8.手紙
親愛なる牧師様へ
ようやく私も日々の喧騒になれ、落ち着いた日々を過ごしています。
私は元気です、そちらはいかがでしょうか、クロニカは他のシスターたちは、変わらず健やかにお過ごしですか?
牧師様、私は神への愛を忘れたことはありません、一度立てたスノウ様との約束も破る事もいたしません
けれど。一介の修道女をつかまえて、あまりにこれは、愛のない行為だと思うのです
「レオノワ様」
たしかに私は淑女らしからぬ行いをしているかもしれない、だけどそれは淑女になろうと思ったことなど、一度もないからです
「レオノワ様!」
そうなのです、今日もレディーコンスタンスは烈火のごとく怒っているのです、なぜ怒っているかですって?
それは私がまたお皿をひっくり返したからです。
ひっくり返したのは確かに私が悪いけれど、こんなに怒らなくたっていいとは思いませんか?
けれど母を連れて帰るには父の名誉を守るためには必要な事だと私は心得ています、必ずまっとういたします。
「レオノワ様!いくら言えばわかるのです!」
「ご…すみません」
けれど嫌なものは嫌なのです
レディーコンスタンスはレディーらしからく声を荒げますわ。
これじゃどちらが淑女かなんてわかりません、けれど大丈夫、私はこんなの慣れっこ、だってクロニカに幼いころから鍛えられていますもの、そうでしょ牧師様
お手紙、お返事下さるとうれしいわ、こんな事を言えるのは、紙の上だけ
普段のレオノワは淑女だもの、私が淑女なんて、おかしいわね
それでは、村の皆様にもよろしくおねがいします
教会の皆々様に神のご加護があらんことを
あなたのレオノワ
「さて、休憩にいたしましょうか、私ももう、怒鳴りつかれてのどがカラカラでございます」
「そ!そうですね、レディーコンスタンスの美しいお顔に怒り皺が出来てしまったら嘆かわしいわ!お水を頂きましょうか?」
「口だけは立派におなりになって、いいわ、私が参りますから。」
昼食も終えた昼下がり、言葉の授業をようやく終え、レオノワは解放された
残暑の厳しさ残る今日だから、コンスタンスはレオノワが勉強にうんうんと悩み唸っている時に、多く水分を取りすぎたらしい
なるほどコンスタンスはふうふう言いながらトイレに急いでいる様子だ。素直にトイレにいけないなんて、レディーは大変だな、と改めて。
そしてレオノワはああなるとコンスタンスは長くなると知っている
それならばちょうどいい、コンスタンスの背を見送りながら、レオノワは昨日の夜したためた手紙を出してもらおう、そんな事を思った
「それにしても広いわ。」
しばらく間続きの部屋を抜けて廊下に出た、レオノワの視界には同じような装飾のつまらない廊下が永遠と続いている圧巻の風景。
それでもお貴族様が見れば素晴らしい装飾の、センスのいい廊下と言う。孤児同然のレオノワに理解できないというならば、一生理解できなくとも後悔はしないだろう
「村の子供たちでピクニックなんてしたら、きっと楽しいわね」
そんな事、レディーのレオノワには一生叶えられる夢ではないけれど
「シスターレオノワこんにちは」
「こんにちは」
「今日はどちらまで」
「手紙を出したくて、執事さんをさがしているのだけれど」
「ああ、それなら御主人の部屋当たりで見たわ」
「そうね、何やら言伝を頼まれている様子だったわ」
「今ならまだいるかもしれないわね」
「ありがとう」
「御主人のお部屋はわかる?このまままっすぐ行って一番装飾の煌びやかお部屋だからね」
「あ、ありがとう」
くすくすとレディメイド達は楽しげに華やかに笑った。
家人に話しかけてはいけない、家人の視界に入ってはいけない
鉄の掟で守られているハウスメイドもフットマンも、家人でもなく貴族でもなくレディーでもないレオノワの前では形無しだった
10日もすぎれば、いくらレオノワでも、自分が周りになんと評価されているかなんて、嫌でもわかってしまう
それでも気安く話しかけるのは、嬉しいものだけれども…
「あそこね」
レオノワは言われた通り、廊下の先に一番煌びやかな装飾の部屋を見つけた
レオノワの二人分、もしかしたら三人分、大きな背のチョコレイトみたいな色をしたドア
そして近づいて気が付いた、ドアが少し開いているようだ。
レオノワはいけないと思いながら中をのぞき見れば、何やら散乱の書類の中にスノウが茫然と立ち、額を眺めているようだった。
ぞくりとした、初めて会った時の恐怖のような物を思い出す。まるでこの一角だけ世界から隔離されているようだった。
スノウの部屋は不自然に暗いように思えた、それはこんなに良い天気だというのに、カーテンが閉め切っているせいだ。そして灯りを灯さないでいる
わずかばかりの木漏れ日だけが、スノウを部屋の様子をレオノワに見せる。
いつも見ない機械的でも事務的でもない、人間らしい雰囲気を纏うスノウにレオノワは声をかけていいか、考えあぐねて、それでもやっとノックした
「話はすでに終えていると言っているだろう、下がりなさい」
スノウは背を向けたまま言った。
レオノワは戸惑った、スノウのこんな攻撃的な声音を聞いたのは初めてだ。けれど思えばそれは自分の事ではなく執事のクロフォードに向けての言葉だと理解した
そうすれば少しだけ怖くない
ゆらりと二本、地面に足をつけてただぶら上がるだけのスノウに、レオノワは決心する。
「…ごきげんよう、スノウ様」
案外気丈な声が出た。
スノウは振り返って、吊り上った目じりを幾分か緩ませる。
「シスターレオノワか、失礼、クロフォードかと」
「いいえ、あの私クロフォードさんに用があって、こちらと聞いたから…でもいないようだわ」
「ああ、クロフォードなら先ほどまでこちらにいたけれど、下がらせてしまいました」
だからここにはいない、下がりなさい
レオノワは一喝されたように聞こえた。実際スノウは用事は終わったとそのまま背を向けてしまったし、レオノワもさすればそれ以上ここに用がない
ならば早々にここを立ち去ればいいだけの事、けれどレオノワの足は接着されたかのように動かない。
レオノワはスノウの美しく、それでもしっかりとした背を見た、木漏れ日が溢れ、スノウの背に降りかかっている。まるでスノウを二つに切っているように見えた。
レオノワは気が付く、それは牧師様に救いを求めに教会を訪れる人に似ている
「どうかされました?」
立ち去らないレオノワにスノウが言った。
スノウは先ほどと同じような顔をしていた
「いえ、あの…」
ああ、やっぱり怖い、レオノワにはその新芽の色が此方を向くたび体に電気が走る
けれど何か言わなくては、だって今は、強制されてここにいるわけではないのだもの
レオノワは決心してスノウに対する、牧師がこういう時、どうしていたか思い出しながら
「アップルパイは好きですか?」
牧師様はこういう時、まず気を紛らわせる事をしていた、レオノワは思い出す。
けれどとっさに出たのはなんとも気のきかない一言、それでも今のレオノワにはそれすらも気が付かない
今レオノワを満たしているのは、高揚感、緊張感、鼓動の音、織り交ざって頬は紅潮する、構わない。
「…は?」
スノウは当然間の抜けたような声を出す、レオノワを鳥肌が覆う
「わ、私すごく上手いのよ、焼くのが!ええきっと美味しいリンゴさえ手に入れば、貴方に御馳走できるかもしれないわ!」
「…」
「そうね、ピクニックなんていいかもしれないわ!息抜きね!あ、でもサボろうとしているわけじゃないし、私が行くわけではないのよ!スノウ様が行って来ればいいと思うの、メイドの人たちに聞いたの、自室に籠ってお仕事してるって!」
「…はあ」
「そうしたい気分の時は言って!おいしいアップルパイを焼くから!アップルパイが嫌いならチェリーパイでも、くまの実パイでもいいわ!」
ピクニック!そうピクニック!
大きなバスケットにアップルパイと卵のサンドイッチを詰めて出かけるのもいい
だってこんなに素晴らしい庭園だもの!
庭園自体はそれほど大きいわけではないけれど、所狭しと咲く草花の色の見事なことを言ったらない
季節の野菜はたわわに実り、今か今かと引き上げられるのを待っているのだろう、十分な大きさを見せつけんばかりに土から幾分か背伸びをしている
まだ地肌のままの茶色の絨毯には、可愛らしい新芽があちらこちらに息吹き、来るべき季節をこころまちにしているように見える
野菜だけではない、花々もまた見事に咲き乱れる、その中で寝ころぶの!絶対気持ちがいいに決まっている
「これほど神の恵みを頂いている庭園はあまりないわ!庭師がいいのね!」
「…」
「…そ、それにそれに…ええと、えと」
言いたいことを言いたいだけ捲し上げて、はっと息を切る
しまった、とそれまで高揚していた気持ちが、今はずっしりと重い
冷や汗が背を這って、レオノワはゾクリと震えた
「そ、それだけ!じゃあごきげんよう」
沈黙が重く、レオノワは逃げるように踵を返す
スノウは失望しただろうか、淑女とは思えない全然成長を見せないレオノワを
ああ、神様、この失態をお許し下さるだろうか、今日の黙祷は長いことになりそうだった
いてもたってもいられない
淑女らしく無い大股でレオノワはチョコレイト色の戸に手を掛けた
「お待ちください、その手にあるものは、執事に託そうとした手紙ではありませんか?」
スノウに声をかけられた、ドギマギとレオノワは右手でくしゃくしゃにつぶれた手紙
はっと思い出す、そういえばここに来た用事こそ、それだったのに
「私から執事に出しておきましょう」
「あ、ありがとうございます、実はというと、また迷ってしまいそうで…助かります、必ずお願いします」
「もちろんです」
スノウが少しだけ笑ったように見えた、レオノワの見間違いかみしれないけれど、けれどレオノワはその幻がうれしかった
丁寧に伸ばして手紙を渡す、スノウは指先まで美しかった。
「それから」
「え?」
「もし、私がピクニックに行きたくなったら、アップルパイ、楽しみにしております」
「は、はい!」
あんなに暗かった部屋が今は明るい
くすんだ瞳に光を塗せば、それは綺麗な宝石のような新芽
空も少しずつ晴れ、そうしてみれば綺麗な金無垢の髪、この人の何が怖かったのだろう、レオノワはわからない
無性に胸が詰まってならなかった、心が深く震えた
喉の奥から掠れたような声しか出ない、けれどレオノワは笑う
人の心に触れるとはこういう事なのですね、牧師様
帰りの足取りは驚くこと軽く
その手紙が一生村の教会に届くことがないとも知らず。




