第16話
唐突に思い出した。
――そういえばミーナって、仕事の途中だったよな。
途端に罪悪感が湧いてくる。
彼女に付け込み一方的に甘えていた事に今更ながら申し訳なさで一杯になる。
ミーナに訊きたい事はまだまだある。
ありはするが、このまま彼女に俺に時間を使わせる事になると、彼女の作業が終わらず困らせてしまう。
そしてその作業というのは恐らく、奴隷としての仕事なのだろう。
つまりそれを終わらせられなければ彼女は怒られ甚振られる事態に陥る。
それが俺のせいなのであれば流石に自分が許せない。
「そういえばミーナって、何か作業の途中だったよね?」
俺の言葉に彼女は三白眼となり、俺をジトっと見つめてきた。
そんな目で見られる質問ではなかったと思うし、その理由が分からない。
暫くそのままだったミーナは、やがて静かに口を開いてくれた。
「……怪我はもう……しないでくださいっ……」
「あ、はい」
僅かに強められた語気に対して条件反射の速度で返事を行う。
別段何か圧力を感じた訳では無いが、すぐに返さないといけない様な思いに駆られた結果だった。
まあ怪我は好んでしたくないし、そんなお願いなら幾らでもウェルカムだ。
またもや暫く表情を変えずに睨まれ続けたが、やがて俺が本心で了承したのだと納得出来たのか元の可愛らしい大きな瞳へと戻り息を吐いた。
それまでの責められているかの様な雰囲気が霧散した事で、こちらもホッと人心地。
「えっと、ミーナが仕事の途中だったからさ、俺の相手ばかりさせてちゃ申し訳ないなーって思ってね」
やんわりと「俺の事は気にせず仕事に戻っても大丈夫だよ」とのニュアンスを含める。
ミーナは静かに首を振った。
「……今は、カズヤさんと、います……」
縦ではなく横に。
彼女の言葉で、その真意は把握出来た。
俺といると落ち着くや、幸せ、楽しい等諸々込みで一緒にいたい。
もちろん怪我が不安といった理由もあるんだろうが、それが主ではない。
一番の理由は単純に「こんな幸せな空間から離れたくない」というもの。
これは俺も経験があるからすぐに理解した。
友達数人と泊りで遊んだ際に、俺は翌日仕事があるが他のメンバーは皆休みで引き続きゲームなり遊びに行ったりと、仲良く娯楽に興じる。
そんな皆が羨ましく、俺も一緒に遊びたく悩み……結果的に翌日の朝、職場に仮病の休みを申し出る。
内容は多少違えど、その時と非常に似た感覚。
それが今の彼女が陥っている状態。
やらなきゃない事を投げ出してまでこの幸せに浸っていたい。
つまり彼女は"堕落"を覚えてしまった。
しかし俺にはそんな"堕落"が駄目だとは思わない。
寧ろ歓迎すべきものだと考えている。
嫌な事から逃げて、楽な方を選ぶ。
その方が精神の安寧を図れるから。
"逃げるは恥だが役に立つ"なんて言葉が新しく出来たのが懐かしい。
だが俺にはそもそも"逃げるは恥ではない"と思う。
前提として"逃げる"と考えるのは、その原因に対して逃げてしまったという後ろめたさがあるからだ。
端から"逃げる"なんて考えず"進む"とでも考えておけばいい。
――前の職場が嫌で逃げた。
――前の職場が嫌だったから嫌じゃない所に進んだ。
微妙なニュアンスの違いに感じるかもしれないが、口に出してみると意外と気の持ちようが違うと感じられる。
逃げるとは追ってくる対象がいると思うから使う言葉であって、現実的には物理的な追いかけっこ以外では自分の思考が勝手に、実際は追ってくるモノなどいないのに「自分は逃げているんだ」と考えてしまっているだけに過ぎない。
ならば最初から"進む"と考えておけば、自分で自分の首を勝手に絞めている"逃げる"なんて気持ちにはならない。
やっている事はどちらも同じならば、思考はポジティブな方がお得だろう。
自己満足に「私は可哀そうな人」と思われたくて、無意識だが意図的にそちらを選択している人は知らん。勝手にしてくれ。
かなり話が逸れたが、ミーナにはせっかくなので"堕落"をもっと覚えてもらう。
とは言っても、奴隷の仕事もやってもらうが。
彼女が暴力に晒される光景なんか見たくない。
ミーナに左手を伸ばし、下ろされている彼女の細い白雪の様な綺麗な右手を握る。
「ッ」
肩を大きく震わせて驚いた彼女には申し訳ない。
これから彼女には"堕落"を染み込ませていく。
よっこいしょ、呟きながら立ち上がった。
頭痛は耐えられない程ではないし、喉の痛みはまだあるが血の感覚は無いので今は無視しても大丈夫。
手を握ったまま彼女の正面に立つ。
まるで縦長の麻袋の底と側面に、それぞれ切れ込みを入れただけかと思う様なワンピース風味の服装。
足は靴を履いている俺とは違う裸足。
ここで初めて彼女の背丈を感じた。
俺の顎辺りにミーナの頭頂部が重なる。
一五五センチ無い位の身長だろうか。
個人的には一番頭が撫でやすそうな高さであり、改めてあの撫で心地抜群な彼女の髪を撫でたいと思ったが、今は別の事をするので我慢。
不安げに見上げてくるその表情にそそられるものもあったが、理性を総動員し余計な事はしない様心がける。込み上げる嗜虐心は今後また発散させて頂ければ。
握る手の力を若干強めて、彼女に向けて笑いかける。
「じゃあ今から、俺とデートしようよ」
何度目だろうか、彼女の瞳が限界まで見開かれるのは。
その反応からデートという言葉の意味は知っていると判断。
一応、デートという言葉がこの世界のスラング語に該当しないでくれという一抹の不安もあるにはあるが。
次の瞬間、口角が上がり両耳が真っ赤に染まった姿を見て、大丈夫だと確信。
そして始まる二度目の口の動き。
口角が上がりかけては慌てて引き締めるその連続。
それを暫く繰り返した後、やがて意を決した様に若干前のめりとなり俺に顔を近付けた。
が、その直後勢いよく俯いてしまう。
そこから彼女の小さな呟きが耳に届いてきた。
「……でっ、でーとっ……ッ、かっ……ばかっ、ばかばかっ……」
最早彼女の「ばか」は無意識なのだろう。
声は上擦り、若干舌足らずとなっているその声は非常に俺を萌えさせてくる。
うーむ、これは俺は聞こえない振りをした方が良いのか……?
「そう。デートしようよミーナ」
気付けば口に出していた。
先程まで我慢を強いていた理性が旅立ったらしい。
ミーナは再度勢いよく、というよりも反射的に顔を上げた。
口をぱくぱくさせて言葉にならない声を上げる。
「……ばっ……ば、ばかっ……ばっ、ばっ……ばッ……!」
眼下に広がる光景は、若干潤んだ瞳でこちらを見上げ恥ずかしがり顔を真っ赤にしながら、緩みそうになる表情を必死に引き締めようと格闘する絶世の美少女の姿。
これ以上の景色は今まで見た記憶は無かった。
本能のまま、僅かに前のめりとなり、繋いでいない手を彼女の背中に回す。
優しくを意識し、彼女を抱きしめた。
彼女は予想通り華奢で少しばかり痩せぎす気味。
これは奴隷という環境上、仕方の無い事。
だが予想以上に、強く触れれば折れてしまうと錯覚させる様な彼女の儚さに改めて彼女を幸せにしたいとの想いが膨らむ。
突然抱きしめられたミーナは、俺の胸の前で借りてきた猫の様に静まり返り、俺からは頭頂部しか見えない。
繋いでいる左手を後ろに持っていき、彼女の右手もまたそれに付随する。
手が俺の最背面に差し掛かった事を認識してゆっくりとその手を解き、空いた彼女の手をそのまま背中に軽く押し付けた。
俺が手を放しても彼女の手は背中から離れる気配はなく、自由となった俺の手はミーナの背中へと回した。
そして今度は右手を動かして、下ろしたまま動いていない左手を掴み、先ほどの左手と同様の動きを行った。
それが終わった頃。
俺から、ミーナから、それぞれが抱きしめている姿が出来上がった。
背中から伝わる微かな温もりに、俺の心が暖められる。
彼女も同じ気持ちなのかは分からないが、ここでミーナが漸く動きを見せた。
跳ねる様に後ろに跳び下がる。だが俺の腕が邪魔で下がれない。
それを何度か繰り返すしているが、俺の背中に回された腕は解かれる事はなかった。
やがて動きを止めた。
そして何を思ったか、今度は俺の胸元へと顔を押し付けてきた。
ついでに背中に回る腕にも一気に力が入る。
見た目通りの非力で、俺には心地よい締め感が伝わってきた。
そして彼女の顔だけでなく、押し付けられている腹部には女性特有の柔らかい感触が。
彼女の体型から想定はしていた通りのそれほど豊かな弾力は感じないが、それでもミーナの女性らしさを否応なく感じさせられた。
「……ばか……ばかっ……ばかっ、ばかっ……ばかっ」
呟きが改めて耳に届いてくる。
それに合わせ徐々に理性が帰ってきたのか、時間が経つにつれて思考が戻ってくる。
ミーナの可愛さにやられて多少予定が狂ったが、そろそろ本筋に戻そう。
「ミーナ」
「ばかっ……ばかばかっ……ばかっ、ばかっ」
聞こえてはいるんだろうが、まだ事態に彼女の思考が追い付いていないのかもしれない。
「デートしよっか」
その言葉に呟きがぴたりと止む。
やはり聞こえていた様だ。
俺の言葉に数秒の静寂が訪れる。
彼女の頭が小さく縦に揺れた。
それじゃあミーナ、ここからは。
デート(仕事)の時間だ。