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短編集  作者: 燐火
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雛菊の暗躍

ーーこっちがほんとの裏話ってわけ。


華陽の雛菊の裏話、てきな?

過去作。一応、当時考えてたまま。

これをよんだら、たぶん題名の意味は分かるはず。


自分の息の音が、耳に響く。地をければ、響きが体を通り越して、コンクリートの建物を揺らしているかのように感じる。右手に握りしめた鉄の塊が段々と熱を帯びて、手から逃れようとする。緊張というよりは、冷や汗に近い。今回の作戦は、成功させなければならない。私の今回の本当の目的、狂桜の研究書類の確認のためにも。

低いヒールの靴にしておいて本当によかったと今更ながらに思う。そうでなければ、途中で転んで失敗していたかもしれない。かといって、女性はヒールの靴を履いていなければ、目をつけられていた可能性がある場所だったのだ。今回の潜入した場所、DTOの支部は。さすが公的機関、とでもいえばいいのだろうか。


靴が階段とあたって、大きく音を立てている。私は陽動で、成功のためにも音を立てなければならないのだけれども、基本的に隠密行動を心掛けている身としては不安になる。


狭っ苦しい階段をついに最上まで上り切って、鉄の重いドアを開ける。強く、風が耳元を唸りながら通り過ぎていった。遥か下から響くDTOの部隊が立てているであろう靴音も、唸る風がさらって下へ、下へと押し込めていった。

屋上まで来たら、私は姿をDTOの前に表さなくてはならない。それが、陽動である私の役目であり、DTOの前に出ることでDTOの意識を私へと集中させるためだ。

鍵をかけた鉄の扉を思いっきり閉めて、ノブを銃弾で打ち抜く。こうしたらドアを蹴り破らない限り、開くことはない、はずだ。多分。銃声が大きな音を立てて夜のネオン街に響いた。この地では、銃声なんて日常茶飯事で、気にする人などなかなかいない。それこそ、DTOや旅行者、新参者ぐらいである。

ま、こんなことはただの時間稼ぎで、ルイス―私の今の上司―とDTOと、『伯巴』―今、私が属している組織―に対する抵抗でしかない。もしかしたら、完全なる隠密行動のできない八つ当たりかも知れない。それに、やる必要はあるかと問われればないとしか答えられないのだけれど。


大きく息を吸って、吐いて、鉄の扉の向こうので、扉があかないと叫ぶDTOの部隊の声を聞き流し、思惑が成功したことを悟る。続いて起こる、ガンガンと扉へと攻撃しているような喧騒を聞き流し、扉とは反対側にあるフェンスの前までたどり着く。


20階という、この街では比較的高い部類に入るこのビルの屋上から見るネオン街の夜景は何とも言い難い。綺麗、というよりは、人間の醜悪さが出ているように見えて、だ。

遠く、空を仰げば雲に一部を隠されながらも、望月が煌々と浮かんでいた。


ひとつ息を吐いて、胸の高さまであるフェンスに手をかけて飛び乗り、フェンスの向こう側に足を下す。

準備しておいた、向かいのビルにつながれた強靭なワイヤーを手に取り、持ち手として、皮を巻いておいた部分を左手で持つ。次は、DTOの部隊が扉を突破した後の行動。ここから、向かいのビルの10階めがけて飛び降りるのだ。それを確実とするためのワイヤーだ。

右手に持ったままの銃の銃弾を転送して、次に備える。飛び降りる目的の10階はガラス張り。蹴破れないこともないが、保険のためにも銃弾を撃ち込むつもりだった。防弾ガラスでないことだけは、事前に確認してあった。

鉄の扉が破壊された、大きな音が背後で響き、数名の靴音が聞こえた。やっと突破したか。


「…ベレン、とまれっ!」


呼ばれた名に反応して、ゆっくりと顔だけで振り返る。右手に持ったままの鉄の塊は、下したままに。きっと、彼らにも右手に持ったこの凶器は見えているはずだ。そして、私の能力が高いことを、これまでの邂逅においての対立で知っているはずだった。だからこそ、黒いスーツを着た男たちは黒光りする銃を構えて、こちらを睨み付けている。


その中に見つけた古なじみの顔…ずいぶん昔に交流した男らの顔に、私はニコリと笑みを張り付ける。

男たちが動揺して気配が揺らいだ。交流した相手に凶器を向けるという恐怖によってか、『伯巴』の幹部である私に応対している興奮によってか、彼らが震えながら鋼鉄の塊を私に向けたのを感じた。


…もう、実行しか許されない。いつも思うが、『伯巴』の幹部としての仕事は面倒な事ばかりだ。これも成功したら、もっと面倒くさいものを回されるのか、と考えると憂鬱にもなるし、やりたくもなくなる。生存のためには、あの人のためには、やるしかないのだけれど。


ひとつ、息を吸って目を見開く。躊躇した時間は、戸惑いか、諦めか。


「…バイバイ」


小さく呟いて、ヒールを鳴らして飛び降りる。風が耳元を唸り、通り過ぎる。右手に持った銃で銃弾を撃った後すぐに転送して、三か所ほど窓ガラスを打ち抜いて、足でガラスを蹴破って、ワイヤーから手を放し、ビルの中に入り込む。


良かった。成功だ。


「っ、ベレン!!」


彼らは撃とうとはしなかった。空中で撃たれる=死の危険だからかもしれない。甘いなぁ、って思うけれど仕方がないのかもしれない。何せ、彼らが属しているのは公的機関だから。

背後の大破したガラスの向こう、風が気まぐれにも届けた、必死そうな男ららしき声。


無視をして、奥へと足を進める。このビルの非常階段は…次の角を右に曲がったところ。行かなければいけないフロアは、3階。そこに、逃走用のバイクを置いていた。階段を飛び降りて、3階を目指す。階段から廊下へと入り、もっと奥へと足を進める。あの部屋は、あと三つ廊下を通り抜けたところだ。毎回、入念に左右も前後も見て、走り続ける。そして、目当ての部屋の扉の前にたどり着く。


小さな扉に着く窓から中を覗き見て、誰もいないように見えて、大丈夫であろうと判断する。ドアノブに手をかけた瞬間、嫌な予感とかすかな気配がして、開けると同時に後ろ受け身をとる。


爆発音が背後、扉の向こうでなった。


「いらっしゃーい、ベレン」


男の甘い特徴的な声が、未だに爆発音がわんわんと音が反響する中を貫いた。

こんなところで聞くことになるとは、思ってはいなかった。もう二度と聞かないであろうと思ったことのある声で、もう二度と聞かないことを望んだ声で、基本、いろんな意味で嫌な記憶しか思い起こさせない声。


「…アラカジュ。お前、生きてたんだな」


さすが、『伯巴』で幹部を獲得しただけはある。


粉塵の向こうから、月光を逆光にコツコツと近づいてくる靴音。

黒い人影が煙の向こうにうっすらと見えてくる。


確実に、あの攻防劇はフェイク。『伯巴』には言う必要もないので、基本、これからも黙っているだろうし、気づいていないふりを続けるだろうこと。まぁ、あんな組織に潜入していた奴への餞、であるのかもしれない。


「ベレンも、生きてたんだねー」


お前が言うな、と怒鳴りたい言葉だ。お前のほうが死の危険により近いであろうに。


左手で、黒いスカートの下、左足のホルスターに仕舞っていた銃をつかむ。オートマチックのこちらは、装填しなくても弾…針型の睡眠弾は打てる状態にある。彼の足音に合わせて、ゆっくりと左手を持ち上げる。


ここは、早くに突破しなければ今まで稼いだ時間もなくなってしまうし、仕事の遅さにおいてルイスに嫌味を言われかねない。それは本当に嫌だ。っていうか、面倒なことになる。


「…そうそうくたばってたまるか」


くたばるなんぞできるはずもない。なにせ、『華陽』の幹部として私は存在するのだから。

アラカジュのいる向こう側の山の向こうに、バイクがあるはずだ。早くいかなければいけないが、かといって焦ってしまえば、私が負ける、かもしれない。


時間が問題であるのは、アラカジュの所属がDTOであろうことが問題であった。そして、アラカジュの力量が私と近いことも。そして、DTOは私の真の所属を知らないことにもあった。


「ねー、ベレンは、どこの所属?」


…笑ってしまうことだ。DTOですら『華陽』の情報は手に入れられないことを証明したのだから。そして、今回の作戦は、『華陽』内部で起きたことが原因であることも。


靴音が小さくなくなった扉の向こうから聞こえてきた。


「私は…黒、だよっ!」


そう、黒でしかないのだ。所属が『華陽』であったとしても。


『華陽』は、黒でしかないのだから。…そんなこと、あの時からわかっていた。入らざるを得なかったあの時から。


粉塵が晴れたことで見えたアラカジュの頭に左手から睡眠弾を打ち出す。


その針は見事にアラカジュに被弾して、即効性の睡眠薬によってアラカジュの足は力を失くしてへたり込んだ。つまり、眠ったのだ、きっと。彼の閉じられた目を確認もせずに私は彼の体を迂回して奥へと走る。

廃材の山と棚を回り込んで、見つけたバイク。鍵を差し込み、傷がないことをぐるりと回って確認して、左手の銃をしまい、バイクにまたがる。


前もって、強靭なゴムであるとはいえタイヤがパンクしては困るので、ガラスを排除しておいた窓。


エンジンをかけ、最大出力で窓へと走らせる。DTOのものであろう靴音が、この部屋に入ってきたのであろう次の刹那、私は、下へと落ちていく。


地面をバウンドしながらも、無傷で、道路に降りることに成功する。

出力は最大のまま、バイクでとばす。


このまま行けば、この道は私たちの使う地下道につながっている。アラカジュが消息不明になったのちに作られたものであるから、アラカジュやDTOには到底知りようもないものだ。……ちなみに、『華陽』は知っている。あの狂った発明家兼研究家がいて、情報に強すぎて、百科事典扱いされている私の幼馴染もいるのだ。わからないはずがなかった。


『ザザ…こちら、テレジーナ。任務完了。ただいま、U-5に向かっている。ベレンどうぞ』


いきなり、耳につけたイヤホンに連絡が入った。

バイクのハンドルから右手を話し、口元のマイクの電源を入れる。


「…こちら、ベレン。同じく任務完了。ただいま、U-3に向かっている。…ルイスどうぞ」


言い切って、マイクの電源を切る。


『…こちら、ルイス。了解。帰ったらより詳しい報告を待っている。…U-9で待っている』


なんで、こんなに働いた後にルイスの顔を見なければいけないんだろうか。ただでさえ、アラカジュという変態とあって、所属についての話をされて、疲れているというのに。

はぁ、とため息を隠さずついて、地下への入り口がある建物へと入るために、バイクを少しだけ減速させる。右足につけたもう一つのホルスターから、地下への入り口を開くためだけに作られた銃、弾は特殊な物、を引き抜く。玄関前のポストらしきものに、銃弾を撃ち込む。


数秒も待たずに、庭と道を区切る柵が下に沈み、プレートに乗った庭は家のほうに、半分だけ跳ね上がった。入口の完成だ。

私はそのまま、バイクをその地下へと走らせる。


無機質な白い道を進んで、ホルスターに使った銃を戻す。


1分ほど進めば、無機質な白い道の途中で、受付のカウンターのようなものが見えた。

その手前で減速して止め、バイクをそこにいた人に渡す。


「5398番のバイクですね。鍵と共に、お預かりいたします」


無機質に、ただただ冷淡な返しをする事務員。

あぁと頷きを言葉に返して、ルイスの言っていたことを思い出して言う。


「U-9へと向かいたい。コミューターの手配を」


さすがに、徒歩でU-9に向かうのは自殺行為もいいところだ。なにしろ、U-9はここから遠い。

距離的な意味でも、時間的な意味でも、体力的な意味でも、上官命令的な意味でも。


私は着ている黒いスーツのジャケットの内ポケットから一枚のカードを取り出す。

私の持っているカードを目にとめた事務員は、右手で何かのボタンを押した。

受付の右隣の壁が開き、道を作り出した。


変わらない、白い無機質な道。しかし、奥にはエレベーターの扉と似たような扉があった。


「使い方は知っていると思いますので、行き先だけはしっかりと指定してください」


変わらない表情のまま、奥を右手で指示して言った事務員。

私は、会釈だけして、その道に足を踏み入れる。


三歩ほど進んだところで、背後の壁が閉じた。

閉じた壁に目も、意識もむけずにただ、目前に見える扉へと歩みを進める。


響く足音がだんだんと早くなっていくように感じる。


エレベーターのように、両隣へと開いていくスタイルの扉。本来なら、回数表示や上か下かの分岐を尋ねるボタンのある場所にA5用紙を横長に置いたぐらいの大きさのタッチパネルがあった。


黒い画面に指を触れさせて、画面を起こす。


白く立ち上がった画面は使用者の記入を求めているので、さっき内ポケットから出したカードにのっている幹部コードを打ち込む。

一応覚えてはいるのだが、本来は『伯巴』所属ではないため、保険のためにも見ながら打ち込むことにしている。『華陽』にも同じようにコードは存在して、そちらの本来のコードと間違えかけることが多々あるから、間違えないためにも。

グルグルと通信を終えた画面は、行き先の記入を求めるので、U-9を行き先の欄から探し出して触れる。


####

User(使用者):Executive(幹部)「Berenベレン

To(行き先):「U-9」


Is this OK?(これでよろしいですか?)


Yesはい

Noいいえ

####


「Yes」の文字に触れる。

画面が白く染まって準備中ですと表示した。

溜息をついて、左手で持っていたカードを元の場所に仕舞う。


準備中と示したままの画面に、右目をつぶって、大きめで銀縁の眼鏡のグラスに注目する。


友達であり、同僚つまり、『華陽』に所属していて、幹部である同い年の少女…狂桜ではない、に、『伯巴』に入る前に作ってもらったもの。この界隈…とくに『伯巴』に所属してから、何度も危機から逃れさせ、私の命をも救ったものだ。


特定の発信機にだけ、反応するこの眼鏡は、その発信機を赤い点で表示する。

難点は、相手の目がよければ、眼鏡のガラスに映った点が見えてしまうこと。

…まぁ、そんな人に出会ったことはあっても、発信器を誰につけているのかを私が言わなければ、意味がないのだが。

こちらの方面に、DTOの部隊につけた発信機の赤い点がどれも動いてきていないのが確認できた。良かった。ここがばれていれば、極刑になって、抜け出すのが面倒くさいことになる。


嘆息して、目を戻せば、画面は準備完了を告げて扉を開くためのスイッチを表示していた。

四角い中に「Open(開く)」とかかれたそれに触れる。


白い扉が左右へと開いていった。変わらぬ白い床に壁に天井。白い光が、煌々と白さを引き立てていた。ただ、横に走る道の真ん中がへこんでいて4本のレールがはられていた。

一番私の居る所に近いレールに、大きな卵の下部を平らに切ったような形の扉のついた白いものがあった。


その白い卵型のようなものが、コミューターだ。


扉を開けて、中に入り、扉を後ろ手で閉めて、進行方向を向く白いシートに腰掛ける。

シートの前には、先ほどと同じくらいの大きさの画面があった。

画面は白い背景に、文字を表示していた。


####

User(使用者):Executive(幹部)「Berenベレン

To(行き先):「U-9」

Required Time(所要時間):「10minute(10分)」


Are you ready?(準備はよろしいですか?)


・Go!(いいよ!)

・Wait!(まって!)

####


『華陽』ではありふれた、ふざけているような文面にふっと顔が緩むのがわかる。ホームシック、じみたものだろうか?

「Go!」の文字に触れる。


画面の「Are you ready?」以降の文字が消えて、ゆるりとコミューターが動き始める。


緩やかな、振動を感じさせない動きに、疲労感からか私はいつしか眠りに誘われていた。


***


頭が前へがくりと動いて、その衝撃で頭の中の霞が徐々に晴れていく。


寝起きの目にチカチカと存在を主張する白い画面は、「Thank you for riding!(乗ってくれてありがとう!)」と「Please get off the left door(左側のドアから降りてください)」を表示していた。


その文字に、ばっと頭をあげて立ち上がる。

視界の上半分を黒が覆った。くらくらとしたまま、左手側の扉を開ける。


白い道に降り立ち、乗っていたコミューターが背後で、わずかなモーター音だけを鳴らして、進んでいくのを感じた。

マイクの電源を入れ、しゃべりかける。


「こちら、ベレン。ただいまU-9に到着いたしました。…ルイスどうぞ」


…幹部を4人も使うなんて、ずいぶんと贅沢だと思わないわけではないが、それだけ、今回の作戦は重要だったのだ。それこそ、私にとっても、『伯巴』にとっても。


『…こちら、ルイス。4のビルの地下3階のB305に来てくれ…』


イヤホンはこれだけを伝えて、沈黙した。


そして、幹部をこんなにも豪勢に使うということは、私、テレジーナ、マナウス、フォルタレザ、のうちの誰かがいらないもの…つまり、NOC、スパイだと思われているのだろう。


私がそうだと思われている可能性は決して低くはない。


端末を取り出して、アプリを立ち上げ、4のビルを探す。コミューターを使って行くことはめったにないのだ。場所など分かるはずもない。人の通行の邪魔にならないように、壁際によって。端末に描かれた地図を頭の中に叩き込んで、現在地を確認して、歩き出す。

ここからなら、意外と早くつけそうだ。


目に映った白い壁にところどころある扉の隣の標識が、第2ビルと書いてあった。そのまま、足を進める。


普通なら、こういう廊下は灰色にするのではないだろうか。ふと、そう思う。…私が通った事のある、組織的な建物の廊下…もちろん、『伯巴』や『華陽』も含めて…は、全て、灰色ではなかったのだけれど。


『…ザザザ、ザ…こちら、テレジーナ。U-9に到着いたしました。今から4のビル、地下3階のB305まで参ります。…ルイス、どうぞ』


彼女も、私が部屋に着けば、あまり時間もかからずにつける位置にいるのだろう。


ここが4のビル、か。


白い、左右に開くであろう扉の横の標識は、第4ビルと文字が刻まれていた。


『こちら、ルイス。了解だ。待っている』


私の時よりも応対の声は柔らかい。ルイスとテレジーナは、といった関係だ。わかりやすく見えてわかりにくい。


標識の下に、ICカードを触れさせる機械があった。内ポケットから、コミューターに乗るときも使ったカードを取り出し、表の面を黒いリーダーに触れさせる。電子音がして、白い扉が左右へと開いた。床は、白い切れ目のない人工的なものから、足音を吸収する紺色の毛の短い絨毯に変わり、壁は白く、漆喰のようなもので覆われながらも所々に位置する木材がいいアクセントになっていた。扉も、白い両開きの扉ではなかった。早足で廊下を通り抜け、階段を降りる。たった一階だけの移動にエレベーターを使う気は無い。そして、また廊下を進む。4個ほどの扉を数えたところで、B305の標識を見つけた。


ひとつ、大きく息を吐いて、吸う。入りにくいことこの上ない。しかし、入らざるを得ないのだ。よし、入ろうか。


スモークガラスの下、取っ手の上、自分の胸と同じぐらいの位置で3回、扉を拳で叩く。


「ベレンです。入ってもよろしいでしょうか」

「………入れ」


思索によるものなのか、少し間があいたのち、不機嫌そうな声が入室を促した。


取っ手に手をかけて、押す。何気ない仕草なのにいつもよりも緊張しているのか、鼓動が早い。


「失礼します」


踏み入れた足が廊下よりも毛の長い絨毯に沈む。

紺ではなく暗めの灰色に白などが幾何学的な模様を描く床。変わらない壁を木目の美しい本棚が覆い隠し、本棚に収まる本たちは背表紙を見るだけで、内容も国も混沌としていることがわかる。


アイツ、ルイスは本棚に囲まれた向こう、重厚な机に向かって座っていた。見れば、10センチほどの書類の山が彼が確認中の書類の左右に積まれていた。


「……少しだけ待て」


ルイスの短くそろえられた黒髪がさらりと揺れた。彼は黒いであろう目を書類に落としたまま、手を動かしつつ言った。


それに私は何も言わず、本棚へと近づく。


英語、ドイツ語、日本語、フランス語、英語、スペイン語…。

脳科学、爆発物、生物学、ホラー小説、SF小説、歴史小説…。


一目見ただけでもそれだけ見つかる。


目線を、目の高さの段からひとつ上の段へと移したとき、ある一つの日本語で書かれたらしい恋愛小説があった。

文庫本らしく、ハードカバーの本たちに挟まれて窮屈そうなその本。


私は思わず手を伸ばす。


「テレジーナです。入ってもいいでしょうか」


凛とした、ベルを鳴らしたような声が扉を通過した。部屋に漂う空気が変わった。


「…あぁ、入れ」


対応する声は甘く、アイツの雰囲気が柔らかくなるのがわかった。扉が開くのを背後で感じながら伸ばした手をゆるりと下げ、テレジーナとルイスに向き直る。


昔、私のいた国では珍しい、ふわふわとした色の薄い茶色の髪を持つテレジーナ。彼女の苛烈そうな眼も私のいた国では珍しい碧色だ。


音を立てて、ペンを机の上に置いたルイス。

テレジーナが、ルイスの机の前、2メートルほど離れたところに立つ。一メートルほど離れて隣に並んで、背筋を伸ばす。ルイスの纏う空気が変化して、彼は目線をゆっくりと上げた。


「…ベレン、報告を」


威圧感のある声、重厚な雰囲気がこの部屋に蔓延した。


「…はい」


今回の作戦。

簡単に言えば、DTOからの情報の奪取だ。


…ただ、今回の物はDTOにとっても、こちら…通称『伯巴』にとっても、そして…私にとっても重要なものだ。


まず、なんといっても重要度合いが半端ない。


『華陽』、この言葉に反応しただけでその人物は裏・黒の者、もしくは裏・黒の事情に少しでも関与しているとみられる。

その『華陽』に所属している人員のひとり、世間に恐れられるマッドサイエンティスト、通称…狂桜の研究の一部をDTOが入手したというのだ。

基本的に、狂桜の研究は世界の最先端を行きながらも、危険すぎるものばかりである。そのせいか、『華陽』の他のメンバーによって、闇に葬り去られた研究も多いという。

DTOが直接宣言した訳ではないが、裏というものは情報が命だ。そんな中で、噂になってしまった、その情報。とても信憑性の高いものだ。

そして、『華陽』ならまだしも、DTOならば、情報は奪い取ることはたやすい。

そうふんだ『伯巴』は、その研究情報を奪い取るためにこの作戦を立てたのだ。『伯巴』のDTOの情報によると、研究情報のあり得る場所は2ヵ所。それを、テレジーナとフロリア、ノーポリスのコンビの部下の1人、フォルタレザが担当し、そこの警備を薄れさせるために、陽動としてDTOのNOC情報を奪うという演技をしたのが、フロリア、ノーポリスのコンビの部下のもう1人である、マナウス。さらに、その陽動として、DTOの組織のアジトの場所の情報を奪うのが私、だった。


3重、否、どちらかといえば2重の作戦で挑んだこれ。


「まず、DTOの組織のアジトの情報は、こちらのUSBに写しておきました」


ジャケットの右側の内ポケットに入っている情報媒体を左手で取り出す。

左側の内ポケットに入っているのがカードだ。

4歩ほど近づいて、USBを机の上に置き、下がる。


「…後で確認しよう」


ルイスの言葉に、一つ頷きを返して言う。


「次に、DTOの人員で死傷者は無し」


私がじぃと見たままのルイスは、瞬きを一つした。それを確認して、ルイスが発言する前に述べる。


「最後に…アラカジュと応対しました」


ルイスの目が見開かれた。テレジーナのオーラが揺れた。


目を元に戻して、ルイスは言った。


「……生きていたのか」


私は確信する。アラカジュの生存の理由は3択である、と。


そして、きっと…。


「…まぁ、いい。テレジーナ、報告を」


視線をルイスに向けたまま、私はテレジーナの声に耳を傾ける。


「まず、狂桜の研究情報についてですが、私の担当ヵ所にあったのですが、総データ量が予想の他に大きく、時間が足りなくなりそうだったので、USB2つに情報を分けております」


つかつかと歩いて、机の上に2つのUSBを置いた。


「…よくやった」


ルイスはニヤリと顔を歪ませた。


元の位置に戻ったテレジーナ。嬉しそうというよりは、どこか屈辱的な表情だ。


「次に、DTOの部隊、AKに見つかり、交戦しました。双方無傷で私は逃走しました」


LAか。期待の新人っていう奴だったような。


「…そうか」


ルイスの顔から表情が消えた。何かを思案し始めたルイス。静寂が、空間を満たしていた。


いきなり、この空気を切り裂くかのようにノックの音が響いた。


「フロリアでーす」

「ノーポリスだよー」


少年のように男性にしては高めの声が2つ。


ルイスの元上司、かつ、今回の作戦を部下に実行させたもうひとグループのリーダーだ。


「……入れ」


ルイスの表情がさらに能面になり、冷たささえ感じさせる低い声が促した。


「情報は取れたー?」


扉を大きく開けて、入ってくる白いお面をした、金髪の少年、フロリアが問うた。


「…あぁ、そっちははずれか」

「そうだよー」


フロリアの後ろから、黒いお面に遮られて見えない顔を出して、銀髪の少年、ノーポリスが答えた。


「何か、伝えないといけないことはありますか?」


フロリアとノーポリスの後ろから入ってきた二人の成人男性のうちの一人、眼鏡をかけたほう、マナウスが問う。言外に、フロリアとノーポリスのグループには、特に伝えることがないといっているようなものだった。


「…ベレンが、2年前に行方不明になったアラカジュと交戦した」


4人の顔が歪んだ。ルイスの顔も思いっきり歪められていた。アラカジュにはあまりいい思い出がない。それこそ、ここにいるほぼ全員の意見が一致するようなことだ。


「…あいつ、生きてたんだねー」


フロリアによって苦々しく吐かれたその言葉は、私含めて6人の同意を得た。

何故、アラカジュがこんなにも嫌われているのか、それは…。


「…ちっ…あんの、ハイブリットの変態め」


舌打ちして言ったのは、ずっと黙っていた、彫りの深い男、フォルタレザだ。


そう、アラカジュはハイブリットの変態とよく言われる。何しろ、被虐趣味と嗜虐趣味を持ち合わせており、かつ戦闘狂だからである。


そして、その性癖で持って、『伯巴』を幾度となく混沌におとしめたある意味での猛者だ。…アラカジュは戦闘能力が私と同等に近いぐらいであったので、私や、アラカジュと同等に強いフォルタレザもよくアラカジュの性癖に巻き込まれていた。


つまり、フォルタレザはこの中ではアラカジュの一番の被害者である。私は、アラカジュに会わないようになんとかしていたので、フォルタレザの被害よりは軽い(はずだ)。


「…あれは…DTOとヤりあって、でしたよね」


どちらかといえば頭脳班なマナウスは、私の推測と同じようなものにたどり着いたらしい。


「……ボスに報告してから確かめるべきだな」


同じく、頭脳班なルイスが言った。話はこれで終わりだとでもいうように、ルイスは立ち上がり、机の上にあった3つのUSBを私に渡した。


「…隣のB306で紙媒体に変えて、冊子にしておけ」


そういって、書類の整理に戻った。


「じゃあ、マナウス、ベレンについて、紙媒体に変えておいてねー」


ノーポリスが、手に持っていたらしいUSBをマナウスに渡して、フロリアと共にこの部屋から出ていった。


「…頼んだ」


フォルタレザは、そう言って足早にこの部屋を去った。


「…ベレン、行きますか」


私に近づいてきて、そう言ったマナウスに手でちょっと待ってと示す。

コクリとうなづいた彼を目で確認して、私はルイスに声をかけた。


「ルイス」


書類から目をあげて、ペンの動きを止めた彼。ペンの先がイライラと机と当たって音を立てた。


「……なんだ」


不機嫌そうな声。彼の隣でテレジーナがこちらをじっと睨んでいた。


「…あの本、借りてもいいかしら」


右から2つ目、上から3つ目の棚を指し示す。


「……どの本だ」


以心伝心というわけでもないから、わからなくて当然だ。わかってほしいとも思ってはいない。

あの、文庫本の日本語の恋愛小説を手に取る。


「…この本」


ルイスの目が見開かれた。テレジーナの視線がふっと外れた。


「…いいわよ………あげるわ」


文庫本なのは、どうやらテレジーナが持ってきたからのようだ。ぶっきらぼうに、どうでも良さそうに彼女は言い切った。


「………ありがとう」


本をジャケットの右側のポケットに仕舞い込む。


踵を返して、待ってくれていたマナウスを伴って部屋から出る。


扉を閉めた音が思いの外廊下に響いた。

衣擦れの音だけが響く廊下をほんの数秒行けば、B306の部屋はあった。


「どうぞ」


すらりと伸びた長身のマナウスが片手で扉を抑え、もう片方の手を私に差し出していた。

目を細めそうになるのをこらえて、にこりと笑って差し出された手に片手をのせる。

するりという言葉が一番適当なのだろう。部屋の中に連れられていた。扉が閉まった音が、またもや大きく聞こえた。


「ありがとう」


もう一度、にこりと微笑んで言う。握られていた手は、思いのほか、軽く逃れることができる。


「いえいえ、いいのですよ」


笑みは、非常に美しいものなのに、ガラスの奥に宿る光が怖く思えた。


306は305と部屋の装飾はあまり変わらない。ただ、大きさが、305の二倍ほどあった。


大量の本がおさめられていた本棚が、ディスクや大量の紙媒体をおさめる棚へと変わり、重厚な机の代わりに、5つの業務用コピー機があった。


「マナウス、あなたの持つUSBはいくつ」


壁の際に置かれているコピー機までは十数歩分あった。コピー機を右から順に電源を入れていく。


「2つ、です」


なら、大丈夫そうね。


全てのコピー機の電源を入れ終え、起動を待つ。

三十秒も待たずして、立ち上がったそれについているパネルを操作し、USBポートにUSBを差し込んで、文書を全選択する。そのまま、印刷の表示を押す。

同じ様に、残り二つも操作する。


「必要時間はどれくらいですか」


同じ様に操作を終えたマナウスが問いかけてきた。


機械音を部屋に響かせながら動き始めたコピー機たち。


自身が操作した3つのパネルを覗き込み、時間を確認する。


「…一番多いので、枚数は321枚。時間に換算すると約30分というところね」


30分という待ち時間の間、何をしておこうかしら。


壁際にあった、スツールに座る。


「僕の方は、枚数は218枚、時間は約20分ぐらいです」


マナウスの言葉を聞き流して、右ポケットにしまった、あの小説を取り出す。


「そう」


彼には、これだけ言って、私は小説の扉を開く。


波に、呑まれたような感覚がした。


***


大量の紙が机を叩いた音で、波が遠くに遠ざかっていった。


小説の扉を名残惜しく感じながらも閉じる。


『流れ落ちた星は、未だ地上で輝いていた』


最後の一節が頭の中で揺蕩う。


「こちらは、終わりましたよ……そっちはどうですか」


彼の言葉も、頭の中でゆらりと揺れた。


小説をジャケットのポケットにしまう。


スツールから立ち上がり、コピー機のパネルを覗く。


「あと、8分ぐらいかかるわね」


印刷の音が部屋の中を通り抜けた。パラパラと資料をめくりながら私の言葉を聞いたマナウス。


私はスツールに座り直して、足を組む。あと8分。ぼーっとしていればすぐに過ぎ去ってしまうくらいの時間だ。すぐそばにあった棚に肘を置いて、頭をあずける。


扉から見て左側の棚の、新しいファイルいくつかとシール、ペンを取り出した。ファイルに資料を分けて挟み込み、シールに日付と内容の要旨を書きファイルに貼り付けた。


作業の音が心地よい眠りに意識を誘う。私は、組んでいた足を組み替える。眠らないように。


作業を終え、出来上がったファイルをコピー機の向こうの棚の箱に入れ、同じく、USBも箱に入れたマナウスは、こちらをじっと見つめて尋ねた。


「…ベレン、あなたに、少しお聞きしたいことがあったんです」


真剣な光が少し俯いた彼の目に宿っているのが見える。いったい、どのようなことが聞かれるのだろう。


「……アラカジュは、NOC…スパイだったと、思いますか」


どこか、苦々しげにつぶやかれた声。じぃと見つめる彼の感情はポーカーフェイスに阻まれてわからない。顔が上がったせいで光の反射により見えなくなった眼鏡の奥も、わからなかった。


「……その可能性が一番高い、でしょう?」


こんなところで、アラカジュの話をされるとは思わなかった。


ただ、あの時のDTOとアラカジュとの攻防には、不審な点がないわけではなかった。


「…アラカジュは、いろんな組織の猛者を退けられる猛者でしょう。だけれど…DTOのあの部隊は、あの部隊だけは別よ」


DTOごときに、ではないのだ。DTOの精鋭の…あの部隊だけは、アラカジュなら殺せるはずだ。そのことを、私は身をもって知っている。……誰にも、言う気はないのだが。


「……どういうことです」


怪訝そうに、驚きもなく言葉を飲み込んだマナウスが、問うた。

ファイルを持ったままの彼は、さっきから一歩も動いていなかった。


「2年前」


そう、あの件は2年前のこと。いろいろなことが重なった折に起こって、ほとんどが目を向けられなかったことだった。


「アラカジュはDTOの精鋭、DC率いる部隊に追われ、西部にある港で海を背にアラカジュはDCと向き合い、銃撃戦を行った……」


言葉を紡ぎ、マナウスを見やる。あの件は、情報として一応、軽くはまわっていたはずだ。


「そして、相手方を2人負傷させ、アラカジュはDCによって、腹を撃ち抜かれた…」


言葉を続けたマナウスの顔は白く見えた。蛍光灯の反射のせい、かもしれない。

私は、マナウスの顔から視線を外し、宙に彷徨わせる。


「……その後、アラカジュは海に落ちて行方不明。DTOの部隊も捜索したが、アラカジュの行方は分からなかったと公式に宣言した…」


ここまでが、DTOが公式に発表したものであり、『伯巴』の調べでも書類として残っているものである。


そして、私は続ける。


「ただ、DTOが発表した見解と、内容には含まれていないものがあった」


動き続けるコピー機の音など気にもならなかった。白く塗られた壁の向こうを眺めながら、私は言葉を紡ぐ。


「アラカジュが撃ち抜かれた時の銃弾と、あちら側の負傷者」


アラカジュが撃ち抜かれたとき、銃弾は貫通していたはずなのだ。現場に残っていたおびただしい血量から見ると。あれが、血糊でなかったならば。


ただ、銃弾の痕跡はなく、DTOも銃弾については何も語っていない。


そして、DTOの負傷者の数は明記されて、どれくらいの程度なのかは語られたが、誰がどこにどのくらいの傷を負ったのかは定かではない。


そもそも怪我人がいなかったのではないかというのが、一番妥当な見解だと思う。今となっては確かめようもないことだが。


「ただ、あのときは…」


何も持っていない手を、もう片方の手で強く握りしめながら、マナウスは私をじっと見つめている。


私は彼をチラッと見て、目を背け、彼の言葉に答える。


「そう、あの時、アラカジュの件で動けるものはいなかった」


それもそのはず。私も、後から聞いて、現場まで見に行ってやっと知った、わかったことだったのだから。


「『華陽』での、研究成果のお披露目、もとい、入り込んだ鼠への制裁の件で、ほとんどはいっぱいいっぱいだったのよね」


あのときはひどかった。1日に取れる睡眠は僅か2時間。研究室に行って、資料室に行って、ルイスや幹部と相談して……。今思い出しても、あの時のブラック企業化は大変辛かった。


「なるほど、その時期でしたか」


マナウスも、どこか遠くを見つめている。あの時期は本当に、経験していない新人が羨ましいと思うほどに酷かった。


「…その時期、頭脳派はこき使われましたからね……」


そう、動けるものは本当の下っ端か、幹部でも頭脳の面において全く役に立たない脳筋ぐらいだったのだ。


「そして、アラカジュはある意味で敬遠されていたから…」


そう、特に脳筋で、戦闘がうまい連中には軒並み嫌われていたのがアラカジュである。あの性癖のせいで。


「アラカジュに生きていてほしいと願う者なんて、なかなかいなかったのよ」


全ては、アラカジュの自業自得、否、計算なのかもしれないけれど。……あれが作られたものならばあれを演じきったことには称賛するし、あれが本性ならば、あれにここの潜入を任せた上司とやらと、あれがDTOに入った経緯がとても気になる。まぁ、どうでもいいが。


コピーの音が止まり、機械音がコピーの完了を知らせた。


私は、マナウスの視線を断ち切るように立ち上がり、コピー機に近づく。


デジタルにゼロと表示されたパネル。たまった200枚を超える紙を手に取り、傍にある机の上でそろえる。


大きな音が、机と紙によって作り出される。


左から、2つのファイルが差し出された。もう片方の彼の手には、ペンとシールが2枚。


「ありがとう」


そう言って、受け取って紙を分けて、ファイルに挟む。


『空間制御についての考察』


紙面の上部、題名と思しき場所に、他の文字よりも大きなフォントで示された文字列。


思考が、しろくそまった。


……え…?


なんで、これが、ここに…。


時間にしては、数瞬にも満たない間の事であっただろう。体感にしては、数分にも感じられることであったが。


「ベレンさん」


マナウスの、不思議そうな声音。こちらを少しうかがうように首を傾けていた。


「……なんでもないわ。ただ、驚いてしまっただけよ」


何でもないくせに。自分で言いつつも、胡散臭すぎる言葉。けれど、私は気にもしなかった。


シールに日付を書き込んで、ファイルに張り付ける。一方のファイルのシールには、ちゃんと、内容の要旨を書き込んで。


「そちらはどうするのです」


持ったままのもう一方のファイルと、ペン。それをいったん机の上において、内容の要旨も書き込んだシールを張り付けたファイルを棚に仕舞う。コピー機に刺さったままだったUSBも回収して、一つは箱に入れた。


「……こっちは、もうちょっと確認してからにするわ」


やはり、なんとも胡散臭い言い方だ。けれど、この研究内容について、確認がしたかった私の頭には、そんな考えは露も浮かばなかった。


「先に、退出していてもいいわよ、きっと、時間がかかるから」


ファイルを持ち出したいほどであるけれど、このファイルは持ち出しができない。かといって、追加で印刷すると、それは履歴や紙の残量によってわかってしまう。そして、それの所在によっては、私がNOCと勘繰られかねない。


「……わかりました…そこまで遅くならないように」


まるで、母親のような言葉を残し、マナウスは部屋を出ていった。そんな、いつもと違う彼の挙動にさえ、私は反応せず、ファイルに挟まれた書類の文字列に夢中になっていたのだ。


DTOに流出した狂桜の研究内容に。


いったい誰が、流したのか。


DTOが『華陽』から直接、入手したのならば、まだ話は早い。


だが、『華陽』のセキュリティはそれこそDTOの情報部隊でさえ手も足も出ない代物だ。


DTOに勝る、『伯巴』の情報部隊でさえかなわないのだから、これは確実だ。


…まぁ、秘蔵っ子がいるとでも考えてしまえば、いろいろと説が出てきて収集がつかなくなってしまうのだが…。


『華陽』にDTOのNOCがいるのか。いや、それはあり得ないだろう。二年前以来、『華陽』のメンツは変わっていないはずだ。

では、『華陽』にいる愉快犯の誰かが流したのか……。……それしかあり得まい。なぜ身内の犯行で私が動かねばならんのか……。潜入中だから仕方がないがうっとうしい。


『華陽』には、複数名の愉快犯がいると、『華陽』の複数名と同時に対峙した物の証言により判明している。


……『華陽』は、幹部一人がいるだけで、台風が起こるといわれているぐらいにはヤバイ、らしい。とは多くの裏社会のものが知っている。……事実でしかないことが悲しいことだ。


なんとなく、とてつもなく面倒なことになる予感がした。


***


そして、すべてが明らかになったとき、それにかまっていられないほどの修羅場の中心人物として祭り上げられていたりすることを、この時の私は知らなかった。



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