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ある修道女の背徳  作者: ありくい
旅立ち
6/9

5.宿舎にて


これは罪深いことです


クロニカや牧師を差し置いて、一人、旅行気分であったから、その罰が回ってきたのだわ

いままでただ座っていただけで、こんなこみ上げるような嘔吐感など経験したことがないもの

きっと悪魔の手が触れたに違いない

ああ主よどうか、罪深き私をお許しください、毎日の黙祷も欠かしません、さらに己に厳しく律し、さらに他人を愛しましょう

牧師の然るべくして、そして供え物を欠かしません

どうか、神より頂いたものをあのように還してしまう私をお許しください

どうか、私を悪からお守りください…お守り…


「馬車に酔ったのでしょう」


「よ?…そのような事が…恐ろしい」


「激しく揺れる車内で、何か一点を見つめていると起こりやすいのです、何かに気を取られていたのですか?」


「え、ええまあ」


「さしあたってシスターレオノワは馬車は初めてでしたか、配慮がたりませんでしたね」


「こ、こちらこそ、お召し物を汚してしまいまして、申し訳ございません」


結局、堪えきれず、それでもこのお高い馬車内に漏らす訳にはいかず、考えた頭で走行中の馬車のドアに手をかけた

それに驚いたスノウがレオノワを引き戻し、抱えられるまま、スノウの腹のあたりに還した

今、馬車は近くの町に止め、スノウに横抱きされながら宿舎に駆け込み

レオノワは初めて、固くも冷たくもない、ふかふかのベットに身をゆだね、額にぬれタオルを当てられている

ひんやりとした部屋、まだ日も高いこの時間なのにスノウはカーテンを閉め切り、窓を閉め、わずかばかり光も許さないようだった

開放的な美しさと窓から見える雄大な景色が売りのこの宿舎もこれでは形無しであろう

スノウはレオノワがそうして横になっている間控えていた、ともすればこれまた上背のある男に何やら言伝をしていたり、また、何やら報告書のような物をまとめたり、けれど変わらないのは、終始監視されているような奇妙

その居心地の悪さはあるが、こみ上げる嘔吐感も、嘔吐後の気持ちの悪さも今は安らぎ、腹に虫が住んでいるかのように這う感覚がするだけで、後はだいぶ楽になった


「あの、騎士団長様」


レオノワはややあって一時より幾分落ち着いた様子で話しかける


「あの、先ほどのお話の続き、聞かせてください…」


ゆっくり起き上がると、すべるようにリネンの利いたシーツが上体をずり下がる

聞こえていなかったわけじゃない、レオノワは確かに、スノウの目の奥で鋭く尖る光りを見る


「…少々お待ちください」


スノウは再び側近を呼んで何やら厳しく言い、立ち去る背を見送ってドアに鍵を閉める、ついにこの宿舎の一角で、レオノワはスノウと改めて対峙した


「お水をお飲みになられますか、これからの話、動揺されず受け入れられるか…」


「いいえ、大丈夫…すでに両親を知らずに育ってきました、いまから聞くことは、他人の事と思います」


「そうですか、いえ…すみません…動揺しているのはどうやら私の方だ」


スノウはこの時、初めて椅子に浅く腰かける

レオノワはスノウの目が今だ怖くないわけではなかったが、それ以上に、自分の出生の情報をしるこの男の言葉に耳を傾けなければ

母を迎えに行くに心のしこりが晴れない事を知っていた。


「…」


「…」


「…十年前の事です、帝国にクーデターが起きたのはご存知でしょうか」


王国歴にそのような事は一文字も書かれていない、レオノワの勉強不足だろうか、いいやそのような事実

牧師もクロニカも知らないはずだ、レオノワは訝しんだ様子でスノウを見た

スノウは相変わらず機械的、まさに機械的に頷いた


「でしょうね、その事は迅速に処理され、今やその事実を知っているものは幹部の人間しかおりますまい」


「なぜ、王国はその歴史をお隠しになられたのでしょう」


「その首謀者が、人民から人望の厚かった右大臣であったからでございます」


「…右大臣、」


「十年前、現王のお父上、前王は民を顧みるお方ではなかった、ことある事に民から税を摂取したのです、右大臣は反発し、多くの兵士を引き連れ王に剣を向けました」


「…」


「民の反乱が起きれば多くの民が傷つく、その前にとのご決断だったのでしょう、結局失敗に終わり、右大臣は一族諸共根絶やしにされました。」


「そう、」


「このことが民に漏れれば、人望の厚かった方ですから、必ず反乱の火種になります、右大臣もそのような事は望んでいません…世には病死と伝えられたでしょう」


閉め切った窓のはずなのに、レオノワは大地の息遣いを感じた、小鳥の鳴き声を聞いた、小川のせせらぎを聞いた。

それほど耳が研ぎ澄まされ、頭は見、聞き、感じた事、すべての事を柔軟に受け入れんとしている

スノウの新芽の瞳をいま覗いても怖くはない、それはきっとスノウがレオノワを怖がっているように見えるから。


それが私の父なのね


レオノワは、静かに言った


「…はい、貴女は右大臣の御子でございました」


スノウは答えた


「でも私は生きているわ、お母様も生きている、なぜ?」


「現王の計らいでございます、あなたの母君エカチェリーナ様と現王は乳兄弟でございますから…ひっそりと母君と貴女様だけはと、そして私は、」


「…」


「私は、右大臣が亡くなるその時、右大臣と約束を交わしました、母君と貴女の未来を約束すると、私は幼いあなたを抱え、教会の門を叩いたのです」


「あなたが、」


「立派に成長されて、…右大臣もお喜びでしょう…」


揺り籠に揺れる、お気に入りのおもちゃを口に入れて、手を叩いて笑う赤子を知っている

ようやく歩けるようになった、右大臣は楽しそうに赤子と同じ顔をした。

その懐には大事そうに隠し持つ画家に描かせた赤子の肖像。よく民や兵士に見せて自慢をしていた。

五つの誕生日には帝国随一の針子を呼んでドレスを作らせた事も知っている

七つになった娘と奥方と、兵士も連れず農民の家を歩き回って談笑していたことを知っている。

スノウだけでなく、民も知っている


「そうですか、お父様は、民から愛される立派な方だったのですね、貴女は私の恩人なのですね」


スノウは言葉を詰まらせているようだった


まるで、考えもしなかったこと、さてレオノワは今どんな顔をしているだろうか

それが事実と、理解するにははかりしれない時間が必要になるかもしれない、けれど心に留めて、ゆっくり消化していきたい


「混乱しているわ、すごく怖い、どっかの知らない、誰かの話を聞いているみたい」


「ええ、もちろんです…この様な残酷を、舌足らずな物言いでしか語れず申し訳ございません。」


「いいえ、いいえ…聞けてすごくうれしいわ、何も知らないお父様の事ですもの、…でも少し悲しいのね、不思議ね」


「…」


「ねえ、またお父様の事、聞いてもよろしいかしら…」


教会はみな家族のように暖かい、その中で生きてこれたことをレオノワは感謝している

野の花を慈しむように人の死を生をそらさず見続けてきた、修道女とはそうしたものを多く対面する機会が多い

けれど、それが血と肉を頂いた父との事となると、どうにも心がついていかない

レオノワは不意に目頭が燃えるような感覚に、戸惑いを覚えた。


爛漫の春を、燃えるような夏を、芽吹く秋を、眠る冬を。あの村で何年もやり過ごした


そのうちでなんど父と母、己の出生を考えてきただろう


「急かすようで申し訳ございませんが、貴女をお連れした理由にかかわるお話はこれからでございます」


「…え?」


シーツで目頭を拭う、心の整理が追いつく前に、スノウは言う、これからが本番だと

スノウ今だ心に留めたものを吐露するかの様だった、それは救いを求めに懺悔をする、村の人々によく似ている


「貴女方が生きていること、これは王命にて一部の幹部しか存じません、けれど最近になって、それが漏れたと噂になっているのです」


「漏れたって…」


「人望ある前右大臣は今でも民に人気あるお方です、その右大臣が殺されたとなると、民は反乱を起こすでしょう…それを逆手に取り、王を失脚させようと目論む輩がおります」


「、つ、つまり?」


「その輩はその象徴に貴女を置こうとしているのです、そうなれば民の心は掴んだも当然」


な、なんだろうかこの嫌な予感

背を這う冷たい感覚、なんだか話が混線しているような気がする


「その前に貴女様には我が王、ひいては大臣、貴族、地方の豪族が集う、王の誕生祭が開催される来月、そこに赴いて王に忠誠があることを示してほしいのです」


「…たん!」


王の誕生祭、聞いたことがある、こんな田舎の修道女でも耳にはいる豪勢なお祭りだ

そこには国中のお偉いさまが集い、優雅にダンスや美味しい食べ物をお上品に食べたり、奇術師の芸や珍獣に珍しがったり、国民は国王がまた今年も健やかにお過ごしになられるよう手を振る

とにかく、海に囲まれた田舎の村で、木に登り、サンドイッチを頬張り、顔を泥だらけにしてバッタやイナゴを捕まえる、そんなレオノワが赴いていいようなところじゃない

レオノワは背が冷えついたように伸ばし、顔を青ざめた

田舎の猿と、呼ばれるのは目に見えている


「む、む、むりです!!私、一介の修道女にそんな、ナイフだって、いつも持ち方が変だってクロニカに…!」


「大丈夫です私が必ず、立派な淑女にしてさしあげます」


「は、ええ…はあ?」


「必ず、さし上げます」



スノウの新芽の光が、レオノワに泣き言を許さんとす


レオノワは村を出発して数刻

初めて村に帰りたくなった。



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