プロローグ
『今回、ついに歌手デビューということで、色々聞いていきたいんですが』
音楽番組の司会者が明るい声を隣の青年に向ける。
『はい、お願いしまーす!』
彼がマイクに声を吹き込むと、その声をかき消す程の黄色い歓声が客席から上がる。
『このあとね、さっそく曲の方を披露していただくんですけれども、』
『うわあ、なんか緊張してきたー』
自分の頬をさすりながら笑い混じりにそう言うと、スタジオも和んだ雰囲気に包まれる。
『どうでした?やっぱり大変でした?』
『大変でしたね。ボイストレーニングを始め、体力作りも大変でしたし、何より僕が伝えたい想いを歌に込めるのが難しかったですね』
『聴いている人に、どのように自分の想いを届けるか、ということですね』
『ええ。歌詞やメロディーをただなぞるんじゃなくて、そこに「双海紅」という人間を入れなきゃいけないってなった時に、どうすれば僕を歌に溶け込ませることが出来るかということをずっと考えていましたね』
真剣な声と眼差しに、司会者はもちろん観客も彼に釘付けになる。スタジオ全体が彼の醸し出す独特の雰囲気に染められている。
その後もインタビューは続き、録音の際のエピソードやミュージックビデオの撮影での失敗話などで盛り上がり、デビュー曲披露も観客の盛大な拍手で締めくくられた。
紅は収録を終え、スタジオを出た。
楽屋へ向かう廊下ですれ違うスタッフに「お疲れ様でーす」と挨拶をする。もちろんそこでも甘い笑顔を振りまくのを忘れない。
すると、「双海紅様」と書かれた自分の楽屋の前の壁に寄りかかっている人物がいた。黒いコートを纏った長身の男だった。
その男が顔をこちらに向けたのと同時に、紅の顔に張り付いた笑顔の仮面も剥がれた。
いや、顏は依然笑んだまま。変わったものと言えば、その笑みに含ませた邪心とでも言おうか。
「よう、待ち伏せか?」
そう言うと、男は紅の方へ歩いてきた。
その顔はまるで氷のような冷たさを持っていた。多彩な表情を、その顔に映したことが未だかつてあったのだろうかと思わせる程で。
男は紅に手を伸ばしたかと思うと、いきなり彼の胸倉を掴んだ。
「おいおい、そうカッカすんなって」
男より幾分か背が低い紅の身体は少し浮いたが、それでも彼は綺麗に歪んだ頬をピクリと動かすこともなく、ただニヤニヤと笑っていた。
「何を考えている」
男は紅を鋭い眼光で睨みつけながら低くそう呟くと、紅の胸倉を掴む手にさらに力を込めた。黒い革手袋が擦れる音が二人だけの廊下に響く。
「ハッ、それはてめーが一番分かってんだろうが」
そう言うと紅も男を睨み返した。紅の野心に満ちた炎のような瞳と、男の何者も寄せ付けない氷のような瞳が静かにぶつかり合う。
どれくらいそうしていただろうか。
そうこうしているうちに、誰かが歩いてくる気配があった。コツコツという独特な高音を聞くあたり、女性であることは間違いない。
男は僅かに顔を顰めると、紅を放した。
「あいつに近付けばただでは済まさない」と言い放つと、長いコートを翻し立ち去った。
「やっぱり来たわね」
「来るのが分かってたんならもうちょい早く来いっての」
紅は襟元を直しながら、すぐそこの角から出てきた女を横目で睨んだ。長い髪を前に垂らした美女である。
「あたしが出て行ったところで何かできると思う?」
そう言って女は笑った。紅は舌打ちをすると、乱暴にドアを開けて楽屋に入った。
「紅、乱暴にものを扱ってはダメ。あなたは今や日本中に注目されているんだから」
「わーってるよ、うるせーな」
そう言って女を振り向いた紅の顔にはもとの甘い笑顔が張り付いていた。