(その7)
七
始業時間の一〇分前、午前七時五〇分に森川は勤務先である盤若建設に到着した。
オフィスに入ると、全員がテレビを食い入るように観ていた。皆一様に神妙な面持ちだ。
よく見ると、社長と、滅多に工務部のオフィスになぞ顔を出さない常務の姿もあった。
「……何かあったんすか?」
森川は、立ったまま腕を組みテレビを観ている先輩社員の山下の傍らに寄り、尋ねた。
「お前、テレビ観てなかったのかよ?」
「はぁ、ちょっと寝坊してそんな余裕なかったもんで」
「北方領土がテロリストに乗っ取られたんだと。今日は朝からどのチャンネルもそのニュース一色だ」
山下はテレビから目を離すことなく、森川に言った。
「へぇ……」
いまひとつ森川はピンと来ないまま、テレビを見やった。そのタイミングでテレビは首相官邸前からの中継映像に切り替わった。
『……再び官邸前です。こちらでは先程、官邸対策室が対策本部に格上げされたことを受け主要閣僚が続々と官邸入りしています。そして今、政府関係者のコメントが入ってきました。動画が配信された一〇分後というスピードで対策室が設置されたことについて、動画の信憑性よりビザ無し交流訪問団を含み現地との連絡が全く取れなくなっている事を重要視したという事です。また、ザシーモフ駐日ロシア大使を乗せたと思われる車も先程官邸の敷地内に入りました。政府はロシアとも連携しつつ情報収集を行っている模様です……』
またテロか。最近多いな……と思ったところで、森川は重大なことに気付いた。
「あっ! そういやまこッちゃんが今北方領土にいるんだっけ?」
「だからみんな心配してるんだろうが! 今頃何言ってんだ?」
森川を怒鳴りつけたのは工務部長の木村だった。訪問団の安否情報が何も入らない現状に木村も苛立ちを隠せないでいた。
「社長……万一桜井さんの身に何か起こったら、うちにもマスコミの取材が来ますかねぇ」
常務が社長に訊くと、社長は渋い顔を常務に向けて言った。
「もう何か起こってるじゃねぇか。あの子、訪問団の団長だってんだろ? 来るさ、きっと。……おい木村、お前んとこの部下だろ? 何かコメント考えておいてくれ」
「はぁ? ……はぁ、分かりました。いやぁ、えらい事になったな……」
突然振られた木村はそう言いながら天を仰いだ。
こりゃ大変だ……。森川はようやく事の重大性を思い知った。
*
この一大事に仕事なんてやってる場合か、と仮病を使い勤務している町役場を休んだ川崎晃は、アパートの自室でテレビにかじりついていた。
朝起きてテレビをつけると『北方領土独立か? 邦人四九名の安否不明』のテロップと共に、真っ白な霧に包まれ、島どころか海も見通せない納沙布岬からの中継映像が川崎の目に飛び込んできた。
それ以来、もう昼近くになるが水の一杯すら飲まずテレビの前から離れられずにいた。
が、そろそろ腹も減ってきた。何か食うものは……と立ち上がり、キッチンの冷蔵庫を開ける。マヨネーズだの焼き肉のたれだの、ろくなものが入っていない冷蔵庫で幅を利かせていたのは缶ビールだった。
「ああ、そういえば今日は役場に行かなくてもいいんだった」
そう独りごち、川崎は缶ビールを手に取った。これでもし信が隣にいたら「別に行かなくてもいい事はないと思いますけど?」と突っ込むところだな、と想像しながら。
信の先輩である川崎が北方領土返還要求運動に携わるきっかけは、一〇年程前のビザ無し交流の参加だった。それも当初は明確な問題意識があったわけではなく、県民会議から県連合青年団、さらにそこから川崎の地元の青年団を通じてビザ無し交流の参加者募集があった際、滅多にいけない北方領土に、しかもタダで行けるなんて! 青年団ってすげえ! ……と、軽いノリで手を挙げたのに過ぎなかった。
それが、なかなか問題意識の高い奴だ、と当時の北対協県推進委員――彼もまた青年団OBだが――の目に留まり、翌年から県民会議事務局次長として事業の手伝いに駆り出されるようになり、次の年に県民会議事務局長に就任、さらに次の年に事務局長と兼任で前任者に代わり北対協県推進委員に推薦されることになった。
その経緯は川崎自身、先輩の言うことには逆らえないというのもあったが、もとより政治問題や歴史、特に現代史が好きだったというところにある。川崎にとって北方領土問題は知れば知るほど面白く、そして理不尽な思いも募っていった。
今回の事件も、人質になった信を含む四九名には申し訳ないと思いつつ、その安否よりテロリストたちの今後の動向、そして日本政府の対応により強い関心があった。
未明にネットに配信された動画を観る限り、〝クリル自治委員会〟なるテロリストは日本政府に二つの要求を突きつけた。北方領土の〝日本からの〟独立。そして、北方領土に自衛隊を派遣すること。あるいは既に水面下で政府はテロリストと接触しているのかも知れないが、その他の動向は今のところ明らかにされていない。
缶ビールを煽りながら、川崎は一つの可能性を思惟していた。
これはロシアが裏で糸を引いているのではないだろうか……?
まず、〝独立〟という形をとって日本に北方領土の領有を諦めさせる。しかる後、そう遠くない将来にクリルとかいう〝自治権を持った独立国〟を〝住民の意思を尊重する〟とか何とか言ってロシアが編入する。あの国ならやりかねない。二〇一四年にクリミアを編入したように――。
しかし、と川崎は自問する。
クリミアと北方領土ではその背景が違いすぎる。歴史的経緯も違えば、ロシアとウクライナ・日本とのそれぞれのリレーションも全然違う。クリミア半島はロシアにとって地中海への玄関口であり、ロシア黒海艦隊の根拠地であるセヴァストポリを擁する要衝だ。だからロシアは欧米諸国との対立も厭わずクリミア編入に踏み切った。まぁ、大洋への玄関口という点はクリミアも北方領土も同じだが、だからといってそこまでやる価値が今の北方領土にあるのだろうか……?
さらにそのタイミングだ。なぜビザ無し交流の訪問団が来ている最中での〝独立宣言〟なのか? そして自衛隊の派遣要請。まさか自分たちを捕まえてくれというわけでもあるまいに、一体自衛隊に何をさせる気だ? テロリストがこうも日本を巻き込みたがる理由は何だ……?
いずれにしても、日本政府が〝クリル自治委員会〟の要求に応じることはありえない。俺のような素人でも思いつくことを、世界一有能な日本の官僚が気がつかないはずがない。というか、現状では事件解決をロシア当局に委ねる以外、日本政府には何もできないだろう……。
思いを巡らせているうちに、時刻は午前一二時になった。川崎は再びテレビに向き直った。
テレビは官房長官の記者会見の中継映像に切り替わった。〝クリル自治委員会〟の要求に対する回答だ。
『――本日未明に発生した〝えとぴりか号人質事件〟に関して、〝クリル自治委員会〟の要求に対する日本政府の回答を発表致します。
一つ、〝クリル自治委員会〟が北方領土の独立を望んでいることについて、彼らが現在北方領土を実効支配していることを重視し、政府は向口官房副長官を特命全権大使として色丹島へ派遣する事を決定し、直ちにこれを行使する。
二つ、〝クリル自治委員会〟の要請に対し、北方四島交流後継者訪問団三七名並びに北方四島交流等事業使用船舶〝えとぴりか〟乗員一二名の救出保護のため、総理は自衛隊に対し自衛隊法七八条に基づく治安出動を下命した。
なお、改めて言うまでもなく、北方領土は我が国固有の領土であり、かつ北方領土を実効支配している〝クリル自治委員会〟の要請に基づくものであるので、自衛隊の出動に法的問題は無いと政府は判断しました。
そして、これははっきりと申し上げますが、此度の自衛隊の出動はあくまでも邦人の救出保護が目的であり、外国からの武力攻撃を想定した自衛隊法第七六条に基づく防衛出動ではなく、まして憲法違反に当たる、北方領土の武力による再占領が目的では決してありません。
以上であります――』
記者会見場は騒然となった。
「驚いた……満額回答かよ……」
川崎は、体全体が無意識にぶるっと震えるのを覚えた。
*
〝えとぴりか〟の食堂の時計は午後二時を回っていた。テロリストに〝えとぴりか〟が乗っ取られて八時間が経過した。
状況は朝と全く変わっていなかったが、食堂内の雰囲気は朝より弛緩したような気が信にはした。
とにかく退屈だ。信は朝食を食べてからテーブルに突っ伏して少し睡眠を取り、途中トイレに立ち、またテーブルに突っ伏してを繰り返していた。他の参加者も似たり寄ったりの行動を取っていた。というか、他にする事が無いのだ。
唯一変化があったとすれば、テロリストに乗っ取られて二時間後、色丹島の上空を低い高度で飛ぶプロペラ機を信は見た。結城いわく、あれはサハリンから飛来してきたロシアの偵察機だろうという事だった。そのプロペラ機が再び色丹島の上空に現れた。
「あれかな? ロシアの救出隊」
「な訳ねぇだろ。そんなに早く来ないから」
信の問いに、傍らで突っ伏していた結城は面倒くさそうに応えた。
「もう八時間も経ったのよ? 遅いくらいよ」
「日本と違ってロシアは広いの。対テロの特殊部隊がサハリンに配属されているとも思えない。ハバロフスクにはいるかもだけど、それでも遠い。情報収集と、それに基づいての準備も必要だから、救出作戦は日が暮れてからになるんじゃないか」
「ええ……夜まで待つの?」
信は辟易した。
「日本からなら近いのに。ねぇ、自衛隊とか助けに来ないかしら?」
結城はフッと鼻で嗤った。
「自衛隊が来たら笑うわ。自国のテロ事件に外国の軍隊が介入して解決したら、その国の面目は丸潰れだ。絶対にそれはない」
「そんなもんなの?」
「そんなもんなの」
困った時はお互い様って精神は国際社会にはないのかしら。人命がかかっているのに国家の面目も何もないじゃない……と信は思う。
その時だった。
〝えとぴりか〟の船外から明らかにプロペラ機の音とは異なる爆音を信は耳にした。その音は次第に大きくなる。
ジェット機だ。
信は窓から船外を見た。
ジェット機が低空を二機並んで飛んで来て、穴澗湾の上空を通過する。飛行機のことなど全然詳しくない信だったが、あの機影は見たことがある。あれは確か……。
「F15J……?」
目を見開き、ありえないという様子で結城が呟いた。
状況は大きく動いた。
ジェット機が去った後、穴澗港から一隻の漁船が近づいてきた。そして〝えとぴりか〟に接舷するとテロリストたちは無言で漁船に乗り移り、何処ともなく去って行った。
ついに信たちはテロリストから解放された。テロリストは最初に言ったとおり、救出部隊が来たと見るや戦闘を交わすことなく撤収したのだ。食堂内は歓声に包まれ、船長以下乗員は配置に着くため食堂を出た。
それから間もなく、デッキの方から「助けが来たぞ!」と叫ぶ声が聞こえた。信と結城は、食堂内にいた全員とともにデッキに上がった。
西の彼方から両翼の端に巨大なプロペラをつけた迷彩模様の飛行機が三機飛来してきた。一機は装甲車のような車両を吊り下げている。あの特徴のある形状の飛行機は信もテレビのニュースで見たことがあった。
「あれ……オスプレイよね?」
「……うん」
呆然と飛行機を見つめたまま、結城は頷いた。
「ロシアもオスプレイ持ってたのね」
「そんな話は聞いたことがない」
「じゃ、米軍が助けに来たの?」
「いや、あのカラーリングは陸上自衛隊だ」
飛行機が島に近づくにつれ、機体の側面に描かれている赤い丸が信にも確認できた。
「……笑わないのね」
「は?」
「だって、さっき言ったじゃない。『自衛隊が来たら笑う』って」
「笑える訳ないだろ。なんで自衛隊が来るんだ?」
憮然とした表情を信に向け、結城は言った。
飛行機は穴澗上空に達した。まず一機が空中で停止し、後部を開きロープを使って二〇人ほどの人を滑り降ろした。もう一機は着陸し、やはり後部から二〇名ほどの人を吐き出した。最後に車両を吊り下げていた一機が、着陸することなくその車両を降ろした。それだけの作業をわずか数分、いや、数十秒で行い、飛行機は去って行った。
「一体、何が起こってるんだ……?」
釈然としない様子で、結城は呟いた。
それから程なく、十数名を乗せた艀が近づいてきて〝えとぴりか〟に接舷した。おそらく救出に来た自衛隊員だろう。
だが、乗り込んできた人の姿を見て、信は動揺した。
信が災害派遣などのニュースで知る自衛隊員は緑や茶色を基調とした迷彩服を着ている。ところが彼らは黒と紺色を基調とした、見たこともない迷彩服。おまけに手に銃を持ち顔は黒の覆面をしている。その風貌はさっきまで居たテロリストより余程テロリストっぽかった。まさか、新手のテロリスト……?
そのうちの一人がデッキにいた信たちに向かって叫んだ。
「すみませーん。人数を確認したいので食堂に集まってもらってもいいですか? あと、気分の悪い方やお怪我をされた方、体調の悪い方などいらっしゃったら申し出て下さーい」
威圧的な風貌とは裏腹に低姿勢な物言い。やはり自衛隊員だったと安堵したのもあいまって、そのギャップに信は思わず吹き出した。
乗員を除く参加者が食堂に集まると、先程参加者を集めた自衛隊員が話し始めた。
「えー、こんにちは。こんな格好をしていますが陸上自衛隊です。先程内閣総理大臣から治安出動の命令を受け、みなさんを救出しに来ました。テロリストは逃げてしまったという事なので、私たちはこのまま船に留まってみなさんを警護します。
それから、あと二名の方がまだ島に残っているという事で、現在仲間が探しています。その方々が乗船するまで船はこのまま待機しますので宜しくお願いしまーす」
その口調はまるで旅行代理店の添乗員のようで、緊張感の欠片も感じなかった。
「はい、質問! あんたら〝特戦群〟か?」
結城が挙手して自衛隊員に訊いた。
「すみません、質問はご遠慮願います」
自衛隊員は慇懃に回答を拒否した。
「さっき治安出動って言ったけど、ここは日本の実効支配の及ばないところだって事分かってんだろ?」
「答えられません。お話は以上です。解散して下さーい」
自衛隊員はそう言うとそそくさとその場を後にした。
「……ねぇ、〝とくせんぐん〟って何?」
立ち尽くす結城に信は尋ねた。
「陸上自衛隊中央即応集団特殊作戦群、通称〝特戦群〟。陸自唯一の特殊部隊で、アメリカの〝グリーンベレー〟みたいなもんだ。装備や編成、訓練内容など一切公表されていない秘密部隊」
「へぇ。そんなのがあるんだ」
「まぁ、対テロ戦なら彼らが出動してもおかしくはない。でもここは北方領土だ。よくロシアが認めたもんだ」
「北海道からの方が近いからってんで、ロシアが頼んだんじゃないの?」
「そんな理由で頼むなんて考えられない。それに〝特戦群〟の基地は千葉県習志野だ。北海道じゃない。……そうだ、オスプレイが配備されているのも習志野だ。いつ治安出動命令が出たか知らないが、展開が早すぎないか?」
逆に結城が信に問いかけてきた。苛立ちと不安が結城の言葉から滲み出ている。
「助かったんだから何でもいいわ。私ちょっと着替えてくる」
「……気楽なもんだ。俺はちょっと情報収集してくる」
〝えとぴりか〟の食堂には衛星通信で繋がっているインターネット端末が備え付けられている。結城はその端末に飛びついた。信は着替えるため食堂を出た。
信が食堂に戻ると、結城はまだインターネット端末の前に座っていた。その後ろに大嶋や笹木、それに何人かの参加者が端末をのぞき込んでいだ。
「何か分かった?」
信が訊くと困ったような顔を信に向けた。
「ますます分からなくなった。ちょっとこれを見て」
結城は動画投稿サイトにアップロードされている、〝クリル自治委員会〟の声明の動画を信に見せた。
「……ロシア語ね。なんて言ってるの?」
「ざっくり内容を言うと、色丹島を含む北方領土は今〝クリル自治委員会〟とかいうのの実効支配下に置かれており、北方領土の独立を求めている」
「独立?」
結城の説明に信は思わず素っ頓狂な声をあげた。
「で、日本政府に独立のための交渉に応じることと、自衛隊の派遣を要求したんだ」
「えっ? ロシアじゃなくて?」
「彼らの言い分だと、ここは日本の領土だから日本と交渉したいんだと。で、同じ理由で自衛隊も寄越せと。政府はこの要求を受け容れて自衛隊を派遣したみたいだ」
「ふぅん……」
「そして、問題はこの動画の中でしゃべってる〝イワン・ロギノフ〟という男。大嶋氏とも確認したんだが、どうもこれは田丸翁らしい」
「ええっ?」
「言葉のイントネーションのクセが田丸さんによく似ているんです。一〇〇パーセント間違いないとは言い切れませんが」
大嶋が言った。
「もしそうなら朝の不自然な田丸翁の態度も説明がつく。あれはテロリストに誘拐されたんじゃなくて、テロリストに迎えに来てもらったんだ。よく見ると、この男の服装は今朝の田丸翁の服装とよく似ている。これは偶然かも知れないけど」
信は信じられなかった。田丸さんがテロリストの首謀者だなどと……。
「じゃ、北野さんもテロリストの仲間?」
「それは判らない。田丸翁に脅かされて連れて行かれたのかも知れないし。まぁそれは置いとこう。次にこの動画」
結城は別の動画を再生した。ついさっき配信されたNHKのニュース映像と思われる、日本時間午前一二時に開かれた官房長官の記者会見の動画だった。
「……どう思う? 政府は自衛隊の派遣は問題ないって言ってるけど、大ありだよ。ここは係争地だぜ? それに『実効支配している』って、その根拠は何だ? どうやって確認した?」
動画を一時停止させ、呆れ顔をする結城に信は尋ねた。
「これ、ロシアは了解してるの?」
「動画はこの後記者団の質疑応答へと続くんだけど、やっぱり同じ質問を記者はしてたよ。現在、朝から両国外相と関係部局長を交えて神谷総理とダヴィトフ大統領が断続的に電話会談をしているんだと。会談の内容までは明かされなかったけど」
「質問の答えになってない!」
「官房長官に言えよ。でもダヴィトフは了解してないと思うよ? 古今東西、自国民保護の名目で他国に出兵すると、それが拡大して戦争のきっかけにもなりうるんだ」
「じゃ、色丹島が戦場に……?」
信は慄然とした。
「あくまでも『きっかけにもなりうる』って話。だからそうなる前にとっとと逃げりゃいいんだ」
「でも、田丸さんと北野さんがまだ残ってるし……」
「その田丸翁がテロの首謀者かも知れないってんだからややこしい」
「うーん……」
信と結城は揃って腕組みをした。
*
断続的に行われた精一と四人の会談は佳境を迎えていた。
四人のうち、ビリュコフは賛成、テレシコフは反対、そしてチーホノフは賛成寄りの保留、といったところか。しかし肝心のミンスキーの態度が判らない。ほとんど言葉を発せず黙考するのみだ。
この島だけならあるいは島民の合意は容易いかもしれない。しかし北方四島全てとなるとミンスキーの影響力が絶対不可欠となる。
今、精一らは北野が〝えとぴりか〟から持参したコーヒーを飲みながら休憩を取っていた。保温ボトルに入れられたコーヒーは北野が自らここに来る前〝えとぴりか〟の厨房を借りて淹れたものだ。
精一は腕時計を見た。
午後二時三〇分。そろそろか……?
およそ五分前、戦闘機の爆音を精一は聞いた。屋内なので目視は出来なかったが、あれはこの周辺空域を哨戒するため飛んできた航空自衛隊の戦闘機の爆音のはずだ。それで問題がなければ、次に来るのはあらかじめ北海道・別海駐屯地で待機している陸上自衛隊の精鋭部隊、そして日本政府の特使、すなわち向口という事になっている。
そう思ったところでプロペラの爆音が島に轟いた。ほぼ同時に、北野の鞄の中から北野を呼ぶ声が聞こえた。北野の持っていたトランシーバーが受信したのだ。北野はトランシーバーを片手に外へ出た。
程なくして、二名の随行職員を伴った向口を連れて北野が戻ってきた。
「みなさん、ご無沙汰しています」
日本語で向口が言い、それを北野が通訳する。向口は一人一人に握手を求めた。向口は政府の決定を受け、東京から急遽随行職員と共に北海道に向かい、そこで〝たまたま道内で訓練をしていた〟自衛隊機に乗ってこの島に来た、と続けた。
そして精一の隣に座り、「先生、ご苦労をおかけしています」と小声で囁いた。
「もうこの期に及んだら腹を割って話しましょう。私は総理から全権を委任されています。私の意思はすなわち総理の意思です」
向口はそう宣言した。
「日本政府はクリルの独立を全面的に支持します。まずインフラ整備のために、向こう一〇年で総額一〇〇〇億円の無償資金供与、そしてさらに二〇〇〇億円を借款の形で用意したいと考えています。また、資金だけでなく、そのための技術も供与します」
この金額は、ロシア政府が打ちだしているクリル投資計画の倍にあたる。ミンスキーは驚き、ビリュコフの顔が綻んだ。
「また、独立に際してこれまでロシア政府がクリルに投資したインフラの対価を支払わなくてはいけません。が、そこまで日本が肩代わりしてはクリルは日本の属国との誹りを免れません。そこで、日本はサハリンの資源開発事業へ相応の投資並びに技術供与を行う代わりに、クリルのインフラ投資の請求権を放棄できないか働きかけてみようと考えています」
「そんな事が出来るのですか?」
チーホノフが訝しんだ。
「サハリンへの投資は日本とロシア双方にメリットがあることです。彼の地はクリルと並んで我が国と最も近い〝隣人〟です。これからますます関係を強化させる必要がある。そのために日本に出来る事はこれ以外にもあるでしょう。実現できるかどうかは約束できませんが、やってみます」
「貴方が来る前、タマルは独立後ロシアと安全保障条約を結ぶと言ったが、貴方はどう思う?」
そう尋ねたのはテレシコフだ。
「クリルの自主的判断に委ねます。他国の安全保障まで口を挟む権利は我々にはありません。ただし、完全に四島の実効支配が完了し、統治機構が整うまではクリルの主権は日本にあるという立場を取っておいた方がいいでしょう。もしもダヴィトフが武力でクリル独立を阻止しにくるのなら、自衛隊がクリルを守ります」
向口は答えた。
「ちょっと待ってくれ。私たちはクリルを戦場にしたくない」
ビリュコフが慌てて反論した。
「勿論です。私だってロシアと喧嘩はしたくない」
向口はにっと笑って言った。
「そうならないように、今、日ロ首脳が電話で協議している最中です。……あえて政府の本音を言わせてもらえば、クリルの独立が我が国の目的ではありません。長年懸案となっていた日ロの領土問題を解決する一つの方法として捉えているに過ぎません。領土問題を双方が受け容れられる公平な形で解決し、その後、公正かつ誠実な平和条約を締結し、日本とロシアの関係の新たな出発点とする。これこそ、日本とロシアの関係を強化し、ひいては東アジアの平和と安定のための正道です」
ビリュコフは満足そうに頷いた。しかし、相変わらずミンスキーの反応は薄い。彼は一体何が不満もしくは不安なのだろうか。精一には推し量りかねた。
*
「ねぇ結城さん。独立ってそんな簡単にできることなの?」
信と結城は〝えとぴりか〟のデッキに出ていた。二人並んでデッキの手摺にもたれかかる。
午後八時。今日は一日中曇り空だった。夕日は雲に隠れて見えない。
「そうだな……例えば中東にパレスチナってところがあるだろ? あそこは独立国家か否か?」
結城は逆に信に質問した。
「えっと……あそこはイスラエルの中の〝パレスチナ自治区〟よね。だから独立国じゃない」
信は答えた。
「当たりでもあり、外れでもある」
「何、それ?」
「パレスチナは一九八八年に独立宣言を発表して、国号を〝パレスチナ国〟として多くの国が承認している。だから独立国家なんだよ」
「じゃあ外れじゃない」
「ところが、日本と欧米諸国の大半、そして勿論イスラエルはパレスチナを国家として認めていない。だから日本人の視点からだとパレスチナは独立国家じゃない」
「……ややこしいのね」
「そんな国、というか地域は世界には結構ある。韓国と北朝鮮も、自分たちが朝鮮半島における唯一の政府だって主張していてお互いを国家として認めていない。韓国人にとって北朝鮮は国じゃないし、北朝鮮の人から見れば韓国こそ国じゃないって事になってる。
他にも、台湾は日本を含めほとんどの国が〝中国の一地域〟という認識だけど、実は世界で二一ヶ国もの国が台湾を国家として認めている。あとレアケースとしては地中海のキプロス島にある北キプロスって国はトルコの軍事的後押しを受けて一九八三年にキプロスから独立したんだけど、北キプロスを独立国家として承認している国は世界中でトルコ一国しかない」
「それでも独立国扱いなの?」
「トルコにとってはね」
「へぇ……」
信は天を仰いだ。
「結局何をもって〝独立〟とされるかって、実は明確な規定はないんだ。人口が何人以上とか、国土面積がどれだけとか、GDPが最低いくらとか」
結城は言った。
「ただ、〝国家の要件〟ってのが国際法で定められてる。ある程度の国土があって、そこに国民がいて、さらにその国土と国民を統治する独立した権力を持っている事だ」
「という事は北方領土も〝国家〟になれるし、日本が独立を認めたら〝独立国家〟になれるんだ」
「なれる。ただし……」
「……?」
「今の北方領土はまだ〝国家〟じゃないな。〝クリル自治委員会〟って組織がどんな組織か知らないけど、彼らが北方四島を実効支配しているとは思えない。国境警備隊がクーデターを起こしてひと晩のうちに全島を掌握、そして田丸翁が担ぎ上げられたっていうならいざ知らず。いくら〝釧路の妖怪〟でもそりゃ無理だ」
「そんな事が出来たら、〝妖怪〟じゃなくて〝魔法使い〟ね」
「〝釧路の魔法使い〟か。そりゃいい」
二人は笑いあった。信は今日はじめて笑ったかも知れない。
「……田丸翁の本当の目的は何だったんだろうな?」
結城は真顔に戻って呟いた。
「本当の目的?」
「ああ。田丸翁は成功者だ。悠々自適に老後を過ごせばいいものを、北方領土を独立させるなんて大それた事を思いついた本当の目的。昨日の夜言ってたように、元島民が北方領土を自由に行き来できない事に強い義憤を覚えた上での行動、って考えるのは違うような気がして」
「……昨日田丸さん、イネモシリで幼なじみの遺骨を撒いたでしょ? その時ぽつりと『これでこの島に来た目的の半分は成った』って言ったの。で、『後の半分は?』って訊いたら『この島に自分と幼なじみの墓を建てることだ』って」
「それ、シネクドキかも知れないな」
「何、それ?」
聞き慣れない言葉に信は訝しんだ。
「この島に自分の墓、ってのはつまり自分はこの島で死ぬ、って解釈」
「何それ? 意味分かんない。自分の命と引き替えに北方領土を独立させようとしたって事?」
「うん……俺も意味が分からん」
陽はとうに落ち、国後島の稜線も夜の闇に没していた。
*
ミンスキーの態度に業を煮やした向口は、ミンスキーに決断を促した。
向口はロシア当局が動く前に既成事実を積み上げ、北方領土独立を磐石なものにする肚のようだ。そのため、この後ミンスキーを伴いヘリで千歳に戻り、そこで記者会見を開き、ミンスキー自身による独立宣言、そして日本が北方領土独立を承認する意向である事と先程ミンスキーらにした提案を発表するつもりだった。
ミンスキーは、結論を出す前に島の人間だけで相談したいと言い、ビリュコフ、チーホノフ、テレシコフの三人と共に一旦部屋を出た。
陽が傾いてきたので、北野は自衛隊から借りてきたLEDランタンを点灯させた。
そして陽が完全に落ちた頃、四人は戻ってきた。
「ニェット。私はタマルサンの考えに同意しない」
ミンスキーは精一と向口に静かに告げた。
「……何故?」
北野による通訳を聞き愕然とした表情で向口が訊いた。
「タマルサン。貴方の提案は我が社にとってもクリルにとっても大変魅力的な提案でした。そしてムコグチサン。貴方のクリルとロシアに対する敬意は本物であると感じました。しかし……しかし、私には一国の大統領など務まらない……」
俯きながら、ミンスキーは消え入りそうな声で言った。
精一も向口も、ミンスキーの為人を見誤ったのだ。
クリルはもとよりサハリン州の経済を牛耳るクラボストロイ社。そのトップであれば当然野心家であろうという先入観があった。しかしそれは先代の事であって、最近先代の後を継いだこの男は精悍そうに見えて実は退嬰的な小心者だったのだ。その事を最後まで見抜けなかったのは精一の不覚だった。
「で……ではビリュコフさん、斜古丹村長である貴方がリーダーシップを発揮して島民を説得しては……」
食い下がる向口の言葉を遮って、チーホノフが言った。
「貴方は軍隊を伴ってこの島に来ました。その様子を穴澗の人間は見ている。そこで我々が独立だ、どうだと言ったところで島民は脅されて言わされているのだろうと思うでしょう。誰が聞く耳を持つでしょうか?」
「いや、私は武力を背景に交渉に来た訳ではない。自衛隊は治安出動といって警察官職務執行法が適用されている」
「島民はそんな事は知りません。軍隊は軍隊です」
チーホノフは冷たく言い放った。
「自衛隊は軍隊ではない!」
「まだそんな事を言うのか!」
向口の反論に対しテレシコフが激昂した。
「日本という国は憲法で軍隊を持たないと言っておきながら自衛隊という名の軍隊を組織している。それを指摘すると決まって『自衛隊は軍隊ではない』と言う。いつまで世界に対してそんな嘘を突き通すつもりだ? そんな事だから日本は信用できないのだ」
「クッ……」
向口は二の句が継げなかった。
そこへ、一人の自衛隊員が部屋に入ってきた。
「失礼します。副長官、総理から撤収命令が下りました」
「何?」
「ロシアとの交渉が決裂したとの事です。いかなる条件を提示されようと北方四島の独立は認められない。ダヴィトフ大統領は最後までそう譲らなかったと、総理からの伝言です。間もなく迎えが来ます。我々も撤収準備に入ります」
「……」
向口はがっくりと肩を落とした。
「向口さん、俺たちの負けだ」
精一は向口の肩に手を置き言った。
「やはり性急すぎたんだ。ロシア人は一旦決まれば行動は早いが、決めるまでが長い。アンタもロシア人の性格は解っていたはずだ。ミンスキーにしろダヴィトフにしろ、一日やそこらで決断を迫ろうとしたのがそもそも拙かった」
「……」
向口は無言のまま、部屋を去った。
「……さて、俺は今回のけじめをつけなければならない。テレシコフさん、国境警備隊の若いのを呼んできなさい。外に俺たちが乗ってきた車がある。テロの首謀者を確保したとなればアンタの潰れた面子も少しは立つだろう。俺はここで待っている」
「タマルサン……」
ビリュコフが申し訳なさそうな顔を精一に向けた。
「みんなも一緒にその車に乗って帰るといい。ビリュコフさん、ナターリアとエレーナに謝っておいてくれ。心配をかけさせて悪かったと」
「タマルサン……私はいつか、日本人もロシア人も自由にこの島を行き来できる日が来る事を信じています。それまでどうかお元気で」
精一は微笑みながら頷いた。
こうして四人もまた、部屋を後にした。
「北野さん、自衛隊の連中は車を持ってきているはずだ。アンタも自衛隊に〝えとぴりか〟まで送ってもらいなさい。……いろいろ世話になった。あの団長さんにもよろしく」
北野は、この廃屋に着いた時の、田丸とテロリストのリーダーとの会話を思い出していた。
『――ボリス、これは別料金で構わないのだが、その、腰に提げたモノを譲ってくれないか』
『……使い方は解るのか、ご老人?』
『見くびるな。私も昔軍隊にいた。……もっとも、七〇年以上昔の話だが』
『ははは……。こんな物で良かったら喜んで進呈しよう。使い方は――』
「……お力になれず申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。田丸さんに出逢えた事は生涯忘れません」
北野は涙ぐんでいるようだった。
そして、精一に向かって深々と一礼し、部屋を出て行った。
部屋で一人になった精一は、しばらく北野が置いていったLEDランタンの光をぼんやり眺めていた。
そして、おもむろに懐から拳銃を取り出した。
精一は目を瞑り銃口を咥え、引き金を引いた。
最期に精一の脳裏に浮かんだのは、在りし日の泊の光景でも、幼なじみの昭二や良三の顔でもなく、微笑みながら人差し指を立て唇に添える田中愛の顔だった。
*
『船長の安田です。ただいま自衛隊から行方不明の参加者が無事見つかったと連絡を受けました。現在こちらに向かっているとの事です。本船はただいまより出港準備に入ります』
船長からの船内放送に〝えとぴりか〟船内は湧いた。
信がデッキに出ると、明かりを点けてこちらに向かってくる艀を見つけた。艀はそのまま〝えとぴりか〟に接舷した。
「北野さん!」
信は叫んだ。〝えとぴりか〟に移乗したのは北野ただ一人だった。入れ替わりに、〝えとぴりか〟を警護していた自衛官たちが艀に移った。
「北野さん、田丸さんは?」
信に問われた北野は即答しなかった。しかし、例の動画を見たことを結城に告げられると、北野は口を開いた。
「……田丸さんは国境警備隊に投降しました。ここで司法当局の裁きを受けるつもりのようです」
「やっぱり田丸翁が首謀者だったのか……。北野さん、アンタは今までどこで何を?」
結城が訊いた。
「守秘義務があるのでお答えできません。……申し訳ありません」
北野は顔を二人から背けた。
信の眼には自然と涙が溢れてきた。
老人の大胆過ぎる企ては結局失敗に終わった。島で何があったのか、信は強い関心があったが、それが北野の口から語られることはおそらく無いだろう。
命を賭けて友の思いを遂げようとした老人のことを、信は決して忘れまいと誓った。
長い汽笛が鳴り、〝えとぴりか〟は動き出した。
*
横浜・中華街の老舗中華料理レストラン。その個室のひとつに女はいた。
豪華な装飾が施された、一〇名ほどの宴会が出来る個室だが、回転テーブルに着席しているのはその女一人だった。
女は丸顔で髪を肩まで伸ばし、身長は一六〇センチほど。年齢は二十代後半から三十代前半といったところか。白いシルクのスーツに身を包み、耳にはエメラルドのピアスが光っていた。
出されていたジャスミンティーの二口目を付けようとしたところで着信音が鳴った。女はエルメスのハンドバッグからスマートフォンを取り出した。
「喂?」
女の口から発せられたのは北京語だった。
『雲想衣裳花想容?』
相手は物静かな低音の声で女に語りかけた。
「春風拂檻露華濃」
『若非羣玉山頭見』
「會向瑤臺月下逢」
合い言葉代わりの七言絶句を、女は淀みなく返した。
『……相変わらず見事な手並みだ、〝燕〟。〝局長〟も君のことを大いに評価しておられる』
「恐れ入ります、〝主任〟。でも、今回私は何もしておりません。〝羆〟の耳元で囁いた他は」
『然り。しかし〝羆〟はよく踊ってくれた。まさかここまでとは私も想定していなかった』
「それもこれも〝太極貴人〟が現れたおかげですわ」
『まさしく然り。そのため多少の修正を余儀なくされたが、あれは我々にとってむしろ僥倖だった。彼は〝羆〟が連れてきたのだったな?』
「はい」
『〝羆〟にとって、運が良かったの悪かったのか……。ところで、その後〝太極貴人〟はどうなったのかね? 報道によると逃げたということだが、君が手筈を整えたのか?』
「いえ……ミンスキーによると、直後に自決したということです」
『そうか。潔いものだ。生まれた島で果てることが出来たのなら〝太極貴人〟にとっても本望だろう。しかし彼は相当な好条件をあの男に提示したはずだ。土壇場で我々を裏切りはしないかと気懸かりではあったが』
「それは杞憂というものです。我々が取り込むまでもなく、あの男にこの話を受ける度胸も器量もないと私は確信していましたから。でも〝主任〟、貴方だから言うのですが……」
『……?』
「私は内心では〝太極貴人〟の思いを遂げさせてあげたかったんです」
『ほう……』
「誤解なさらないで下さいね。そうなったらそうなったで、〝羆〟を失脚させる方法などいくらでもあります。……故郷など、あって無いような私が言うのも何ですが、やはりあの問題は不条理です」
『世の中は不条理で成り立っているのだよ、〝燕〟。我が国にとって、日本と俄罗斯にはあの問題で永久に対立し続けてもらわなければ困る。そして、その仲を取り持つ鍵を握る〝羆〟は障害でしかない』
「……理解しています」
『今回の件で、〝羆〟の政治的発言力は失墜した。のみならず、日本は軍隊を島に送り込むという悪手を打ち、日本と俄罗斯の関係も悪化した。結果は上々だ。……今夜は私からの労いだ。そこで好きな物を食べていくといい』
「ああ、だからこの餐館を指定されたのですか。……一つ、伺ってもよろしいでしょうか?」
『何だね?』
「この後、ここに誰かいらっしゃるのでしょうか?」
『いや、誰も? その部屋も、君一人のためだけに貸し切った』
女は、相手に聞かれないように小さく溜息をついた。
「せっかくですが、〝主任〟のお気持ちだけ頂きたいと存じます」
『……不満かね?』
「一人での食事は侘びしいものです。それが豪華なものであればあるほど。私は、ここでフルコースの料理を一人で食べるより、仲間と火鍋でもつつく方が幸せです」
『美味い物を独り占めしたいとは思わないのかね?』
「思いません」
『……ふん、好きにしたまえ』
電話は切れた。
女は大きく溜息をつきながら卓上のチャイムを押し、給仕を呼んだ。
「悪いけど、チェックしてもらえる?」
「あの……既にお代は頂いていまして、すぐにお料理も用意できますが」
給仕は困惑したように女に告げた。
「それはキャンセル。代金はキャンセル料としてそちらで取っておいて」
そう言うと、女は席を立ち、夜の中華街へと消えていった。