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凡庸貴族の「影の国富論」~中間管理職の知識で、破産寸前の領地をこっそり立て直します~

いくつか短編作品を投稿して反応のいいものを長編化しようと思っているので、

面白いと思ったらなにかしらリアクションしてもらえると嬉しいです

アルクライト子爵家の古びた城の一室。重苦しい沈黙が、蝋燭の心もとない灯りを揺らしていた。

「……以上が、現状の報告だ」


硬い声で締めくくった父、ギュンター・フォン・アルクライト子爵の顔には、深い渓谷のような皺が刻まれている。辺境を治める武人領主としての誇りと、どうにもならない現実との間で引き裂かれている苦悩がありありと見て取れた。


部屋にいるのは、父と、嫡男である長兄のエーリヒ、騎士団を率いる次兄のクラウス、そして部屋の隅で存在感を消すように座っている三男の俺、レオン・フォン・アルクライト。歳は十七。表向きは、魔力も剣才も凡庸で、ただ無気力に日々を過ごすだけの貴族の出来損ないだ。


(……ああ、始まった。不採算部門の業績報告会議だ。前世と何も変わらないじゃないか)


内心で深く、深いため息をつく。俺の魂は、かつて日本という国で、中堅企業の板挟み中間管理職として過労死した男のものだった。三十五年の短い生涯で得た知見と、趣味だった経営シミュレーションゲームで培った戦略眼だけが、この凡庸な肉体に宿る唯一の財産だ。


「父上! 嘆いてばかりでは何も始まりません! ここは領民の忠誠心に訴え、今一度の増税をお願いすべきです!」

血気盛んな長兄エーリヒが、まるでそれが唯一絶対の正解であるかのように叫ぶ。彼は典型的な精神論者だ。気合と根性でどうにかなると思っている節がある。前世で言えば「お客様の心に響けば、商品は売れる!」と叫んでいた営業部長そっくりだ。


「兄上、それは愚策だ。すでに民は疲弊している。これ以上の増税は、暴動の引き金になりかねん。むしろ、騎士団を動員して周辺の森を更に切り開き、材木の出荷量を増やすべきだ」

次兄クラウスが冷静に反論するが、その実、彼の案も近視眼的だ。筋肉で解決しようとするあたり、前世の製造部長を彷彿とさせる。「ラインを24時間稼働させれば、生産量は倍になる!」と言って、設備の維持コストを度外視していたあの人にそっくりだ。


(どいつもこいつも……)


俺は手元に配られた帳簿に視線を落とす。羊皮紙に書かれたインクの染みは、まるで領地の悲鳴のように見えた。


【アルクライト子爵領 財政状況報告】

歳入:金貨3000枚(うち材木輸出2500枚、税収500枚)

歳出:金貨4500枚(うち王家への上納金2000枚、騎士団維持費1500枚、その他経費1000枚)

—————

差引:▲金貨1500枚


さらに、欄外には震えるような文字で注記が添えられている。

『中央銀行からの借入金、累計2万枚。返済期限、半年後。返済不能の場合、領地は王家により没収』


(半年……。タイムリミットは半年か)


冗談じゃない。これは倒産だ。それも計画性のない、ただただ無策の果ての倒産。父も兄も、この数字の意味を本当の意味で理解していない。赤字の額面しか見ていないのだ。問題は、なぜこの赤字が生まれたかという構造にある。


主産業は林業のみ。典型的な一本足打法経営だ。しかも、長年の過剰伐採で質の良い木材は減少し、売上は年々右肩下がり。一方、気候不順による不作で税収は激減。民は食べるものにも困り始めている。そんな状況で増税だの、さらに森を削るだの、自殺行為以外の何物でもない。


「静かにしろ、お前たち!」

父の一喝が、兄弟の不毛な言い争いを遮った。

「いずれにせよ、このままではアルクライト家は終わりだ。我ら貴族が、領民の先頭に立って苦難に耐えねばならん。奢侈を戒め、節制に努めるのだ!」


(出た、経費削減努力目標。焼け石に水どころか、蒸発して消えるレベルだぞ……)


俺はもう、眩暈を通り越して一種の感動すら覚えていた。ここまでテンプレ通りのダメな会議は、前世でもそうそうお目にかかれなかった。彼らは真剣なのだ。真剣に、この領地を愛し、守ろうとしている。だが、その方法を知らない。知識も、経験も、戦略的思考も、なにもかもが足りていない。


会議が終わり、自室に戻る。付き人のメイド、リゼッタが静かにお茶を淹れてくれた。彼女は俺の幼馴染で、俺がただの凡庸な貴族ではないことに、うっすらと感づいている唯一の存在だ。


「レオン様、お疲れ様でした。……難しいお顔をされていますね」

心配そうに覗き込んでくる栗色の瞳に、俺は無意識に口元を緩めた。

「ああ、いや。少し考え事をしていただけだ」


このままでは、半年後に俺たちは路頭に迷う。いや、貴族の義務を果たせなかったとして、最悪処刑されるかもしれない。飢えた領民が暴徒と化せば、リゼッタも無事ではいられないだろう。


(冗談じゃない。過労死してまで転生したんだ。こんな理不尽なデッドエンドは、絶対に回避してやる)


だが、俺は「凡庸な三男」レオン・フォン・アルクライトだ。魔力もない、剣も握れない俺が、武人肌の父や兄たちの前で「経営戦略が~」などと語ったところで、誰が耳を貸すだろうか。おそらく、「気でも触れたか」と一蹴されるのが関の山だ。


目立ってはいけない。手柄を立ててもいけない。そんなことをすれば、嫉妬や警戒を買い、いずれ潰される。前世でさんざん見てきた光景だ。優秀な若手が、年功序列の壁に阻まれて腐っていく様を。


(ならば……どうする?)


答えは一つ。

目立たず、誰にもその正体を悟られず、だが確実に、水面下でこの領地を操る。

安全な場所から、最小限のコストで、最大のリターンを得る。


俺は静かに立ち上がり、窓の外を見やった。痩せた畑と、まばらな森が月明かりに照らされている。

「……やるしかないか」


前世で死ぬほど叩き込まれたマネジメントの知識。趣味で遊び倒した経営シミュレーションゲームのロジック。それらを総動員すれば、活路は開けるはずだ。


「全員飢え死にする前に、俺がこっそり立て直してやる」


誰にも聞こえない声で呟いたその言葉は、俺自身に向けた決意表明だった。凡庸貴族レオンの「影の国富論」が、静かに幕を開けようとしていた。



計画の骨子は三つ。

第一に、介入手段の確立。

第二に、正確な現状把握。

第三に、ボトルネックの解消。


前世のプロジェクトマネジメントの基本に則り、俺は思考を組み立てていく。まず、どうやって父や家臣たちに俺の考えを実行させるか。


(直接言っても無駄だ。ならば、権威を利用するしかない。それも、得体のしれない、神秘的な権威を……)


そこで思いついたのが、匿名の助言者という存在だ。古代の賢者か、あるいは神の啓示か。そう思わせるような演出ができれば、頑固な父も耳を貸すかもしれない。前世で、外部のコンサルタントがもっともらしい肩書だけで重用されていたのを思い出す。中身が無くても「〇〇総研の××です」と言えば、皆が有り難がって話を聞いていた。


俺は自室の机に向かい、ペンとインクを用意した。ただの手紙では、悪戯だと思われて捨てられる可能性がある。一手間加えよう。俺は数種類の薬草を乳鉢で静かにすり潰し、インク壺に混ぜ込んだ。特殊な配合だ。乾くと、月光の下でのみ、ほのかに銀色に輝くインク。これならば、ただの手紙ではないと印象付けられるだろう。


そして、羊皮紙に最初の助言を書き記す。差出人の名は、『シャッテン』とした。


『古きを敬い、伝統を重んじるアルクライト子爵よ。あなたの領地への愛は本物だ。だが、その愛ゆえに、民の小さな声が聞こえなくなってはいないか。今、為すべきは増税でも、森の乱伐でもない。まず、聞くことだ。領民の不満、不安、そして小さな希望を。城門と村の広場に「目安箱」を設置せよ。投書は、身分を問わず、何人たりとも改めることなく、すべて子爵の元へ届けさせよ。また、信頼できる者に身分を隠させ、市井の酒場を巡らせよ。本当の声は、そこにこそある』


内容は、情報収集の仕組み作りと、不満のガス抜き。現代の経営で言えば、顧客アンケートと市場リサーチだ。現状が分からなければ、打ち手もクソもない。


俺は書き上げた手紙をリゼッタに託した。

「リゼッタ。これを今夜、父上の執務室の机に、誰にも見つからないように置いてきてくれ」

「レオン様……これは?」

「おまじないだよ。領地が少しでも良くなるためのな」

俺がそう言って微笑むと、リゼッタは何かを察したように、しかし何も問わずにこくりと頷いた。「承知いたしました」とだけ言い、彼女は影のように部屋を出ていった。信頼できる部下がいるというのは、何物にも代えがたいアドバンテージだ。


数日後、城内はにわかにざわついた。父が、謎の手紙に書かれていた「目安箱」の設置と、お忍びでの情報収集を命じたからだ。

「父上、正体不明の者の言葉を信じるのですか!」と長兄は反対したが、父は「藁にもすがる思いだ。それに、書かれていた内容は理に適っている」と押し切ったらしい。

(まあ、リスクゼロで始められる施策だからな。それで少しでも効果が出れば、儲けものだと思ったんだろう)


父の執務室からは、夜な夜な領民たちの悲痛な声が記された投書を読み上げる声が聞こえてきた。日に日にやつれていく父の顔は、しかし、以前のようなただ頑ななだけの表情ではなかった。現実を直視し始めた者の顔だった。


わずかな改善――いや、正確には「これ以上悪化させないためのブレーキ」が見られたことで、父は『影』の存在を強く意識し始めた。


(よし、第一段階はクリアだ)


そして俺は、計画の第二段階へと移行する。並行して進めていた、もう一つの重要なミッションだ。


「リゼッタ、これを」

俺はなけなしの貯金をはたいた金貨の入った袋を、再び彼女に差し出した。

「町に出て、あるものを買い集めてほしい。領内にある『忘れられた月のダンジョン』から出たっていう、ガラクタを」


『忘れられた月のダンジョン』。

それは領地の片隅にある小さな洞窟だ。強力なモンスターもおらず、金銀宝石といった分かりやすい宝も出ない。そのため、プロの冒険者からは完全に見向きもされず、たまに子供が肝試しに入る程度の場所だった。

しかし、ごく稀に、そこからは『古代の遺物アーティファクト』と呼ばれる、用途不明の道具が発見されることがあった。そのほとんどは、現代の魔法技術の常識では理解不能なガラクタとして、市場で二束三文で取引されている。


「どんなものを?」

「奇妙な模様が描かれた石板とか、変な音のする箱とか、光るだけの水晶とか……とにかく、今の人間が見て『何に使うんだ、これ?』と思うようなもの、全部だ。特に、畑仕事や植物に関係ありそうなものなら、言い値で買ってきていい」

「……分かりました、レオン様」


リゼッタは俺の奇行にも慣れたもので、忠実に指示を実行してくれた。数日後、彼女が運び込んできたのは、まさにガラクタの山だった。錆びた金属塊、ひび割れた石板、カビ臭い木箱。どれも、好事家以外には価値のないものばかりだ。


だが、俺の目はその中の一つに釘付けになった。

一枚の、黒曜石のような滑らかな石板。表面には複雑な幾何学模様が刻まれている。

俺はそれを手に取り、前世の記憶を呼び覚ます。

(この模様……分子構造式に似ている。もしや……)


俺はリゼッタに命じて、庭の隅の土を少量持ってこさせた。その土を石板の上にパラパラと振りかける。すると、石板の幾何学模様が淡い光を放ち、一部の文様が輝き始めた。


『窒素:欠乏 / 燐酸:過剰 / カリウム:適正 / 微量元素:著しく欠乏』


(……ビンゴ!)


石板の表面に、この世界の文字で、土壌の成分分析結果が浮かび上がったのだ。これは、前世で言うところの土壌分析キットそのものだ。古代文明は、俺たちの世界とは全く異なる科学技術体系を持っていたらしい。


さらに、ガラクタの山の中から、もう一つの宝物を見つけ出す。それは、手のひらサイズの木箱だった。側面についた奇妙な取っ手を回すと、カチカチと音を立てながら、箱の天面にある小さな穴から、目に見えないほど微細な粉が放出される。無味無臭。魔力も感じられない。だが、俺にはその価値が分かった。


(間違いない。これは特定の微生物……おそらく、根粒菌のような窒素固定菌を活性化させるための、特殊なフェロモンか何かを散布する装置だ)


土壌を分析する石板。

土壌を改良する箱。


この世界の誰もがガラクタと見なす二つの遺物。

だが、現代日本の農業知識を持つ俺の手にかかれば、それは破産寸前の領地を救うための、最強の武器となる。


俺はほくそ笑んだ。

「リゼッタ、よくやった。これで、革命の準備は整った」

俺の言葉の意味を理解できず、きょとんとしているリゼッタの頭を、俺は優しく撫でてやった。



目安箱によって領民の不満がある程度可視化され、父の危機感が最高潮に達した頃合いを見計らって、俺は『影』としての第二の手紙を送った。今度の手紙には、具体的な改革案を盛り込む。


『アルクライト子爵よ。民の声は、土地の声そのものだ。彼らの疲弊は、土地の疲弊に他ならない。同じ畑で毎年同じ作物を育て続ければ、土地の力は失われる。これを「連作障害」という。今こそ、古き農法を改める時だ』


手紙は、まずこの世界の人間にも理解できる理屈から入った。そして、核心となる提案を続ける。


『領内の全農地を三つに分けよ。一つには春に育つ小麦を。一つには秋に育つ大麦を。そして残る一つは、一年間、何も植えずに休ませるのだ。これを毎年、順番に入れ替えていく。さすれば、土地は力を取り戻し、収穫は安定するだろう。これを「三圃式農法」と呼ぶ』


前世ヨーロッパの農業革命の基礎となった、三圃式農業。この世界では、二圃式(栽培と休閑を一年ごと)が主流であり、土地の生産性を最大限に引き出せていなかった。


そして、もう一つの、より重要な提案を書き加えた。


『痩せた土地、休ませる土地には、「ジャガイモ」を植えよ。それは豚の餌にあらず。天が与えし救いの根である。寒さや病に強く、わずかな手間で多くの収穫をもたらす。その栄養は小麦に勝るとも劣らず、長く蓄えることもできる。来るべき冬の飢えから、民を救うのはこの作物をおいて他にない』


ジャガイモ。この世界では、毒があるという迷信から食用とは見なされず、もっぱら豚の飼料としてごく一部で栽培されているだけの作物だった。その真の価値を知る者は、誰もいない。


案の定、この手紙は子爵家の会議で大論争を巻き起こした。

「正気か!伝統ある我らの農法を捨てろというのか!」

「豚の餌を領民に食わせろだと?アルクライト家の恥だ!」

家臣たちは口を揃えて猛反対した。長兄エーリヒも「得体のしれない『影』の戯言に、これ以上付き合う必要はありません!」と父に詰め寄る。


会議室の隅で、俺は内心、彼らの反応を冷静に分析していた。

(抵抗勢力は予想通り。伝統への固執、未知への恐怖、プライド。マネジメントの現場で嫌というほど見てきた光景だ。だが……)


父、ギュンターだけは違った。彼は腕を組み、苦渋の表情で沈黙している。目安箱を通じて領民の窮状を目の当たりにした彼にとって、もはや伝統やプライドは二の次だった。ただ、確証のない策に領地の未来を賭けることに、躊躇しているのだ。


その背中を押すのが、俺の仕込んだ次の一手だった。

『影』の手紙には、続きがあった。それは、別紙として添えられた、数枚の羊皮紙。


そこには、領内の主要な畑ごとに、土壌の状態(もちろん、例の石板で分析したものだ)と、三圃式農業及びジャガイモ栽培を導入した場合の、極めて緻密な収穫予測データが記されていた。

『西の丘陵地:日照良好なれど、地力に乏し。ジャガイモ栽培に最適。予測収穫量、小麦の3倍』

『南の平野部:水はけ悪し。大麦と豆類の輪作を推奨。土壌改善後、収穫量1.5倍を見込む』


さらに、ジャガイモの調理法(毒のある芽の取り方、煮込み料理や焼き料理のレシピ)から、失敗した場合のリスクヘッジ案(余剰ジャガイモを飼料として騎士団の馬に与え、飼料費を削減する計画)まで、考えうる全ての要素が網羅されていた。それはもはや予言ではなく、前世で俺が作り慣れた事業計画書そのものだった。


「……これは」

ギュンターが、震える声で呟いた。彼の目の色が変わる。

「この『影』という者は、我らの土地を……隅々まで知り尽くしているというのか……?」

家臣たちも、そのあまりに詳細なデータに言葉を失う。それは、彼らが長年この土地で暮らしてきた経験則を、遥かに凌駕する精度と説得力を持っていた。


そして、ギュンターは重々しく立ち上がった。

「……決定だ」

その声には、もう迷いはなかった。

「アルクライト家の全権において命じる!領内全域で、この『影』の策を実行する!」


こうして、アルクライト子爵領の静かな革命が始まった。

もちろん、表向きの俺は、相変わらず自室にこもって本を読んでいるか、庭を散歩しているだけの凡庸な三男だ。兄たちからは「お前は気楽でいいな」と嫌味を言われ、家臣たちからは「せめて訓練にでも顔を出せばよいものを」と呆れられている。


(それでいい。むしろ、そう思われている方が都合がいい)


日が落ち、城が寝静まった頃、俺の本当の仕事が始まる。

黒いマントで全身を覆い、リゼッタだけを連れて、俺は領内の畑へと足を運んだ。


「リゼッタ、A-3地区の畑だ。例の箱を持ってこい」

「はい、レオン様」

俺たちは、まるで諜報員のように、月明かりだけを頼りに畑から畑へと移動する。

俺が「土壌分析の石板」でポイントを特定し、リゼッタが「微生物活性化の箱」の取っ手を回して、目に見えない改良剤を散布していく。


「レオン様、本当にこんなことで……土が良くなるのでしょうか?」

不安げに尋ねるリゼッタに、俺は静かに答える。

「ああ。これは魔法じゃない。科学だ。土の中の小さな生き物を元気づけて、土地そのものの力を引き出すんだよ」

「かがく……?」

不思議そうに首を傾げる彼女に、俺は苦笑するしかなかった。


昼間は、農民たちが領主の命令で、訝しげにジャガイモの種芋を植えている。

夜は、その畑に領主の息子が忍び込み、古代の遺物で土壌改良を行っている。

誰一人として、この二つの出来事が繋がっているとは夢にも思わない。


人々は、ただ『影』という謎の賢者の存在と、領主の突飛な決断に振り回されているだけだ。

だが、それでいい。結果が全てを証明する。


俺は闇に覆われた広大な畑を見渡しながら、静かに呟いた。

「プロジェクトは計画通り進行中。あとは、自然という名のクライアントが、どう応えてくれるか、だな」

その声は、夜の冷たい風に吸い込まれて消えていった。



秋が来た。

アルクライト子爵領の誰もが、固唾をのんで収穫の時を待っていた。特に、領主命令で植え付けられたジャガイモ畑には、期待よりも不安の視線が多く注がれていた。豚の餌が、本当に我々の腹を満たしてくれるのか、と。


そして、収穫の日。領内は、驚愕と歓喜の声に包まれた。


「おお……!小麦の穂が、こんなに実っているのは見たことがない!」

「見てみろ!このジャガイモを!掘っても掘っても、ゴロゴロと出てきやがる!」


三圃式農法を導入した麦畑は、例年の1.5倍以上の収穫を記録した。連作障害から解放され、休息と栄養を得た土地が、本来の力を存分に発揮したのだ。

だが、真の驚きはジャガイモ畑にあった。痩せた土地に植えられたはずの作物は、予想を遥かに上回る、まさに爆発的な収穫量をもたらした。掘り起こされたジャガイモは、村の広場に小高い山をいくつも築くほどだった。


飢えの恐怖に怯えていた領民たちは、目の前の光景が信じられず、やがてその歓喜を爆発させた。

領地の歴史始まって以来の、記録的な大豊作。それは、もはや奇跡としか言いようがなかった。


数日後、城では盛大な収穫祭が催された。広場には大きな鍋がいくつも並び、湯気の立つジャガイモのシチューが領民全員に振る舞われた。最初は恐る恐る口にしていた人々も、その素朴で滋味深い味わいに、すぐに顔を綻ばせた。

「うまい!」「これなら、毎日でも食えるぞ!」

子供たちが、ふかしたジャガイモを頬張りながら走り回っている。その光景は、数ヶ月前には想像もできなかったものだ。


祭りの壇上で、父ギュンターは感極まった様子で声を張り上げた。

「皆の者、聞け!この奇跡は、天の啓示か、あるいは名も知らぬ英雄のおかげである!その者の名は『影』!我らの領地を、我らの民を、飢えの淵から救ってくださった大賢者様だ!」


ウォーッという歓声が、地鳴りのように響き渡る。領民たちは、顔も知らぬ謎の助言者『影』を、救国の英雄として称え、その正体の噂で持ちきりになっていた。

「きっと、白ひげを生やした偉大な魔法使い様だ」

「いや、女神様の化身かもしれないぞ」


その熱狂の渦から少し離れた、収穫祭の片隅。

俺はリゼッタと二人、質素な木の皿に乗ったジャガイモのシチューを、静かに味わっていた。周囲の喧騒が、まるで別世界の出来事のように聞こえる。


「皆様、本当に嬉しそうですね」

リゼッタが、心からの笑顔で呟いた。

「レオン様が、あの『影』様だと知ったら、きっと腰を抜かしてしまうでしょうね」

「やめてくれ。面倒なことになるだけだ」

俺は肩をすくめて見せた。英雄になど、なりたくもない。それは、責任と期待という名の、重い鎖に繋がれることと同義だ。前世で、さんざん背負わされてきたものだ。


「それに、まだ何も終わっていない」

俺はシチューを一口すすり、密かに呟いた。

「まあ、前世の不採算事業部の経営改善計画書に比べれば、簡単なミッションだったがな」


リゼッタが「またレオン様の知らない言葉が……」と小首を傾げている。その無垢な反応に、俺は少しだけ救われたような気がした。


父は、躍起になって『影』の正体を探し始めている。だが、インクの成分を調べさせても、出所の分からない薬草が数種類混ざっているだけ。手紙が置かれた状況を調べさせても、まるで風が運んできたかのように痕跡一つない。見つかるはずがなかった。最高の情報セキュリティとは、そもそも存在を認識させないことなのだから。


兄たちも、豊作という結果を前にしては、もはや何も言えない。ただ、自分たちの無力さと、『影』への嫉妬と畏怖が入り混じった複雑な表情を浮かべている。


これで、当面の食糧問題は解決した。飢饉の危機は去り、民の不満もひとまずは収まるだろう。

プロジェクトで言えば、第一フェーズの「損益分岐点の引き下げ」と「経営資源の安定確保」が完了したに過ぎない。


だが、領地の財政赤字という根本的な問題は、まだ手付かずのままだ。半年後に迫った、中央銀行への莫大な借金返済。それを解決するには、新たな収入源、つまりは「売上の拡大」フェーズへと移行する必要がある。


俺は、シチューの皿を置き、遠くを見やった。

視線の先には、月明かりの下、黒い口を静かに開けている『忘れられた月のダンジョン』の入り口があった。


有り余るほどのジャガイモ。これを原料にすれば、高純度の蒸留酒が造れる。前世で言うところのウォッカだ。保存が利き、付加価値も高い。新たな特産品として、他領に売り出すことができるだろう。


そして、あのダンジョンだ。

今回のような「ガラクタ遺物」が、まだ眠っているはずだ。林業に代わる、全く新しい産業を生み出すための「技術の種」が。


(次は、この領地に富をもたらす番だ)


俺の頭脳は、すでに次なる計画のシミュレーションを始めている。

それは、誰にも知られることのない、静かで、しかし壮大な野望。


凡庸な三男の仮面の下で、元中間管理職の魂が冷徹に計算を弾き出す。

アルクライト子爵領の真の夜明けは、まだ始まったばかりだ。

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― 新着の感想 ―
面白かったです 出来れば長編で読みたいですね 短編ではもったいない気がします
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