プロローグ
川の土手に立つと、汚い水が流れる河と、油の匂いがする街の匂いに襲われる。私はその匂いが、昔から好きだった。
ここは、妻と一緒に散歩するときに、決まって通る道だ。ある日はお互い黙って、ある日は他愛も無い話をしながら、ゆっくりと私達は毎日歩いていた。
河の向こう岸に目を向ける。そこには、かつて真っ白に輝いていた壁がそそり立ってた。何十年も経過したことにより、すっかり黒くなってしまったが、その壁は確かに、ここ数十年そこに立ち尽くしていた。私達にはどうしようも出来ない、断を象徴する壁だ。
「やっぱり、ここにいた」
背後から声が聞こえてきた。振り向くといつのまにやってきたのか、私の娘がゆっくりと歩いてきていた。
「居なくなるなら声かけてよ。心配するじゃん」
その物言いは、若い頃の……わたしが妻に会った頃のものにそっくりだった。思わず、彼女が再び現れたのかとも思った。
「……すまんな」
それを娘に悟られまいと、私は再び対岸の壁に視線を戻しながら、短く返事をした。
彼女はそれ以上何も言わずに、私の隣に建った。ちらっと見てみると、私が見ている対岸の景色を見ているようだ。
「どうしてここが?」
「近所の人が教えてくれたよ。多分、いつもの散歩コースを歩いているのだろうって」
別に秘密の散歩コーストかではないから、ばれるとまずいと言うことはない。それでも、口封じをしておけば良かったと、少しだけ思った。なんとなく一人になりたくて、式場を抜け出してきたのだから。
「結局、聞きそびれちゃったな」
彼女が、独り言のような小さな声で言った。
「和代子の話か?」
うん、と彼女は頷く。
「後で教えてよ。お父さん」
「……そうだな」
彼女が聞きたいと言っているのは、私と和代子が、あの街で出会い、結ばれるまでの話だ。彼女の彼女の活動に利用されてしまうことを恐れていた和代子は、あの街での出来事を一切娘に教えなかった。戒厳令は私も例外では無く、今まで何も話せずにいた。
「どこから話せばいいのやら……」
「私は全部聞きたいな」
「時間掛かるぞ?」
「平気よ。お父さん、まだまだ元気そうだし」
アハハと笑い、彼女は私から少し距離を取る。
「ごめんね。間に合わなくて」
彼女は、ふとそう言った。なんのことで謝っているのかは、分かっている。
彼女の活動は、私も和代子もよく知っていた。いわゆる「反政府組織」と世間から言われるものに所属していて、川の向こうに見えているあの壁の崩壊や、現政権の打倒を目指しているのだ。
もちろん、捕まるリスクがあるのは、お互い分かってた。だから、彼女は成人するやいなや家を出て行き、どこか私の知らないところで一人暮らしを始めた。
そんな彼女も、母が亡くなったという連絡を入れた途端、大慌てで実家へと帰ってきた。花に囲まれた和代子の棺桶に抱きつき、ただひたすらに謝り続けた。
「ごめんなさい……ごめんさない」
彼女があんなに泣いている姿を見たのは、幼稚園以来だろうか? 私はそれを見て、彼女がなぜリスクを冒してまで活動を続けるのか……叶うはずのない夢を見続けていたのか、ようやく分かった。
「いいんだ。どうせ実現しない」
「そんなことない!」
彼女の語気が強くなる。
「あと少しで、クーデターの準備が出来るところだったの。それが成功すれば、お父さんとお母さんを……」
「成功すれば[#「成功すれば」に傍点]、だろ?」
私は数年ぶりに彼女と正対した。
「いいんだ。CW01、私と和代子の想い出は、確かに私の中にある。私はそれで充分なんだ」
「でも……それでも私は……!」
私は自分よりも背の高い娘をそっと抱き寄せた。
「いったん、式場に戻ろうか……昔の話でもしながら」
彼女は私の腕の中で首を縦に振った。抱擁をほどき、彼女の顔を見てみると、わずかに赤くなっていた。