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短編集  作者: 燐火
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華陽の雛菊

ーーさて、どうしようかしら?


過去作。すでに書いてから二年近くたつけど、続きはないので、投稿。かといって、書きたくないってわけでもなく。ただ、思いつかない。


自分の息の音が、耳に響く。地をければ、響きが体を通り越して、コンクリートの建物を揺らしているかのように感じる。右手に握りしめた鉄の塊が段々と熱を帯びて、手から逃れようとする。

低いヒールの靴にしておいて本当によかったと今更ながらに思う。


まぁ、私は陽動でしかないのだから音を立てても問題はない…というよりは、音を立てなければならないのだけれども。


狭っ苦しい階段をついに最上まで上り切って、鉄の重いドアを開ける。強く、風が耳元を唸りながら通り過ぎていった。下から響く靴音も、唸る風がさらって下へ、下へと押し込めていった。

ここ…屋上まで来たら、私は姿をあれら…DTOの前に表さなくてはならない。

DTOは、この国の警察組織の略称だ。

鍵をかけた鉄の扉を思いっきり閉めて、ノブを銃弾で打ち抜く。大きな音を立てて夜のネオン街に響いた銃声。ただの時間稼ぎで、アイツとDTOに対する抵抗でしかないが、やる必要は正直…ないこと。


大きく息を吸って、吐いて、鉄の扉の向こうの喧騒を聞き流しながら、扉とは反対側にあるフェンスの前までたどり着く。


20階という、この街では比較的高い部類に入るこのビルの屋上から見るネオン街の夜景は何とも言い難い。

遠く、空を見れば、望月が煌々と浮かんでいた。


ひとつ息を吐いて、胸の高さまであるフェンスに手をかけて飛び乗り、フェンスの向こう側に足を下す。

準備しておいた、向かいのビルにつながれた強靭なワイヤーを手に取り、持ち手として、皮を巻いておいた部分を左手で持つ。

右手に持ったままの銃の銃弾を転送して、次に備える。

この古めかしい感覚を私は気に入っているのだ。

鉄の扉が破壊された、大きな音が背後で響き、数名の靴音が聞こえた。


「…ベレン、とまれっ!」


呼ばれた名に反応して、ゆっくりと顔だけで振り返る。右手に持ったままの鉄の塊は、下したままに。

黒いスーツを着た男たちは黒光りする銃を構えて、こちらを睨み付けている。


その中に見つけた古なじみの顔に、私はニコリと笑みを張り付ける。

その古馴染みかはわからないが、男たちがが動揺して気配が揺らされた。震えながら鋼鉄の塊を私に向けたのを感じた。


眼前に映るビル。来る前にさんざん試行して、成功できるだろうと確信したルート。けれど、今更怖気ついている自分がいる。…もう、実行しか許されないというのに。


ひとつ、息を吸って目を見開く。


「…バイバイ」


小さく呟いて、ヒールを鳴らして飛び降りる。

向かいのビルの窓ガラスに向けて。

皮を巻いたとはいえ、細いひもは全体重をかけるのはなかなかしんどい。


右手に持った銃で銃弾を撃った後すぐに転送して、三か所ほど窓ガラスを打ち抜いて、足でガラスを蹴破って、ワイヤーから手を放し、ビルの中に入り込む。


無人のフロアに、廃材置き場。そんな印象を与える、半年ほど前に廃ビルとなったらしいこのビル。


「っ、ベレン!!」


背後のガラスの向こう、風が気まぐれにも届けた、必死そうな古馴染みらしき声。


無視をして、奥へと足を進める。このビルの非常階段は…次の角を右に曲がったところ。


このフロアが、頭の中に叩き込んだ地図から10階であることを導き出す。行かなければいけないフロアは、3階。

階段を飛び降りて、3階を目指す。DTOの対裏組織の部隊につけた発信機の反応が、私の眼鏡の画面に映らないことから、一応大丈夫であろうと見当をつける。階段から廊下へと入り、もっと奥へと足を進める。あの部屋は、あと三つ廊下を通り抜けたところだ。


毎回、入念に左右も前後も見て、走り続ける。そして、目当ての部屋の扉の前にたどり着く。小さな扉に着く窓から中を覗き見て、大丈夫であろうと判断する。ドアノブに手をかけた瞬間、嫌な予感がして、開けると同時に後ろ受け身をとる。


どでかい爆発音が背後、扉の向こうでなった。


「いらっしゃーい、ベレン」


声が、わんわんと音が反響する中を貫いた。

もう二度と聞かないであろうと思った声で、嫌な記憶しか思い起こさせない声。


「…アラカジュ、お前、生きてたんだな」


ある意味での関心である。

あれは…2年前の事、ボロボロになってもDTOの精鋭部隊に追い詰められていたのに、生き永らえたこいつは本当におかしいとしか言いようがない。…ふつうに考えて、これぐらいでないと裏で長生きはできないのが普通、なのだが…。


粉塵の向こうから、月光を逆光にコツコツと近づいてくる靴音。

黒い人影が煙の向こうにうっすらと見えてくる。


…もしくは…あの激しい攻防劇はフェイク、だったのかもしれない。それならば、一番、生きている訳はわかるのだから。


「ベレンも、生きてたんだねー」


語尾を伸ばしながらしゃべる男の声は男にしては少々高い。


左手で、黒いスカートの下、左足のホルスターに仕舞っていた塊をつかむ。オートマチックのこちらは、装填しなくても弾は打てる状態にある。彼の足音に合わせて、ゆっくりと左手を持ち上げる。


ここは、早くに突破しなければ今まで稼いだ時間もなくなったしまうし、アイツに嫌味を言われかねない。


「…そうそうくたばってたまるか」


アラカジュのいる向こう側の山の向こうに、バイクがあるはずだ。早くいかなければいけないが、かといって焦ってしまえば、私が負ける。


時間が問題であるのは、アラカジュの所属がわからないことも一端であった。そして、アラカジュの力量が私と近いこともあった。


「ねー、ベレンは、どこの所属?」


軽かった声が、いきなり強い殺気を含んだ。


空間が、殺気の圧力でキシキシと歪んでいるように感じる。


さぁと、晴れ始めた粉塵、収まっていく逆光。


遠く、後ろから聞こえ始めた足音に危機感が募る。


「私は…黒、だよっ!」


叫んで、粉塵が晴れて、見えたアラカジュの頭に左手から弾を打ち出す。


避ける間もなく、その弾はアラカジュに被弾して、彼の足は操り手を失くした操り人形のように力を失くしてへたり込んだ。

彼の額に当たった…否、刺さったであろう針と、閉じられた目を確認もせずに私は彼の体を迂回して奥へと走る。

廃材の山と棚を回り込んで、見つけたバイク。鍵を差し込み、傷がないことをぐるりと回って確認して、左手の銃をしまい、バイクにまたがる。


前もって、強靭なゴムであるとはいえタイヤがパンクしては困るので、ガラスを排除しておいた窓。


エンジンをかけ、最大出力で窓へと走らせる。靴音が、この空間を割いた刹那、私は、下へと落ちていく。


地面をバウンドしながらも、無傷で、道路に降りることに成功する。

広いけれども、あまり使われていないネオン街の中でもさびれた地区であるこの道は、ちょうどどの車もなかったらしい。

そんなことをつらつらと考えながら、バイクを走らせる。

人や車がないから走らせやすい。

出力は最大のまま、とばす。


このまま行けば、この道は私たちの使う地下道につながっている。アラカジュがDTOに追い詰められて、消息不明になったのちに作られたものであるから、もし、アラカジュがDTOの所属であったとしても、あれらは知らないであろう。


『ザザ…こちら、テレジーナ。任務完了。ただいま、U-5に向かっている。ベレンどうぞ』


いきなり、耳につけたイヤホンに連絡が入った。

同僚といえる存在のテレジーナ、彼女は陽動の裏でこの作戦の真の目的の実行を行っていた者だ。


バイクのハンドルから右手を話し、口元のマイクの電源を入れる。


「…こちら、ベレン。同じく任務完了。ただいま、U-3に向かっている。…ルイスどうぞ」


言い切って、マイクの電源を切る。

やはり、アイツの名を口にするのはいろんな意味で勇気がいる。


私の直属ではないが、上位に当たるのがアイツだ。


『…こちら、ルイス。了解。帰ったらより詳しい報告を待っている。…U-9で待っている』


憂鬱だ。


なんで、こんなに働いた後にルイスの顔を見なければいけないんだろう。

はぁ、とため息を隠さずついて、見えてきた特徴も何もない建物、地下への入り口がある建物へと入るために、バイクを減速させ右足につけた、もう一つのホルスターから、特定の銃を引き抜く。玄関前のポストらしきものに、銃弾を撃ち込む。


数秒も待たずに、庭と道を区切る柵が下に沈み、プレートに乗った庭は家のほうに、半分だけ跳ね上がった。

私はそれを見届けて、バイクをその地下へと走らせる。


背後で、プレートが元に戻っていく音が聞こえた。

ホルスターに使った銃を戻す。


1分ほど進めば、無機質な白い道の途中で、受付のカウンターのようなものが見えた。

その手前で減速して止め、バイクをそこにいた人に渡す。


「5398番のバイクですね。鍵と共に、お預かりいたします」


無機質に、ただただ冷淡な返しをする事務員。

人工的な白い光がより冷淡さを際立てているようにも見える。

あぁと頷きを言葉に返して、ルイスの言っていたことを思い出して言う。


「U-9へと向かいたい。コミューターの手配を」


さすがに、徒歩でU-9に向かうのは自殺行為もいいところだ。

距離的な意味でも、時間的な意味でも、体力的な意味でも、上官命令的な意味でも。


事務員は、ゆっくりと瞬目をして目線を下へと向けた。

私は着ている黒いスーツのジャケットの内ポケットから一枚のカードを取り出す。

目線を戻し、私の持っているカードを目にとめた事務員は、大きく息を吐き出して右手で何かのボタンを押した。

受付の右隣の壁が開き、道を作り出した。


変わらない、白い無機質な道。しかし、奥にはエレベーターの扉と似たような扉があった。


「使い方は知っていると思いますので、行き先だけはしっかりと指定してください」


変わらない表情のまま、奥を右手で指示して言った事務員。

私は、会釈だけして、その道に足を踏み入れる。


三歩ほど進んだところで、背後の壁が閉じた。

閉じた壁に目も、意識もむけずにただ、目前に見える扉へと歩みを進める。


実を言うと、私はここを使うことがあまりない。


響く足音がだんだんと早くなっていくように感じる。


エレベーターのように、両隣へと開いていくスタイルの扉。本来なら、回数表示や上か下かの分岐を尋ねるボタンのある場所にA5用紙を横長に置いたぐらいの大きさのタッチパネルがあった。


黒い画面に指を触れさせて、画面を起こす。


白く立ち上がった画面は使用者の記入を求めているので、さっき内ポケットから出したカードにのっている幹部コードを打ち込む。

一応覚えてはいるのだが、コードは覚えるには少々長いため、いつも不安になるのだ。間違っていないか、と。

グルグルと通信を終えた画面は、行き先の記入を求めるので、U-9を行き先の欄から探し出して触れる。


####

User(使用者):Executive(幹部)「Berenベレン

To(行き先):「U-9」


Is this OK?(これでよろしいですか?)


Yesはい

Noいいえ

####


「Yes」の文字に触れる。

画面が白く染まって準備中ですと表示した。

息を吐き出して、左手で持っていたカードを元の場所に仕舞う。


準備中と示したままの画面に、右目をつぶって、大きめで銀縁の眼鏡のグラスに注目する。


昔、友達であり、同僚である同い年の少女に作ってもらったもの。この界隈に入ってから、何度も危機から逃れさせ、また、私の命をも救ったもの。


特定の発信機にだけ、反応するこの眼鏡は、その発信機を赤い点で表示する。

難点は、相手の目がよければ、眼鏡のガラスに映った点が見えてしまうこと。

…まぁ、そんな人に出会ったことはあっても、発信器を誰につけているのかを私が言わなければ、意味がないのだが。

こちらの方面に、どの赤い点も動いてきていないのが確認できた。


嘆息して、目を戻せば、画面は準備完了を告げて扉を開くためのスイッチを表示していた。

四角い中に「Open(開く)」とかかれたそれに触れる。


白い扉が左右へと開いていった。変わらぬ白い床に壁に天井。白い光が、煌々と白さを引き立てていた。ただ、横に走る道の真ん中がへこんでいて4本のレールがはられていた。

一番私の居る所に近いレールに、大きな卵の下部を平らに切ったような形の扉のついた白いものがあった。


その白い卵型のようなものが、コミューターだ。


扉を開けて、中に入り、扉を後ろ手で閉めて、進行方向を向く白いシートに腰掛ける。

シートの前には、先ほどと同じくらいの大きさの画面があった。

画面は白い背景に、文字を表示していた。


####

User(使用者):Executive(幹部)「Berenベレン

To(行き先):「U-9」

Required Time(所要時間):「10minute(10分)」


Are you ready?(準備はよろしいですか?)


・Go!(いいよ!)

・Wait!(まって!)

####


ふざけているような文面にふっと顔が緩むのがわかる。

「Go!」の文字に触れる。


画面の「Are you ready?」以降の文字が消えて、ゆるりとコミューターが動き始めた。


緩やかな、振動を感じさせない動きに、私はいつしか眠りに誘われていた。


***


頭が前へがくりと動いて、その衝撃で頭の中の霞が徐々に晴れていく。


寝起きの目にチカチカと存在を主張する白い画面は、「Thank you for riding!(乗ってくれてありがとう!)」と「Please get off the left door(左側のドアから降りてください)」を表示していた。


その文字に、ばっと頭をあげて立ち上がる。

視界の上半分を黒が覆った。くらくらとしたまま、左手側の扉を開ける。


白い道に降り立ち、乗っていたコミューターが背後で、わずかなモーター音だけを鳴らして、進んでいくのを感じた。

マイクの電源を入れ、しゃべりかける。


「こちら、ベレン。ただいまU-9に到着いたしました。…ルイスどうぞ」


一応、上司であるルイスと同僚といえるテレジーナとつながることができるこのマイクは、ルイスから渡されたものだ。

今回の作戦はルイスの部下である私、テレジーナと、アラカジュの元上司であるフロリア、ノーポリスのコンビの部下の2人で実行されたものだ。


…幹部を4人も使うなんて、ずいぶんと贅沢だと思わないわけではないが、それだけ、今回の作戦は重要だったのだ。


『…こちら、ルイス。4のビルの地下3階のB305に来てくれ…』


イヤホンはこれだけを伝えて、沈黙した。


それとも…私か、誰かが捨て駒…NOCと考えられているか、だ。

……そうみられている可能性が一番高いのは、私…だろうか。


端末を取り出して、アプリを立ち上げ、4のビルを探す。人の通行の邪魔にならないように、壁際によって。


まぁ、それでもいいのだけれど。…否、仕方ないのだけれど。


端末に描かれた地図を頭の中に叩き込んで、現在地を確認して、歩き出す。靴のヒールが床との間で音を立てる。音は白い廊下に響く。


ここからなら、意外と早くつけそうだ。


目に映った白い壁にところどころある扉の隣の標識が、第2ビルと書いてあった。


普通なら、こういう廊下は灰色にするのではないだろうか。ふと、そう思う。


…私が通った事のある、組織的な建物の廊下は、全て、灰色ではなかったのだけれど。


『…ザザザ、ザ…こちら、テレジーナ。U-9に到着いたしました。今から4のビル、地下3階のB305まで参ります。…ルイス、どうぞ』


イヤホンの電源が入った。このイヤホンとマイクは、数個で一つのグループを作っており、マイクの電源を入れると同じグループのイヤホンに音声を伝えることができる。

ただ、同じグループすべての人に音声を伝えるので、応答者を伝える側は指定しなければならないのだ。


ここが4のビル、か。


白い、左右に開くであろう扉の横の標識は、第4ビルと文字が刻まれていた。


『こちら、ルイス。了解だ。待っている』


私の時よりも応対の声は柔らかい。


標識の下に、ICカードを触れさせる機械があった。

内ポケットから、コミューターに乗るときも使ったカードを取り出し、表の面を黒いリーダーに触れさせる。


電子音がして、白い扉が左右へと開いた。


床は、白い切れ目のない人工的なものから、足音を吸収する紺色の毛の短い絨毯に変わり、壁は白く、漆喰のようなもので覆われながらも所々に位置する木材がいいアクセントになっていた。扉も、白い両開きの扉ではなかった。


早足で廊下を通り抜け、階段を降りる。

たった一階だけの移動にエレベーターを使う気は無い。


そして、また廊下を進む。


4個ほどの扉を数えたところで、B305の標識を見つけた。


ひとつ、大きく息を吐いて、吸う。


よし、入ろうか。


スモークガラスの下、取っ手の上、自分の胸と同じぐらいの位置で3回、扉を拳で叩く。


「ベレンです。入ってもよろしいでしょうか」


「………入れ」


思索によるものなのか、少し間があいたのち、不機嫌そうな声が入室を促した。


取っ手に手をかけて、押す。何気ない仕草なのにいつもよりも緊張しているのか、鼓動が早い。


「失礼します」


踏み入れた足が廊下よりも毛の長い絨毯に沈む。

紺ではなく暗めの灰色に白などが幾何学的な模様を描く床。変わらない壁を木目の美しい本棚が覆い隠し、本棚に収まる本たちは背表紙を見るだけで、内容も国も混沌としていることがわかる。


アイツ、ルイスは本棚に囲まれた向こう、重厚な机に向かって座っていた。見れば、10センチほどの書類の山が彼が確認中の書類の左右に積まれていた。


「……少しだけ待て」


ルイスの短くそろえられた黒髪がさらりと揺れた。彼は黒いであろう目を書類に落としたまま、手を動かしつつ言った。


それに私は何も言わず、本棚へと近づく。


英語、ドイツ語、日本語、フランス語、英語、スペイン語…。

脳科学、爆発物、生物学、ホラー小説、SF小説、歴史小説…。


一目見ただけでもそれだけ見つかる。


目線を、目の高さの段からひとつ上の段へと移したとき、ある一つの日本語で書かれたらしい恋愛小説があった。

文庫本らしく、ハードカバーの本たちに挟まれて窮屈そうなその本。


私は思わず手を伸ばす。


「テレジーナです。入ってもいいでしょうか」


凛とした、ベルを鳴らしたような声が扉を通過した。部屋に漂う空気が変わった。


「…あぁ、入れ」


対応する声は甘く、アイツの雰囲気が柔らかくなるのがわかった。扉が開くのを背後で感じながら伸ばした手をゆるりと下げ、テレジーナとルイスに向き直る。


昔、私のいた国では、ふわふわとした色の薄い茶色の髪を持つテレジーナ。彼女の苛烈そうな眼も私のいた国では珍しい碧色だ。


音を立てて、ペンを机の上に置いたルイス。

テレジーナが、ルイスの机の前、2メートルほど離れたところに立つ。一メートルほど離れて隣に並んで、背筋を伸ばす。ルイスの纏う空気が変化して、彼は目線をゆっくりと上げた。


「…ベレン、報告を」


威圧感のある声、重厚な雰囲気がこの部屋に蔓延した。


「…はい」


今回の作戦。

簡単に言えば、DTOからの情報の奪取だ。


…ただ、今回の物はDTOにとっても、こちら…通称『伯巴』にとっても、そして…私にとっても重要なものだ。


まず、なんといっても重要度合いが半端ない。


『華陽』、この言葉に反応しただけでその人物は裏・黒の者、もしくは裏・黒の事情に少しでも関与しているとみられる。

その『華陽』に所属している人員のひとり、世間に恐れられるマッドサイエンティスト、通称…狂桜の研究の一部をDTOが入手したというのだ。

基本的に、狂桜の研究は世界の最先端を行きながらも、危険すぎるものばかりである。そのせいか、『華陽』の他のメンバーによって、闇に葬り去られた研究も多いという。

DTOが直接宣言した訳ではないが、裏というものは情報が命だ。そんな中で、噂になってしまった、その情報。とても信憑性の高いものだ。

そして、『華陽』ならまだしも、DTOならば、情報は奪い取ることはたやすい。

そうふんだ『伯巴』は、その研究情報を奪い取るためにこの作戦を立てたのだ。『伯巴』のDTOの情報によると、研究情報のあり得る場所は2ヵ所。それを、テレジーナとフロリア、ノーポリスのコンビの部下の1人、フォルタレザが担当し、そこの警備を薄れさせるために、陽動としてDTOのNOC情報を奪うという演技をしたのが、フロリア、ノーポリスのコンビの部下のもう1人である、マナウス。さらに、その陽動として、DTOの組織のアジトの場所の情報を奪うのが私、だった。


3重、否、どちらかといえば2重の作戦で挑んだこれ。


「まず、DTOの組織のアジトの情報は、こちらのUSBに写しておきました」


ジャケットの右側の内ポケットに入っている情報媒体を左手で取り出す。

左側の内ポケットに入っているのがカードだ。

4歩ほど近づいて、USBを机の上に置き、下がる。


「…後で確認しよう」


ルイスの言葉に、一つ頷きを返して言う。


「次に、DTOの人員で死傷者は無し」


私がじぃと見たままのルイスは、瞬きを一つした。それを確認して、ルイスが発言する前に述べる。


「最後に…アラカジュと応対しました」


ルイスの目が見開かれた。テレジーナのオーラが揺れた。


目を元に戻して、ルイスは言った。


「……生きていたのか」


私は確信する。アラカジュの生存の理由は3択である、と。


そして、きっと…。


「…まぁ、いい。テレジーナ、報告を」


視線をルイスに向けたまま、私はテレジーナの声に耳を傾ける。


「まず、狂桜の研究情報についてですが、私の担当ヵ所にあったのですが、総データ量が予想の他に大きく、時間が足りなくなりそうだったので、USB2つに情報を分けております」


つかつかと歩いて、机の上に2つのUSBを置いた。


「…よくやった」


ルイスはニヤリと顔を歪ませた。


元の位置に戻ったテレジーナ。嬉しそうというよりは、どこか屈辱的な表情だ。


「次に、DTOの部隊、AKに見つかり、交戦しました。双方無傷で私は逃走しました」


LAか。期待の新人っていう奴だったような。


「…そうか」


ルイスの顔から表情が消えた。何かを思案し始めたルイス。静寂が、空間を満たしていた。


いきなり、この空気を切り裂くかのようにノックの音が響いた。


「フロリアでーす」

「ノーポリスだよー」


少年のように男性にしては高めの声が2つ。


ルイスの元上司、かつ、今回の作戦を部下に実行させたもうひとグループのリーダーだ。


「……入れ」


ルイスの表情がさらに能面になり、冷たささえ感じさせる低い声が促した。


「情報は取れたー?」


扉を大きく開けて、入ってくる白いお面をした、金髪の少年、フロリアが問うた。


「…あぁ、そっちははずれか」

「そうだよー」


フロリアの後ろから、黒いお面に遮られて見えない顔を出して、銀髪の少年、ノーポリスが答えた。


「何か、伝えないといけないことはありますか?」


フロリアとノーポリスの後ろから入ってきた二人の成人男性のうちの一人、眼鏡をかけたほう、マナウスが問う。言外に、フロリアとノーポリスのグループには、特に伝えることがないといっているようなものだった。


「…ベレンが、2年前に行方不明になったアラカジュと交戦した」


4人の顔が歪んだ。ルイスの顔も思いっきり歪められていた。アラカジュにはあまりいい思い出がない。それこそ、ここにいるほぼ全員の意見が一致するようなことだ。


「…あいつ、生きてたんだねー」


フロリアによって苦々しく吐かれたその言葉は、私含めて6人の同意を得た。

何故、アラカジュがこんなにも嫌われているのか、それは…。


「…ちっ…あんの、ハイブリットの変態め」


舌打ちして言ったのは、ずっと黙っていた、彫りの深い男、フォルタレザだ。


そう、アラカジュはハイブリットの変態とよく言われる。何しろ、被虐趣味と嗜虐趣味を持ち合わせており、かつ戦闘狂だからである。


そして、その性癖で持って、『伯巴』を幾度となく混沌におとしめたある意味での猛者だ。…アラカジュは戦闘能力が私と同等に近いぐらいであったので、私や、アラカジュと同等に強いフォルタレザもよくアラカジュの性癖に巻き込まれていた。


つまり、フォルタレザはこの中ではアラカジュの一番の被害者である。私は、アラカジュに会わないようになんとかしていたので、フォルタレザの被害よりは軽い(はずだ)。


「…あれは…DTOとヤりあって、でしたよね」


どちらかといえば頭脳班なマナウスは、私の推測と同じようなものにたどり着いたらしい。


「……ボスに報告してから確かめるべきだな」


同じく、頭脳班なルイスが言った。話はこれで終わりだとでもいうように、ルイスは立ち上がり、机の上にあった3つのUSBを私に渡した。


「…隣のB306で紙媒体に変えて、冊子にしておけ」


そういって、書類の整理に戻った。


「じゃあ、マナウス、ベレンについて、紙媒体に変えておいてねー」


ノーポリスが、手に持っていたらしいUSBをマナウスに渡して、フロリアと共にこの部屋から出ていった。


「…頼んだ」


フォルタレザは、そう言って足早にこの部屋を去った。


「…ベレン、行きますか」


私に近づいてきて、そう言ったマナウスに手でちょっと待ってと示す。

コクリとうなづいた彼を目で確認して、私はルイスに声をかけた。


「ルイス」


書類から目をあげて、ペンの動きを止めた彼。ペンの先がイライラと机と当たって音を立てた。


「……なんだ」


不機嫌そうな声。彼の隣でテレジーナがこちらをじっと睨んでいた。


「…あの本、借りてもいいかしら」


右から2つ目、上から3つ目の棚を指し示す。


「……どの本だ」


以心伝心というわけでもないから、わからなくて当然だ。わかってほしいとも思ってはいない。

あの、文庫本の日本語の恋愛小説を手に取る。


「…この本」


ルイスの目が見開かれた。テレジーナの視線がふっと外れた。


「…いいわよ………あげるわ」


文庫本なのは、どうやらテレジーナが持ってきたからのようだ。ぶっきらぼうに、どうでも良さそうに彼女は言い切った。


「………ありがとう」


本をジャケットの右側のポケットに仕舞い込む。


踵を返して、待ってくれていたマナウスを伴って部屋から出る。


扉を閉めた音が思いの外廊下に響いた。

衣擦れの音だけが響く廊下をほんの数秒行けば、B306の部屋はあった。


「どうぞ」


すらりと伸びた長身のマナウスが片手で扉を抑え、もう片方の手を私に差し出していた。

目を細めそうになるのをこらえて、にこりと笑って差し出された手に片手をのせる。

するりという言葉が一番適当なのだろう。部屋の中に連れられていた。扉が閉まった音が、またもや大きく聞こえた。


「ありがとう」


もう一度、にこりと微笑んで言う。握られていた手は、思いのほか、軽く逃れることができる。


「いえいえ、いいのですよ」


笑みは、非常に美しいものなのに、ガラスの奥に宿る光が怖く思えた。


306は305と部屋の装飾はあまり変わらない。ただ、大きさが、305の二倍ほどあった。


大量の本がおさめられていた本棚が、ディスクや大量の紙媒体をおさめる棚へと変わり、重厚な机の代わりに、5つの業務用コピー機があった。


「マナウス、あなたの持つUSBはいくつ」


壁の際に置かれているコピー機までは十数歩分あった。コピー機を右から順に電源を入れていく。


「2つ、です」


なら、大丈夫そうね。


全てのコピー機の電源を入れ終え、起動を待つ。

三十秒も待たずして、立ち上がったそれについているパネルを操作し、USBポートにUSBを差し込んで、文書を全選択する。そのまま、印刷の表示を押す。

同じ様に、残り二つも操作する。


「必要時間はどれくらいですか」


同じ様に操作を終えたマナウスが問いかけてきた。


機械音を部屋に響かせながら動き始めたコピー機たち。


自身が操作した3つのパネルを覗き込み、時間を確認する。


「…一番多いので、枚数は321枚。時間に換算すると約30分というところね」


30分という待ち時間の間、何をしておこうかしら。


壁際にあった、スツールに座る。


「僕の方は、枚数は218枚、時間は約20分ぐらいです」


マナウスの言葉を聞き流して、右ポケットにしまった、あの小説を取り出す。


「そう」


彼には、これだけ言って、私は小説の扉を開く。


波に、呑まれたような感覚がした。


***


大量の紙が机を叩いた音で、波が遠くに遠ざかっていった。


小説の扉を名残惜しく感じながらも閉じる。


『流れ落ちた星は、未だ地上で輝いていた』


最後の一節が頭の中で揺蕩う。


「こちらは、終わりましたよ……そっちはどうですか」


彼の言葉も、頭の中でゆらりと揺れた。


小説をジャケットのポケットにしまう。


スツールから立ち上がり、コピー機のパネルを覗く。


「あと、8分ぐらいかかるわね」


印刷の音が部屋の中を通り抜けた。パラパラと資料をめくりながら私の言葉を聞いたマナウス。


私はスツールに座り直して、足を組む。あと8分。ぼーっとしていればすぐに過ぎ去ってしまうくらいの時間だ。すぐそばにあった棚に肘を置いて、頭をあずける。


扉から見て左側の棚の、新しいファイルいくつかとシール、ペンを取り出した。ファイルに資料を分けて挟み込み、シールに日付と内容の要旨を書きファイルに貼り付けた。


作業の音が心地よい眠りに意識を誘う。私は、組んでいた足を組み替える。眠らないように。


作業を終え、出来上がったファイルをコピー機の向こうの棚の箱に入れ、同じく、USBも箱に入れたマナウスは、こちらをじっと見つめて尋ねた。


「…ベレン、あなたに、少しお聞きしたいことがあったんです」


真剣な光が少し俯いた彼の目に宿っているのが見える。いったい、どのようなことが聞かれるのだろう。


「……アラカジュは、NOC…スパイだったと、思いますか」


どこか、苦々しげにつぶやかれた声。じぃと見つめる彼の感情はポーカーフェイスに阻まれてわからない。顔が上がったせいで光の反射により見えなくなった眼鏡の奥も、わからなかった。


「……その可能性が一番高い、でしょう?」


こんなところで、アラカジュの話をされるとは思わなかった。


ただ、あの時のDTOとアラカジュとの攻防には、不審な点がないわけではなかった。


「…アラカジュは、いろんな組織の猛者を退けられる猛者でしょう。だけれど…DTOのあの部隊は、あの部隊だけは別よ」


DTOごときに、ではないのだ。DTOの精鋭の…あの部隊だけは、アラカジュなら殺せるはずだ。そのことを、私は身をもって知っている。……誰にも、言う気はないのだが。


「……どういうことです」


怪訝そうに、驚きもなく言葉を飲み込んだマナウスが、問うた。

ファイルを持ったままの彼は、さっきから一歩も動いていなかった。


「…2年前」


そう、あの件は2年前のこと。いろいろなことが重なった折に起こって、ほとんどが目を向けられなかったことだった。


「…アラカジュはDTOの精鋭、DC率いる部隊に追われ、西部にある港で海を背にアラカジュはDCと向き合い、銃撃戦を行った……」


言葉を紡ぎ、マナウスを見やる。あの件は、情報として一応、軽くはまわっていたはずだ。


「そして、相手方を2人負傷させ、アラカジュはDCによって、腹を撃ち抜かれた…」


言葉を続けたマナウスの顔は白く見えた。蛍光灯の反射のせい、かもしれない。

私は、マナウスの顔から視線を外し、宙に彷徨わせる。


「……その後、アラカジュは海に落ちて行方不明。DTOの部隊も捜索したが、アラカジュの行方は分からなかったと公式に宣言した…」


ここまでが、DTOが公式に発表したものであり、『伯巴』の調べでも書類として残っているものである。


そして、私は続ける。


「ただ、DTOが発表した見解と、内容には含まれていないものがあった」


動き続けるコピー機の音など気にもならなかった。白く塗られた壁の向こうを眺めながら、私は言葉を紡ぐ。


「アラカジュが撃ち抜かれた時の銃弾と、あちら側の負傷者」


アラカジュが撃ち抜かれたとき、銃弾は貫通していたはずなのだ。現場に残っていたおびただしい血量から見ると。あれが、血糊でなかったならば。


ただ、銃弾の痕跡はなく、DTOも銃弾については何も語っていない。


そして、DTOの負傷者の数は明記されて、どれくらいの程度なのかは語られたが、誰がどこにどのくらいの傷を負ったのかは定かではない。


そもそも怪我人がいなかったのではないかというのが、一番妥当な見解だと思う。今となっては確かめようもないことだが。


「ただ、あのときは…」


何も持っていない手を、もう片方の手で強く握りしめながら、マナウスは私をじっと見つめている。


私は彼をチラッと見て、目を背け、彼の言葉に答える。


「そう、あの時、アラカジュの件で動けるものはいなかった」


それもそのはず。私も、後から聞いて、現場まで見に行ってやっと知った、わかったことだったのだから。


「『華陽』での、研究成果のお披露目、もとい、入り込んだ鼠への制裁の件で、ほとんどはいっぱいいっぱいだったのよね」


あのときはひどかった。1日に取れる睡眠は僅か2時間。研究室に行って、資料室に行って、ルイスや幹部と相談して……。今思い出しても、あの時のブラック企業化は大変辛かった。


「なるほど、その時期でしたか」


マナウスも、どこか遠くを見つめている。あの時期は本当に、経験していない新人が羨ましいと思うほどに酷かった。


「…その時期、頭脳派はこき使われましたからね……」


そう、動けるものは本当の下っ端か、幹部でも頭脳の面において全く役に立たない脳筋ぐらいだったのだ。


「そして、アラカジュはある意味で敬遠されていたから…」


そう、特に脳筋で、戦闘がうまい連中には軒並み嫌われていたのがアラカジュである。あの性癖のせいで。


「アラカジュに生きていてほしいと願う者なんて、なかなかいなかったのよ」


全ては、アラカジュの自業自得、否、計算なのかもしれないけれど。


コピーの音が止まり、機械音がコピーの完了を知らせた。


私は、マナウスの視線を断ち切るように立ち上がり、コピー機に近づく。


デジタルにゼロと表示されたパネル。たまった200枚を超える紙を手に取り、傍にある机の上でそろえる。


大きな音が、机と紙によって作り出される。


左から、2つのファイルが差し出された。もう片方の彼の手には、ペンとシールが2枚。


「ありがとう」


そう言って、受け取って紙を分けて、ファイルに挟む。


『空間制御についての考察』


紙面の上部、題名と思しき場所に、他の文字よりも大きなフォントで示された文字列。


思考が、しろくそまった。


……え…?


なんで、これが、ここに…。


時間にしては、数瞬にも満たない間の事であっただろう。体感にしては、数分にも感じられることであったが。


「…ベレンさん」


マナウスの、不思議そうな声音。こちらを少しうかがうように首を傾けていた。


「…なんでも、ないわ、ただ、驚いてしまっただけ、よ」


何でもないくせに。自分で言いつつも、胡散臭すぎる言葉。けれど、私は気にもしなかった。


シールに日付を書き込んで、ファイルに張り付ける。一方のファイルのシールには、ちゃんと、内容の要旨を書き込んで。


「…そちらはどうするのです」


持ったままのもう一方のファイルと、ペン。それをいったん机の上において、内容の要旨も書き込んだシールを張り付けたファイルを棚に仕舞う。コピー機に刺さったままだったUSBも回収して、一つは箱に入れた。


「…こっちは、もうちょっと、確認してからにするわ」


やはり、なんとも胡散臭い言い方だ。けれど、この研究内容について、確認がしたかった私の頭には、そんな考えは露も浮かばなかった。


「先に、退出していてもいいわよ、きっと、時間がかかるから」


ファイルを持ち出したいほどであるけれど、このファイルは持ち出しができない。かといって、追加で印刷すると、それは履歴や紙の残量によってわかってしまう。そして、それの所在によっては、私がNOCと勘繰られかねない。


「……わかりました…そこまで遅くならないように」


まるで、母親のような言葉を残し、マナウスは部屋を出ていった。そんな、いつもと違う彼の挙動にさえ、私は反応せず、ファイルに挟まれた書類の文字列に夢中になっていたのだ。


DTOに流出した狂桜の研究内容に。


いったい誰が、流したのか。


DTOが『華陽』から直接、入手したのならば、まだ話は早い。


だが、『華陽』のセキュリティはそれこそDTOの情報部隊でさえ手も足も出ない代物だ。


DTOに勝る、『伯巴』の情報部隊でさえかなわないのだから、これは確実だ。


…まぁ、秘蔵っ子がいるとでも考えてしまえば、いろいろと説が出てきて収集がつかなくなってしまうのだが…。


『華陽』にDTOのNOCがいるのか…。


それとも、『華陽』にいる愉快犯の誰かが流したのか…。


『華陽』には、複数名の愉快犯がいると、『華陽』の複数名と同時に対峙した物の証言により判明している。


…『華陽』は、幹部一人がいるだけで、台風が起こるといわれているぐらいにはヤバイ、らしい。


…それも含めて、この答えは、そう簡単には判明しないだろうと私は思った。


***


そして、この答えが判明したとき、それにかまっていられないほどの修羅場の中心人物として祭り上げられていたりすることを、この時の私は知らなかった。




***



ざわざわと音が混じり、響き合って空間を成す。窓の外の太陽光と、部屋の電灯の光で、卓上はとても明るい。目の前に置かれた2つのグラス。グラスの向こうの椅子は、未だに空席だ。

美しく磨かれているテーブルに左の肘をついて、頬をのせる。背中に触れる、久しぶりの感触。


姐さんに会うのはいつぶりであっただろうか。それこそ!数ヶ月は経ってしまったような気がする。


待ち人はそろそろ来るだろう。私をここまで育ててくれたあの人は。


ドアベルの音が鳴った。混沌とした音をかき分けて耳に聞こえて来る、涼やかに空間を彩る音。こちらに向かって歩いて来る女性を見て、微笑みをもらす。


「久しぶりね、いつぶりかしら、デイジー」


やはり、姐さんに呼ばれる名は心地が良い。茶色い腰まで届きそうな髪を揺らし、薄いクリーム色のワンピースも揺らしながら歩く姐さんはモデルのようにバランスの良い体をしている。そう、いつみてもほれぼれとする素晴らしい肉体だ。


「久しぶり、ね、クリス姐さん」


手を小さく振ったクリス姐さんに合わせて、私も手を振り返す。カツカツと床で音を立てる高めのヒールの色は白。


さすが姐さん、よく似合っている。


真っ赤なルージュの端をふっともちあげて、ゆっくりと椅子に座った姐さん。その所作は見惚れるぐらいに美しい。自分の体の魅せ方をよくわかっている使い方だ。


私は、姐さんにメニューを差し出す。もうとっくに、選ぶものは決めていた。


片手で背中と椅子の背の間に長財布よりも一回り大きい黒く平たい鞄を挟み、もう片方の手でメニューを受け取った姐さん。


まぁ、姐さんはここにはよく来るらしいので、必要なかったかもしれない。メニューを開いて、ほとんど見ていないかのようにパラパラとページを流して、閉じた。


「すみませーん」


ちょうど、テーブル席をひとつ挟んだ向こうの道を通ったウェイターに姐さんは話しかけた。


お盆を抱えるように持ち、彼はこの席の横に来た。


「はい、ご注文はお決まりでしょうか」


メニューを私に手渡しながら、姐さんは言った。


「お勧めサンドと、コーヒーをホットで」


受け取ったメニューを開き、目的のページを開く。


「デイジーは?」

「これ、と…」


指さしたのはフレンチトースト。久しぶりに、食べたくなってしまった。


「これの、ホットで」


ページをめくって、ダージリンティーを指し示す。

注文を書ききったウェイターが内容を繰り返し確認するのを聞き流して、窓の方にあるメニュースタンドにメニューを立てる。


「それでいいわ」


会計伝票を残して、ウェイターは奥へと消えた。

グラスをとって、一口、水を飲み込んだ姐さん。


やっぱり、優雅な動作だ。姐さんの動作は、どれをとっても品がある。人の前で動くことを前提にして作りこまれたみたいに。


「デイジー」


名を呼ばれたことで、姐さんの青い目に視線を合わせる。そういえば、目を見て話すのは久しぶりかも知れない。


「最近はどう?」


にこりと顔が笑みを作る。目の色は真剣なままに。私も顔に笑みを張り付けて、言う。


「…悪くはないわ」


そう、悪くはない。良くもないけれど。


そう、と目の色を愉悦に変えて、笑みを深めた姐さん。頬杖をついて、すぅと色はそのままに目を細めた。


「姐さん、そっちはどう?」


目の色が消えて、ハイライトが消える。流れるように変わったそれに、背筋が凍る。


「…ローズが無茶振りを押し付けてくるわ…リリーが気がつかないうちにふらっと消えるわ…チェリーが部屋に籠って一週間も出てこないわ、メリアがシランと出会う度に始めるわ!……………散々よ」


呟くように吐かれた言葉は、疲労を多分に含んでいた。


ゆらゆらと窓ガラスを光が透り過ぎて机の上に影を印す。


姐さんの言う5人は自由過ぎて、頭痛要因の最たるもの。基本的に、自重という言葉を知らない連中だった。


「…お疲れ様、クリス姐さん」


それ以上は胸につっかえて、出てこなかった。突き刺すような視線のせいで、姐さんから目をそらすこともできない。


「…デイジーは楽でいいわよね」


じとり、と諦念をも含んだ視線が身に痛い。下手なことを言えば、すぐさまにでも、入れ替わりを提案されそうだった。


「…契約はどうなのよ」


話を振ったのは私とはいえ、これ以上この話を続けるのは辛い。

話を強引に仕事へと変える。


視線は変わらなかった。攻めているようにも感じるそれ。まさか、姐さんには珍しく、うまくいっていないのだろうか。


「ねぇ…さっきいったような人たちと接しながら、普通に契約を持って来れると思って?」


…思わないです。





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