最後の杯
赤い月が照らす王城のバルコニーに二人の人物が見えた。
一人は老齢の騎士。
そして、もう一人は黒いローブを着た女性。
「ほい。乾杯」
「えっ、あっ、あぁ――乾杯」
差し出された杯を満たす上等な酒。
――これ、飲んで良いのかな?
いや、今は一応勤務中だし。
あー、でも飲みたいなぁ……。
「あー! 美味い!!」
そう言って目の前に居た白髪混じりの老齢の騎士は快活に笑う。
いつもの仏頂面はどこにいったんだろ。
「おいおい。嬢ちゃんも飲みな」
「あっ、いや……嬉しいんですけど、私は勤務中ですし」
「あっ? 俺の酒が飲めねえのか?」
おいおいおい。
この人、こんな冗談を言うタイプの人間だったのか?
少なくとも私の知る限りでは誠実な騎士様って認識だったのに……。
「まぁ、いっか。お前が飲まないなら俺が飲むだけだ」
あーあ。
ラッパ飲みなんかしちゃって……。
奥様が見たら大泣きしちゃいますよ。
あーあ。
喉をそんなに気持ちよく鳴らして……。
私の事、考えてくださいよ。
勤務中で飲めないんだから……。
そんなことを考えていると不意に騎士は言った。
「――なぁ」
「はい。何でしょ」
「今夜死ぬのは私だけだろう?」
言葉に詰まる。
まぁ、その通りなんだけど……言っちゃっていいのかな、これ。
「言葉に詰まるってことは正解ってことだ」
「えっ!? あっ、いや……」
「正解だな?」
「あっ、まぁ、うん……はい」
「そうか。なら良かった」
騎士はそう言って微笑む。
こっちは守秘義務をお漏らしして汗だくだってのに……。
「なぁ、もう一度聞くんだが。君は――『死神』は魔王の味方ではないんだな?」
思わず息を飲むほどに鋭い目つき。
――これが本来のあなたの姿ってところですか。
王国でも三本の指に入るほどの実力者。
強く、気高く、美しい――本物の騎士。
もし私が人間の女だったらプロポーズしちゃうかも。
「ええ。ご安心ください。私は魔王の味方でも人間の味方でもありません――だから、あなたを救うこともありません」
「構わないさ。元々足止めは一人で行うつもりだったからな」
「……大儀なことです」
素直な感想だった。
この王城は人間側の最後の砦。
――そして今日、この城は魔王の攻撃によって崩壊する。
「にしても、全く人の気配のない城ってのは不気味なもんだな」
そう。
聡明な彼は魔王の接近を感じ取り、いち早く皆を避難させた。
まったく頭が下がるよ。
この絶望の最中で未来に希望を繋げようとしているんだもん。
そして、私の役目はそんな彼の命を刈り取ること。
口が裂けても言えないけれど、彼は数刻後、徹底的に辱められた後に惨殺される。
悲鳴も命乞いも祈りさえも届かない中で死んでいく――。
「しかし、最期にこんな晩酌相手が出来るなんてな。嬉しい誤算だ」
――そうかもしれない。
私からしても彼に姿を見られるなんて想定していなかった。
寝ぐせだって直していないのにさぁ……あぁ、もう恥ずかしい。
だけどまぁ、そりゃ自分しか居ないはずの城に人影が見えたなら気づくか、普通。
「さて、と」
彼は立ちあがる。
愛用の槍を手に取って。
「どうやらぼちぼち魔王が来るようだ。君はそろそろ隠れたまえ」
「ありがたい話ですがね。生憎私は魔王にだって姿は見えないんですよ」
「なら、何で私には見えるんだ?」
「……何でですかね」
言えるわけないでしょ……いや、言う必要もないでしょ?
死神が見えるのは死の淵にある人間だけだなんて。
「――野暮な質問だったな」
「本当ですよ」
老齢の騎士は笑った。
あぁ。
魔王の魔力が近づいて来る――。
この人は本当に一人きりで死んじゃうんだな。
……。
どうせ、もう守秘義務漏らしちゃっているんだ。
もう少しだけ破っちゃえ。
「騎士様」
「なんだ?」
「これは独り言なんですがね……」
「独り言?」
怯えた顔に教えてあげる。
「本当なら今夜、私はもっともっと忙しくなっていた予定でした」
「どういう意味だ?」
「どういう意味でしょう?」
くすりと笑った私を見返す表情からはもう恐怖の色が消えていた。
騎士もまた子供のように笑うと地平線を睨む――魔王の恐ろしい魔力はもう目視できるほどだった。
「――ご武運を」
赤い月は高潔なる騎士を鮮やかに照らしていた。