恐れ多くも女王陛下
あるところに大きくも小さくもないけれど、100年以上続く国があった。決して裕福ではないその国を治めていたのはとても優秀で慈悲深い国王で国民からも厚く支持があった。
しかしながら、残念なことにその国王ははやり病で突然に亡くなってしまう。王の死に国民は嘆き悲しんだが、さらに悲しいことに残されたのは幼い王の実の子である王女一人だけであった。王妃はその子を産んですぐにお亡くなりになり、国王もすぐには次の后を取ることは無かったのでその王女に兄弟も家族もいない。
そのことを可哀想だと思った周囲の人達は王女が悲しまないように、好きなことを好きなだけやらせて甘やかして育てた。
そして数年後、王の位につくことの出来る10の歳になったその子は正式な女王となった。しかし、そんな風に育ったその子は自分の思い通りに好き勝手やるようなわがまま放題の女王陛下になってしまっていたのであった。
さてさて、その国の不安な未来はどうなっていくのだろうか……
***
「おい!今日の謁見はまだあるのか!妾はもう疲れたぞ!」
「申し訳ありません、女王陛下。次が最後でございます。新しく宰相となった者を紹介いたします。………ラフォン、入室せよ」
王の玉座にふんぞり返って座り、堪え性のないこの人のために可能な限り人数を絞り、時間を短くした謁見にも絶えられなくなったわがままな女王陛下が文句をこぼす。周りの側近達がなんとか女王をいさめて、本日最後(といってもたかだか四人目なのだが)の謁見者を部屋に通した。
「失礼いたします、女王陛下。お初にお目にかかります。私、この度宰相位に新しくつかせて頂くことになりましたジルベール・ラフォンでございます」
流れるような動作で女王の前にかしづき、頭を下げた。上質で触り心地の良さそうな青い髪がはらりと落ちる。姿態に恵まれているようで、他の側近達と比べて頭一つ分くらいは背が高く、何より、ずいぶんと年齢が若かった。25,6歳といったところか。前の宰相は、前国王が存命であった時からの者であったため最近までその老体にむち打ってその位についていたのでそれを見ていたから若いと思うこともあるのかもしれないが。とにかく、女王はその異色な人物に気まぐれにも少し興味がわいた。そして、それが普段は言わないようなことをいうきっかけになったのだった。
「おもてを上げよ。ふん、お前みたいな若造に務まるのか見物だな。まあ、これから宰相としてせいぜい精進するといい」
なんとも上からな言葉がけであるが、女王が謁見者に対してこのような態度を取ることは珍しかった。いつもだったら、短い事務的な返事で相手を見ることもなくすぐに返してしまうのだから。
「有り難きお言葉でございます。心より精進して参ります。ときに女王陛下、一つお耳にお入れしたいことがあるのですが、発言をお許しいただけますか?」
宰相が女王とまっすぐに向き合って話を続けた。頭を上げたジルベールの瞳は髪と同じように青色で、その透き通った色は何にも表現しがたいほど綺麗だった。言うなれば海の洞穴で少しの隙間から差し込んだ光を受けて、きらきらと反射する海面の奥にある吸い込まれるような魅力があった。女王はその瞳に見せられて半ば無意識的に返事をしていた。
「うむ、話してみよ」
女王のその発言に周囲は少しざわついた。一刻も早くこの謁見室から出たいと日々試行錯誤している女王が、わざわざ自らその時間を伸ばすようなことなど予想していなかったからだ。しかし、ジルベールはその動揺に気を止めることなく許可された発言を淡々とした。まるでそうなることが分かっていたかのように。
「恐れ多くも女王陛下、その玉座はあなた様には合い相応しくないと考えます」
そして優雅な笑みを浮かべながら、誰しもが思いもよらなかった爆弾を落としたのであった。
***
晴れ渡る青空の下、女王陛下は王宮の完璧に整備された庭を駆け回っていた。その姿は完全に子供であったが気にする者はどこにもいない。身体一杯に風を受けながら、花の中を駆け巡った。
こんな気持ちの良い日に、部屋に閉じこもっているなんてもったいない。そうだ、あいつも外に連れ出してやろう。
女王陛下はそんなことを思いつき、うきうきした気分でとある部屋に向かった。
「ジルベール!!おい、いるか、ジルベール!!」
扉を開けるなり大声でそう叫んだ。この部屋は大きくはないが、人を見つけるのに時間がかかる。多くの机に大量に積まれた紙類が邪魔をして誰がどこにいるのか分からないからだ。ぎっ……と音がして、どこかの席から立つ音が聞こえ一人の男が女王陛下に歩み寄った。
「はい、ここにおりますよ。今日はどういったご用件でいらっしゃったのでしょうか?」
にっこりと微笑みながら返事をした人物は宰相のジルベール・ラフォン。驚くことにこの男は謁見の際に例の出来事にもかかわらず、そのまま宰相位に着任していたのだった。あの時何があったのか、事の次第はこういうことである。
***
『恐れ多くも女王陛下、その玉座はあなた様には会い相応しくないと考えます』
思いもよらぬその言葉にその場は凍り付いた。不敬罪とされてもおかしくない言動に人々は血濡れた現場を覚悟した。
『……な、なな、なんだと!!貴様は妾を侮辱しているのか!!不敬罪だ!皆の者、今すぐこの者を処罰せよ!』
予想通り、女王は激怒し椅子の上でさらにふんぞり返って命令を下した。国の宰相を処刑することに怯んだ者たちばかりで命令から一瞬の沈黙が生まれた。その命令に一人、全く動じていないジルベールが間髪を入れず発言を続けた。
『いえ、そうではありません。私は陛下のお身体を案じてそのように申し上げたのです』
『は?どういうことだ?』
『その玉座は陛下のお身体に合っておりません。今もそのように反り返ったような姿勢をとっていらっしゃいますが、その体勢は腰に大きな負担を与えております。玉座を小さなものに変えるか、もしくは座り方を直すかをしなければ近いうちに腰が砕け、一生寝たきりの動けない身体になってしまうかもしれないのです』
一気にそう言い切ったジルベールは、嘆かわしいと言うように俯き手で顔を覆った。その仕草があまりにも美しく儚げで女王は事が重大であると思った。途端にそのことが真実のようにみえ、今まで自分が座ってきた椅子が恐ろしくなり青ざめた。
『驚かせてしまったようで申し訳ございません。それほど心配せずとも今ならまだ間に合います。早急に新しい女王陛下に合った玉座を手配いたしますがよろしいでしょうか?』
『う、うむ!なるべく早くだぞ!』
『御意に』
そしてその日はそのままジルベールは謁見室を後にした。幾日か経って新しい玉座が謁見室に運び込まれ、それは今までの前国王と同じ玉座よりは小さく装飾も少なかったが女王陛下はその座り心地に大層満足した。その椅子に座りたいがためにあれほど嫌がっていた日々の王の業務である謁見の件数も今までよりも増えたほどだ。
そんな風に今までどれほど言っても変わることのなかった女王陛下の業務態度にまで影響をもたらした提案をした人物であるのだからその後の行動がそれだけに留まらなかったのは考えれば分かるだろう。ジルベールは魔法の一言から始まる申し出で女王陛下の考えに影響を与え、その行動を改善していっているのであった。
『恐れ多くも女王陛下、あなた様には毎日湯浴みを行っていただいた方が良いと考えます』
『妾は湯浴みは好かんのだ。水が顔につくのが嫌であるし、何よりも面倒だ。3日に1度でも入れば十分ではないか』
『陛下にご面倒なことを無理に勧めるなど心の痛いことでありますが、陛下のためを思っての事なのです。陛下は日中、王室の外に出てご活動なさっていることと思いますがそこで見えないながらも小さい生物を身体に付着させているのです。その日のうちに洗い流せば無害なものですが、幾日も身体にまとわらせ続けていると次第に有害なものに変わっていくのです。そうなると体中が痒くなってきたり、皮膚がただれてきたりするのです。それどころか、目に見える虫でさえ陛下の綺麗な御髪に引き寄せられその中に紛れ込んでしまい気がつかなければいつの間にか陛下の髪を住処としていることもあるかもしれないんですよ』
『そ、それはほんとうか!?じいや!今すぐ湯を沸かせ!今すぐだぞ!』
女王陛下は浴室へと飛んで入り、その日は何度も髪に虫がいないことを使用人に確認して浴室からなかなか出てこなかった。そして言わずもがな、その日以来毎日湯浴みするようになり、特に髪は念入りに洗い櫛で梳かすようになった。
そしてまた別の日。
『恐れ多くも女王陛下、お野菜を残すのはいかがなことかと思います』
『なんだと?お前ごときが妾の行動に指図するというのか!』
『いえ、そうではありません。もしや、陛下はご存じでないのですか?お野菜には体中の血液を流れやすくするという働きがあります。ですので、十分な量を召し上がらないといつか血液の流れが止まってしまい、この世のものとは思えないような苦しみを味わいながら死に至ることがあるのです。お野菜が苦手で召し上がれないと言うのでしたら、残念なことですがそうなってしまっても仕方がありませんね』
『も、もちろん知っているに決まっているだろう!妾に苦手なものなどあるものか!後で食べようと思っていたのだ!』
女王陛下はとてつもなく怪訝な顔で野菜の刺さったフォークを見つめ、鼻を摘まみながら口の中に突っ込んだ。その日は初めて陛下が野菜を残さずに食事を完食した日となった。
そんなこんなでジルベールが新しい宰相に就任してから女王陛下の生活環境はだんだんと改善されてきていた。今までは自分の好きなようにしかしてこなかったわがまま放題だった女王陛下がまともなレベルの生活をするようになったことに周囲の人間も驚きを隠せていなかった。とはいえ、普通に育てられた子供なら誰もが出来る衣食住の基本となることではあるのだが。
女王陛下は自覚することなく毎回ジルベールの口車にのせされている。しかし、そのおかげで生活しやすくなり身体の調子が良くなっていることを感じ取っていた。それに、今までは自分に対してこんなにも意見を言ってくる人物はいなかったため、さらにジルベールへの関心が深まっていた。
だから、最近はことあるごとに宰相であるジルベールとその補佐官が仕事をする執務室へと赴いているのだった。
***
「うむ。今日は天気が良いから室内にいるなどばかばかしいと思ってな。お前がこんなところにずっといるから知らないと思って妾がわざわざ教えに来てやったのだ。ほら、早く外へ遊びに行くぞ!」
ジルベールに迎えられた女王陛下は笑顔で答えた。満面の笑みでジルベールの手を取り引っ張ろうとする姿は活発な子供のほほえましいそれであった。しかし、そんな様子にジルベールは絆されることなく笑みを浮かべながらもその場を動こうとはしなかった。
「おい、どうした?妾の誘いを断るというのか?」
「恐れ多くも女王陛下、私には仕事がございますので陛下にお供することは出来ません。せっかくの有り難いお誘いをお断りして申し訳ありませんが、他の方とお遊びになっていただけないでしょうか?」
「妾はお前と遊びたいのだ!仕事など他の奴にやらせておけばいいだろう!」
「それがそうもいかないのです」
ジルベールは流れるような動作で女王陛下の手を振り払い、机の上に積み上げられた書類の山へと向かった。その動作があまりにも自然でスムーズ過ぎて、女王陛下は振り払われたことに気がついていないようだった。そして、一束の紙を取り出すと女王陛下の前へと戻ってきた。
「これが今、私が行っている仕事の一つです。国境にかかる橋の通行の取り決めについての文書なのですが、これには国の権力者のサイン、すなわち王か宰相のサインが必要なのです。他にもこれと同じような私が行わなければならない仕事が山ほどあるためここを離れられないのですよ」
「そんなもの、ただ名前を書くだけだろう?後でやれば良いではないか」
「いえ、きちんと確認し改善すべきことがあればそれを提示したうえでサインしなければなりません。例えば、この橋は国境に架かっているため他国と自国の人々が行き来していますがそれだけでなく農作物や製造物を運ぶためにも使っています。それに対する通行料は通常よりも安価に設定しています。陛下はガトーショコラがお好きでしたよね?」
「うむ。あれほど美味なものはないと思っている」
「そのガトーショコラの材料となる作物も我が国では栽培できず、他国からの輸入に頼っています。もし、通行料をあげてしまったらもう我が国に運び込むのは諦めてしまうかもしてません。そうなってしまえば、ガトーショコラを召し上がることが出来なくなってしまうかもしれないのです」
「それは嫌だ!……それならばしかたないな」
女王陛下は慌てたように声をあげる。そして、ジルベールを外に連れ出すことを諦めたようだった。
こんな2人のやり取りはいつもの事だ。女王陛下がはずれた行動をしたり、わがままを言ったりするとジルベールが説き伏せる……というよりも怯えさせ、女王陛下が考えを改めるというのが一連の流れだ。これで女王陛下が仕事を邪魔するようなことがなくなるだろうと、自分に万が一でも火の粉がかからないようにとひっそりと執務室で仕事をしていた補佐官達はほっと息を吐いた。
しかし、少し寂しげに肩を落としながら執務室をさろうとした女王陛下は俯きがちだった顔をばっと上げて落胆した表情から一転して、何かを思いついたようにぱっと顔を明るくした。
「そうだ!だったら妾がそれを手伝ってやろう。サインをするのは王でも良いのだろう?そうすれば半分の時間で済むのだから妾と遊ぶ時間も出来るであろう!」
「なんと有り難いお申し出でしょう。とても助かります。では……これをお願いします」
本来であれば王が行うべき仕事も宰相であるジルベールが代わりにしているため、彼の業務は多忙を極めていた。王が自身の仕事をするならばその負担は軽くなる。しかし、何の学もない言ってしまえば立場だけの子供である女王陛下にその仕事が出来るはずなどなかった。それでも、ジルベールは直接女王陛下にそうは言わずに一冊の本を手渡した。
「なんだこれは?仕事の書類ではないではないか。算術の問題集だと?」
「はい。美味しい料理を作るためにはまず下ごしらえが大切です。それをしないことには調理すら出来ません。そのことと同じで仕事をする際にもまずは下準備が必要なのです。ですので、女王陛下にはまず、算術の知識をつけていただきたく問題集を自室で解き終えて来て欲しいのです。ですが、陛下にそのようなご面倒をおかけになるのはとても心苦しい事なので無理にとは申しませんが」
「良いだろう。すぐに終わらせてきてやるから待っていろ!」
そう言って女王陛下は分厚い問題集を抱えて意気揚々と執務室を後にした。
実は女王陛下は算術や歴史、地学などその他諸々の王に必要不可欠な教育をほとんど受けていない。今よりも幼い頃に教育を受けることを拒否し、周囲の人間が無理強いすることをしなかったからだ。
そのため、ジルベールが女王陛下に渡した300ページ以上ある問題集をすぐに終えることはないだろう。それどころか最後まで終わらせることさえ出来るかどうか。しかし、プライドだけは高い女王陛下であるので自分でやると言った手前、終わらせられなかったら仕事を手伝う、もとい邪魔するなどとは言いに来なくなるだろう。
にこやかに女王陛下をあしらうジルベールに補佐官達はそんな思惑を感じ取り、考えるとかなり手厳しい対応に戦慄を覚えたのだった。
***
「待たせたな!思ったよりも時間がかかってしまったが終わらせてきたぞ!」
しかしその3日後、大方の予想を裏切って女王陛下が勢いよく執務室の扉を開いたのだった。その腕の中にはきちんとあの問題集が抱えられていた。
「ご機嫌麗しく思います、女王陛下。お疲れ様でございます。見せていただいてもよろしいですか?」
「うむ。見てみるが良い」
驚きを隠せずざわめく執務室の中で、ジルベールだけがいつも通りの優雅な笑みを浮かべながら女王陛下に近づいた。そして、受け取った問題集をパラパラと流し見た。
「素晴らしい。全部解いていらっしゃいますね。……時に女王陛下、369×784は?」
「289296」
ジルベールは全てのページが解かれた問題集から顔を上げると、不意に女王陛下に計算問題を出した。自力でこの量の問題をこの短期間で解き終えるには相当の計算力が必要だ。単純な計算とはいえ今までほとんど算術を学んでこなかった女王陛下が出来るはずがないと、適当に埋めたか誰かに代わりに解かせたと思うのが普通だろう。
間髪を入れずに自信ありげに答えた女王陛下にも当てずっぽうで言ったのだろうと執務室にいた誰もが思った。それなりに優秀で学のある補佐官達でさえ、一瞬で暗算することなど出来なかったのだから。
「……正解です」
「当たり前であろう!妾がどれほどやったと思っているのだ。こんなものは朝飯前だ」
これまで丁寧な対応をしながらもどこか相手にしていないように快活に話していたジルベールが初めてわずかに言いよどんだ。その笑みは崩れてはいないが、少しぎこちなくも見える。だが、そんなわずかな表情の変化は周囲のどよめきにかき消された。
ジルベールが自分自身が出題した問題の答えを知らない事などないだろうし、女王陛下が本当に計算して答えたことが分かったそのやり取りの様子を伺っていた補佐官達はさらに驚きを大きくした。
「静かにしなさい。集中力を欠いても平気なほどに仕事が物足りないようですね。後でそれぞれに新しい仕事を追加しておきます。騒がしくして申し訳ありません。では参りましょうか、女王陛下」
「何処へ行くというのだ?ここで仕事をするわけではないのか?」
「はい。まだその段階にございません。国王の業務という最高級料理の仕込みは時間と手間のかかるものなのです。次は書庫の資料を読んでいただきます」
補佐官達を叱咤するジルベールはもういつも通りの余裕のある姿に戻っていた。おそらく彼の動揺には誰も気がついていないことだろう。今の仕事量でさえ悲鳴を上げているというのに自分たちの失態のせいでさらに追加される仕事に補佐官達は皆一様に遠い目をしていた。
「では、こちらの本棚にある本を全て読んで下さい。ここには我が国の歴史についての書物が分類されています。全て読み終わりましたら、また執務室にいらして下さい」
「妾にこれほど多くの書物を読めというのか。本当にそのようなことに意味はあるのか?」
「量は多いですが仕事をするためには絶対に必要な知識でございます。歴史を学ぶことはそのまま直接未来へと繋がっていきます。成功の道筋を知るためにも、同じ失敗を繰り返さないためにも重要なのです。決して疎かにしてはいけません」
「そうであるか。そういうことならば分かった。執務室で待っていろ!」
女王陛下はジルベールに連れられてやってきた書庫のその本棚の大きさと多さに圧倒されていた。そして、その大きな本棚の丸ごと一つのスペースにある分厚くて思い本、100冊はあるだろうそれを全て読むことに躊躇いを感じていた。
しかし、またもやジルベールのさもやらなければならないと思ってしまうような態度にのせられていた。
あれから1週間がたった。執務室に女王陛下はまだ一度も現れていない。普通の人でもあの本棚にある本は1日に3冊ほどしか読み進められないような文量なので全て読み終えるのは1ヶ月以上かかる。それまで女王陛下が読み続けられるのかは分からないが。
陛下がその後どうしているかの情報は日々の業務に忙しくしていたジルベールの耳には入っていなかった。そのため、仕事のための資料を取りに書庫に来たときに女王陛下と顔を合わせたのは偶然だった。
書庫と言っても構造は他の部屋と同じで本棚を置いているだけのような作りになっているので、書庫の中にも窓があり日が差し込む場所がある。そこに置かれた椅子に座り、机の上に本を積み上げ一心不乱に本を読む女王陛下がいた。
「精をお出しですね、女王陛下。本棚の本はどれほどお読みになりましたか?」
「おお、ジルベールではないか。妾が来るのを待ちきれなくなったのか?だがもう少し待っていろ。今、この机にあるものを読めば全て読み終わるからな」
見栄を張ってそう言っているのか。しかし、女王陛下がページを繰るスピードはかなり速く本当に理解して読んでいるのだとしたら100冊くらいなら1週間で読めてしまいそうだ。だが、その内容が頭に入っていなければ速読が出来たとしても意味がない。
「………」
ジルベールは女王陛下にこの前と同じように陛下を試すような質問をしようとした。しかし、こんなにも真剣そのものといった風に本を読む女王陛下に疑う気がそがれた。実際、女王陛下には人並み外れた才能があることはこの前のことでジルベールは気がついていた。
だから、しようと思っていた質問を変えた。
「恐れ多くも女王陛下、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「うむ。なんだ?」
「陛下はお勉強がお嫌いでこれまでほとんどされてこなかったと聞きました。どうして急にこんなにも熱心になられたのですか?」
ジルベールはいつも言葉巧みに女王陛下を行動させてきたが、今回は陛下が自分の仕事の邪魔をしないようにすることに焦点を置いていた。陛下が勉強をするようには誘導していない。これほどまでに継続して勉学に励んでいるのは陛下自身の意思によるものだ。ジルベールもここまで陛下がするとは思わなかった。
「別に妾は勉強が嫌いというわけではない。昔、妾を教えていた家庭教師に聞いたのだ。何故こんなことをしなくてはならないのかと。数字の式を解くことも故人の名前を覚えることも意味があるとは思えなかったからな。そうしたらその教師は、意味などと余計なことは考えずに勉強はしなければならないものだと言った。妾はそんな意味のない無駄なことに時間を使いたくなどなかったから、家庭教師の授業は聞かないことにしたのだ」
「そうですか。そんなことが……」
「だが、意味がないわけではないではないか!その時教師が妾に教えなかったために、今、出来ないことがあるのではないか。それに、ここにある歴史の書物を読んでいて分かったことがある。歴代の優秀な王や歴史上で主要となる人物は皆、多くの知識を持っているようだな。妾も立派な王になるためにもっと学ばなければなるまいな!」
そう自信満々に言い放つ女王陛下は背伸びをする子供のようであるけれども、この短期間で随分と成長したように見えた。
その女王陛下の様子を見たジルベールは笑みを浮かべた。しかし、その笑みはいつもの優雅ではあるがどこか綺麗すぎて感情がこもっていないものではなかった。うちからの感情が溢れ表情として表れたようなもので、にやりという表現が当てはまりそうなとても悪そうな笑顔だった。
女王陛下は再び本に目を落としていたので、その顔を見たものは誰もいなかったのだが。
「そうですね。恐れ多くも女王陛下、あなたは馬鹿でいらっしゃるのでもっと多くのことを学ばなければなりませんね」
そしてまたその魔法の前置きで、ジルベールは女王陛下を翻弄していくのであった。
***
「失礼いたします。お呼びでしょうか陛下」
「遅いぞ、ジルベール!妾を待たせるとはなんたることだ!」
ジルベールが王の執務室の扉を開けるとすぐさまそんな怒号が飛んできた。椅子にはふんぞり返って座りながら腕を組む女王陛下がいた。しかし、ジルベールは少しも怯むことなくいつもの笑みを浮かべた。
「これはまた随分と懐かしい口調をしておられますね。お待たせして申し訳ございません、女王陛下」
「ふふ。たまには昔のことを思い出してみるのも良いものでしょう?ジルベール、あなたが来てからもう何年になったのかしら」
「宰相位につかせて頂いてから8年が経ちました。長いようであっという間の時でございました。その間にこの国も陛下ご自身も随分と成長いたしましたね」
次の瞬間にはジルベールの目の前には凜とした姿勢で執務室の椅子に腰掛ける美しい女性がいた。そんな女性はまさに女王陛下に相応しく、その通り女王陛下であった。
あのわがまま放題の子供だった陛下はこの8年でジルベールのもと、大いに成長を遂げた。ジルベールの助力はあったものの優秀な前国王の遺伝子を継いだのか元々素質のあった陛下は様々な事を学ぶたびにすぐさま吸収し、国の最高権力者として相応しい実力を身につけていた。
また、身体、容姿についても成長していた。健康な食事と生活のおかげですくすくと育った陛下は誰もが振り返るような美貌を手にしていた。特に日々念入りに手入れをしていた髪は本来の輝きを取り戻し、その魅力をさらに増して金色に美しくきらめいている。
女王陛下は学習するごとに自分の考えを改めていき、自分が考えていた王としての威厳を示すための態度は決して良いものとはいえないことが分かった。同時に貴族の女性としての振るまい方を本格的に学んだことで、王としての威厳を態度に表すだけでなく、女王としての優雅さを示そうと口調を変えた。
もう、本当にどこから見ても誰もが認めるような国に相応しい女王となっていたのだった。
「ところで、その机の上にある大量の肖像画は一体なんですか?隣国の第三王子にグレゴール商会のご子息、自警団の英雄まで。他にも共通性の無いような方達の肖像画がこんなにも」
女王の執務室に入室したジルベールは女王陛下の前の机に視線を落とし、そう尋ねた。何の関係性もないような肖像画が10枚ほど机の上に並べられていたのだった。
「さすがはジルベールね。顔を見ただけで分かるなんて。ジルベールにも相談しようと思ってたところなのよ」
「何をでしょうか?」
「私の結婚相手よ。他国との関係性の強化を選ぶか、商会との結びつきを強めて資金の確保に努めるか、平民の憧れの象徴と一つになりさらなる支持を得るか。さて、どれがいいのかしら?」
女王陛下はまるで次のパーティーに着ていくドレスを選ぶような口ぶりでそう言った。だが実際、女王陛下の伴侶選びはドレス選びと似たようなものとも言える。国の最高権力者である女王陛下の選択は良くも悪くも大いに影響を表す。女王陛下が着たドレスは毎回大きく話題になる。そのために、ドレスを選ぶときは自分の好みだけで決めることはない。その時の流行に合わせるか自ら流行を作っていくかだけでなく、誰がデザインしたか、材料はどこから仕入れたものか、誰から購入したかなど今後の政略的関係や庶民への好感を鑑みた上で決める。
そう考えると、まさに多大なる影響を及ぼすと考えられる女王陛下の伴侶選びには私情など挟む事はできない。
「陛下はそれでよろしいのですか?」
「……ジルベール、あなたがそんなことを聞くなんて珍しいわね。政略結婚など当たり前のことでしょう?」
その言葉を聞き、陛下はわずかに表情を曇らせた。ジルベールに向けていた視線をさっと逸らし胸を押さえたが、一拍後には視線を戻していつもの表情で向き直った。
ジルベールは宰相に着任したての頃は陛下が無知に間違った発言や行動をした際には言葉巧みに否定したり意見したりしていたが、陛下がその手腕を現し始めた頃からそういったことをしなくなっていた。する必要が無いほどに陛下は優秀になっていたということだが。
しかし、今回も女王として最善とも言えるべき選択をしようとしているのに、その考えを確かめるようなことを聞かれて陛下は少なからず動揺していたのだった。
「……賢くなられましたね、女王陛下。そして、残念なほどに聞き分けも良くおなりになられた」
「残念?もしかして、私のことを心配してくれているの?あなたにも人の心があったのね。でも、その必要はないわ。私が想っている相手は絶対に私とは一緒にならないような人だもの。叶わない恋を望むより、私は国にとっての有益を望むわ。それに、わがままは子供の頃に言いきってしまったのよ」
何も知らない子供だったあの頃、女王という立場を使って自分のやりたいようにわがまま放題やってきていた。だから、これからはその立場としての義務を、責任を果たさなければならない。そこに、自分の個人的な望みは持たない。
陛下はそんなことを考えながらジルベールに言いきると今度はそのまま視線を外して戻さなかった。そうしないと彼への想いが溢れてしまいそうだから。そう、女王陛下が想う相手とはジルベールだった。
最初はちょっとした興味からだった。自分に対して他の人とは違った反応をしてくる。それもなかなか面白い反応だ。そうやってかまっているうちに自分が彼に踊らされていたこと気がついた。だが、それが分かったのも彼が自分に色々なことを学ばせてきたからだった。そう思うと反発する気も起きなかった。そのまま優秀な宰相に踊らされ続けいつの間にか自分も優秀な女王となっていた。その日々の中で多くの時間を共有している彼に対する感情が恋であると気がつくことは不思議ではなかった。思えば、最初から陛下は彼に恋をしていた。
「はー。本当に優秀になられましたね。最近のあなたの働きはとても素晴らしいものですが、こういう時に少し面倒なのは誤算でした。女王陛下、私は幼い頃から一度もわがままを言ったことがありません。長い生涯の中で一度くらいわがままを言っても許されるとは思いませんか?」
「は?」
普段はほとんど感情を表さないジルベールが少々苛立ちを含めながらそう言った。ため息までついている。ジルベールの突然のそんな態度に陛下は訳が分からなかった。
ただ、わがままを言ったことがない子供なんていないだろうけど、このジルベールなら本当に一度も言っていなさそうだと場違いなことを考えていた。
ジルベールはそんな風に女王陛下が惚けている間に距離を縮めて目の前にかしづきあの魔法の前置きを繰り出した。
「恐れ多くも女王陛下、私はあなたを愛しております。必ずあなたを幸せにすると誓います。私と婚姻を結んで頂けないでしょうか?」
それを聞いた女王陛下は顔を真っ赤にさせた。驚きや嬉しさなど色々な感情が自分の中を駆け巡る。
自分の気持ちだけを優先させてはいけないと考えていたけれど相手も同じ気持ちだったら?でも、国のためにはならないことなんじゃない?そんなごちゃごちゃとした考えが頭の中でまとまらない。
目の前にいるジルベールをちらりと見る。するとジルベールがいつもの余裕ありげな表情ではなく、本心からの真剣な表情をしていることに気がついた。
だからその魔法の言葉の前に女王陛下は頷く事しかできなかったのであった。幸せで一杯な気持ちとともに。