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遥か画面の向こうから

『リスナーの皆、こんゼリカ〜! 今日は雑談枠で皆がくれたメッセージを読んだりしていこうかな! そんなわけでどしどし送ってきてね!』


 画面の向こうに、天使がいた。

 それは比喩でもなんでもなく、実際に、白いローブを纏う、翼が生えた金髪碧眼の美少女が、画面を見ている俺たちリスナーから送られてきたメッセージを読み上げようとしているのだ。


 Vtuber。ざっくりいってしまうのなら、2Dの立ち絵や3Dモデルに中の人を当てがって、設定をある程度順守しながら、色々な配信をやっている存在のことだ。


 そんな、今時小学生だって知っているような話はどうでもいい。

 ただ、俺の目の前には画面があって、画面の中で、彼女は──Vtuber、アンゼリカ・ベルナルは今、深夜なのにもかかわらず、底抜けに明るい声で、リスナーから送られてきたメッセージを、透き通った、砂糖菓子のような声で読み上げている。


 それが、この部屋における全てだった。


『なになに、目玉焼きには醤油とソースどっち派かって? えっこれ答えていいの? きのこたけのこみたいなものじゃないの? あたし怒られたりしない?』


:草

:えらいこっちゃ、戦争や……!

:塩しか勝たん

:一向に醤油なんだが?

:目玉焼きに醤油かけて食ってるやつはなにやらせてもダメ


『えー、なになに……早速コメント欄炎上してるじゃん! 仲良くしようよ! 皆違って皆いい! ほら、えーっと……天界も地上界もダイバーシティだよ今の時代は! あたしは醤油派だけど!』


:一言で矛盾させるのはやめろ

:アンジェちゃんが醤油派なら、俺は信仰を捨てる……っ……!

:醤油しか勝たん【¥10000】

:おい誰だ今赤スパ送ったのwww

:塩ニキが一瞬で手のひら返してて草

:ソース派は所詮先の時代の敗北者じゃけえ【¥500】

:ハァ……ハァ……敗北者……?

:乗るなソース! 戻れ!


 画面の中で次々と自動スクロールされていくコメントをぼんやりと眺めながら、俺──久城陽太は、別タブで開いていたメッセージボックスに、同じ文章を書いては消してを繰り返していた。


 書いている内容なんて、大したことじゃない。いってしまえば、ただのお悩み相談だ。

 他人からすれば、くだらないと鼻で笑い飛ばす程度の話。

 だけど、この暗く狭い部屋に篭っている俺にとっては切実な話。


 アンゼリカは、よっぽどひどいメッセージでもなければ、大体拾って読み上げてくれる。

 そういうスタンスでやっているからだ。


 下ネタとか、所属事務所の「シュヴァルツェスブルク」がそういうNGなものは事前に排除してるだろうから、彼女が映る画面の中には、ほとんどいつも優しい世界が広がっている。


 そんなアンゼリカの配信を「天国」と呼ぶリスナーたちも多い。


 誰のことも傷つけないし、誰も傷つかないようなメッセージを読み上げてネタにしていくアンゼリカの気配り力だとか、たまにくるガチなお悩みに対して真剣に答えてくれるところだとかを考えれば、確かにこの画面の中には、天国が広がっているといえるのだろう。


 だからこそ、怖かった。躊躇っていた。

 今回の配信に寄せられているメッセージが概ねネタ寄りなのもあるから、俺の悩みなんて、言葉なんて、彼女には届かないんじゃないかと。


 いや、読まれないだけならまだいい。

 下手に取り上げられて、この空気をぶち壊しにしてしまうことの方が、よっぽど恐ろしくて。

 空気が読めないからと除け者にされてきた記憶がフラッシュバックして、俺は未だに送信ボタンを押せないでいるのだ。


 変わりたかった。

 別にモテたいとか、居場所がない高校に戻って、周りのやつらを見返してやりたいとか、そういうことじゃない。


 どんなにつらくても俺が我慢すればいいさ、と、嵐が過ぎ去っていくのをただ待つだけの、漠然とした死にたさを抱えているだけの、そんな惨めな人生とお別れしたいだけだった。


 それなのに、変わりたいと、確かにそう思っているのに、変わる勇気がなくて、誰かに背中を押してほしくて。

 だけど、家族とか、顔をよく見知った誰かは嫌だと、そんなわがままを振りかざしている。

 そんな俺が、俺なんかが、アンゼリカに救いを求める資格なんてあるんだろうか。


 震える指先をマウスの左に添えて、メッセージを送信する、という項目にカーソルを合わせる。

 そうだ。ここでも逃げたら、なんにもならない。


 読まれなくてもいい、いっそ、空気が滅茶苦茶になってしまってもいい。

 あと少し、あと一欠片だけの勇気をここで振り絞らなければ、きっと俺は一生変わることなんてできないんだ、だから。


 かちり、と、クリック音が暗く狭い部屋を走る。アンゼリカの声が聞こえなくなるほど、心臓がばくばくと喚き立てている。

 それでも、俺は。俺は、確かにメッセージを送っていた。


 天使に縋るように、助け舟を求めるように。

 情けないけど、精一杯に振り絞った、負け犬なりの勇気で。そして。


『次のリスナーさんからは……お悩み相談だね! ふむふむ……あたしみたいに明るくなりたい、でも、失敗するのが怖い、かぁ……なるほど!』


 読まれた。読まれて、くれた。

 高鳴る心臓が、叫びを通り越して暗闇に吼える。


『自分を変えたい……その気持ちはあたしもわかるよ! でも、失敗するのが怖かったり、急にイメチェンしたら笑われるんじゃないかって気持ちになるのもとってもわかる! だけどさ、あたしは応援するよ! 形から入ってもいい、小さいことでもいい! 君が変われなくて悩み苦しんでいるのも、変わりたくて頑張ってるのも、あたしはちゃんと知ったから、応援してるよ! 例え皆が君を指差して笑ったとしても、あたしだけは君の味方だよ!』


 その言葉が例え本心からのものじゃなくて、営業トークであったとしても、俺は……なんだろうな。救われた気がしたんだ。


 俺みたいなどうしようもないやつでも生きてていいんだって、アンゼリカは、そんなやつの味方でいてくれるって、そう思えたから。


 だから、今の俺がある。髪を美容院で切って、筋トレをして、野暮ったい眼鏡をコンタクトに変えて──アンゼリカの背中を追いかけるように、明るく振る舞って。


 そこからはもう、がむしゃらだったから、正直なところ、本当に変われたかどうかは今もまだわからない。


 それでも、暗く狭い部屋を出て、一年出遅れたとはいえ、無事高校を卒業し、曲がりなりにも社会人として今日まで生き延びてこられたのは、そんな些細で他愛もない特別が──推しの言葉が、存在があったからだ。


 誰がなんと言おうとも、そこに間違いはない。

 今でも鮮やかに思い出すことができる、青い感傷。そんなものが今、走馬灯のように脳裏をよぎっているのは、きっと。


 叩きつけるような、そうでなければ、バケツをひっくり返したような土砂降りの中で、キャリーケースを隣人にして、女の子が公園のベンチに蹲っていた。


 彼女が、なにか特殊な趣味を持ち合わせた変人の可能性も否定できないのかもしれない。

 だけど、この雨の中、傘を差さないで街を歩く馬鹿野郎なんて、天気予報を信じなかった俺ぐらいで十分だろうよ。


 まあ、とりあえずはこの女の子も傘を忘れたと仮定して、だ。

 それにしたって、土砂降りの中で虚ろな目をして膝を抱えているのはどこからどう見ても異常だろう。


 困っている人には親切にするものだとか、そういう説教くさい話を他人に押しつけるつもりはない。


 それでも俺は、誰かに、手を差し伸べたかった。

 あの日、画面の向こうにいる天使にそうしてもらったように、俺も。その子に声をかけたのは、ただ、それだけのつもりだったんだ。


「あんまり雨に濡れてると、風邪引くよ」


 傘持ってない俺が言えたことじゃないけどさ。

 そんな風におどけた呼びかけに反応したのか、ゆらりと膝に埋めていたその子の顔が持ち上がった。


 赤みがかかった大きな瞳は、世界の全てに絶望したように虚ろで焦点が定まっていないし、セミロングの黒髪は雨に濡れてべしょべしょになってしまっている。


「……綺麗だね」


 不謹慎だけど──俺はどうしてか、その子を見た瞬間に、そう呟いていた。

 綺麗、というよりは儚い、といった方が正しいのかもしれない。例えるのなら、砂糖細工や、降り積もる雪のように、触れただけで崩れていきそうな淡さが、彼女の瞳からは伝わってくる。


 いってしまえば、俺がこの子に声をかけたのは、ただのエゴみたいなものだった。

 自分がそうしたいから、そうしてもらったから。大層な理由も正義感もなにも、そこにはなかったはずで、きっとただの自己満足で終わる──そのはずだったんだ。


「……そんなこと……ない、です」


 だけど、神様は振ったサイコロを盛大にひっくり返しやがったようだった。


 絞り出すように、彼女の舌先から転がり落ちてきた言葉──それ自体は申し訳ないけど、どうでもいい。


 でも、その声は。砂糖菓子のように甘く、そして透き通った声色は。


「アンゼリカ・ベルナル……?」

「えっ……」


 震える唇が、その名前を呼ぶ。

 間違えるはずはない。だって、それは。

 数えることすらやめるほどに聴き続けていた──最推しの、アンゼリカの声なのだから。

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