追われた勇者、そのあと
「見事魔王を倒したあかつきには元の世界に戻してやろう」
王様の、そんな言葉を信じた自分が馬鹿だったのだろう。
私を勝手に召喚した奴らは、鉄の剣と荷物と金の詰まった袋だけを寄越してきた。そうしてそのまま放り投げられるように城から出されたのだ。
元の世界へ戻るために、私は必死になって旅をする。仲間なんて高尚なものはいないし、出来るわけもなかった。
大体だれがどこからどう見ても、薄汚れた小娘にしか見えない奴の戯言を信じるというのか。私だって信じない。
「私は勇者です。これから魔王を倒しに行くので、だれか手伝ってください」
世迷いごとだ。精々が勇者に憧れた子供の言葉。皆が嘲笑しながら、大きくなってから出直しなと言った。
そして騙されたりもした。そのときの私は子供だったから、助けてくれるという人を信じてしまう。
金と荷物を盗られ、剣を奪われ、服を剥がれ、何にもなくなった。
奴隷商に捕まって、売られそうになったことだってある。
―――それでも、旅を続けた。
ようやっと、魔王の支配する土地に辿りつく。
初めて魔物と戦ったとき。怖くて恐くて震えが止まらなかった。
逃げ出したいのに動けない。戦うなんて選択肢は頭から消えていた。
魔物が飛びかかってきたときにはもう駄目だ、なんて思ったけれど。
自然と体が動いて魔物を倒したときには、呆然とした。勇者の力なんてものを初めて実感する。
それと同時に恐怖した。
目の前には魔物の死体。力尽き、瞳の中には先程までの獰猛な光も見えない。
大量の血液が大地に流れ、まるで水たまりのようになっている。
生き物を殺したというその事実に恐怖した。
胃の中の物を全部吐いた。吐いて吐いて、やがて何も出なくなってもえずき続ける。涙が止まらず、体中が寒気で震えた。
―――それでも、私は旅をする。
気を失って、気付いたときには心は幾分落ち着いていた。
だから私は歩き出す。帰りたい、ただそれだけを願って歩き続けた。
―――やがて、旅は終わる。
魔王を倒した。
死にかけた。何度も、何度も死にかけた。
腕が折れ、足が折れ。腕がもがれ、足がもがれ。
焼かれて、凍らされて、突き刺されて、切り裂かれた。
その度に、勇者の力で癒し、治し、修復した。
魔王はやがて動かなくなった。怒りと怨嗟の声を響かせながら、その鼓動を止めたのだ。
―――希望に胸躍らせる。
私は国に戻る。
ようやっと帰れる――! 希望に胸が満ちた。
どこも魔王討伐の報に浮かれ、喜びの声をあげている。
どこから広まったのか、黒髪の勇者、なんて話も市民の話から聞こえてきた。
城に戻った私は王様に報告する。
「魔王、確かにこの手で討ち取りまして御座います」
―――希望は、絶望に変わる。
王様は偉そうに頷く。
その口から、私の絶望は放たれる。
「よくやった勇者よ。では、褒美として我が国に仕えることを許そう」
―――ナニヲイッテイルンダコイツハ
その男が何を発しているのか理解できない。
まるで宇宙人と話しているような、意味不明の感覚。
「あ、あの、魔王を倒したら、帰れるって」
私が口にできたのはそれだけ。
それを聞いた王やその場にいた貴族たちは、それこそ意味が分からないというような表情を浮かべる。
「帰れるわけがないだろう。そんなことにも気付かなかったのか?」
王の言葉に我を忘れた。
剣を抜き放ち、その身に飛びかかる。
慌てたように近衛の者たちがその前に立ちふさがった。
私は、そんなもの関係ないとばかりに剣を振るおうと―――。
「ど、うして」
剣を振るうことが出来なかった。
腕はまるで自分のものではないかのように止まり、足は鉛にでもなったように重く動かない。
そうして理解する。
私は人間を殺したことがない。
人間を殺すことが、私には怖くて出来なかったのだ。
王様はもう、人間には見えなかった。けれど、その身を護ろうとする騎士たちの姿は人間に見えてしまう。
命を奪うことは恐ろしい。
元の世界、特に私の住んでいた国では禁忌とされている。
人の命を奪う恐怖を覚えてしまってはもう駄目だ。
―――そして、逃げ続ける。
王様を殺そうとした人間は立派な反逆者だ。騎士たちが私を追う。
勇者と呼ばれていた私は、あっという間に最大の敵に成り果てた。
雨の中、霧の中、宵闇の中、私は逃げ続けた。
追ってきた騎士たちを命を奪うこともなく圧倒し、制圧して逃亡を続ける。
―――遠い国に逃げ延びる。
そこは知らない国だ。緑に溢れ、水は輝く、美しい国。
魔王討伐の旅のときには寄らなかった国だ。魔王の支配地からも遠く離れた場所。
私はそこの都に辿りついた。
しかし、無茶苦茶な逃亡生活を続けたその結果、私はひとつの路地裏で力尽きる。
指は動かず、声も出ず、まして立ち上がることなどできはしない。
このまま死ぬのか、と意識を手放した。
―――そこで、出会った。
気がついたとき、そこは天国かと思った。
柔らかいベッド、洗いたてでふわふわな毛布。こんな場所で寝ているなんて、いつぶりかなど忘れてしまったくらい前だ。
「気が付いたのね?」
優しげな声に顔を向ければ、そこには侍女服を来た綺麗な女性が立っていた。
「私は助かったのですか?」
ふわふわした意識。自分が生きているという実感が湧かない。
思わず口をついて出た言葉に、女性は優しい笑みを浮かべた。
「もちろんですよ。貴女は生きています」
「……どうして?」
どうしても何も、誰かが助けてくれたから生きているのだろう。だが、頭では理解していても頭から疑問が抜けることは無かった。
あのまま死ぬものだと思っていたのだ。
それなのに助けられて、生きている、なんて言われても信じられなかった。
だって、私を助けてくれる人なんて今までいなかったのだ。
嘲笑い、騙し、奪っていくのが今までの私にとっての他人だった。
「貴女が倒れていたところをリュシール殿下が見つけて、助けてくださったのよ」
リュシール殿下という人が誰かは分からなかったが、私はそれよりも侍女服の女性の様子に驚愕していた。
一時は本当に危なかった、助かって本当に良かった、という彼女の様子は嘘をついているようには見えなかったからだ。
私は何度も騙されるうちに人の感情をよく観察するようになっていた。
おかげで騙されることも少なくなったし、相手が何か隠しているというのもなんとなく分かるようになっていた。
だが、いくら観察しても目の前の女性に裏があるようには感じられない。彼女が本心から言っているように思えるそれは、私を驚かせるには十分だった。
女性はミリアという名前だそうだ。そしてここはこの国の王様たちが住むお城。
リュシール殿下という人は、この国の第2王子らしい。
ミリアはリュシール殿下のお付きの侍女で、侍女長だという。
家はどこか、帰れるのかと聞かれたが、私にはもう帰る場所は無い。
帰りたかった場所にも帰れない。
何も言えない私に、ミリアは優しく接してくれた。
それから少し話をして、私の寝ていた部屋から出て行った。
これから私はどうなるのだろう、とも思ったが、一度は死ぬことを覚悟した身だ。どうなっても構いはしないと、どこか投げやりな気持ちになっていた。
しばらくしてミリアは戻ってきたが、その手には彼女が来ているのと同じような侍女服があった。
―――毎日が忙しい。
あれから私は侍女見習いとして働いている。
こんな身元不明者が働いて大丈夫なのかと疑問に思ったが、ミリアは殿下の直々の命令だからと微笑んでいた。
そして今日も王城中の洗濯物をかき集めに奔走する。こういうときには勇者の力は便利だ。
常識外れな体力、並外れた身体能力で瞬く間に城を駆け回り、洗濯物を回収していく。
集めた洗濯物を洗い場に持っていき、他の侍女たちと共に洗濯をする。当たり前のような仕事をすることが新鮮に感じられた。
そして洗濯も一段落すると、短いながらも休憩時間がもらえる。
私は今日も城の庭に出ることにした。
―――感情の出し方が分からない。
庭を歩く私の顔に表情はない。いや、どんなときでも私が感情を顔に出すことはなくなっていた。
心を折られたことがあるからだろう。私には感情の表し方というものが分からなくなってしまった。
昔の自分はどう怒っていたのか、どうやって泣いていたのか、どんな様子で笑っていたのか。いくら考えても、もう思い出せない。
何も考えずに庭を歩く。そして1本の木の下を通りがかったとき、頭上から気配を感じた。視線を向けると大きな影。
「うわっ! ちょっ、お前っ、そこどけ!!」
影はこのままでは私とぶつかるだろう。
だから私は咄嗟に力を奮った。
その場の因果関係を歪め、ぶつかる結果を無くす。
上から降ってきた影は無事に地面に着地。私にぶつかる事はなかった。
「あれっ? ぶつかってない…。なんでだ?」
確実にぶつかると思っていたものにぶつからなかった。その結果に影の正体である少年が首を捻る。
少年は見たところ私と同じくらいの年齢か。彼の姿を見るや否や、私はすぐに頭を下げた。
上等な服に何気ない動きの所々に見え隠れする品の良さ。間違いなく上流階級の人間のそれだった。
「申し訳ありません。私の不注意で、御身を危険に晒しました」
感情の篭らぬ声で淡々と謝罪をする。
これを聞いて、無礼だと思わない相手がいたら会ってみたいものだ。言っている本人ですらそう思う。
少年は謝罪する私を見て、虚をつかれたような顔をしたが、すぐさま笑い飛ばした。
「謝ることなんてないさ。俺が下を確認もせずに木から飛び降りたのがいけないんだからな」
まるで太陽のような眩しい笑顔を見せながら少年は言う。
「それより俺こそ悪かったな。怪我とかないか?」
心配そうな声には裏がないことが伝わってくる。
こんな風に裏表無い言葉をくれたのはミリア以来で、心の中で私は驚いていた。
「お気遣い頂いて感謝致します。幸いにも私に怪我はありません。貴方様には怪我など御座いませんか?」
「ああ、大丈夫だ。今は休憩時間か? 悪いな、貴重な時間を貰って」
本来なら一介の侍女にかけるような言葉ではない。そんな彼に私は興味を持った。
「勿体無きお言葉。私はサクラ=ミヤクラと申します。もしご無礼でなければ、貴方様のご尊名をお伺いしても宜しいでしょうか?」
宮倉桜。それが私の名前だ。懐かしい、両親が付けてくれた私の名前。
私が名前を尋ねた少年は、一瞬だけ驚いたような表情になった。
「ん? なんだ、お前。俺の名前を知らないのか。あー、まぁいいか。俺はリュシール。リュシール=ディレイ=アルタビアだ」
その聞いたことのある名前、しかしここで聞くとは思わなかったものに私は内心で慌てた。ここまで慌てたことなど、最近では覚えが無いほどには慌てていた。
「リュシール殿下で御座いましたか。申し訳ありません。本来であれば知っていて当然のことを知らず、世間知らずの田舎ものにどうかご容赦を」
「別にいいさ。それよりそうか、お前がサクラだったか」
何か納得したように頷く彼は、どこか楽しそうだ。
「はい。リュシール殿下には命を救って頂いたばかりか、このような働く場所まで与えて頂いて感謝のしようもありません」
感謝はしているのに、その気持ちが声には乗らない。
表情のない顔、感情のない声に私は自分自身に苛立つ。
「ああ、あのときは危なそうだったからな。まぁ、助かって良かった」
そんな無礼な私の態度に、けれど彼はまた笑う。
「あっと、それじゃ、俺は行かないといけないからな。またな」
彼はそう言って風のように去って行く。
太陽のように眩しい笑顔だけが、ずっと私の記憶に焼きついていた。
―――彼は何度も現れた。
それからリュシール殿下は、何故か何度も現れた。
それも決まって私がひとりでいるときだけ。まるでそのタイミングを狙っているかのようだ。
「よう、サクラ! 頑張ってるか?」
陽気で気ままな彼は、いつも明るい笑顔を見せる。
「殿下、またいらっしゃったのですか? 今の時間ですと、歴史の授業では?」
抑揚のない声で私はいつものように尋ねる。
「今日は講師の先生様がお休みなんでね。臨時休講ってやつだ」
凛々しい王子様に似つかわしくない、悪戯小僧のような笑みを浮かべて彼は胸を張る。
そんな王子の微妙に情けない姿に私は溜息をついた。
「……殿下、そのような時間こそ自身のさらなる研鑽に臨むべきでは?」
「堅苦しいことを言うなよ、サクラ。人間誰しも休みが必要なんだ」
王子は私の仕事の邪魔にならない程度にそんな話をしてから去って行く。
ここ最近ではちょっとした習慣のようになっていた。
「意外と私も楽しんでるのかもしれない」
私は私自身でも分からない心の動きを想像した。
―――色づく日々。
いつしか私もリュシール殿下と話すことが楽しみになっている。
またこんな風に何かを楽しみに思える日が来るなんて思ってもみなかった。
色の無くなった世界が、少しずつまたカラフルに見えてくる。
でも今日は夜会の日。
王子は忙しい。侍女も忙しいけれど、見習いの私に回ってくる仕事には重要なものはない。
夜会自体には手伝いにも出されない。見習いはミスをしたら大変だからだ。
王子と話せないのはつまらないけれど、仕事は仕事。私はいつも通りに働いた。
―――何故か彼は不機嫌だった。
夜会が始まって、私は他の見習いたちと同じように使用人専用の建物に籠る。
お城から聞こえてくる美しい音楽。有名な楽団を招待したそうだ。夜会には出ないけれど、ここから聞こえる音楽だけでも充分だった。
窓から聞こえる音楽に耳を澄ませる。
そこへ小さい何かが壁にぶつかる音が聞こえた。それと共に聞き覚えのある声までもついてくる。
「サクラ。ちょっと出てこいよ」
聞こえる声に従って、視線を下に向ければここにいないはずの彼がいる。
私は表情だけは変わらない。けれど、慌てて外に飛び出した。扉を開けて、階段を静かに、出来る限り全力で駆け下りる。
外へ出てきた私の姿を見つけて、王子はにやりと笑った。
王子がそんな風に笑うときは、大抵機嫌が悪いときだと知っている私にしたら、嫌な予感しかしていない。
「殿下、今は夜会のお時間のはずです。何故こちらにいらっしゃるのですか? すぐにお戻り下さい」
私は無駄だと分かっていながら、リュシール殿下を咎める。
「堅苦しいことを言うなよ、サクラ。あんなところに長くいたら、俺は駄目になる自信があるぞ」
「そんなことを仰る殿下はもう駄目なのかもしれませんね」
王子の不機嫌さに引きずられて、今の私も尖った言い方しかできない。
それでも王子はそんなことは気にしないとばかりに笑った。
「やっぱりサクラと話すのが一番楽だな。――なぁ、サクラ。ちょっとそこらで話でもしてくれないか」
珍しく弱気な王子の物言いに、私は首を傾げる。
本当はすぐにでも会場に戻るように取り計らうべきなのだろうが、私は自然と頷いていた。
「かしこまりました、殿下。少しだけ、ですよ」
私と王子は建物から少し離れた庭のベンチに並んで腰掛けた。
主と同じ席に着くことはできない、と抵抗を試みたのだが、王子の命令には逆らえなかった。
「そうだなぁ、今日は俺が話したいこともないしな。サクラ、お前の昔の話を聞かせてくれないか」
王子は気軽そうな言葉とは裏腹に、真剣な目で私に願った。
その様子にどきりとした。
もしかしたら私が元勇者だということに気付いているのではないか、とも考えた。
しかし、その考えに首を振る。
今代の勇者は黒髪としか伝えられていない。なぜなら私を召喚した奴らは私の名前を聞かなかったからだ。名乗っていないものを知っているはずもない。
それに召喚国とはここは離れすぎている。
ましてや召喚国にはすでに勇者がいると聞いていた。
別の勇者、正確には私の偽物だ。
勇者に剣を向けられたなど不名誉でしかない。奴らは私の偽物を立てて、その人物を勇者と名乗らせたそうだ。
だから私が勇者だと気付かれている可能性は低いと思った。
「何故、私の過去をお聞きになりたいのですか?」
私の問いに、王子は私から目を逸らさずに口を開いた。
「お前は悪い奴ではない、と思う。今まで色々話してきて、俺はそう思った。そんなお前があんな風にぼろぼろになって、死にかけていたのには何か理由があるはずだ。俺はそれが気になったんだ」
王子は私のことを心の底から心配していると言う。
何か危険が迫っているというならば、自分の出来る限り助けたいと言う。
何故、と問えば、殿下は太陽のような笑みで友達だと思っているからだと答えた。
「実は今日の夜会でな、俺がお前とよく話しているのを見かけたという奴がいたんだ。そいつは貴族なんだが、お前のことを悪く言っていたんだ」
曰く、不気味な黒髪。
曰く、礼儀のなっていない田舎もの。
曰く、きっと後ろめたい過去がある。
その貴族はどうやら私のことを調べたらしい。そうして、王子が拾った人間だと突き止めたそうだ。
「お前のことを悪く言われると腹が立った。俺は友人を馬鹿にされて、凄く苛立った。だが、言い返そうとして気が付いた。俺はお前の昔のことを何も知らないと。そして思った、お前のことをもっと知りたいと」
王子は真剣な瞳で私を見つめる。
私はその瞳の色を見て、ああ、この人にならば騙されても後悔しないと思った。
「分かりました、殿下。しかし、全てをお話することは出来ません。私もまだ過去に出来ていないのです。そこで、少し掻い摘んでお話致しましょう」
自身が勇者だったと名乗るのはまだ怖い。
王子ならば大丈夫だと思ってはいたが、感情がついてこなかった。
「……分かった。サクラがそう言うなら、今日はそれでいい。だけど、いつかちゃんと話してくれよ」
笑いながら王子は言う。
―――そうして私は語り始めた。
自分の歩いて来た道の話。
信じられないほど、遠い国から連れてこられたこと。
帰りたければ命令を聞けと言われて、放り出されたこと。
ひとりで旅したこと。
助けを求めても、誰もが相手にもしてくれなかったこと。
騙され、裏切られて持ち物も何も無くなったこと。
奴隷商に捕まって、売られそうになったこと。
初めて生き物を殺したときのこと。
ようやっと目的地について、命令通りにそれを遂行したこと。
最初の場所に戻ったこと。
そこで騙されていたことを知ったということ。
自分の国には帰れないということ。
責任者に斬りかかってしまったこと。
そのまま大勢の人間に追いかけられ、逃げ回っていたこと。
そして今、ここに拾ってもらったこと。
長い長い話だった。
会場から聞こえていた音楽はもう止まっていて、ダンスの時間が終わってしまうほどに話した。
私は深く息をつく。
「これが私の昔話です。まとめてしまうと意外と短いものですね」
王子はただ黙っていた。眉間に皺を寄せて、険しい顔をしている。
「そうか」
そして絞り出すように呟いた。
「大変だったなって言うのは違うよな。いくらそんなこと言っても俺にはサクラの大変さなんて分からないからな。だからひとつだけ聞かせてくれ。サクラは帰ることを諦めたのか?」
彼の瞳が私を捉える。
私はその質問に息を飲んだ。
「―――り……たい。帰りたい、です。帰りたい。帰りたいんです、私は。でも、帰り方も分からなくて、どうしたらいいのか分からないんです」
本音が一度漏れ出せば、あとは止まらなかった。
ずっと蓋をしてきた想いだった。どれだけ願っても、どうしようもなくて。
考えないようにしてきた。考えてしまえば、折れてしまいそうだったから。折れてしまえば、立ち上がれないと思っていたから。
言葉と一緒に涙が溢れた。泣くなんて、いつぶりだろう。泣いても誰も助けてくれなくて、泣いても無駄だと分かっていた。
涙が頬を伝う。それは止まることなく、次から次に流れ出てくる。
「あ、れ? どうしよう。止まらない……。ごめ、ごめんなさい…、殿下。すぐになんとかしますから」
袖で無理矢理に涙を拭う私の手を、王子は優しく押さえた。
「別にいい。無理しなくてもな。友人には弱いところを見せてもいいんだ」
優しげに、けれどもいつものように温かく王子は笑う。
「殿下が、殿下ではないみたいです」
思わず口をついて出た言葉は、そんなものだった。
いつものやんちゃな雰囲気ではなく、私が小さい頃に憧れていた王子様のような。
お母さんにせがんで読んでもらっていた絵本に出てくる理想の王子様。
「ひどいな、サクラは。まぁ、そこが面白いんだけどさ」
王子のそんな顔を見て、私の胸がどきりと高鳴る。
ああ、そうか。私はリュシール殿下が好きなのだ。
恋をしたわけではない。私は彼を、この世界で初めて対等な友人として好きになっていたのだ。
勇者ではなく、ひとりの対等な人間として見てくれる彼が。
ミリアのように、私を娘のように庇護する対象としてでもなく、共にある友と言ってくれる彼が。
「サクラ、お前が帰りたいと言うなら。帰ることを諦めないと言うなら、俺は俺に出来る限りでお前の力になる。帰してやるなんて無責任なことは言えない。だけど、帰るために手伝ってやることは出来るかもしれない。それでもいいか?」
彼は立ち上がり、私と向き合う。
差し伸べられた手を見つめ、真剣な瞳に目を向ける。
「ありがとうございます、殿下。いえ、リュシール様。貴方が私を手伝ってくれると言うならば、私も貴方の力になりましょう」
彼が手を差し伸べてくれる。でも、それに甘えるだけなんて、私は自分を許せない。
対等な友人だと言うならば、私は貴方の力になろう。
なんであろうと切り裂く剣に。
害なす全てを防ぐ盾に。
その身を護る鎧に。
私はなってみせよう。
これはその誓いの言葉だ。
「たとえ何があろうとも、私は貴方と共に在りましょう」
彼が想い人と出会ったとしても。
王族ではなくなったとしても。
この言葉は絶対だ。
―――こうして勇者はひとりの王子と歩き始めた。
短編を1本書いてみたくて、書いたものです。
まだまだ拙いところが多い作品でしたが、読んで下さった方はありがとうございます。