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短編集  作者: 燐火
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唇に愛を捧げましょう

唇に触れるということは欲求不満の表れ。

唇にキスをするということは愛情。


彼と彼女の関係は…。


とある町の路地裏、仕事を終えて帰っている途中、唐突に…本当に唐突にだった。彼女の真っ赤なルージュを塗った唇を思い出す。そして、彼女がそのルージュをふき取る瞬間も。それを思い出すと同時に、その記憶が意外と古いものであることに気付き、そんなに長い間彼女と会っていなかったのかと驚く。そして最近の癖にもなっていた動作…唇に触れることを今まさにやっていて苦笑した。そんなにも欲求不満におちいっていたのか…と。

いつの間にか彼女に会いに行くことが自身の血にまみれた日常を忘れさせてくれる清涼剤にもなっていた。はじめのころはただの仲間意識だけだったというのに。ただの…戒めだったというのに。タダノ…なんて言っていたら彼女に何を言っているのとでも言われそうだけれど。あれは上官命令もあったんじゃないの?と。まぁ、それもあったといえるのだけれど。

彼女と自分の境遇は驚くほど似ていて…それでいて彼女と自分は全く違っていた。境遇自体はほとんど一緒だった。言うならば性格の違いというべきなのか…ほとんど同じ中でも決定的に違っていたいくらかのことなのか…。

一番に自分と彼女の違う点は?と聞かれたら自分はこの答えを述べるだろう。性別の違い、と。境遇は同じでもいくつかの違いがここまでの差を生んだ。そのことが自分にはとても不思議でならなかった。



彼も私も闇にとらわれたというところでは全く同じなようだった。いや、今も同じだと私は思っている。…けれど…何となく彼と私を同じように分けることはできないといつかのどこかで悟った。

彼と私はどこかで違う。彼の境遇なんて私は知らない。いや、知る必要などなかった。彼に対してはじめは興味なんて持っていなかったから。いや、今も一線を引いて私は彼の過去を探らないようにしている。知ってはいけないとどこかで思っているのかもしれない。

なかなかに壮絶な人生を歩んできたというのは私も彼も双方が理解している。嫌でも見せられることになったあの傷跡たちには彼の半生ともいうべきものが詰まっているようだった。

はじめは双方の理解があって彼と肌を重ねたわけではなかった。ある種の上官命令だったから逆らえないというのもあった。けれど、気が付けば私も彼も双方におぼれていた。それは…肉欲とか…色欲というわけではないのだろう。

たぶん…心が穴を埋めるために欲求していたものだった。寂しかったとは私も彼もきっと口には出さない。私も彼も一人きりで心の底から吹いてくる冷たい風に身をさらしていた。それを収めるためだった…それを、和らげるためだった。これが一番近いのかもしれない。



自分と彼女の過去はほとんど同じだ。肉親全てを亡くしたことも、彼女も自分も異様なまでにとある一つの能力が高かったことも、孤独をずっと抱えていたことも。

自分と彼女の能力はほとんど同じ分野だったにもかかわらず、肌を重ねる前まではお互いのことは何一つ知らなかった。まぁ、上が情報を操作…いや、消していただけなのかもしれないけれど。

いまだに上からは肌を重ねるよう命令されたわけも、それが彼女だったわけも知らされていない。もしかしたら死んでもわからないかもしれないが。

でも、彼女が自分の心のよりどころになってしまったというのは否定できない。もしかしたらこんな関係を上が望んでいたのかもしれないなんて考えて笑いそうになってしまう。さすがに上も自分たちの心の…感情の操作まではできないはずなのだから。

いつも上が見ている自分はすべて虚構のもの。そう思わないと心が…体がつぶれそうだった。あんな非常なことをやっていて、それを自分と認めることができなかったから。あんなことを自分がしているのだと認識したくはなかった。けれど、やらなければ死が待っている。仕方ないといっても虚構でないとどこかつぶれそうだった。



虚構を二人きりの時には外すことがいつの間にか私と彼の習慣になっていた。虚構…彼の場合は人格と衣装、私の場合は、人格と化粧。そして…衣装も含まれていたかもしれない。ソレがないと私も彼も心身ともに押しつぶされて壊れていたかもしれないものだ。

初めての時は、私は化粧をしていた。人格も虚構のものだった。衣装だけはいつもの白を脱ぎ捨てていた。でも白の下に来ていた衣装のデザインや色は同じようなものだったので虚構といえるかもしれないものだった。けれど、彼は人格も衣装も変えていた。いつもの無表情ではなく少し柔らかい顔に吸い込まれそうな黒の衣装は灰色のシャツに。白い色を身に着けなかったのは自分が着るわけにはいかないということだったのだろうか。肌を重ねれば重ねるほど、私も虚構をなくすようになっていた。

そんなありのままの自然体の姿が私には心地よかった。彼が朝になって仕事に行くのを引き留めたくなるくらいには。けれど、そんな権限を私は持ち合わせていないわけで…。それに私もそのあとに仕事が待っていた。

彼との自然体で過ごせる時間がうれしかった。闇の中なのに…闇にはないぬくもりが感じられたから。

なんとなくだけれど、わかってしまった。この気持ちは…このぬくもりは…愛なのかもしれないと。



ふと気がつけば彼女の居場所につながる道を歩んでいた。本能というのは意外と侮れないものであるらしい。でも、いつもとは違い、着替えずに彼女に会いに行こうとしていることに気がついて愕然とした。もう一度…戻って着替えようか?なんて考えて、いつも彼女と会う時間より遅くて道半ばまで来ていることに気付いた。はぁ…とため息を吐く。どうしようか。

……もうこのまま行ってしまおうか。言い訳をすればいいのだから。

そんな風に考えたのは今日の仕事が血生臭く、精神的にまいったからかも知れない。彼女に少しの間会っていなかったからかもしれない。虚構の姿をしていたとしても、仕事のための服を着ていたとしても…それ以上に彼女に会いたいのかもしれない。

とにかく今は彼女に会いたいのだ。そう思った後、一度その思いを反芻して考え込みかける。あれ?自分はどんな風に彼女の事を見ているのだろう?と。

そして立ち止まった。この気持ちは愛なのかと考えて。信じられなかった。自分が愛することも、自分がこんな気持ちを持っているところも。けれどそれが本当なのは理屈ではなく感情が物語っていて、信じるほかなかった。



私の過去はとても人に話せるものじゃないなんて嘘を吐いて隠すことが当たり前だった。虚構の姿で虚構の過去を見せて。本当は話せないことなんてない。汚くもなかった。ただ自分が話していて、段々と虚無にまとわりつかれるような…心の穴が広がるような感覚を持つだけだった。でも私にはそれが耐えられなかった。弱かったから。彼は私がすごい。強いんだねとも言っていたが、私はそんなことはないと思っている。彼はきっと私の過去を知ってそういっていたのだろう。今考えればそうとしか思えない。でも、彼も私もさすがに心を読めるわけではないから。

気がつけば、私の仕事用の白で統一された部屋はもうとうに暗くなっていた。仕事の道具や物を黒い机の上から除けていつもの場所にしまう。そして、いつも通りの黒いコートを羽織って部屋から出る。鍵代わりにカードを扉にある読み取り部分に触れさせ光が赤くなったのを確かめた。いつもより遅くなってしまったと思いながら。

仕事用の部屋と私の部屋はそう遠くはない。棟が違うけれど、その棟もすぐ隣にある。靴音を響かせながら階段を下りる。エレベーターもあるけれどなんとなく使いたくはなかった。4ほどの階層を降りてようやく1階に着いた。ドアの手前にある改札に首から下げているカードを触れさせ、電子音が鳴ったのを確かめてその改札を通った。ドアを抜ければすぐ右隣りの棟に進む。ドアから入って、受付の人に黙礼をして会談へと向った。

部屋へと戻れば、なぜか靴がもう一つあって、まさかと思い部屋の中に急いで入った。



「遅かったね」

と暗い部屋の中で別途に腰掛けて微笑む彼。来ないと思っていたのに…なんて言葉は彼には通用しないのだろう。

「来た…のね」

彼と私の会話はこれだけで十分。彼はいつも来るときと同じようにそこにいた。

「なんとなく…君に会えていないような気がして…」

と私が脱いだコートを彼が受け取りソファにかけた。

「久しぶりだものね」

と私たちはベットに腰掛けた。


沈黙が流れる。私も彼も何も言わなかった。


気がつけばお互いに触れているなんてよくあることで、気がつけばお互いを見つめているということもよくあることだった。

ベットに二人で倒れこんで求め始める。

本当になんとなくだったけれど、これが私と彼のあたりまえだった。なんとなく彼に触れる、触れられることが愛おしかった。

恋という概念を超えて愛というもので私と彼はつながれていたのかもしれない。彼の瞳を見てそう思った。



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