人格詐称
プロローグ
誰しもが心の中に善と悪を持ち合わせている。しかし、悪だけの心が暴走しないように人間には理性というものが備わっている。だから、みんな平和に暮らせているのだ。しかし、人間の心というものはそれほど強いものではない。ちょっとしたことで、憎悪が増幅したり、ちょっとしたことで悲しみが増幅したりする。なのに、幸せはそれほど増幅しない。
人間は心に負けて何かを実行してしまうことがあり、それが犯罪と言われる行為へと繋がっていく。人を傷つけてはならないといいながら、人間は、植物や動物を食べている。本来、弱肉強食の世界だから、傷つけてもいいのではないのだろうか。人類が過去から繰り返している戦争とはそういうものなのではないだろうか。
理性と本能の間に立たされた上に、「自分」という存在が二人いたら、果たしてどうなるのだろう。その二人の存在が善と悪だったら、どんな行動につながるのだろう。瞬間的に覚えた殺意と計画的に実施する殺意、裁判になると計画的なほうが罪は重くなる。しかし、奪った命の重さは同じだといわれる。同じものを奪った行為なのに、それに対する罪の重さが変わるというのはどういうことなのだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」苦肉の策の末に生まれた言葉のようにも感じる。ひと昔、中国でもヨーロッパでも最高の権威を得たものは自分の身内に対し、粛清を実施していた。これはなぜ罪にならなかったのか。多くの民が幸せに暮らせるためなのか、一部の人間がその生涯を贅沢に暮らすためのものなのか。いや、権力を誇示するために過ぎなかっただけのことかもしれない。
人間の本質に逆らわずにそして時には怒りを計画に変えて生きた一人の資産家の男の一瞬を切り取って紹介したいと思う。怒り、涙、慈愛、色んな感情で宇都美優という男の数年間の許し難い行動を体感していただきたい。
第一章 自分自身の認識
「どんな状況においても、自分を裏切らないと言えますか」「あなたは清らかだと思っていますか」「これまでに怒りに任せた行動をとったことはありますか」「自分を嫌いになったことはありますか」「愛ってなんですか」「人生ってなんですか」「なぜ、あなたは生まれてきたのですか」
鎌倉の閑静な住宅街にとある洋館があった。ここの主は資産家の一人息子で、今年二十八歳になる宇都美優である。優は、色が白く端正な顔立ちだった。グレーのレザージャケットがお気に入りで何着も持っていた。古くなると、いつもイタリアのトスカーナまで買いに行くくらいだった。あまりブランドにこだわる方ではなく、自分が気に入った服を身に纏うのが好きだった。そんな優だったが、これから先のことに絶望しながら自問自答する毎日を過ごしていたのだった。それも声に出して自分に問いかけているのである。はたから見ると完全に引いてしまう行動だった。
いろんなことが優の頭の中を駆け巡っていた。いつも答えは出ない、自分にもわからない。一体どうしてしまったのだろうか。こんなはずではなかったのに。両親が事故でなくなるまでは。
優の両親は、一ヶ月前、高速道路で玉突き事故に巻き込まれ、トラックに挟まれてしまい即死だった。優は一人っ子だった。それまでは何不自由なく育っていた。欲しいおもちゃは、おねだりすれば何でも買ってもらえたし、海外旅行も毎月のように行っていた。それは両親がいたからだと思い知った。広い洋館の中は静かでさびしいものだと両親がいなくなって初めて気づいた。使用人はいるがあまり話しかけることもない。幸いなことに、両親が残してくれた遺産というものはかなりある。何不自由なく生活はできるので、特に仕事を見つける必要もない。保有している何件かのアパートからの家賃収入や投資している株や投資信託からの配当だけでも、年間少なく見ても五千万から一億程度の収入が得られるのだ。庶民からすればなんとも羨ましい限りである。両親が亡くなった後、遺産を管理している弁護士から連絡があり、書類にはサインをした、意味もわからずに。優は今日から一人なんだと自分に言い聞かせていた。家の中を切り盛りするお手伝いや弁護士たちはこれまで通りに出入りしていても、彼は孤独の中にいた。自分を見つめては涙を流す日々ばかりが続いていた。しかし、彼に同情して声をかけてくれる使用人や友達はだれもいなかった。優はそれでいいと思っていた。わずらわしくないからだ。表面だけの同情は欲しいとは思っていなかった。
両親が亡くなってから、一年という時間が過ぎ、自分の中にもう一人の自分がいることに気づき始めていた。気がつくと、その時もう一人の自分が話しかけてきていた。
「悲しいのは俺も理解できるよ。だって、俺はお前だからな。でも、いつまでもこのままじゃダメだな。そろそろ太陽の光を浴びようぜ。光は闇を照らしてくれるさ。お前の闇を浄化してくると思うぜ」
「ありがとう。そうだな。季節は春になったし。外に出てみるとするか」
お手伝いさんは、独り言を続けている優を気味悪がって近くに寄ってこようとはしなかった。自分の仕事に没頭しているふりをして、優のことは常に見てみぬふりをしていた。そして、使用人だけで集まった場所では、そのことが井戸端会議のネタになっていたのだ。
「ここのお坊ちゃん、気持ち悪いわね。いつも独りごと言ってるし。しかも、その内容って不思議なのよね。自分で自分に話しかけているんだもの。気味悪くて近寄れないわ。何されるかわからないし。旦那様と奥様がご健在の時にはとっても素直なおぼっちゃまだと思っていたのに。最近は、全く別人よ」
こんな話で盛り上がっていたが、そのうちの一人で最近この家で働くようになった久住綾は、不思議そうにみんなに質問した。
「あのー、私は先月こちらに来たのでよくわからないのですが、優さんはどこか病気なのですか」
「綾ちゃん、あなたは前の状態を知らないからね。ご両親が亡くなったショックでおかしくなったのよ、坊ちゃんは。それで、毎日独り言を言うようになって。しかもその内容が気味悪いから、みんなそばに行かないのよ。用事がない限りはね。だからあなたもそうしなさい。何かあったら困るし責任取れないから。ね、わかった」
「は、はい。分かりました。気をつけてお仕事します」
「そうよ、それが一番。君子危うきに近寄らずってね。あら、私たちは君子じゃなかったわね。あーはっはっはっ」
年長者で先代の時からこの洋館で働いている小太りの高岡恵美子という年増のお手伝いさんは自分の言葉で笑っていた。もうこの洋館で三十年以上働いている一番の古参のお手伝いさんだった。優のおむつを変えていたこともあったので、優からすればちょっと煙たい存在でもあった。
綾はその場を離れていったが、やはり優のことがどこか気になって仕方なかった。「さっき、ちょっと聞こえてきたけど、優さんは自分を見つめ直しているんじゃないかしら」と内心は思っていたが、優の目の前に立ちはだかる勇気までは持ち合わせていなかったので、心の中で思うだけだった。
夜もふけて満月が綺麗に輝いている。優は二階のバルコニーにグラスを片手に出てきて、常に置いてある木製の椅子に腰をかけた。そして、持っていたウイスキーの入ったグラスを燻らせながら、その琥珀色の液体を月の灯りにかざしてみていた。少し屈折して輝いているウイスキーの中の月が歪んで見える。優はふと思った。
「人ってこの月と同じなんじゃないかな。直接みた時は丸いと思っていても、何かを通してみると歪んでしまう。人の心もきっと同じなんだ」
やりきれない気持ちをぶつける場所もなく、優は一気にグラスのウィスキーを飲み干した。テーブルの上にはかわいい訪問客として鈴虫が一匹羽を振動させて鳴いていた。
グラスをバルコニーのテーブルに逆さまにして置いたまま、自分の部屋に戻った。逆さまにしたグラスの中には、鈴虫が囚われていて、どこにも行けずに、リーンリーンと悲しげに泣いていた。誰もいない夜更けのバルコニーなので、グラスを片付けてくれるものもいなかった。
優は部屋に入り、パジャマに着替えるのもそこそこにベッドに潜り込んだ。なぜか涙が込み上げてきた。「なぜ父さんも母さんも死んでしまったんだよ。もっと一緒にいて楽しい時間を過ごしたかったよ。まだお嫁さんももらってないんだよ。僕はおかしくなりそうだよ」自分にいいかせていたら、どこからか、そのことを否定する言葉が聞こえてきた。
「いつまでも、いつまでも、お前は情けないな。そのまま、ずっと一生生きていくつもりかよ。俺はごめんだぜ。いいことも悪いこともいっぱいやってみたいんだ。お前がメソメソしていたんじゃ、何もできないじゃないか。いい加減、自分の性格に気づけよ」
そばには誰もいない。しかし、優にははっきりと聞こえている。一体誰だ。優は深呼吸した。「そうか、もう一人の僕だな」そして優は気づいた。
「これからの時間をどう使っていくのかを考えるべき時が来たんだ」
翌朝、東向きのバルコニーはすでに煌々と温かい朝日がさし込んでいた。優は昨日の鈴虫はどうなったかなとふと思い出し、バルコニーに出てみた。すでに八時を回っていたので、八月終わりの日差しは朝でも暑い。テーブルのところに行き、グラスの中を見てみた。そこには、ピクリともしない鈴虫がいた。優は、「命って儚いし弱いものだね」と思った。何かが、心の中で弾けた瞬間だった。優は、人の命も儚いものだと思い、両親のことを思い返し、きっと世の中の人間はみんな同じなんだろうと思っていた。そのことを確認したい衝動がどこからか込み上げてきた。
どうやら、優の中で長い間眠っていたもう一人の人格が目覚めてしまったようだった。抑えきれない衝動は、優を悪い方へと誘っているようだった。そして、優もそのことを素直に受け止めつつあった。
第二章 初めての殺人
優は、Tシャツの上に大好きなグレーのレザージャケットを着て、久しぶりに車を走らせていた。もちろん一人である。彼の愛車は赤いポルシェ・カイエン・ターボのハイブリッドで、最高速度300キロ近くまでだせる化け物のような車だ。出力で表現すると680馬力である。国産の車が150馬力以上あればかなり上級車なのでその凄さがわかる。価格に至っては、中古マンションの2LDKは買えるであろう、ほぼ車両だけで2500万円位する車だった。優にとっては、車は単なるおもちゃの位置付けだったので、価格や性能にはあまり興味がなかった。ただ、踏み込んだアクセルに素直に答えてくれる車ならなんでもよかったのである。
優は考えていた。「鈴虫はたった一晩で死んでしまった。人間はどうなんだろう。簡単に死んでしまうものなのだろうか。きっと人間は鈴虫よりは強いはずだな。でも確認してみないとなんとも言えないな」車を走らせながら、普通では考えられないことを考えながらドライブしていると、葉山あたりまで来てしまっていた。もう少しで葉山マリーナである。優が所有するヨットとクルーザーも停泊している。だが今日は乗るつもりはなかった。ふと歩道の方を見ると、泣きながら走っている女性が目に入ってきた。車を女性の十メートルほど先にある自動販売機の前に停めてハザードランプを点けた。助手席側の窓を開け、女性が通りかかると同時に、声をかけた。
「どうしました。だいじょうぶですか。気になったので停めてしまいました。よければ乗っていきませんか。送りますよ」
突然止まった車から話しかけられて女性はびっくりしていた。飾りっ気のない女性で、化粧も薄い。着ている服もユニクロを連想させるような福だった。ジーパンにスニーカーという出立ちで高校生のような格好をしていたが、おそらく三十歳くらいかなと感じていた。美人ではないが憎めないような優しい顔をしていた。
「い、いえ、結構です。急いでいますから」
「あっ、そんなに警戒しなくてもいいですよ。私はこの近くに住んでいるものです。一日一善をモットーにして生きているので、困った人を放っておくわけにはいかないのです。話を聞いてあげることも、近くの駅まで送っていくことも、ご自宅まで送っていくこともできますよ。泣きながら走っている方が目立ってしまいますよ。さぁ、どうぞ」
そういって、助手席側のドアを内側から開けた。女性は戸惑いながらもしっかりした人みたいだと思い乗り込んできた。
「すみません、では、失礼します。素敵な車ですね」
「あぁ、この車ね。数ヶ月前に納車されたばかりだからまだ綺麗でしょ。ところで、どうしたんですか。泣きながら走っているのが見えたのですごく気になりました」
「ええ、じつは、、」
「あんまり話したくなければ、無理に話してくれなくてもいいですよ。人の数だけ悩みもあるものですし、他人に詮索されたくないこともありますからね」
「ええ、いや、すごく優しい方だとわかったのでお話しします。聞いていただけますか。馬鹿な私の経験を」
「分かりました。どうぞ話してください」
車は法定速度を守りながら、葉山マリーナに向かいつつあった。優は、このまま女性をクルーザーに乗せて海にでも出てみようかと内心考えていた。
「実は、さっきはレストランに付き合っていた彼と一緒にいたんですけど、急に別れようって言われたんです。別に好きな女の人が出来たらしくて、私には興味が無くなったと言われて、自分でも頭の中が真っ白になって泣きながら飛び出してしまいました。気がついたら、泣きながら走っていたんです。そしたら、あなたが気づいてくれて、、、」
「なるほど。そうでしたか。それは辛い思いをしましたね。彼のことは憎いですか」
「憎いと言うより、どうしてっていう感じの方が強いです。もう付き合って五年にもなっていたんです。毎年お互いの誕生日にはプレゼントもあげていたし、先月が彼の誕生日だったんですけど、私は貯金をはたいてオメガの時計を買ってあげたばかりだったんです。だから余計に辛くて」
「そうだったんですか。本当に愛していたんですね。彼のことを。でも、ちょっと変ですよ」
「えっ、何がですか」
「先月、時計を買ってあげて受け取ったのなら、その時に新しい彼女がいたとしたら、確信犯だし、いなかったとしたらたった一ヶ月であなたから離れたということになってしまいますよね。その彼、ひょっとしたら詐欺師だったのかも。もしかして、毎年結構な金額のものを買ったりとか現金を渡してたりしませんでしたか」
「あっ、いままでは当たり前だと思っていたのですが、二千万円くらいあった貯金がこの五年間で無くなってしまいました。これって、そういうことなんでしょうか」
「多分、間違い無いですね。もう少しわたしと会うのが早ければよかったのですが、すでに差し出してしまったのですね。きっと取り返すのは難しいと思います。ちなみに彼の家って行ったことがありましたか」
「いえ、いつも彼が私のアパートに来ていました」
「やっぱり、そうでしたか」
「わーっ、私五年間も騙されていたんですね。うっうっうっ」
優は黙ってハンカチを差し出した。その女性は完全にやさしい優を信頼しきっていた。
「よし、それでは気分を晴らすために、海に出てみましょうか。気持ちもスッキリしますよ。きっと」
「えっ、海ですか。私何にも持ってませんけど」
「大丈夫、泳ぐわけじゃ無いし。僕のクルーザーで江ノ島あたりまで行ってみましょう。海の上で風に吹かれると嫌なことも忘れられますよ」
女性は、短い時間だったが次第に優のことを信頼しはじめ、あこがれ、そして気になる存在として認識し始めていた。優は、車を葉山マリーナの駐車場に止めると女性の手を取り、クルーザーへと向かった。監視カメラがあるので写り込まないよう気をつけながらエスコートしていった。クルーザーに着いたら、女性はまたびっくりして「これがあなたのクルーザーですか。すごいですね」と驚きを隠せなかった。優は、完全に信用したなと感じていた。そのまま二人はクルーザーに乗り込み、港を出るまでは危ないからといって、女性をキャビンのなかに案内し、見えないようにして江ノ島の沖までクルーザーを移動していった。
「もう、江ノ島沖に出たからそこから出てきてもいいよ。気持ちいい風に吹かれてみるといいよ」
女性は、キャビンから出てきて、心地よい風に髪がなびくのを楽しんだ。
「気持ちいい。さっきまでとは大違い。別の人間になった気がします」
「そうでしょう。あなたの気持ちを踏み躙った彼氏をギャフンと言わせるために一つ提案があるんだけど」
「えっ、なんですか。できればもう忘れたいです」
「でも、少しはあなたの痛みを解らせた方がいいと思うよ。そのままにしておくと、多分次の犠牲者もでると思うし」
「なるほど、そうですね。どうすればいいんですか」
「彼のメールかラインに、これから死んでしまいますみたいなメッセージを送るんだよ。そうすると、彼は警察沙汰になるかもしれないと思って気がきじゃなくなると思うよ。どうかな、このアイデア」
「それ、面白いです。ちょっと懲らしめた方がいいですよね。やります」
女性は、そう言って、「あなたに騙されたことが悔しくて仕方ありません。これから死んであなたを呪います。さようなら」とラインでメッセージを送った。それを見ていて確認した優は、女性をクルーザーの後ろの方に連れていった。
「これで、その彼氏もちょっとは焦ると思うよ。小さな仕返しができたね。あ、魚も集まってきてるよ。見てごらん」
「えっ、どこですか」
女性が海面を覗き込んだところを見計らって、優は女性の頭をタオルで押さえ込んで海の中に沈めた。しばらくもがいていた女性は、2分としないうちにぐったりとなった。優は動かなくなったことを確認したあと、そのままそっと海へと女性を投げ入れた。その時に女性が持っていたスマホを女性が履いているジーパンの後ろのポケットに入れておいた。これで、身投げした女性が翌日には波に乗ってどこかの砂浜に打ち上げられて発見されるだろう。そして、スマホで送信したメッセージも確認され、その彼氏とやらもなんらかの罰を受けるだろうなと優は思った。そして、人って息ができないと2分くらいで死んでしまうんだなと確信していた。もう一人の優が完全に表に出てきた瞬間だった。優は、急いで葉山マリーナに戻りクルーザーを停船させると車に戻って、横浜のレンガ倉庫までカイマンを走らせた。そして、喫茶店に入り、あたたかいコーヒーを飲みながら、みなとみらいの景色を楽しんでいた。そろそろ日が沈み、観覧車が綺麗に見える時間だと思いながら、今日は充実したいい日だったなと振り返り、自宅に戻っていった。
第三章 変化のない日常
翌日になって、優はテレビニュースを見ていた。しかし、女性の自殺のニュースは流れていなかった。新聞も確認したくなった。
「綾、新聞持ってきて」
「はいどうぞ、毎日と日経です」
「ありがとう」
3面を中心に優が確認していると、いつもと違う新聞の読み方に気づいた綾は声をかけた。
「何か気になる記事があるのですか」
「いや別に、なんで」
「だっていつもは、一番後ろから順に見られるじゃ無いですか。普通の人と逆だなぁって思っていたので、気になりました」
「へー、よく見てるね。僕だってたまには真ん中から読むんだよ。別に理由なんかないさ。話はいいから早く朝食持ってきて」
「すみません。すぐ持ってきます。どちらでお召し上がりになりますか」
「天気もいいからバルコニーに持ってきて」
「かしこまりました」
ニュースになっていないことが、優はかなり気になっていた。自分の行動をもう一度目を閉じて思い出していた。確かに息が止まるところまで確認して海に投げ入れたはずだ。まだ上がっていないなんておかしいな。しかし、騒ぐわけにも行かないし、しばらくは待ってみよう。
そう思いながら、タブレットでもニュースを確認した後、朝食を摂っていた。今日の朝食は、程よくバターの風味が効いた自家製のクロワッサン、ベビーリーフとコーン、そしてレタスの野菜サラダ、スクランブルエッグ、燻製ウインナーにミルクだった。食後には、プレーン・ヨーグルトにブルーベリージャムをトッピングして食べる。最後は、ストレートコーヒー、今日のコーヒーはモカだった。優の一番好きなコーヒーだった。
食後のコーヒーの香りを楽しみながらタブレットを手に取り、何気に潮の満ち引きを確認していた。最近はクルーザーでの釣りをしていない。父親が生きている時にはよく行ってカツオを釣り上げていたことを思い出していた。そういえば、あの頃は、親父は「潮の流れが大切なんだ。魚は潮の流れに乗って泳ぐから、潮の流れを確認してから釣りに出るんだぞ」といつも言っていたことを思い出すと同時に、優は自分の誤りに気がついた。
「しまった。潮の流れを確認していなかった。てっきり葉山沿岸に流れ着くものだと早とちりしていたかもしれない。江ノ島沖だったから、流れは違う可能性が大きいな」
持っていたタブレットで江ノ島沖から海岸線あたりの潮の流れを確認して、自分の過ちに確信を持った。
「やっぱりそうだ。もう少し海岸寄りだったら三浦半島に向かう潮にのって近くの沿岸に流れ着いたはずだが、江ノ島沖だったから逆の流れに乗ってしまったんだな。だとすると小田原か湯河原、へたをすると熱海の方まで流されているかもしれないな。あのあたりは岩場が多いから、痛みがひどくなるかもしれない。かわいそうなことをしたな。綺麗なままで見つかってほしかったんだけど。小田原方面に流されたとすると、発見されるのは今日の夜から明日の昼頃にかけてということになりそうだな。ここ一週間はいい天気が続きそうだから見つからないということはないだろう。いや、見つかってもらわないと、彼女の彼氏に仕返しができなくなるから困るな。明日のニュースでもう一度確認だな。今日は穏やかな一日を過ごせそうだ」
優は、自分勝手な同情心で自分の失敗を悔やんでいた。しかし、優の推測は正しかった。江ノ島沖からの流れは、相模湾の沿岸に向けてちょうど左右に分かれて潮が流れている。一旦は水に沈んでしまうから発見されにくいが次第に浮き上がって水面を流れることになる。おそらく小田原あたりで浮上しそうな感じだ。だとすれば、その後は岩場の近くを流されることになり、損傷は激しくなるかもしれない。
「綾、コーヒーのおかわり」
「かしこまりました」
優は、気持ちのいい日差しを浴びながら、二杯目のコーヒーを堪能した。そして、トレーニングウェアに着替え、庭に出てストレッチを行い、ひとしきり汗を流した。
第四章 見つかった水死体
翌日のニュースで真鶴で女性の水死体が上がったと報道された。どうやら海流に乗って小田原を越え真鶴まで流れたようだ。真鶴の磯で釣りをしていた人が見つけて通報したようだ。結構岩場にぶつかったようで遺体の損傷は激しかったようだ。このニュースを確認した優は将来に向けたアリバイを作っておこうと考え、綾を誘っていた。二日前と同じいい天気に恵まれた気持ちのいい日だった。心理的な記憶の曖昧さを利用したアリバイづくりに挑戦しようと思っていたのだ。
「綾、今日はちょっと付き合ってくれないかな。気晴らしに出たいんだけど、一人じゃつまらないから」
「えっ、でもお仕事が」
「仕事は一日くらいいいよ。僕に付き合うのも仕事だと思ってくれ」
「分かりました。では着替えて参ります」
「OK。じゃあ、車で待ってるよ」
着替えを済ませた綾がやってきた。優は普段着の綾をあまり見ることはなかったがいたって質素な格好だった。意外と可愛いんだなと心の中では思っていたが、今日は目的があるので余計なことは考えるのは止めようと考えた。早速赤いカイマンを走らせて葉山方面に向かった。そして、二日前に女性を拾った自動販売機の前にハザードをつけて停車した。
「どうしたんですか。こんなところで」
「ごめんごめん、ちょっと喉渇いたなと思ってさ。コーヒー買ってきて」
「えっ缶コーヒーなんて飲むんですか」
「あぁ、たまにはね。綾も好きなもの買っておいで」
綾は助手席の間のドアを開け、自動販売機で飲み物を買って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう。よし、クルージングに行くぞ」
優は、車を葉山マリーナに向けて走らせた。しばらく走ると駐車場について、二日前に止めたところと同じ場所に止め、監視カメラに映らないルートで、二日前と同様に綾をクルーザーまで連れていった。そして、二人でクルーザーに乗り込み、二日前と同様に綾をキャビンの中に入らせた。江ノ島沖まで走らせてクルーザーを一旦止め、綾をキャビンの中から呼び出した。
「どうだ、気持ちがいいだろう。江ノ島沖だよ。ここが好きなんだ」
「ほんと、気持ちいいですね。眺めも最高」
「ははは、そうだろう。後ろの方に行ってごらん。運が良ければ魚が泳いでいるのが見えるよ」
「本当ですか」
綾は船尾の方へ行き前屈みになって海を覗き込んだ。波で時折横揺れがしていた。優は、とっさに綾を支えていた。
「あんまり前のめりになったら落ちてしまうぞ」
「だってお魚がみえなかったんですもの」
「よし、そろそろ帰ろうか」
ほぼ二日前と時間的にも同じ行動になっていることを計算しながら、優はクルーザーの向きを変え葉山マリーナに戻った。そのまま車まで監視カメラに映らないように綾をつれて車に戻った。そして、自宅に戻った時には日暮れ前だった。優が考えていたのは万が一のためのアリバイ作りだった。
「万が一警察が僕のところにたどり着くとしても、少なくとも三ヶ月くらいより先になるだろう。最初はあの女性の彼氏を捜索するはずだし、うまくすれば自殺で処理されて終わるだろう。しかし、水死体が翌日に発見されなかったことを考えるとやはり思っていた海流とは違う流れに乗って流れたようだな。そうすると、自殺した場所が疑われることになる。小田原方面に自ら移動して海に飛び込んだか、船で沖まで行って飛び込んだかが疑われるかもしれないな。そうなると近くに停泊していてその日に動かした形跡がある船が調べられるはずだ。しかし、記録はないから聞き込みになるだろう。ということは曖昧な記憶がアリバイとして役に立つようにできる。今日の行動を二日前だと綾が錯覚すればそれでできあがりだ。綾は、予定と実績をタブレットで管理していて、クラウド経由で僕も見られるようにしている。つまり、記憶が薄れる頃、そう数ヶ月したら今日の予定と実績を二日前の事として書き換えてしまえば全ての辻褄が合うだろう」
優でなければ思いつかないような、記憶が曖昧になった時に頼れる記録を書き換えるという工作だった。
そして、水死体発見から半年が過ぎた。優の考えていた通り、優まで辿り着くことはなかった。一向に警察が優のところに来る気配はないのだが、ここで気を緩めるわけにはいかない。念には念を入れて半年前の予定をこっそりと書き換えておいた。綾も一時の気晴らしで誘われたドライブだと思っていたので強い印象も残らず、クルーザーの楽しい思い出程度の記憶となっていた。当然、日付までは覚えてはいなかった。なんとなく半年くらい前というレベルである。優は、綾の記憶を確認したい衝動にかられてはいたが、余計な刺激を与えて鮮明な記憶にしてはならないと考えて何も言わなかった。それよりも、そろそろ次のターゲットを探したいなと考え始めていた。前回の女性は死んでしまうまでに2分ほどかかった。もっと早く死なせることはできるのだろうかと考え始めたのだ。苦しめるのは好みではない。できるだけ早く楽にしてあげたいと考えていた。殺人者の身勝手な考え方だった。もちろん、他殺に見えてはいけない。あくまでも、事故か自殺に見える方法で2分以内の方法を妄想しながら考え続けていた。
徐々に優の記憶から最初の殺人に関することが消え始めていた。同時に、以前の優しい優が表面に現れることが多くなっていた。そんな時の優の行動はとても人に優しく穏やかに話すようになっている。全く違う人格なのだ。
第五章 裏付け捜査
女性の水死体が湯河原で見つかり、湯河原署に捜査本部が設置されていた。着衣の乱れや外傷がないということから事故または自殺のどちらかだろうということで、捜査員は五名程度がアサインされていた。捜査員の大半はどう見ても自殺だろうという見方をしていた。女性が履いていたジーパンからはスマホも見つかった。それ以外の身分証明書などは見つからなかったが、スマホが読み取れるようになって女性の身元も判明した。今村くるみという三十歳の女性で平塚のアパートに一人で住んでいて近くの市立病院で医療事務を担当していたようだ。勤務態度は非常に真面目て貯金が趣味のような女性だった。しかし、警察の調べたところによると、貯金残高はほとんど残っておらず、何回も引き出された形跡が確認された。しかも、引き出しているのは今村くるみ本人であることも銀行のATMの防犯カメラで確認できた。
合わせて、鑑識がラインのメッセージに辿り着き、「あなたに騙されたことが悔しくて仕方ありません。これから死んであなたを呪います。さようなら」というメッセージを見つけた。これが決定的な動機だとして、捜査員たちは自殺と断定して裏付け捜査が始まった。全財産を騙し取られた三十歳の女性が絶望して自殺したのだろうという見方に誰一人反対はしなかった。あとは、このメッセージの相手を探し出すだけだ。住所録からその男の名前は、岡田隆二だと判明した。早速、捜査員は今村くるみのスマホから電話をかけてみた。もちろん、逆探知も開始していた。
「もしもし、くるみか。変なメッセージが来たから驚いたよ。急に店を飛び出して行ったままだったから。おい、くるみ」
「こちらは神奈川県警です。今はくるみさんのスマホからあなたに電話しています。岡田隆二さんですよね」
「は、はい。そうです。警察、で、すか」
「ええ、そうです。これからお話を伺いにいきたいと思いますので住所を教えていただけますか」
「えっ、これからですか。ちょっとこれからは都合が悪いのですが」
「まずは住所を教えてください」
プーップーップーッという音に変わってしまった。おそらく何か後ろめたいことがあり、逃走しようとしているのだなと判断された。
逆探知の結果、西新宿のアパートだと判明した。捜査員は新宿警察に連携し身柄確保を依頼した。連絡を受けた新宿警察は、すぐに向かって行ったが、すでにもぬけの殻だった。しかも、調べてみるとそのアパートを借りているのは、岡田ではなく木村郁夫という人物で、確認すると、二年前に失踪届が出されている静岡出身の失踪当時五十六歳の男性ということが判明した。このアパートを借りたのは二年半前だったようだ。何やら、事件の匂いがしてきたのである。部屋の中には身元を示すようなものはなく、本当に生活をしていたのかさえ疑いたくなるような部屋だった。着替えや食器もない。タオルや布団もない。バスルームは無いのでおそらく近くの銭湯に行っていたのだろう。洗濯機もないからコインランドリーの利用だったようだ。そうなるとDNA採取や指紋採取も困難に思われた。案の定、木村郁夫の痕跡は採取されたが、岡田隆二の痕跡は皆無だった。考えられるのは、帽子を被りシュラフを使ってただ寝るためにこの部屋を使っていたのか、連絡のためだけに使っていたのかもわからなかった。ただ、家賃に関しては木村郁夫というコメントが入った振込で一年間分が前払いされていたのである。当然、大家としては何も気にしていなかったのだろう。
新宿署では、岡田隆二を結婚詐欺の疑いで手配することにした。しかし顔写真がない。今村くるみのスマホにも写真が入っていなかった。湯河原署の大越刑事は平塚の今村くるみのアパートに急行し、室内を確認し始めた。一台のノートパソコンがあった。立ち上げてみると、パスワードはかけられておらず、Windowsが立ち上がってきた。写真を確認する、今村くるみと一緒に写っている男性の写真がたくさん出てきた。おそらく、写真をパソコンに移動してスマホからは削除していたのだろう。同じ顔の男性が多く現れほとんどがツーショットということで、間違いなく岡田隆二だと判断され、新宿署と連携した。新宿署の刑事による写真の男をさがす聞き込みがはじまった。
新宿署の小林徹二刑事は、歌舞伎町で一件の有力情報に辿り着いた。どうやら歌舞伎町のホストクラブの男性に似ているというのだ。小林刑事は、アムールというホストクラブに行った。逃げられるとまずいので、密かに入り口を見張ることにした。相棒の一村茂樹刑事は裏口に回っていた。午後四時過ぎになって、ホストが出勤し始めてきた。じっと一人一人の顔を確認していると、やっと岡田隆二がやってきた。おそらく偽名だろう。裏に回っている一村刑事に連絡をとり、踏み込むことに。岡田がドアを開けて中に入った瞬間にすかさず二人の刑事は店内になだれ込み、岡田を捕まえた。
「岡田隆二だな、参考人として事情聴取する。電話をかけた時に逃走したので公務執行妨害での逮捕となる。署まで一緒に来てもらうよ」
「うわっ、何すんだよ。だれだよ岡田って。俺は平田実だ」
「今村くるみさんの件で君に話を聞きたい。大人しく我々に同行して警察署までくるならば何もしないよ」
店内では、先に出勤してきていたホストたちが何事かと見守っていた。しかし、平田はナンバーワン・ホストだったので、他のホストは内心では逮捕を喜んでいた。平田も観念したのか大人しくなり、新宿署に刑事と一緒にいった。新宿署では、取調室にいれられ小林刑事による聴取が始まった。
「岡田隆二こと平田実。今村くるみさんを知っているな」
「あぁ、ちょっと遊びで付き合ってやった女だよ。それがなんだよ」
「まだ、ニュースを見てないようだが、今村さんは死亡したよ」
「えっ、まじで。俺じゃないよ」
「ほぅ、何が違うんだ。まだ何も言ってないぞ」
「いや、そうじゃない。死ぬってラインが来たから驚いただけだよ」
「お前は今村さんからかなりの金額の現金を騙し取っていただろ」
「それは勝手にくるみが貢いでくれてただけだよ。新宿の店で」
どうやら、今村くるみは新宿のホストクラブに通い詰めていたようだ。そのために有金全部を使ってしまったようだった。やはり、自殺の線が濃厚になった。
そのころ、湯河原署の大越刑事は今村くるみの部屋から持ってきたパソコンを鑑識に回して調べてもらっていた。その結果、どうも貯蓄額と給与が釣り合っていないことが分かり、パソコンの中のメモと予定表を調査したところ、どうやら病院の医療事務を実施する傍ら、医療器具や薬品の購入を水増ししていて差額を着服していたことが判明した。業務上横領だった。かわいそうなことに、死者でありながら有罪となってしまったのである。これから、今村の両親は賠償責任を負うことになるかもしれない。被害額は約二千万円に上っていた。ほぼ五年間かけての横領だった。結婚詐欺ではなかったということで平田実については、今村くるみのことに関してはそれ以上の追求はなかったが、住んでいたアパートについての追求が始まった。
「お前がいたアパートは、借り主は木村郁夫という人だな。お前との関係を教えてくれるか」
「なんのことだよ。俺が住んでいるのは、新宿7丁目のマンションだよ。アパートなんて知らないな」
「ほう、木村郁夫が借りていたアパートには、お前のものと思われる髪の毛と使っていたと思われる湯呑みもあったぞ。すぐに鑑定しようか」
「そんなものある訳ないさ。寝泊まりには使ってなかったから、あっ」
「語るに落ちたな、さぁ正直に言ってもらおうか」
第六章 失踪事件の顛末
遡ること三年前。野外コンサートで有名になった静岡県のつま恋の近くに、木村郁夫は住んでいた。手広く農業の会社化を手がけていた。もちろん主力商品はお茶だったが、野菜や、お米などあらゆる作物に手を出していた。地元の銀行も土地を担保に資金を融通していた。しかし、世の中でウイルスが蔓延するに従って直接取引していた居酒屋やレストランなどが軒並み経営不振となり、木村郁夫は大打撃を受け、二億円という多額の借金だけを抱えてしまうことになった。慌てて、木村は一時払いの生命保険に加入した。そして妻の星子に失踪届を警察に出すように伝え、東京に出てきたのだった。息子と共に夜逃げするかのように。
妻の星子は夫が居なくなってから半年が経過した時に失踪届を提出した。そして、十年が経過するのを待つ日々が始まった。持っていた畑や設備は全部担保として取られてしまっていた。それでもまだ数千万円の借金があったが、連帯保証人にはなっていないということ、夫はいなくなったから何もわからない、死んでいるかもしれないけどその処理もできないといって、銀行の返還請求を凍結してもらっていた。妻は何がなんでも守らなければと近くのスーパーでパートをしながら毎日の生活を維持していたのだった。
そして、東京に出てきた木村は息子の誠一とともに江戸川の安アパートで生活するようになった。三ヶ月ほどしてから誠一は新宿のホストクラブで働けることが決まり、名前を平田実と名乗ることにした。その時から、女性に店に来てもらうことを目的として、幾人もの女性とデートするようになっていった。その時に使っていた名前が岡田隆二だった。女性には、店での名前は本名じゃなく、本名は岡田隆二だといっていたのだった。次第に収入もよくなり、誠一は新宿のマンションに引っ越しした。しかし、そのマンションは誰にも知られたくなかったので、西新宿の安アパートを父親名義で借りることにして、家賃は常に一年分前払いするからということで、大家と握っていたのだ。したがって、大家はこの親子の素性を知る由もなかった。それからは、女性と別れるときはこの安アパートの前で別れ、まだ飯倉氏はできていないということをアピールしていたのだ。そして、万が一このアパートが探し当てられたとしても、誠一と結びつけるものが残らないように常に気を使っていた。したがって、水道すら使ったことはなかったのである。
そのとき、父親はまだ江戸川の安アパートに身を隠しており、こちらは、平田実の名義で借りていた。仕事は日雇いにでて毎日を凌いでいた。家賃は西新宿のアパートと同様に一年分前払いだ。こうして拠点を複数にして万が一、静岡から後を追って取り立てに来ても撹乱できるようにしていたのだった。なんとしても十年の失踪を実現して保険金を手に入れることを目指していた。しかし、誠一のホストとしての収入がぐんぐん上がってきたので、借金をまともに返済できる目処が立つかもしれないと父親と話をしている矢先に今回の事件に遭遇してしまったのだ。
何かしら、企んでいるとどこからかほつれてくるものである。誠一は根っからの悪ではなかった。今回のことで観念して全てを語った。そして自分自身、楽になったのである。誠一の罪は何も問われることはなかったが、父親の逃亡を助けたとして少しの罰金刑は課せられるかもしれないが、親子でもあり、なんとか助けたいということからの間違った行動ではあったが、真摯に反省していることで簡易裁判所でも特に罪には問われなかった。
これらのことは、明らかになった後、小さな新聞記事として掲載された。
【逆恨みによる入水自殺事件】
『ホストクラブに通い詰めるため会社の金を五年間に渡り二千万円もの金額を横領した今村くるみ(三十歳)は、その金額全てを貢いでいたホストに遺書のような言葉をラインで送りつけ、海に身を投げ自殺した。今村くるみの両親は、むすめが犯した過ちの賠償を少しずつでもお返ししていきたいと我々のインタビューに答えた』
これを見た宇都美優は、にやっとしながら、完全犯罪成立だと思った。衝動的に思いついた犯行でも最も簡単に完全犯罪になってしまった。優は自分の行動に酔いしれて上機嫌になっていた。
第七章 自殺願望の女性
また年が明けた。だんだんと両親の記憶が薄れていくのを優は感じていた。同時に、冬の寒さが和らぐ頃になってくるともう一人の優が頻繁に現れてくるようにもなっていた。そんな折、優はたまたま見つけたインターネットの自殺支援サイトを覗いていた。もちろん公には出回っていないサイトである。たまたまネットサーフィンをしていてたどり着いたのである。投稿を眺めていると、「もう生きていても仕方ありません。どなたか私の自殺を手伝っていただけませんか」という内容が目についた。優は、インターネットメールのアカウントを新規で申請し、その女性にコンタクトしてみた。山梨に住んでいる女性だった。西湖の駐車場で二日後に落ちあうことを約束してお互いのメールを削除する約束をした。優は、メールアカウントの解約を即座に実施した。あとは、女性がメールを消してくれることを祈っていたが、削除されなかったとしても足がつくことはないだろうと確信していた。優は女性の車のナンバーを聞いていたので西湖についたらナンバーを頼りに落ちあうことにしていた。ナンバーは・232だった。偶然かどうかわからないが自殺の語呂合わせのように感じたので、少しだけ引っ掛かっていた。
当日は早起きして湘南バイパスから小田原に入り、そのまま御殿場へ抜けて西湖まで車を走らせた。平日なので、それほど道路は混んでなかった。西湖についた時には午前十時ごろになっていた。もともと、それほど観光客で賑わう場所ではない。カヌーや釣りをする人が訪れることが多い場所だ。車に乗ったまましばらく待っていると、聞いていたナンバーの車がやってきた。かわいい日産マーチだ。女性が乗るにはちょうどいいサイズなのかもしれない。少し様子を見ることにして、車から見ていると、後ろから白いクラウンがピッタリとついている。嫌な予感がした。女性は周りをキョロキョロし始めた。髪の毛を後ろで結んでポニーテールのようにしている。優は気づかれないようにスマホをいじっているふりをしていた。一時間ほど経過した時、白い車から男が降りて女性の車のドアをノックして何か話をしているようだった。「やはり、罠だったな。これはお仕置きに値するな」と優は心の中でつぶやいた。さらに三十分位したら、白い車が先に駐車場を出て走り去った。女性の方は車から降りてきた。薄いピンクのセーターにジーパン、そして白いスニーカーを履いている。その女性は大きく背伸びをした後、周りを見渡して、ふぅっとため息をついたような仕草をして、何やらスマホに打ち込んでから車に乗り込み、発進させた。優は、気づかれないように距離を保ちながら後をつけた。女性が着いた先は警察署だった。「婦人警官だったのか。サイトを利用して自殺幇助するやつを捕まえていたんだな。姑息な手をつかうな」と優はだんだんと腹立たしさを覚え始めた。警察署から見えないところまで車を移動して、さっきの女性が出てくるのを根気よくまった。常備していた双眼鏡がこんな時に役に立つとは思わなかった。
夕方六時ごろになって動きが出始めた。さっきの女性が服を着替えて出てきた。昼間の格好はおとり用として着ていた服のようだった。白いブラウスに薄いグレーのカーディガン、紺色のスカート、足元はパンプスだった。結んでいた髪はほどいていた。毛先は少しカールしているようだった。格好は違っていても、ちょっと距離が離れた目と富士山のような唇が特徴だったので見間違えることはなかった。女性が乗り込んだ車は昼間とはちがう軽の白いアルトだ。もちろん、ナンバーも違う。やはりおとり用のくるまだったようだ。女性の乗った車が走り始めたので、また、後をつけて走り始めた。三十分くらい走ったら二階建てのアパートに到着した。どうやらここに住んでいるようだ。これで場所は特定できた。女性がアパートの階段を上がっていき、しばらくしたら部屋に電気がついた。優は、一人暮らしであるということと部屋の位置を把握した。しかし、今日はそれ以上の計画を持っていない。一旦、帰ってから再度計画を練ることにしてその日は帰った。
丸一日を潰すことになってしまったが、優としては収穫に満足していた。危うく罠にはまってしまうところだったが、お仕置きをする相手を特定できたし、住まいも把握したのである。
「僕を罠に嵌めようなんてことは百年早いということをわからせてやる。でも今じゃない。みんなが今日のことを忘れる頃にだ。そうだな半年後くらいかな。それまでは平和で幸せな時間を送っていてくれ」
優は自宅に戻り、翌日東京まで出かけた。久しぶりの人混みに紛れて歩くのは酔いそうで好きではない。目当ては雑貨屋だが、欲しいのは真鍮か木でできたできるだけ背が高い円錐型のリングスタンドだった。できるだけ雑踏のような環境で買えるところに行きたかったがなかなか見つからなかった。ネット販売は数多く見つけられるのだが実店舗にはあまり多くの種類はなさそうである。そしてやっと東急ハンズで見つけることができた。木製で高さが十二センチある円錐だった。大きな指輪、小さな指輪を多く飾れそうだった。
第八章 実行された約束
西湖での遭遇から半年が経過していた。赤く染まった木々の葉がきれいな季節に入ってきていた。そろそろコートが恋しくなる頃である。優は、思い出していた、西湖での屈辱を。もう一人の優は、なんとしてでも反省させないと自分の存在意義がないと感じていた。凶器と場所は計画できたが、「どうやって」ということがまだ頭の中で整理できていなかった。どうやって必然的に誰が見ても事故と判断できるようにするのかを悩んでいた。相手は警官である。そう簡単には心を許さないだろうし、部屋の中にも入れないだろう。ここが、頭の使い所だ。空を見つめながら考えていると、一瞬のひらめきが優の頭の中に降ってきた。
半年前のサイトにもう一度アクセスを試みる。やはり既に閉じていた。ということは場所を変えて掲載しているはずだと思い、根気良く探した。そしてヒットした。やはりあった。なんとメッセージは前回と同じ内容を流用していた。「もう生きていても仕方ありません。どなたか私の自殺を手伝っていただけませんか」一文字も違わない、同じメッセージだ。ならば、こっちもおなじ手口で誘い出してやると考え、インターネットメールで前回とは違うドメインを使ってメールアカウントを取得し、メッセージを送った。「近くに住んでるから手伝ってあげるよ。落ちあう場所と目標を指定して」と送った。返事は前回と同じで西湖の駐車場、車のナンバーは・232だった。その内容を確認した直後にメールアカウントを削除した。もちろん、この操作は、自宅からは実施していない。自宅から実施するとグローバルIPアドレスで場所がバレてしまう可能性があるからだ。一旦、西湖のそばまで車を走らせキャンプ場近くまで行き、フリーWiFiを利用して処理した。二段階認証にはプリペイドの携帯を利用した。念には念を入れることは重要だと知っていたのである。
待ち合わせは今回も二日後だった。ここで、優はなぜいつも二日後なんだろうと思った。もしかすると、後ろについてきた白のクラウンは現地の刑事ではないのかもしれない。そのスケジュール調整で二日間が必要になっているのかもしれないなと感じていた。今回は、二日前から警察署を見張ることにした。これではどっちが警察かわからないくらいだ。そのとき優は、周りの慌てふためく姿が見られるならその方が楽しいかもしれないと考え始めていた。そう、待ち合わせの前日に決行することを決意した瞬間だった。
一日が過ぎたが、例のクラウンはまだ警察署に現れていない。優の仮説は確信にかわりつつあった。優は夕方五時前に自分の車を女性警察官の自宅があるアパートに向かって走らせた。少し離れた場所で車をおり、靴にガーゼを巻きつけ足跡が残らないようにして徒歩で女性警官の部屋に近づいた。誰にも見られてはいない。玄関の前に立ち、ドアの鍵がピッキングで簡単に開けられそうな鍵だということを確認し、ガチャガチャと鍵穴に針金を入れてロックを外した。部屋に入って玄関をロックする。一通り家具の配置を確認する。入ってすぐはキッチンになっていてテーブルがある、横がバスルーム、奥の部屋がベッドルーム兼リビングのようだ。広さ的には六畳程度のリビングのように感じた。優に取ってはたまらなく狭い部屋に感じていたが、奥の六畳の部屋には予想通りにローテーブルが置いてあった。
優は考えていた。あの女性は帰ったらまずバスルームに行くか、リビングに来るか。今はウイルスに敏感になっている時代である。優はまずバスルームに行くことに賭けることにした。日が落ちて部屋の中はだんだん暗くなる。キッチンとリビングの間を仕切る壁のリビング側で背を向け隠れて息を殺していた。キッチンからは死角になって見えない場所だ。
女性警官は西湖の駐車場にいた。白いクラウンはやはり後ろからついてきていた。前回と同じだ、しかし、待ち合わせにはまた誰も現れてこない。またしても悪戯だったのかと思い、女性警官は申しわけなさそうに白のクラウンに乗っている刑事に謝っていた。どうやら白のクラウンにのっているのは自殺幇助に関わった人を逮捕する専門の警官のようだ。今回も前回と同様に先に白いクラウンは帰って行った。そして、女性警官が乗っていたマーチは警察署に戻って行った。そして、今日も空振りだったと報告しているのだろう。午後六時ごろになると前回同様警察署から女性警官は出てきたのだが、前回と違ったのは、同僚の警官が何か耳打ちしていることだった。しかし、優は女性警官のアパートに潜んでいるのでこのことを知る由はなかった。
女性警官は自分の車に乗ってアパートに帰ってきた。中には優が待っている。鍵を入れてドアを開け、バッグをキッチンのテーブルに放り投げてそのままバスルームへ。優の読み通りだった。三十分ほどシャワーの音が聞こえていたのが静かになり、濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながらバスルームから出てきた。もちろん、自分一人だと思っているので、何も身に付けてはいない。完全に無防備な状態である。そのまま、リビングの方に来て、電気のスイッチを入れたとき、人の気配を感じていた。
「だれかいるの。もしかして次郎くん。ふざけないでね。こわいから」
しかし返事はない。女性警官は恐る恐るリビングに足を踏み入れた瞬間、バスタオルで顔を塞がれ、体が重力によって床に向かって倒れていく感覚を感じていた。優は、左手でリングスタンドの尖っている部分を女性警官の左の背中に当てたまま、ローテーブルに向かって押し倒して行った。優はリングスタンドがローテーブルに接触する瞬間に左手が挟まれないように素早く女性警官とローテーブルの間から引き抜いた。女性警官の「うっ」という短いうめき声だけを耳にした。どんという音とともに、ローテーブルの上で仰向けに女性警官は手先と足先に小さな痙攣を見せながら全裸のまま息を引き取った。リングスタンドは見事に心臓を貫き、女性警官はほぼ即死だった。
頭にはバスタオルを巻き、両手はそのバスタオルを持っている状態だったが、ふくよかな左の胸からリングスタンドの先端が赤く染まった顔を覗かせていた。優が、前回より安らかに死んだかなと思っているとき、玄関のチャイムがなった。同時に女性警官を呼ぶ声も聞こえた。
「おーい、恵子。来たよ」
優は「まずいと思いベランダに向かった。ベランダからしか逃げ道はなかった。ベランダに出て窓を少しだけ開け、あたかも換気のために開けている程度の隙間に調整して、そのままベランダから音を立てずに、一階のベランダに降りた。幸い、一階の住人はまだ帰ってきていなかった。そのまま、アパートを離れ、自分の車に向かった。そして、車の中から双眼鏡で女性警官の部屋を監視するとともに、何も遺留品を残していないことを記憶の中で確認していた。ガーゼを巻いた靴のまま、部屋に入ったが、中ではさらにタオルを巻いていたので足跡も残っていないし、手袋をしていたので指紋もないはずだ。おそらく抜かりはない」
しばらくして、女性警官を訪ねてきた男は合鍵を持っていたのか、しびれを切らして玄関の鍵を開け部屋に入った。そして叫び声が聞こえてきた。
「恵子ー、うわーっ」
どうも女性警官の恋人のようだった。優は、冷静に、名前は「けいこ」という人だったんだと自分に話しかけた。長いは無用だと思い、そのまま自宅に戻って行った。自分でも、かなり上手く行ったと思っている。優のシナリオは、こうだった。
「外の花粉などを落とすために帰ってすぐシャワーを浴びた女性は、髪をバスタオルで拭きながら、リビングの電気をつけようとして、足を滑らせた。体は回転し、ローテーブルの上に仰向けに倒れ込んだ。しかし、運悪くそこには、円錐状の鋭く尖ったリングスタンドがあったのだ。偶然とは怖いものである。それが女性の心臓がある左胸を貫いてしまった。ほぼ即死状態だった。全くの事故死である」
優は、自分の計画に酔いしれていた。完璧な二回目の完全犯罪だと。しかも、今回は前回と違い、準備に準備を重ねた周到な計画のもとに実行したものだったため、自信はあった。ただ、最後に訪問者が来たことは予定外だったが、おそらく問題はないだろうと考えていた。
その頃、女性警官の部屋では、男が警察に電話をしていた。彼は山下次郎という女性警官の恋人だった。今日は一緒に部屋で食事をしようということでやってきたようだった。返事がないので、合鍵で開けて入ったら全裸で仰向けになっている恵子を見たのだった。そして、左胸から突き出ているリングスタンドを見て、こんなものを買うからだよと内心思いながら、そのまま警察の同僚に恵子の全裸を見せたくはないという衝動からか箪笥の中から下着を出して恵子に履かせ、パジャマの下だけを履かせた。胸はリングスタンドが見えているので仕方ないと諦めた。しかし、この行為が間違っていた。服を着せるために恵子の体は前後左右に動くことになり、リングスタンドはローテーブルに傷をつけ意図的にリングスタンドを背中から刺した後、ローテーブルに押し倒したような痕跡になってしまったのだ。
程なくして、知り合いの警官と観察が到着した。そして観察は見破ったように、言った。
「死後に明らかに動かされています。これは、そばに第三者がいて動かした証拠です。他殺の可能性が高いです。ただ気になるのは、リングスタンドの刺さり方なのですが、刺したというより、女性の方がリングスタンドに向かって倒れて行ったとしか思えませんね。しかし、死後に動かされているのは確実です」
次郎は申し訳なさそうに、釈明した。
「じつは、浦上恵子さんと僕は付き合っているのです。今日は一緒に食事をする約束だったので、訪ねてきたのですが、返事がないので合鍵で入って、彼女のこの姿を発見しました。しかし、その時は完全に裸だったので、なんとかしてあげようと思い、下着とパジャマを私が着せてしまったのです。申し訳ありません、現場保全は頭をよぎりましたが、それ以上に同僚に彼女の裸を見られることが耐えられませんでした。刑事失格です。申し訳ありません」
鑑識も「そんな事情なら仕方ないかもな」と思い、その時点で他殺の可能性を否定し、事故であると結論づけた。したがって、この件は表沙汰にされることもなく、新聞の記事に載ることもなく静かに葬られることになった。家族への通知は次郎が買って出た。
次郎は、全く疑うこともしなかった。ベランダが空いているのも、風を通すためだと思っていたくらいだ。まさか、第三者が侵入して殺害して出て行ったとは思わかなかった。取られているものもないし、前から刺されたわけでもない。それに玄関は施錠されていたということが人間の先入観を助長していたのである。
優は、帰りの車の中で、思っていた。今回も完璧だったな。「やっぱり命って儚いものなんだな。きっと僕も一瞬で死ぬのかもしれないな。今回も楽しんだから、しばらくは大人しくしていようかな。そうだ、綾でも誘ってまたドライブしよう」一寸の反省もなかった。それどころか高揚感に酔いしれているようだった。
夜遅くに家についた。なんとなく自分に嫌悪感を覚え、着ていた服を全部脱ぎ捨ててビニール袋に詰め、ゴミにした。そのままシャワーを浴びにバスルームに入った。
「そうか。あの女性警官もこうやってシャワーを気持ちよく浴びていたんだろうな。そして、バスルームから出た途端に僕の手によって一生を閉じてしまったんだな。ごめんね。でも僕を騙そうとした君が悪いんだよ」
そう思いながら、鼻歌混じりでバスルームから出てきた優はバスタオルを腰に巻いて、バルコニーに出て冷たくなってきた夜風に吹かれた。
「はぁ、もう飽きてきたな。スリルを味わうのも終わりにしようかな」
優の中にいるもう一人の優が心の奥底に消えていく感触を感じていた。そこに残されたのは、忌まわしい記憶を持たない優だった。もう一人の優が殺人の記憶を持ったまま心の中に閉じこもってしまったのだ。
第九章 婦人警官の恋人
殺害された女性警官浦上恵子の恋人は、同僚の警察官でもある山下次郎だった。次郎にしてみれば、もうすぐ結婚する予定だった恋人をいきなり失った悲しみは耐え難いものだった。しかも、事故死として処理された事案でもあり、自分が第一発見者でもある。そして、現場保全を怠ったため、次郎は減俸処分まで受けていたのだ。心情を考えると同情せざるをえない状況に置かれた次郎であり、警察署の同僚からは多くの励ましの言葉をもらっていた。
しかし、次郎の背景には複雑な事情があった。亡くなった恵子の実家は、山梨県で何件ものほうとう料理店や土産物店を経営している裕福な家庭だった。しかも、恵子は三姉妹の次女であり、長女も三女もすでに結婚して家を出ており、後継がいないという問題を抱えていた。そこで、恵子は婿養子になってくれる人との結婚を前提としており、結婚が決まったら警察官を辞めるつもりでいたのだった。
そんな恵子の実家の環境を知り、次郎は恵子に近づいていたのだった。お世辞でも美人とは言えない恵子はなかなか恋人が出来ず、恵子は三十歳を超えた時には焦りをも感じていた。そこに、優しい同僚を装って次郎は恵子に近づき、結婚を前提とした付き合いを申し込んだのだ。もちろん、婿養子を前提として。恵子にとっては渡りに船だったし、頼り甲斐も感じていた。それが、一年前のことだった。
次郎には抱えている問題があった。警官でありながらギャンブルにのめり込みサラ金に多額の借金を作っていたのだった。多額と言っても六百万程度なのだが、利息が高いのであっという間に金額は増えていった。しかし、恵子と一緒になることで、実家の資産を受け継ぐことができればなんとかなると計画していたのだ。借金しているサラ金にも、来年まで待ってくれれば一括返済するという言い訳で返済を猶予してもらっていた。ところが、肝心の恵子が結婚の前に死んでしまったので、全てが水泡と化してしまい、取り立ての恐怖が目前に迫りつつあったのだ。次郎の実家はすでに両親を含め全員他界してしまっており、資産もない。天涯孤独の状態だったのだ。頼る友人もいないし、ましてや署内で相談するわけにもいかない。次郎は恵子の事故死を境に、人生が大きく転落していく感じを身をもって認識していた。
「これで、俺の人生も終わりだな。来月には厳しい取り立てもやってくるだろう。そうしたら警察署内でも知ることとなり、懲戒免職になるだろう。もう、無理だな。生きていくのは。恥を晒して生きながらえるくらいなら思い切って自分で自分の人生の幕を引こう。せめて死んだ後は綺麗な話になるように、恵子の後を追うような遺書を残すとするか。もう思い残すこともないし」
そして、次郎は綺麗な服に着替えを済ませて、アパートで自殺すると大家さんに迷惑を翔だろうと思い、できるだけ人に迷惑にならないように西湖のほとりまで車で行って、人気のない場所を見計らって、安全装置を外した拳銃を自分の頭に当てた。
「パーン」
一発の拳銃の音が湖の上で響き渡りこだました。カヌー遊びをしていた人たち、釣りを楽しんでいた人たちが、驚いたように音のしたほうを探した。すでに次郎は湖のほとりに前のめりに倒れ込んでしまっていたので、湖からその姿を確認するのは困難だった。しかし、道路から湖に入っていく道沿いに一台のカローラが止まっているのは数人の人が見ていた。そしてその方向から音がしたので、何人かは車の方に駆けつけてきていた。
「うわっ、人が死んでる。警察に電話だ。あと救急車も」
誰かが叫んだ。十五分くらい経ってパトカーが二台、救急車が一台やってきた。警官が駆け寄って叫んだ。
「山下、山下じゃないか。おい、次郎、しっかりしろ」
次郎が手に持っていた拳銃が外され警官は保管した。同時に救急隊員が次郎の呼吸と脈を調べ、その場にきていた警官に知らせた。
「残念ですが、すでに亡くなられています」
「なんで、こんなことを」
その後、次郎のスマホから遺書と思われるメモが発見された。そこには、「恋人が死んでしまい、生きていく自信がなくなりました。署員のみなさん、おせわになりました」と綴られていた。恋人の後を追っての自殺だとその時には処理された。しかし、そのことがニュースに流れると同時に、ネット上で実はサラ金の借金があって、苦にしたのは借金の方だったはずという書き込みがあり、同僚たちは釈明に追われる日々となってしまったようだった。次郎の自殺は結局、大迷惑をかけることになった自殺だったのだ。
第十章 優の自問自答
優が行った殺人は、これまでに二件だった。しかし、世の中は、その二つの事案は、自殺と事故ですでに決着していた。だれも優を逮捕に来ることはなかった。最後の殺人から五年が過ぎていた。平和な時間は毎日訪れていた。朝になれば、綾が朝食を運んできてくれる。優にとっては穏やかな日々が永遠に続きそうに感じていた。もう一人の優はすでに表に出てこなくなっていたし、殺人事件の記憶は、もう一人の優が持ったまま心の中に閉じこもってしまった。
暖かい日差しと心地よい風、全身で幸せを感じながら、優は両親のことを思い出していた。そして、自分に問いかけていた。
「僕は間違ったことをしたのかな」
「僕がやったことはみんなのためになってるのかな」
「悲しむ人はいなかったのかな」
「僕自身の心は幸せになったのかな」
「お父さん、お母さん、僕は正しかったのかな」
誰も答えてくれない。優はだんだん自分という人間が理解できなりつつあった。お父さんとお母さんは、いつでも正しいことを判断し実行する人だった。
「僕はどうだったんだろう。正しい行為だったのかな。だれも捕まえにきてはくれなかったな。捕まらないということは悪いことをしていないということなのかな」
優は、両親を失ってから、自分の暴走を止めてくれる人が欲しかったのかもしれない。だからといって、優が行った行為は決して許されない。段々と今の優もそう思い始めてきた。
「僕のやったことは決して正しいことではなかった。でも、僕が興味をもったことでもあった。自分には正直だったんだと思う。やってはいけないことだったかもしれないけど」
いつものように香りのいいコーヒーを飲みながら新聞を見ていると、すでに六年経ってしまっている最初の事件に関係する記事が出ていた。
「六年前に業務上横領をして自殺をした今村くるみの賠償金を返済していた今村の両親は、資産を全て処分してしまい、今後の返済ができないことを苦にして心中しているところを自宅で発見されました。死後五日経過していたようです。第一発見者は近所の住民で回覧板が回ってこないことを不審に思い、裏に回って窓ガラス越しに発見したそうです。遺書も見つかっており、無理心中自殺のようです。賠償金返済のために高い金利での借金の返済に目処をつけることができなかった模様です」
記事を読んだ優は、最初の事件をフラッシュバックのように記憶の底から蘇ってきてクラウドに保存されているスケジュールをタブレットで確認するように見ていた。
「このご両親には悪いことをしたな。でも子供が横領していたことが明るみに出て償えたのだから僕に感謝してもいいかもしれないな。あの時の彼氏は何か罰を受けたのかな。記事には見当たらなかった気がするけど。たしかホストだったような記憶が微かにあるけど。まぁいいか。まるで昨日のようだな。あの時のクルージングは。そういえば綾というお手伝いさんもいた頃だったな。今頃綾はどうしているんだろ。結婚でもしたのかな。あんなに良くしてあげたのに、勝手に辞めて行ってしまったんだよな。そろそろ、綾にはお仕置きが必要な時期に来たのかな」
心の奥に眠っていたもう一人の優が、この記事を見たことをきっかけに、また、表に出てこようとしていた。優の頭の中は、もう一人の優に支配されることを拒否していたが、徐々に混濁していくのを感じていた。
エピローグ
優の生き方は決して支持されるものではない。むしろ、捕まって欲しいと思う。その考え方、行動、全てにおいて人間として間違っている。そして、罰を受けないことに憤りを感じる。という読者の方は多いだろう。しかし、犯罪と定義されている行為を犯したものたちであっても、法の網の目をくぐり抜けているものたちは、少なからず存在するはずだ。そしてそのものたちは、この世界でいい人という顔をして生活し、人望を集めているかもしれない。
我々は、自分に問いかけることを怠ってはいけない。自分自身は正しいかどうかを自分の尺度で考え納得し行動に繋げるべきなのである。他人の批判は簡単であるが、その前に自分自身の襟を正すことを怠ってはならない。人間が人間らしく生きていくために。
この後、優が正しく生き続けたのか、再度凶行に及んだのか、そして捕まったのかは定かではない。もしかしたら、あなたに声をかけてくるかもしれない。もはや、綾のことを心配している場合ではない。
了