第23話
「落ち着いた?」
どの位こうしていただろう。
しばらくこうしていた気がする。
ミーナが微かに頷いた。
「…………は、い……ごめん、なさ、い……」
言わんとする事は理解出来た。
「寧ろ辛い時は幾らでもこうして俺に泣いて欲しいかな。ミーナが俺に頼ってくれてるって感じるし、嬉しいからさ」
寧ろ泣いて欲しいなんて、人によっては「何言ってんだこいつ」と思うだろう。
俺は逆。喜怒哀楽の全てを俺に出して欲しいと思うし、出来る限り頼って欲しいと思っている。
そしてミーナにはどんどん俺に依存して欲しいと願っているのだ。
この人なら幾ら寄りかかっても絶対に自分の下から離れない、出来ればそう思って欲しい。
俺にだけは自分が重い性格なのだと意識せず、迷惑だと考えず、全力で寄りかかってきて欲しいのだ。
それを俺は受け止められる。いや、その方が俺も安心できる、が正しいのかもしれない。
相手に依存されればされる程に俺も愛を実感出来る。
つくづく自分でもかなり性格が歪んでいると思うが、仕方ない。
これが俺だというだけの話。
極端な話、自分で追いかけるよりも、常に引き留めていてもらいたい、めんどくさがりな俺らしい恋愛思考であった。
再度頷くミーナに、言葉を続ける。
「ミーナが辛い時、悲しい時に泣き付いてくれないと、俺がそんなミーナにどうしていいか分からなくて距離を置いちゃうかもしれないし」
ミーナもそうなったら嫌でしょ、彼女に楔を打ち込んだ。
即座に頷く反応に、一旦満足する。もちろんそれは自己満足ではあるが。
今回泣いた事でミーナは、自分が辛いと思う限界を知ってしまった。
そして今の様な小さな幸せを見つけてしまった事で、自分の中でプラスと感じるラインが生まれてしまった。
今までは無感情というゼロの高さが彼女の感情の上限ライン。
しかし今はそれよりも上限ラインが、この狭くとも確かな安息の環境により上がってしまった。
相対的に彼女の下限ラインもまた、その分上がってしまう。
人は基本的に感情の振れ幅をより大きく操る、なんて事は演技でもない限り滅多に行える人はいない。
感情のラインがあり、常にその範囲内で行き来をしているに過ぎないのだ。
それは環境の変化で多少上下する。
例えば恋人と付き合う、はたまた別れる。
付き合うという事は、突き詰めれば今よりも付き合った方が幸せと感じるから、その事実を求めるという願望であり、その願望が叶ったという事は必ず、大なり小なり感情の上限ラインが今よりも上がるという事。
前よりも幸せ、その言葉は正に感情のラインの上限が上がっているに他ならない。
例えば職場等では変わらず嫌な思いをする、そんな人も意外と多くいると思う。
それは意中の相手と付き合い始めたとしても変わらない事もあり、そこでは辛いと思う、嫌だと思う下限のラインは変わらないと思う人もいるかもしれない。
だがそこに発生しているのは感覚の麻痺。
自分は付き合っているという幸せが常時思考を支配し、他の事柄に対しても多かれ少なかれフィルターを張ってしまうのだ。
その為辛いと感じていた事でも「これが終れば恋人に会える」や「恋人にプレゼントを買う為にも我慢しなければいけない」といったある種の脳内麻薬により、嫌な事に対して多少鈍くなる。
つまりは"恋は盲目"。
これは悪い意味だけでなく、この様な良い意味でも作用する。
だが、確実に感情の下限ラインは上がっているのだ。
何故ならその人の中では「この人と別れる」という考えは耐えられなくなっているのだから。
今までその人と付き合っていなかったはずなのに、その状態には戻れない。戻りたくない。
感情の下限、その人が「耐えられない」と感じるラインは確実に上がっているという事に他ならない。
話をミーナに戻す。
彼女は俺と出会い、そして彼女にとって幸せという感情のラインを覚えてしまった。
それはつまり先ほどの話で言うと、ミーナの中で感情の上限が上がったという事。
同時に、彼女の感情の下限もまた上がってしまったという事。
ミーナはこれから奴隷として働く際に、今までよりも辛く感じてしまうはず。
俺というカンフル剤によって多少感情を誤魔化す事は出来るだろうが、それも初めの内だけ。
彼女の様な性格の人は総じて、ストレスに対して溜められる許容量が総じて少ない傾向がある。
しかし俺の様にストレスを元々自覚しにくく、寝れば忘れやすいといった楽観的で自浄作用を持っている訳でも無い。
残念な事にと言っていいのか分からないが、周囲に過敏に反応し過ぎる故に、常人ではそう思わない事でも彼女らにとってはストレスとなり、自分でそれを発散出来るだけの感情のコントロールもまた苦手なのだ。
だからこそストレスが溜まり易く、逃がす方法が無いからこそ代わりの方法として、知ってしまうのが"自傷行為"に他ならない。
自傷行為とはつまり痛みやスリルといった、それを行っている間はそこにだけ意識が集中してしまう行為。
それだけに集中してしまうという事はその間、自分が抱える多大なストレスを忘れさせてくれるという事。
ストレスを感じなくなる行為だから、それに嵌って繰り返してしまうのだ。
言ってしまえば自傷行為とは、それらをする人にとって「没頭出来る趣味」という事。
しかしミーナは腕などを見た所、典型的な自傷行為の跡は見当たらない。
もしかしたら自分の回復魔法で治しているという可能性が無きにしも非ずだが、どちらかと言えば確率は低いと見ている。
彼女の場合、世界の常識である奴隷という制度を受け入れており、更にこの世界では醜いというだけで尊厳を踏み躙られる理不尽さを生まれた時から経験してきた。
つまりミーナはそもそも嫉妬からくる「どうしてあなたはこうなのに私は……」という気持ちが無い。あっても自覚出来ない程に薄い。
彼女にとってはこの世界で容姿の良い人、奴隷では無い人とは単に「自分とは違う種類の生き物」の様な考えを持っているに違いない。
だからこそどれだけ罵倒されても甚振られても決して「何で自分がこんな目に」とは考えない。
思うのは「自分がこんな容姿だから、奴隷だから仕方ない」という卑屈な思考。
これは生まれながらこの世の理不尽を一身に浴び続けてきた彼女だからこそ、生まれてしまった考えだろう。
更に彼女が幸せだった頃の記憶にある、幸せと感じさせてくれていた母親も、同様に理不尽に晒され続けてきたという記憶があり、自分は最底辺の人間だと幼い頃から認識してしまっていたのかもしれない。
この状況が自分にとっては当たり前。
そう認識してしまっているだろうからこそ、彼女は自傷行為をしないのだと考えられた。
罵られる事はミーナにとって、苦しい事という自覚はないのだろう。
しかし暴力は強制的に痛いと感じさせられる、だから辛い苦しいと思う。
だが彼女はそうされるのは当然という認識から、自分の感情に蓋をしてきた。
だからこそ耐えられてきたと言っても過言ではない。
しかしそんな折、俺が現れてしまった。
俺が彼女の、自分を護る為の感情の蓋をこじ開けてしまった。
無自覚で閉めていた蓋を、彼女が自在に操る事など出来ない。
だからこそ、これから甚振られる行為に彼女は耐えられなくなってしまう。
そして耐えられない彼女は、覚えてしまった"堕落"へと逃げる。
この連鎖によりミーナの、俺への依存は深まっていってしまう。
醜い打算だが、こうして彼女が益々こちらへと依存する事を、俺は望んでいた。
もちろん、なるべく早くそんな環境からミーナを開放したいという思いは本気であるが、それまでの間の、自分の力ではどうしようもない期間もまた利用しようとしている自分に嫌気が差す。
しかしそんな打算をも俺なんだと自覚し、認めてしまうしかない。
それ程までに俺は彼女を、ミーナが欲しいのだから。
「ミーナは辛い、悲しいって思ったら俺に抱き付く、俺に頭を撫でてもらう。約束してくれる?」
一方的な要求。
しかしミーナにはそれを断る術は無い。
自分からこの"堕落の飴"を拒否する勇気が無いのだから。
やはり彼女は頷いた。
こうしてミーナにハッキリと二つ目の楔が打ち込まれる。
"堕落の鞭"というそれを。
彼女は恐らく「辛くなってもこの人がいてくれる、頼らなきゃいけない」と思っているだろう。
だが実際は「この人が一緒にいるために、辛い、苦しいと思っても我慢しないといけない」と無自覚に判断出来る様になってしまった。
俺が彼女の最終防衛ラインとなり、そのラインが崩れる事は無いと理解してしまった事で、無意識でそれを壊す事を恐れ、俺がいない所では「この人と一緒にいる為に頑張らないと」と耐えてしまう。
だが俺の前では先ほどの約束のせいで、甘えたいという感情が「自分は今もしかしたら辛いと感じているのかもしれない」と錯覚させ、俺に頼らなきゃと思いやすくなる。
ミーナの感情の下限が上がってしまった為、尚の事「自分は今辛い、苦しい」と思いやすくなるはずだ。
最初はこちらへの頼り方が分からず中々自分から動く事は無いだろうが、そこは俺の方から動く事で何とかなる。
彼女はこうして俺という底無し沼へと、両足を完全に入れてしまった。