第3話
近い場所に人影が現れた事により、ワンチャン忍び込めそうなんて考えは吹き飛ぶ。
殊更に息を潜める意識を持ち、何事もありません様にと、気付けば誰に向ける事もなく祈りの言葉が胸中を占めていた。
ボロそうな家は松明が無く、大きさから言って倉庫か何かだと思っていたのだ。
いや実際に倉庫の可能性もまだあるが。
人影がどんな人物かはまだ分からない。
距離は、自信は無いが目測三〇メートルかそこらといった所。
様々な家の前にある松明の灯りが一番手前のボロい家には無いせいで、遠くにある家の松明の弱い灯りが辛うじてその人影の輪郭を闇に浮かび上がらせている程度。
男性とも女性とも判別は出来ない。
分かるのは大柄ではなさそうという事くらい。
その人影は何をしているのか分からないが出てきた家の前でしゃがみ込み、断続的に僅かに揺れている事から何かしらの作業をしている事が伺える。
俺の沈黙対謎の人影の作業は体感的に十五分程度といった時間で終わりを迎えた。
そして同時に、俺は最大の危機を迎えた。
何とその人物は作業を終えたのか立ち上がると、足元にある何かを持ち上げる様な動作を行い、あろう事かこちらへと歩き始める。
まだ距離はあるし何より俺と人影の間には柵がある為最悪といった状況まではいっていないだろうが、念には念をでより一層息を潜める努力をする。
重い物でも持っているのか人影の動きは遅く一、二秒に一歩程度のスピードで歩いている様だ。
とは言ってもこちらに向かってきている事は聞こえてくる足音の大きさから明白であり、俺のピンチの度合いも上がっている。
ゆっくりとだが徐々に近づいてくる人影は、やがて微かに零れる声まで俺の耳に届く様になってきた。
届く声は俺の耳には「うんしょ、うんしょ」と聞こえ、重い物を持っているらしい状況から普通に考えれば重い物を持ち運ぶ時の掛け声といったニュアンスに思えるが、それは相手が俺と同じ日本語を話している場合の話。
ここが日本では無いと考えていた方が良いとすれば、言語が違う可能性が高い。
万が一ここが日本だった場合は、それはそれとして安堵しか無い為、そんな最善を考える必要は無い。
言語が違う場合、聞こえる言葉にどんな意味があるのかはいくら考えても意味がない。
言葉の意味が分かった所でこちらが相手の言語を話せる訳ではないのだから。
しかし、意味を理解する必要は無くとも、相手の行動を考えておく必要はある。
最悪として考えられるのは耳に届く言葉が「うんしょ(殺す)、うんしょ(殺す)」だった場合。
これはどうしようもない。
相手が重そうに持っている物が仮に武器だとしたら、俺には抵抗する術はない。
こう見えても中学、高校の体育の時間に偶にあった柔道と剣道の経験しかないのだから、実質武道の嗜みは皆無に等しい。
相手が俺を認識しており、殺めようとしている場合は上手く逃げ切れる事を祈るだけ。
ただ、悪くなりそうな状況の中でも最悪まではいかないかもしれない、という打算も俺の中にはあった。
それはこの届く声、如何にも女性のものなのだ。
そして声質から判断して、子供という訳ではないが成熟もしていないと認識させる声色に、脳内では若めの女性と考えた。しかもちょっと可愛らしいと思える声。
仮に若い女性だとしたら、こちらを殺しに来ている場合ワンチャン性差の身体能力で逃げ切る事が出来る可能性が上がるかもと。
まあ、異世界クオリティのオリンピックアスリート顔負けの身体能力を持っていたら無理だが。
そこまで考えて、思わず一瞬思考が止まった。
ここが異世界だとした場合に起こり得る最悪を、そもそも最悪と考えていなかった自分に気付く。
異世界といえばこれを最悪と考えず、何故他の事を最悪と認識していたのか。
異世界だからこそ、真っ先にこれを脅威と考えるべきだったはず。
異世界と言えばファンタジー。
ファンタジーと言えば?
そう、魔法である。
異世界といえば魔法の存在を認知していたはずなのに、何故それを自分に向けられる脅威だと考えていなかったのか。
魔法があればこちらを見なくとも把握する事だって、もしかしたら可能だろう。
俺が逃げても、遠距離攻撃で仕留められるに違いない。
何故魔法の存在を忘れていたのか、寧ろ思い出せた事に、まるでアハ体験の様な感覚が体を巡っていると、違う意見が徐々に心の中で湧き上がってきた。
そしてその意見を頭の中で反芻すると、思わず苦笑が漏れる。
――魔法みたいなのが見れたら、別に死んでもいんじゃね?
如何にも俺らしい、寧ろこれが俺が思う俺の為の考え方だと、自分で自身に納得し謎の感動が生まれる。
同時に気持ちが軽くなった。
どうやらいつもの楽観的な俺が姿を現したらしい。
まあ、なる様にしかならないしな。
楽観的な思考が割合を占めてくるにつれて、自分を緊張させている足音の主についても希望的観測が増えてくる。
異世界モノの王道と言えば、ヒロインとの遭遇。
偶に違う事もあるが、この確率が高めだろう。
そもそも俺が主人公では無い時点で王道なんて存在しないんだろうけど。
だからこそのご都合展開。
ご都合展開で足音の主が可愛い女の子だったら良いなあ。
そして可愛い女の子に殺されるんだったらまだ、死んでもそこまで後悔も無い気がしてきた。
痛みや苦しみが殆どない一瞬で殺ってくれるなら尚良し。
仮に可愛い女の子で殺しにくる場合は、後腐れが無い様に正々堂々向き合って死のうとまで妄想を終えた所で、今まで近寄ってきていた足音が突如止まる。
まだ俺の目の前まで来た距離感では無い為、考えられるのは俺らを遮る柵の存在。
その目の前で足を止めたのだろうと想像出来た。
相手は持ち物を下したのか、重めのモノを地面に下した様な重低音が聞こえてくる。
一度死んでもいいと妄想をしてしまったせいか気が楽になってきたので、やる事といえば少しでもこの、勝手にこちらで美少女と決めつけた目の前の相手の、確信を持つ為の情報を仕入れる事。
そして同時に相手が可愛くない女性、もしくは声だけ女性っぽい男性という線も自分の中で残しておく。
何故かと言えば、もし美少女では無かった場合の落胆を少しでも抑える為の保険である。
しかしながら朧げな遠くの松明の灯りのみ、そして相手は松明を逆光にしておりハッキリと見える機会がない。
もう少し近付けば見えるかもしれない。
互いの距離は五メートルあるか無いかといった所だろう。
この暗闇ならば今よりも僅かに姿を出しても、相手がこちらを意識して見ようとしない限り、こちらのシルエットを認識する事はなさそうである。
もう少しちゃんと見るだけだから。
そう心の中で呟いた瞬間――。
俺の左腕の下から甲高い、乾いた音が響いた。
条件反射の様に俺の身体は動きが止まり、落ち着いたはずの心音が改めて大きく俺の耳に届き始める。
音の正体は何か、見なくとも分かる。
俺の左腕が、落ちていた細い木の枝を地面に押し付けて圧力をかけた結果、それが割れた音。
未だに顔が見えない相手だが、小さく息を吞みハッキリとこちらに意識を向けたのを感じた。
ヤバい、どうしよう。そんな言葉よりも真っ先に頭に浮かんだ言葉。
好奇心は猫をも殺す。
焦ってはいるだろうが、やたらと冷静な頭に響いたその言葉に正にこれか、と妙な納得感を得ながらも体は一切動かない。
こちらから何かアクションをするという選択肢は無く、静寂が数秒程度流れる。
「…………だ、だれかいるん、です、か……?」
突如この空間に響いた声に、自分の脳が活発に動き出した感覚が訪れた。
如何にも女性、少女の声色。
ニュアンス的には疑問形の様に感じ、聞こえた言葉は俺の良く知る日本語。
だが俺の耳が、脳が日本語と勝手に認識している可能性も高く、ただの空耳という可能性も高い。
安易に日本語と決めつけるには尚早だろう。
僅かな時間でそこまで考える事が出来た自分の頭に少し感動を覚えつつも、マルチタスク的に同時進行で、全く別の事が頭を占めていた。
――やっぱ声、可愛いわ。
その声、言葉から考えを深めて総合的に判断した結果。
俺は彼女と会話をしてみる事にした。