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短編集  作者: 燐火
32/39

「約束の歌」



白い微睡があたりをつつんでいた。

軽やかに草原を駆け抜けるピアノと共に、夜空を切り裂く流れ星のソプラノが重なる。

途切れ途切れに、けれど確かな存在感を持って聞こえてくるそれはどこかで聞いたことのあるもの。


白い微睡を掻き分けて、音に近づこうとして。


耳をつん裂くようなガラスの割れる音を聴いた。

音が途切れる。


「覚えてないの?」


女の声だ。

背後から聞こえるそれに、聞き覚えがあるような気がした。

振り向こうとしたその瞬間、ハッと目が覚めた。



もうすでに三年前のことになる。

自分には、彼女とも友とも恋人とも取れるような、曖昧な関係性の人がいた。


長年と言うほどでもなく、幼馴染ではなかったけれど、腐れ縁とも言えるようなほどの付き合いの彼女。

離れ離れになることなど想定しないほどには長い間隣にいた人で、当たり前の存在だった。


突然、イギリスに留学することになった自分。

突然であったがために、彼女が当たり前すぎる存在であったがために、ほとんど何も言うことなく旅立っていった自分。

それから数ヶ月後、日々の忙しなさがようやくおさまって、日本にいた頃の先生と話す機会があった時に、彼女がドイツへと留学したことを知った。


冬のイギリスは寒い。

北海道やロシアから比べれば全然そうではないだろうけれど、寒いものは寒かった。

もしかしたら、彼女と離れてから感じている心の空も、そうさせているのかもしれない。


彼女は、とても美しいソプラノの声を持っていた。

よく、自分の弾いたピアノに合わせて彼女が歌っていたことを思いだす。

戯れのような、その時間が、何よりも愛おしいものだったと理解する頃には、そんな時間など夢幻のようであった。


ここ最近毎日夢を見ている。

同じ夢を。


白い部屋でピアノの音とソプラノの声を聴くのだ。

聞き覚えのあるそれは、日本にいた頃によくやっていたことのようで、そのピアノと声の旋律に聞き覚えはないように思う。


風が、ふく。

頬を撫でさするその風は冷たく、体温を奪っていった。

マフラーに顔を埋めて、ちょうど橋の上にいることに気づく。


眼下を流れてゆく川に、遠い記憶を呼び起こされた。


そう、いつか。

季節は忘れたけれど、河川敷で約束を交わしたのだ。

彼女と。


些細な約束。


歌を。

約束の歌を。


仰ぎ見た空は、冬らしく薄い水色に空を覆っている。

自分が忘れていたことは、仕方がないとはいえ、なんとも可愛らしい約束に小さく笑みがこぼれた。


そう、約束の歌を。


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