前書き
南宋の英雄・岳飛(1103–1142)が詠んだとされる『満江紅』は、中国史上最も有名な愛国詩の一つです。この詩には、失われた国土を奪還しようとする執念、異民族への激しい憤り、そして志半ばで時を過ごす焦燥感が凝縮されています。
岳飛という人物の「潔癖なまでの忠誠心」と「悲劇の英雄」としての側面を織り交ぜながら、その全文を見ていきましょう。
満江紅・怒髪衝冠
(作:岳飛)
怒髪衝冠、憑欄処、瀟瀟雨歇。
(怒髪 天を突き、欄干に寄り掛かれば、しとしとと降る雨が止んだ。)
抬望眼、仰天長嘯、壮懐激烈。
(目を上げ、天を仰いで長く雄叫びを上げれば、壮大なる志が激しく沸き起こる。)
三十功名塵与土、八千里路雲和月。
(三十代までの功績などは塵や土に等しく、八千里の戦場を雲や月と共に駆け抜けてきた。)
莫等閑、白了少年頭、空切悲。
(疎かにするな、若かりし頃の髪が白くなってから、虚しく悲しむことのないように。)
靖康恥、猶未雪。臣子恨、何時滅。
(靖康の恥は、いまだ雪がれていない。臣下としての恨みは、いつ消えることがあろうか。)
駕長車、踏破賀蘭山缺。
(戦車を駆り、敵陣・賀蘭山の険しき関を突破せん。)
壮志飢餐胡虜肉、笑談渇飲匈奴血。
(壮大なる志を抱き、飢えれば胡虜(蛮族)の肉を喰らい、談笑しながら渇けば匈奴の血を飲もう。)
待従頭、收拾旧山河、朝天闕。
(一から再び、失われた旧山河を取り戻した暁には、皇帝の待つ宮殿へ参内せん。)
岳飛の人となり
1. 徹底した軍紀と民への慈しみ(三十功名塵与土)
岳飛は、農民の出身でありながらその軍事的才能で頭角を現しました。彼が率いた「岳家軍」は非常に軍紀が厳しく、「餓死しても民の家を奪わず、凍死しても民の屋根を壊さない」という信条を貫きました。 詩にある「三十代までの功績は塵のようだ」という言葉は、彼にとっての戦いが自己の名声のためではなく、ひとえに民を救い、国を守るためのものであったことを示しています。
2. 「靖康の恥」への消えぬ怒り(靖康恥、猶未雪)
「靖康の恥」とは、1127年に金(女真族)が北宋の都を陥落させ、徽宗・欽宗の両皇帝を連れ去った屈辱的な事件です。 岳飛の背中には、母によって「精忠報国(国に忠義を尽くし、報いよ)」という四文字が刺青として刻まれていました。この詩に見られる「敵の肉を喰らい、血を飲む」という凄まじい表現は、単なる比喩ではなく、愛する祖国を蹂躙された一軍人としての、血を吐くような本心からの怒りなのです。
3. 悲劇の幕切れと「天」への叫び(仰天長嘯、壮懐激烈)
岳飛は失地回復を目前にしながら、和平派の宰相・秦檜らによって謀反の濡れ衣を着せられ、処刑されます。 この詩の冒頭「怒髪 天を突き、天を仰いで叫ぶ」という描写は、外敵と戦うこと以上に、内部の腐敗や和平に甘んじる朝廷の腰抜けぶりに絶望していた彼の孤独な姿を浮き彫りにしています。




