邪魔出来ない深―い絆があるんだから……!」
と、女性客が優一に纏わりつく度に自分に言い聞かせて自制するのだが、当の優一本人は桜子の苦労など露も知らない。ただ桜子が自分に見せてくれる笑顔を幸福の象徴として受け入れるだけである。
「ん?桜子ちゃん、何か言った?」
「あ、ううん!なんでもないの!」
首を傾げる優一に曖昧に微笑みながら、心の中で溜め息を吐いた。
心底優しいのは彼の長所だが、鈍感な恋人を持つと苦労する。
なんだかんだで幸せなそんなある日、不幸の色を含んだ風が彼らのもとへ吹き込んできた。
「白血病……ですか」
ある常連客の姪が余命三ヶ月と診断されたらしい。話を聞くと、その姪というのはまだ五歳の誕生日を迎えたばかりなのだと言う。
二人は医学には通じていないが、白血病はよく耳にする病名である。
その不穏な名にいささか不安を覚えた。しかも余命が三ヶ月ときている。五歳の少女に余命三ヶ月とは相当嘆かわしい話ではないか。
その同情せずにはいられない話に、優一と桜子は顏を見合わせて頷いた。
「ご迷惑でなければその話、もう少し詳しく聞かせていただけませんか」
優一は気遣うように訊ねた。
思いがけない申し出に、常連客の女性は俯いた顔を上げた。涙を溜めた双眸が優一と桜子の真っ直ぐな瞳を捉えると、彼女は目を伏せて悲しげな顔をした。
しかし、やはり拭い去ることの出来ないショックと悲しみをどこかで吐き出したいと思っていたのだろう。女性はゆっくりと頷いた。
その女の子は「鏡子」というらしい。鏡に映った自分のように、嘘偽りのない純粋な子に育って欲しいという両親の想いが込められた名前だ。
鏡子は両親の大きな愛の中ですくすくと育っていったが、ある時彼女の身体に異変が現れた。
ある朝母親が、なかなか起きてこない鏡子の様子を見てみると、鏡子の顔が赤かった。熱を計ってみると三十八度もあり、頭痛を訴えていた。他の症状も風邪と一致していたため、両親は市販の風邪薬を飲ませて様子を見ることにした。しかし病状は一向に良くならなかった。
不安に思った両親はそこで医者に診てもらうことにした。少し重い風邪にでもかかってしまったのだろうと考えていた両親は、カルテを見つめる医者の顔が険しいのに気が付いた。
重い声で「精密検査をしてみましょう」と言われた時には、今まで感じたことのない凶悪な不安を含んだ血液が全身を駆け巡った。
数日後、悪い予感は的中し、鏡子は急性白血病と診断されたのだった。
「かわいそうに……」
口元に手を当てながら、桜子は思わずそう零した。
女性は、終始声に涙を滲ませながらも何とか話し終えた。それから、しぼり出すような長い息を吐き出した。溜め息が震えている。
「純粋で素直で、誰からも愛される子なんです。どうしてよりによってあの子が……」
最後まで言い終えることも出来ず、震える口元にハンカチをあてた。
優一は話が終わってからも、じっと目を閉じたままだった。何かを考え込んでいるような、静かな空間がそこにあった。
「優一君」
桜子がその名を呼ぶと、男はゆっくりと目を開けた。
「良かったら鏡子ちゃんに会わせていただけませんか」
店の定休日である火曜日、優一と桜子は、渡されたメモを頼りに、教えられた病院へ向かった。バスに揺られること二十分、二人は病院に着いた。
自動ドアを通ると、病院独特の匂いが二人を迎えた。優一はこの独特の匂いに、まるで外界から隔離された別世界だな、などとぼんやり考えた。
病室の前に掲げられたネームプレートを見ながら、メモの「三〇一号室」を探していると、右側の壁に「三〇一号室 有間鏡子様」の文字を見つけた。
ふと横の桜子を見ると、穏やかながらも真剣なその瞳を、ドアの向こう側へ運んでいる。優一は何も言わず、軽く深呼吸をした。
ノックをすると、中から「どうぞ」という静かな声が返ってきた。ドアの取っ手を握って横に滑らせると、壁を大きく切り取った窓と白いベッド、一人の女性と一人の少女が目に映った。
「こんにちは」
二人が何と言おうか迷っていると、女性が口を開いた。先程の静かな声と同じそれである。おそらく鏡子の母親だろう。
優一と桜子は「こんにちは」と返すと、軽く会釈をした。
「妹から聞いています。わざわざ来てくださってありがとうございます」
そう言うと、母親は椅子から立ち上がって深く頭を下げた。
「あ、いえ!むしろ見ず知らずの僕たちがお邪魔してしまって……」
「この子には、色んな人に会ったり、色んな話を聞いたり、色んな物に触れてほしいんです」
せめて生きている間に多くのことを経験してほしいという親心だろう。口には出さないが、言葉の端々から絶望と痛切な想いが伝わってくる。
「そうですか……それなら、来て良かったです」
桜子はそう言うと、ベッドの傍らに置いてある椅子に座った。
「鏡子ちゃん、はじめまして。お姉ちゃんはね、桜子っていいます」
「さくらこ?」
鏡子は丸い目をぱちぱちと瞬かせると、「さくらこおねーちゃん!」と微笑んだ。
次に桜子が優一を見ながら「こっちのお兄ちゃんは、優一君」と言うと、「ゆーいちくん!」と優一に笑いかけた。
「僕のことは『おにーちゃん』って呼んでくれないの?」とそばにあった椅子に腰かけながら言うと、さっきより嬉しそうに、また「ゆーいちくん!」と笑った。
「ゆーいちおにーちゃん」より「ゆーいちくん」の方が気に入ったらしい。母親も笑っている。
来て良かった。
桜子と楽しそうに話し、無邪気に笑っている少女を見て、優一は思った。
話題は、好きな食べ物や好きな動物など、他愛のないものだ。だがだからこそ、この幸せな時間が愛おしいのだ。
頃合いを見計らって、優一は腰を上げた。そして「今日はこの辺にしておこう」と、桜子に目で伝える。
「また来てもいいですか?」
桜子が母親と鏡子とを交互に見ながらそう訊ねた。
「ほんと?また来てくれるの?」
ねえ、いいでしょ、と鏡子が母親にねだると、母親も「もちろんよ。本当にありがとう」と伏せがちだった赤い目元を二人の前に晒した。
鏡子に手を振り、母親に会釈をして静かにドアを閉めた。
清潔に保たれた廊下を歩きながら、二人はそれぞれ色んなことを考えていた。
病院の玄関を出ると、桜子が足を止めた。数歩歩いて、優一の足も止まった。
「どう思う?」
桜子は、前を見つめたままの優一の背中に声をかけた。
「桜子ちゃんはどう思った?」
優一は振り返らずに訊き返した。
「あたしは良いと思う」
ふわりと吹いた心地良い春先の風が、二人の間をすり抜けていった。
「僕も」
優一は振り向いて笑った。
「だけど、もう少し見極めたい」
「うん」
桜子はトン、と軽く地面を蹴ると、ぴょんと優一の隣へ跳ねて、「帰ろ」と彼の手を取った。
それ以来、二人は火曜日になると、鏡子の病室に顔を出していた。鏡子の体調もあるのでそれ程長くはいられないが、三人にとっては十分だった。
「そうだ!今日はね、鏡子ちゃんにお土産を持ってきたんだよ!」
「おみやげ?」
桜子の言葉に、鏡子は顏を輝かせた。
じゃーん!と満を持して桜子が出して見せたのは、犬と猫のぬいぐるみである。
「ワンちゃんとニャンニャンだ!」
鏡子は手を伸ばしてそれらを受け取ると、すりすりと頬ずりをした。それは誰が見ても微笑ましい幸福な画だった。
「本当はここに本物のワンちゃんとニャンニャンを連れて来れれば良かったんだけど、病院は動物を連れて来ちゃダメでしょ?だから優一君とお姉ちゃんで、ぬいぐるみを買って来たの」
「ありがとう!わーい!」
鏡子は本当に嬉しそうだ。傍らの母親も目を細めて「良かったわね」と笑っている。
優一と桜子がペットショップで働いているという話をすると、鏡子はとても行きたがった。自分は犬も猫もハムスターもみんな大好きなのだと。
しかし今の状態では鏡子は病院から出ることは出来ない。過酷な抗がん剤治療や手術を乗り越え、病状が良くならなければ鏡子は好きなところへ行くことも出来ないのだ。
そこで二人は、せめて病室に動物を置いてあげようということになり、近くのデパートでふわふわした柔らかいタオル生地のぬいぐるみを二つ購入したのだった。
「鏡子、ワンちゃんとニャンニャンにお名前付けてあげたら?」
母親が思い出したように言うと、「あっ、んーとね、じゃあ……ゆーいちくんとさくらこちゃん!」と鏡子は言った。
「あたしと優一君?」
桜子は少し顔を赤らめて訊いた。
「うん。ゆーいちくんは、ひなたぼっこしてるワンちゃんみたいだなあって思ってたし、さくらこおねーちゃんは、ワンちゃんにかまってほしいニャンニャンみたいだなあって思ってたの」
鏡子はえへへ、と舌を出した。
優一は照れくさそうに頭を掻いていたが、桜子はというとさらに赤くなって俯いてしまった。
「さくらこおねーちゃん、どうしたの?」
鏡子が桜子の顔を覗き込んだ。
「確かに桜子ちゃんは僕のことだいす……」
「優一君!そろそろ帰るよっ!」
優一の言葉をぶった切ると、彼のその緩んだ頬をつねった。イテテ、と頬を擦る顏も心なしか嬉しそうだ。
「えー、もう帰っちゃうの……?」
鏡子は寂しそうに呟いた。
同じ年齢の子どもならばここで、いやだいやだ、帰らないで、と駄々をこねるところだが、鏡子は賢い子だった。そんなことはしない。せいぜい遠慮がちに引き止めるくらいである。
「うん……また来るからね」
名残惜しそうな彼女の瞳に、毎回こうして別れを告げるのが心苦しい。
二人は鏡子に手を振ると、ゆっくりとドアを滑らせた。
「具合の方はどうなんですか」
病室に通い始めて三ヶ月が経ったある日、優一は屋上に足を運んだ。そこには、視界を覆う真っ白なシーツの海と、一人の背中があった。
母親は優一の声にハッとすると、後ろを振り返った。やはり目元が赤い。
「儀同さん……」
「あまり良くないんでしょう。見ていれば分かります」
もともと華奢な身体ではあったが、優一と桜子が初めて鏡子に会った時よりも明らかに痩せた。三ヶ月前にはまだ健やかにそこにあった髪も、今ではすっかり抜け落ちてしまった。
「あの子はよく頑張ってます。まだ五歳になったばかりの小さな身体で、大人でもつらい抗がん剤治療にも耐えて……だから余計に……自分の無力さが悔しくてたまらないんです」
きつく握られたその拳が小さく震えている。優一はそれを黙って見つめた。
「あの子が私に笑いかける度に、母親として何もしてあげられない自分に失望するんです。あの子に何をしてあげられるだろうって考えても何も浮かばない。私に出来るのは、ただベッドの横にいて、話し相手になってあげることだけ……ただそれだけなんです……」
「それでいいんですよ」
不意に、優一は口を開いた。その目はまっすぐ前を見つめている。
「え……?」
「それで十分なんです。人はね、自分が思っている以上に、誰かの支えになっているものなんです。だから、あなたもそれでいいんです。そばにいてあげるだけでいいんです」
彼女の濡れた瞳が見開かれる。その瞳はまっすぐ優一を捉えた。
「そして、信じてあげてください。鏡子ちゃんのこと」
「信……じる……」
「鏡子ちゃんは今、生きようと必死で頑張っています。必死で自分を信じているんですよ。その鏡子ちゃんをあなたたちが信じなくて誰が信じるんですか」
優一の静かな、けれど強い声に彼女はハッとした。
懸命に生きる我が子を応援していながら、心の奥底ですでに諦めかけていた自分がいた。もしかしたら夫もそうだったかもしれない。
夫は一時的に仕事を休んでいる自分の分も必死で働いているため、鏡子の顔を見るのもごくたまにしか出来ていない。
毎日鏡子の顔を見ている自分でさえ鏡子の衰弱がよく分かるのだ。たまにしか様子を見ることが出来ない夫には、それがより残酷に叩きつけられていただろう。その上、家に帰って自分の口から零れるのは嘆きと弱音ばかり。それでも夫は励ましてくれたが、内心では諦めの気持ちもあったのかも知れない。
改めて振り返ってみると、自分がいかに自分本位で弱い母親であったかを思い知った。
「あの子には『病気と闘おう』『立ち向かおう』なんて言っておきながら……逃げていたのは他でもない私だったんですね……こんな時、一番しっかりしなくちゃいけないのは母親の私なのに……」
彼女は血が滲む程強く、唇を噛み締めた、
二人の間にしばらくの沈黙が訪れた。春の風に吹かれてシーツの海が揺れる。
沈黙を破ったのは優一だった。フッと短く息を吐くと、伏せていた目を母親に向けた。
「あなたと旦那さん、そして鏡子ちゃんの三人で闘ってください。そばにいること、そして何より信じること。それが出来れば、“運命”は応えてくれます」
優一はそう言うと、彼女に背を向け、階段へと歩き出した。
彼女はぼんやりとその背中を見ていたが、不意に彼の足が止まり、振り返った。
「ああ、それと、目元赤いの。ファンデーションか何かで隠した方がいいですよ。泣いたのバレバレですから」
悪戯っぽくそう言って、優一は今度こそ階段の下に消えた。
残された母親は目尻を擦りながら、一人苦笑して空を見上げた。
子どもは案外大人を見ている。あの青年にさえあんなに見透かされていたなら、鏡子にはどれだけ見えていただろう。
自分の弱い心があの子に伝わっていたなら、間違いなくそれは鏡子にとって毒にしかならない。そしてその毒を取り除くことが出来るのは、自分しかいないのだ。
息を大きく吸い込み、勢いよく吐き出すと、両手で自分の頬を叩き、屋上を出た。
木曜日。優一の携帯に突然連絡が入った。常連客である鏡子の叔母からだ。
――鏡子の容態が急変した――
急すぎる不吉な報せに、二人の心臓が冷えた。全身から血の気がサーッと引いていくのが分かる。
「ゆ……優一君……」
見ると、優一は険しい顔をしていた。
電話越しに伝わる声には、尋常でない焦りと不安が含まれていた。事態がどれだけ深刻かを推測するのにはそれだけで十分だった。
「……あの人たちに」
優一は低く呟いた。
「あの人たちに、僕たちは必要ないと思った。僕たちがいなくても……あの子は自分で“運命”を切り開けると……」
桜子は目を伏せると、溜まった涙が大粒の滴となって零れ落ちた。
「だけど……“運命”は味方をしてくれなかった……」
彼女は震える声でそう言った。
痛い程の沈黙。
時計の秒針の無機質な音と、動物たちが遠慮がちに身動きする音だけが空間を埋めた。
「それでも」
その声に、桜子はハッとして顔を上げた。
「それでも僕はあの子を助けたい」
桜子は強く頷いた。優一は微笑むと、桜子の手を握った。
「さあ。久しぶりの大仕事だよ」
そう言って静かに目を閉じた。
鏡子は闇の中にいた。
誰もいない、何の音もしない途方もない暗闇の中にいた。
鏡子はだんだん悲しくなって、泣きたくなった。両親に会いたくなった。
「パパ!ママ!」
叫んでも、何も起こらない。自分の声さえ遠くに聞こえる。
そして鏡子は泣いた。闇の中で一人、寂しくて泣いた。
―― 鏡子ちゃん ――
どこからか声がする。あたたかくて優しい声が聞こえる。
「だれ?どこにいるの?」
鏡子は寂しさも恐怖も忘れて、ただ声の響く方へ歩き出した。
―― 鏡子ちゃん ――
鏡子はそれが誰の声であるか分かった。
「ゆーいちくん?ゆーいちくんでしょ?」
―― よく分かったね ――
「分かるよ!だってきょーこ、ゆーいちくんの声、だいすきだもん!ねえ、ゆーいちくん、どこにいるの?ここはどこ?どうして出てきてくれないの?」
鏡子は寂しそうに言った。
―― ごめん 今はダメなんだ
それより鏡子ちゃん 君には夢があるかい? ――
「夢……?あるよ、いっぱい。お花屋さんにもなりたいし、ケーキ屋さんにもなりたいの。あとね、ペットショップの店員さんにもなりたい!あとねあとね……」
鏡子は小さな指を折って数えながら、自分のなりたいものを思い浮かべた。
―― 鏡子ちゃんにはやりたいことがたくさんあるんだね ――
あたたかく響く声に鏡子はエヘヘと笑った。
「そうだよ。やりたいこといーーっぱいあるの!だからきょーこは、はやくビョーキを治さないといけないの」
―― 鏡子ちゃんは 生きたい? ――
「生きたいよ。死んじゃったらやりたいことなんにも出来ないし、パパとママにも、ゆーいちくんとさくらこおねーちゃんにも会えないんだよ。どうしてそんなこと聞くの?」
―― 僕と桜子ちゃんはね “時間”をたくさんもっているんだよ ――
「そうなの?いいなあ。きょーこもいっぱい時間欲しいなあ」
―― 鏡子ちゃんに分けてあげる ――
「ほんと?きょーこにも分けてくれるの?」
―― 全部は分けてあげられないけどね
でもよく聞いて 僕は今から鏡子ちゃんに“時間”を分けてあげる
それは人に与えられた“時間”を変えるということなんだよ
そして“時間”を変えるということは “運命”を変えるということなんだ ――
鏡子は首を傾げた。
「きょーこにはむずかしくて、よく分かんないや……」
すると、声が微かに笑った。
―― 今はそれでいいよ もっと時間が経って
大人になった鏡子ちゃんがきっと理解してくれると思うから ――
鏡子は「そっか」と頷くと、「きょーこもはやく大人になりたいなあ」と呟いた。
―― 鏡子ちゃん 君が生きられる“時間”は長くなるけれど
今の病気がこれからどうなるかは僕にも分からない
もしかしたら これからもずっと
病気と付き合っていかなきゃならないかもしれない
辛い道になるかもしれない
それでも君は“時間”が欲しいかい? ――
鏡子は少し考える素振りを見せたが、やはりすぐに大きく頷いた。
「うん。欲しい。生きたい」
目の前に広がる闇の中に、優一の姿を見た気がした。
鏡子は見えない優一をじっと見つめた。
―― 分かった
鏡子ちゃん 僕たちは今度いつ会えるか分からないけれど
いつかまたきっと会える
それまで強く生きていて ――
「ゆーいちく……」
鏡子が何か言おうとした瞬間、目の前に光が現れた。
真っ暗な闇の中にいきなり生じた、そのぼんやりとしたほのかな明かりに、鏡子はおもむろに手を伸ばした。
光の面積はだんだん増していき、同時に輝きも増していく。鏡子は眩しさに目を細めた。
すると今度は、光が凝縮し始めた。少しずつ形を変えていった光は、女性の形になった。
「さくらこおねーちゃん!」
どうしてそれを桜子だと思ったのかは鏡子自身分からなかったが、鏡子はたしかにその光に桜子を感じ取ったのである。
鏡子は光に駆け寄って腕を伸ばす。女性の形をした光は、鏡子の小さな身体を包み込むように抱き締めた。
心地良いあたたかさに鏡子は目を閉じた。
光がすべてを包み込んでいく。
―― 生きて ――
「………パ、パ………マ、マ……」
目を開けると、そこにはもう見慣れた病室の天井があった。
身体が思うように動かない。視線だけ横にずらすと、目いっぱいに涙を溜めた両親が驚きと歓喜が混じった表情でこちらを見つめていた。
「鏡子……!!」
「よく……戻ってきてくれた……!!」
母親は、手術の影響でまだ思うように動かすことの出来ない小さな手を握った。
父親は目元を手で覆っていたが、噛み締めた唇が震えている。泣いているのだろう。
「あなたはね、脳出血で一時危篤状態になったのよ……!パパもママも本当に本当に心配して……!」
母親は鏡子がどんな状態だったか興奮気味に説明した。いつもより早口で喋ったり、五歳にとっては難しい言葉を無意識に使ってしまうくらいには興奮していた。
それもそのはず。極度の緊張状態が、手術が終わってから鏡子が目覚めるまで――――つまり三日間も続いたのである。その緊張の糸が切れ、込み上げてくる感情を抑えられないのだ。
母親は早口ですべて言い終えると、大きな溜め息を吐いて脱力した。心底安心して力が抜けたのだろう。
「……ママも……むずかしいこと……言う…ね……」
「え?」
か細い声で言った言葉の意味がよく分からなかった。
「あのね……夢を見たの……ゆーいちくんがね……きょーこに……“時間”を、分けてくれたの……僕たちはいっぱい持ってるからって……強く生きてって……」
両親は顔を見合わせたが、「分けてもらえたのはきっと、鏡子がとっても良い子だったからよ」と微笑んだ。
鏡子はわずかに頬をほころばせると、静かに寝息を立て始めた。
無理もない。たった五歳で九時間にわたる大手術を乗り越えたのだ。
それよりも、脳出血を起こして危篤状態に陥りながら、奇跡的に一命を取りとめた。まさに奇跡としか言いようのない奇跡であった。医者にもこれには神の存在を信じて疑わなかったという。
鏡子の安らかな寝顔に、両親も心地良い睡魔に襲われた。三日間、二人はろくに休息も取っていなかった。三人のもとにやっと訪れた幸せな一時であった。
「ありがとうございました!」
客を見送ってから、優一と桜子は閉店作業に取り掛かった。
「優一君、大丈夫?疲れたでしょ。あとはあたしがやっとくから休んでて」
桜子は優一を気遣うように言った。
「大丈夫。少し疲れただけだから。……今回は今までで一番距離が遠かったから、その分エネルギーを使ってしまった」
そう言って優一は苦笑した。
彼らは鏡子に“時間”を与えた。あの時、二人が動かなければ、鏡子は死んでいた。
信じがたい話ではあるが、実際に一人の少女が死の淵から舞い戻ったのだ。
彼らは時折こうして、本当に心から“時間”を求める人々へ、“時間”を分け与えているのである。
だがすべての人が与えられるのではない。
彼らが彼ら自身の目で見極め、そして認められた者だけが、“時間”を受け取ることが出来るのである。
彼らがなぜこのようなことをすることになったのか、いつからするようになったのか。
―――彼らは何者なのか。
それはまた別の話で明らかになるだろう。
「またライバルが増えたかな……」
桜子はぽつりと呟いた。
「え?」
優一は桜子を振り返って訊き返した。
「鏡子ちゃん、絶対優一君のこと好きだったなーって」
彼には目を向けず、淡々を作業をする桜子に、優一は悪戯っぽく笑った。
「……もしかして、妬いてた?」
「……うん」
思いのほか素直な反応に、優一は少し拍子抜けした。
「確かに鏡子ちゃんは僕のことを慕っていたかもしれないけど……それはあくまでも憧れ的なそれであって……」
「分かってない!優一君はぜーんぜん分かってない!優一君を見る鏡子ちゃんの目は、恋する乙女のそれだったね!同じ女のあたしには分かる」
そう言って少しむくれた彼女に、困った顔をしたのは優一だ。
「桜子ちゃん、鏡子ちゃんのこと嫌いだったの……?」
「もう、そんなわけないでしょ!大好きだよ。素直で賢くて可愛くて―――でもそういうことじゃないの。それとこれとは別問題なんだよ、優一君」
「へ、へえ……でも何も五歳の女の子に嫉妬しなくても……」
「あのね、恋に歳は関係ないの。ライバルに歳は関係ないの。やきもち妬くのにも歳は関係ないんだから!」
ずい、と迫る桜子に優一は苦笑した。
「そっか……でもさ、今まで数えきれない苦難を乗り越えてきた僕たちの間に、不安とか嫉妬とか、そんなものはないと僕は思うよ」
桜子の目をじっと見つめる。
「……っ!」
桜子は彼のいつになく真剣な眼差しに狼狽えた。
しかし「ん?」と微笑む優一の目はついさっきと打って変わっていつものように優しく透き通っていた。
優一は、「ずるい……」と独りごちる桜子を愛おしげに見つめながら、「女の子って難しいな……」と幸せな溜め息を吐いた。