case7
蓋を開ければ、ほわんという甘い出汁香りを漂わせる丼を前に、晃は思わず溢れそうになった涎を拭った。
いそいそと箸を握り、卵で閉じられたカツを一切れ持ち上げれば、とろりとした半熟の白身が揺れる。
うっとりとその様子を眺めた後、大きく口を開けて頬張った。
大ぶりのそれは女子の口には大きく、収まり切らなかった部分を威勢良く噛み切る。
揚げたてのサクッとした食感と豚肉から滲む肉汁で口がいっぱいになるが、油っぽさは添えられた三つ葉のお陰で緩和され寧ろ清々しさすら感じさせた。
「んん~! たはらん! おいひー!」
ゆるゆるとだらしなく顔を緩ませた異捜班期待の新人は、思わず落ちそうになる頬を抑え、足をバタバタと動かして美味しさを表現している。
彼女が幸せを噛み締めているこの場所は、警察庁舎にある食堂だ。
日々激務に翻弄される捜査官達の憩いの場として重用されるここは、軽食やスイーツに始まり、現在晃があぐあぐと頬張っているカツ丼の様ながっつりした食事メニューまで多岐に渡り網羅している。
その種類の多さは時たまテレビのワイドショーでも取り上げられ、月に一度の限られた時間のみ一般の人間も利用ができるらしい。
その為かは分からないが、内装は食堂というよりはレストランと言える様な、人に見られる事を意識した作りになっている。
活気のある食堂をのんびりと眺めながら、晃はセットのオレンジジュースを一口飲む。
気が抜けたようにぼんやりとしているその姿にトレーを持った人影が近寄って、ぐしゃりと癖のある頭を撫でた。
「わひゃ!?」
「おいおい、口開いてんぞ。ったくちゃんとしろよなぁ、お前も女だろ一応」
虚を突かれた衝撃から、早鐘を打つ心臓をなんとか宥めて勢い良く振り返った晃の頬にぷにっと何かが突き刺さる。
「にっひひ、晃ちゃん引っかかってやんの」
悪戯に笑う顔を見て、何をされたか察した晃はじとっとした目で相手を睨みつけた。
逆立てた金髪の派手な見た目の男は、男性にしては大きいタレ目が印象的なアイドルの様な甘い顔立ちをしている。
「……何するんですか、轟さん。大沢さんもですよ、見て下さい、髪ぐちゃぐちゃじゃないですか」
「晃ちゃん、そんな他人ぎょーぎな呼び方するなって教えたっしょ? ほれ、言ってみ? タッキー先輩って」
「だから嫌ですってば。ちょっ、ほっぺつつかないでください!」
「悪りぃな百武、他空いてねぇから相席させてくれや」
晃を揶揄う轟も気にせず、大沢と呼ばれた無造作な黒い短髪に無精髭を生やし、どこか草臥れた様な雰囲気を持つ男は、返答を待つ事もなく晃の向かいでガタガタと椅子を引いて座ってしまった。
そんな大沢につられるように轟も晃の隣に腰を下ろす。
「もう! 折角気分良く食べてたのに! 轟さんは大沢さんを置いて退場して下さい!」
「はぁ? なんでおーさわさんは良くて俺はダメな訳?」
「そりゃあ百武は俺が大好きだもんな?」
「ええ~、そうなの? 晃ちゃんたら純粋な顔して隅に置けないんだから」
「ちちち、違います! 大沢さんは私より十歳以上も年上ですし、尊敬しているというか、あの、その……! だ、大体、そんな浮ついた気持ちでここに来た訳では無いのであって……」
揶揄った分だけムキになって反論する晃をおもちゃにしているこの二人は、制服からも分かる通り異捜の捜査官達だ。
トレーニングルームで偶々隣り合った大沢に、調子の悪いマシンの調整を手伝って貰ってから交流が生まれたのだが、主におまけで付いてきた轟によって顔を合わせる度にいじられ、晃としてはかなり不本意な状況になっている。
顔を真っ赤にして弁解の言葉を続ける晃に、轟はにやりと悪どい笑みを浮かべた。
「そんなこと言っちゃってぇ、俺知ってるんだぜ?」
「……な、何を、ですか。私は疚しい事なんて何も、」
何を言われるのかと緊張に身を固くし、ごくりと唾を飲み込む新人に、轟は内緒話をするように耳打ちする。
「……登庁初日に……やっぱナイショ」
「はっ?!」
予期せぬせ返答に慌てて視線を向ければ、ふざけた様に片目を瞑り、人差し指を口元に当てている憎たらしい顔があった。
「コレは俺の胸の内にしまっておくからさ、今後はタッキー先輩って呼ぶんだぞ?」
「い、いやいや、初日、え? ほ、本当は何も知らないんですよね?」
「さぁて、どうかな?」
「…………タ、タッキー先輩、肩でもお揉みしましょう」
意味深な笑みを前にしてあっさりと白旗を振り、轟を見れば楽しそうにゲラゲラと笑われる。
「そういえば百武、お前明日の午前中何してる?」
「午前?」
「おーさわさん晃ちゃんとデートすか? 勤務中はダメっすよ、夜にすりゃ良いじゃないすか」
「ちげーよ馬鹿」
繰り広げられていたじゃれ合いが落ち着いた所で、せっせとカレーを口に運んでいた大沢が、ふと思い出した様に口を挟んだ。
きょとんと首を傾げる晃から目を離し制服の胸ポケットから取り出した煙草を咥える。
大沢が捜査後と食後の一服を好んでいるのを知る轟は何も言わずに手近にあった灰皿を渡した。
「多分事務仕事だと思いますけど……」
「んじゃそれ午後に回せ。始業時間前にはトレーニングルームにいろよ」
「え? はい、それは大丈夫ですけど……」
言葉が足らない大沢の台詞に、轟は合点がいった様に大きく頷いて補足する。
比較的言葉の少ない大沢と、余計な事までペラペラと口が回る轟、この二人のお決まりのパターンだ。
「あー、はいはい。明日は久々に剛田さん来ますもんね、確かに晃ちゃんみたいなパワータイプの指導にはうってつけっすね」
「そういう事だ」
「剛田さん、って大沢さんの同期の方でしたっけ?」
「そうそう、おーさわさんと違ってゴリッゴリの武闘派だよ」
「……おい、俺も武闘派だろうが」
ため息と共に煙草の煙を吐き出した大沢は、筋肉の塊の様な自身の同期を思い浮かべた。
一月程前、剛田が担当していた案件の異能犯が九州方面に逃亡したとの知らせを受け、意気揚々と飛び出して行った馬鹿が戻ってくる。
また煩く付きまとわれるのかとうんざりしていた所で、晃の自主トレーニングの指導係に充てがう案を思いついたのだ。
可愛らしい外見に騙されそうになるが晃も大概脳筋だからきっと馬も会うだろう。
「剛田の能力は硬化だ。一通りの武術は身につけてるから色々教わると良い」
「わあ、ありがとうございます!」
勢い良く深く頭を下げる晃に大沢は内心でホッと息を吐いた。
これであの暑苦しい男も大人しくなるだろう。
「あ、そう言えば」
「どしたん? トイレ?」
「違いますよ!」
大沢がそんな画策をしているとはつゆ知らず、喜びを前面に押し出していた晃が動きを止めた。
「白川さんに近々出動が有るって言われたんでした。もしかすると急にって事もあるかもしれないです」
「ああ、そんなの俺らだって可能性は有るしな。気にしなくて良い」
「てゆーか、晃ちゃんがもう捜査に加わるってなんか感慨深いよなぁ。そういや伊織とは上手くやれてんの?」
興味津々に机に腕を置き前のめりで問いかけてくる轟に晃は苦笑を零す。
篝と轟は同期らしく、それなりに仲が良さそうだ。
演習の日に篝が殴っていた金髪の捜査官が轟だと気づいた時は、思わず声を上げてしまって訝しがられた。
「うーん、どうでしょう? 罵られて振り回されてって感じではありますけど、少しずつコミュニケーションも取れて来てる様な気もする……かも」
「まあ、そうなるよな。そんな晃ちゃんに先輩がアイツの弱点を教えてやろう、耳貸して」
「弱点?」
あの男にそんなものがあるのかと微妙な顔の晃に今度こそ耳打ちをする轟。
「……えっ?! 猫?!」
伝え終わるとまさかのワードに驚く後輩に、肩を震わせた。
「そー、意外っしょ? アイツ平気な顔してるけど猫の前通る時だけちょっと速歩きになるの。今度話題に出してみ? ぜってー面白い反応返ってくるから。ちゃんと報告しろよ?」
「篝さんがまさかの猫嫌い……」
悪戯っ子の様にわくわくとしている轟に大沢は呆れた様にじとっとした視線を送る。
「拓海、余計な言ってるとまた篝に燃やされんぞ」
「だーいじょうぶっすよぉ、伊織のアレは照れ隠しっすから」
「……そうか? 程々にしとけよ。じゃ俺は戻るぞ。お前らも午後の始業遅れるなよ」
「そ、そうでした! 午後一で諜報部に行かないと!」
食べ終わった食器と灰皿をトレーに乗せる大沢に続いて晃も慌ただしく立ち上がった。
「大沢さん、剛田さんの件ありがとうございます」
律儀に頭を下げる後輩に微妙な笑みを浮かべ、頭をポンと叩くと大沢は席を立った。
「じゃ、晃ちゃん怪我ない様に頑張りなよ」
「はい!」
ひらひらと手を振り相棒を追いかける轟の姿に、晃はため息を吐く。
(私達も、ああいうバディになれたら良いけど……)
あまり想像できない光景に眉を下げ諜報部に提出する書類を手に取った。
(……六価クロムの資料。こんなもの何に必要なんだろう)
ちらりと表紙に目をやり首をひねる。
晃はまだ知らなかった。
首都圏全域の河川がじわじわと汚染されている事実を。