1.敬虔なる修道女のうたかた
水桶と雑巾を抱えて、レオノワは草おおい茂絨毯を裸足で踏みつけた
日中騒がしく鳴きつづけた蝉の声もようやく途絶えて、レオノワの毎日欠かさず世話した朝顔も萎む
気が付けば、すでに太陽が沈みかけ、あたりはわずばかりの光だけを残し、後は薄暗い漆黒に包まれ始めている
栓の緩んだ蛇口がまた一つ、滴を溜めて地面を濡らしていた
レオノワは荒れた手でエプロンをぎゅっと掴み、手入れの行き届いた庭の向こう、草のあぜ道から続く周りを海で囲まれたちいさな集落を見つめた
この小さな集落は神が覘けば猫の額ほどの狭さだろう。
なんたってこの村は、たまに迷い込んだ旅人は休める宿舎が一軒、村人向けに青果などを売る店が一軒
あとは数件蚕を飼って、糸を紡ぐ生業をして暮らしている
そして北側のさらに奥にまった地にレオノワの暮らす教会がある
海に面した辺境の土地に作られた小さな教会。牧師は一人、仕える修道女も片手で事足りる
そこは神の家。
ここでは皆神の子として、少しの規律と何隔てない平等で、日々粛々と生きている
レオノワもその一人、物心つかぬ頃からここ暮らし、厳格な牧師の下に敬虔な修道女として育て上げられた。
「レオノワ、庭から桃を取ってきてくれるかしら、たんとね」
「はい」
シスタークロニカが廊下を濯いだ水に足を湿らせ、壁から半分だけ顔を除かせてそんな事を言った。
村の名産の桃は、食べる直前にもぎ取るのがいい、ちょうどお茶うけにするのだろうと、レオノワは思った
この辺境の地の、はたまた今にも崩れそうな教会に要人が訪れる事は、月を跨ぐ前から、牧師に毎日のように聞かされていた事だし、レオノワもよく心得ていた
土壁でできた由緒はないが古い教会、世紀を跨いだ建物らしく、文学者、天文学者、頭の煮詰まった連中が訪れるのはさも珍しくはない、そう言ったのは宿舎を営むナミエル夫妻
そのたび牧師は訪れる客人に教会の伝統と神の愛を語り、クロニカが敬虔な教徒としてお茶をだし、レオノワはそのお茶うけを確保すべく奔走する、そんな縮図ができている
重い木の扉を開け、レオノワは外に続く廊下を抜けた。
「ああ、めんどくさいわ」
日中厳しく照りつけた太陽は陰り、今は心地よくふく風さえも煩わしく。
レオノアは桃の木の前まで来ると、スカート捲し上げ得意げに登っていく、目的地まで着くと御馴染みの枝に腰をかけ、スカートを籠代わりに桃の実を二、三入れていく
要人は通達と相成り今だ訪れてこない
もうこの時間になれば、明日になるだろうか、そうなるとさらに面倒くさくなるだろう
レオノアはここ数日、正しくは、牧師から要人訪問の事柄を伝えられたその時から、何やら教会が穏やかでは無いことを知っていた
牧師もクロニカも、他の修道女も、レオノワに言伝をよく頼み、その隙に何やら話し込んでいるようだった。
まだまだ下っ端の修道女には聞かせられない話、そういう事なのだろうか
レオノワが修道女らしからぬ事は本人がよく知っている、それでも敬虔な修道女として努力はしているのに
レオノワは息を付く。
…つまり要人訪問の期日が伸びるということは、レオノワがこうして言伝をまかされる事がまた一つ増える、と言うことだ。
「…」
雲はまるで燃えるような赤、もう暫く待てば太陽が沈むだろう
大樹は頃を過ぎてすでに枯れ始め、町の住人たちは毎日落ち花の掃除をしている、それは例年の如く
門が太陽の光を吸ってキラキラと輝いていた、そこには町長だろうか、セッセと掃除をしている風に見える
レオノワはふいにもぎ取ったばかりのまだ青い桃を齧る
何一つ変わらな村の景色を見たって、心持ちは何一つかわりやしない
「ひどいわ、仲間はずれなんて」
一瞬邪ともいえる考えがよぎり、首を振る
そしてレオノワはもうひとつ桃の実を捥ぎ牧師に抗議せんと枝を降りようとした、その時だった
「…!」
グラリと視界が揺れた、レオノワは慌てて枝に捕まり、難を逃れる
けれど未だ視界は僅かに揺れ、葉はカサカサと音を上げている
地面が泣いている、何だ、地震だろうか、それにしては長い、では何だ、違う音がする、馬だ、馬の声だ、それも沢山、沢山移動しているのだ、騎士の巡礼ならありえる、この時期に騎士の巡礼はありえない、ではいったい。
住人達がわらわらと外に集まってくるのが見える、スカートの中の桃は踊り狂いながら地面へと落ちていった
ややあって城門からずっと先に土煙にまみれて姿を現したのは、何十の数を誇る馬の大群
いや、よく見ると人が上に乗っている、何やら重厚な鎧を纏っている、先頭を1頭の白馬、その後ろを何十頭もの騎士が後につく
異様な光景だ、この静かな集落にこれほど圧巻な様は稀に見る
馬の大群は決められたように徐々に失速し、ついに集落の門までたどり着いた
当然の如く村長が前に出るが、それも一瞬の事で、なにやら話し合った後、村長は何なりと道を開けた
数十頭の馬達は門の外で待機し、先頭の白馬一頭、それから装飾の過ぎる馬車だけが何やら真っ直ぐ歩を進めている、それは木の上のレオノワからよく見えた
その白馬は興味津々に集まる町人達には脇目も振らず、進んでいる、その先にはレオノワの教会
何故だかレオノワは不意に恐ろしくなって、急いで木を降りる
けれどレオノワの足が地に着くのと、その騎士が教会の門を叩くのはまさに同時の事であった
「あ…」
「…」
木の上から見下ろしていたからわからなかった、騎士は上背のある男で、随分端正な顔をしている
男もレオノワに気がついたらしく、そうしてしばらく見合っていた
いや、見合うのではなくなぜだか動けないでいた
本能で体内を巡る血が急速に早まり、鼓動がレオノワの異常ではない危機を知らせる
レオノワはなぜだがこの男の視界に己を置きたくなかった
けれどそれがなぜだかわからない
男は夕焼けに解けた金色の髪を耳の下辺りで切り揃え、ここからでは瞳の色はわからないが、その分憂い満ちたような顔が美しかった
男は身軽な動作で白馬をおり、適当な枝にたずなを引っ掛ける、そうしてレオノワの前まで来た
その一連がなんとも美しくレオノワは渇望したような瞳できっと見つめていたに違いない
「ここに、若い娘が一人仕えていると聞く」
「…はい」
確かに数名修道女は仕えているが、レオノワが一番若く、その次に若いシスタークロニカでさえ30を超えている
つまりそれはレオノワの事を指していた
「…ご訪問予定の要人の方でしょうか」
「…」
「あの」
「貴女がレオノワ嬢か」
「え…?」
レオノワは己の名前に従順に反応してみせた、さすれば騎士はなおその瞳に憂いを被せた
唇を何度か強く結んでは、また小さく溜まった息を断続的に吐き出した
レオノワは途端に眉を寄せる、何故この騎士が自分の名前を知っているのだろう、それにレオノワ嬢とは
そう疑問に思う暇さえなく、騎士は何かを思い上げるように言葉を続ける
「私は帝国騎士団長スノウ・メルゲン…貴殿をお迎えにあがった次第である。」
その瞳に先ほどの憂いはどこにもなかった。




