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ルーズ・ルーズ  作者: 神子原 光
6/7

(その6)

                六


 腕時計は午前二時を差していた。

 一面の闇。どこまでが海でどこまでが空かも判らない。正面から顔に受ける潮気を含んだ風のみが、この船が前に進んでいることを教えていた。

 もう少し西に行けばネムロの街の明りも確認できるだろうが、ここからではそれすら届かなかった。

 トーリャは舳先に佇み、銜えた煙草の火をぼんやりと見つめていた。

 不意に背後から声がかかった。

「トーリャ、見つけたぞ。準備しろ」

 トーリャは無言で煙草を漆黒の海に投げ捨て、肩に掛けていた自動小銃をちらと見やった。

 国境警備艇〝ステンカ型〟のレーダーは、その前方を横切るように航行する船を捕捉した。船は〝国境〟の三キロほどロシア側にいて、東北東に向かっている。

 国境警備隊は、今夜色丹島の南方で大規模なサンマの密漁が行われるという情報を掴んでいた。その情報に基づき、色丹島と国後島並びに択捉島の基地からほぼ総出になる警備艇が二隻一組になって不審船を捜索していた。

 二隻の警備艇は速度を上げ、不審船を左右から挟み込む形で接近した。

 警備艇から放たれた照明弾が不審船を闇から引きずり出す。両舷から隙間なく揃えて突き出した集魚灯でそれと分かる、一二〇トンクラスの大型サンマ漁船だ。

 トーリャは自動小銃を構え、ブリッジに向け発砲した。いつも通り警告などしない。銃弾が金属音を立て船体を叩く。相手は観念したのか、逃げる様子もなく素直に船を停めた。

 警備艇は不審船に接舷し、トーリャを含む数名の警備隊員が自動小銃を携え乗り込んだ。

 甲板には漁師とおぼしき一〇名ほどの乗組員が整列していた。

「船長は――」

 誰だ、と問い質そうした瞬間、強烈な閃光が無数の針となって彼らの目を刺し、同時に大音響が鼓膜を叩いた。

 不意をつかれた隊員達はその場に蹲った。音響閃光弾! トーリャは直感した。しかし体勢を整え身構えるより一瞬早く、何者かが蹲るトーリャの鳩尾を蹴り上げた。

 トーリャはそのまま悶絶した。


              *


 警備艇からの通信が途絶えてから、すでに一時間が過ぎていた。

 色丹島警備隊基地で海上レーダーの画面を眺めていたアレクセイは、それでもこれは無線機の故障に違いないと高を括っていた。いまだに三〇年以上前の装備を使っているこの国の国境警備隊では、装備の故障はそんなに珍しいことではなかったからだ。

 あと一時間もすれば交代だ。上への報告は引き継いだミーシャにでもさせるさ、とアレクセイは独りごちた。

 その時、突然照明が落ち、レーダー画面もブラックアウトした。

「冗談じゃねぇ、こっちも故障か? おいワロージャ、発電機を見て来い」

 そう、部下に言い切らないうちに今度は激しい振動とともに複数の爆発音と銃声がアレクセイの耳朶を打った。

「……敵襲?」

 ようやくアレクセイは、ただならぬ事態が発生しているのではという発想に辿りついた。


              *


 午前六時。日の出まであと三〇分ほどだが空はまだ暗い。今日の色丹島は曇りのようだ。

 精一は〝えとぴりか〟の自分にあてがわれていた個室で身支度を調えていた。

 予定ならそろそろだ、と思ったその時、複数の足音が廊下に響き渡った。

 そして間もなく、けたたましくサイレンが鳴り船内放送が流れた。

『船長の安田です。全員直ちに起床し、食堂に集まって下さい。……この船はテロリストによって乗っ取られました。これは訓練ではありません。繰り返します。全員直ちに起床し、食堂に集まって下さい』

 船長の声は落ち着いていた。しかしその内容はこの船の乗客にとっては耳を疑うものだったろう。

 黒のシャツに白いサマージャケットを羽織り、精一は自室のすぐ隣にある食堂に向かった。食堂では既にスーツ姿の北野が精一を待っていた。

 乗客全員が揃うのに五分ほどかかった。日本時間ではまだ午前四時を少し回ったところだ。ほとんどの参加者はサイレンと船内放送で叩き起こされたのだろう、みな寝ぼけ眼でジャージやスエットなど就寝時の服装だ。何事が起こったか十分理解していないように見える。〝盤若地区青年会〟と背中に大きく書かれたピンク色のジャージを着た桜井団長の姿もあった。

 最後に船長ら乗員と共に自動小銃を携えた五人の男が食堂に入ってきた。男たちは迷彩服などではなくカーキ色の作業服のような服装で防弾チョッキを着用し、顔は目深に被った帽子とマフラーで隠されている。

 一人が全員に向かって「通訳は誰か」とロシア語で尋ねた。大嶋が名乗り出て、男たちの前に進んだ。

「我々は諸君の生命や財産を奪いに来たのではない。しかし、抵抗する者には容赦しない」

 大嶋を呼んだ男はそう言い、通訳が終わるか終わらないかのうちに持っていた自動小銃を天井に向けて撃った。連続で発せられた銃声は六発。弾は照明のひとつを乾いた音を立てて破壊し、天井に穴を穿った。

 ほとんどの日本人が聞いた事がないであろう生の銃声は寝ぼけ眼の乗客を覚醒させるのに充分な効果を発揮した。女性は悲鳴を上げ、みな頭を抑え身を伏せた。銃声を合図に他の男たちが一斉に乗客に自動小銃を向けた事もその効果を倍増させた。

 男は続けた。

「特に船長以下乗員諸君は英雄的行動に駆られる衝動を抑えることだ。あれはアメリカの映画の中だけの話だ。現実はそんなに甘くない。

 現時刻をもって我々はこの船を掌握した。諸君への要求はただ一つ、我々の指示に従い大人しくしていただきたい。飲食や、このフロアにあるトイレへ行く事は許可する。だが、他のフロアへの移動やデッキに出ることは許可しない。我々の指示に従う限り諸君の生命と財産の安全は保証する。

 我々は戦闘が目的ではない。程なく、何者かが諸君らを救出しに来るだろう。その時点で我々は撤収する。仮に救出に来なかったとしても、我々は二四時間を経過した時点で撤収する」

 全員無言で男の言葉を聞いていた。男は言葉を切ると、何か質問は、と言わんばかりに乗客を見回した。

「……よろしい。では、タマル・セイイチ、キタノ・ヒラカズ。両名はこちらへ」

 男は精一と北野を呼んだ。食堂内が軽くざわめいたが、二人は泰然と男の前に進み出た。

 男は、二人を伴って〝えとぴりか〟を下船した。


「ボリス・オルロフだ。今回の作戦の指揮を任されている」

 男はそう名乗り、マフラーを取り精一と北野に握手を求めてきた。

 野太い声からもっと若い男を想像したが、白髪に白髭と意外に年配の男だった。〝えとぴりか〟を襲撃した他の男たちと同様、カーキ色の作業服に防弾チョッキという出で立ち。腰には形状から拳銃が入っていると思われる嚢を提げていた。精一は名乗りながらオルロフから差し伸べられた手を握った。

「ご老人、年齢を聞いてもよろしいか?」

 オルロフは興味深そうに精一の年齢を訊いた。精一が九一歳だと言うと「オーチン・ハラショー!」と驚嘆の声を上げた。

「私の死んだ父の年齢より三〇歳も上だ。しかも父より若々しい。機会があれば長寿の秘訣を伺いたいものだ」

 精一は軽く頷き、オルロフに訊いた。

「首尾は?」

「完璧だ。依頼どおり、クリルの国境警備隊は少なくとも二四時間は機能しない。こんな僻地に配属された部隊だ、練度も士気も低い上に彼らは完全に油断していた。丸腰の漁師に銃を向けるくらいしか出来ない連中を制圧することなど、造作もない」

 オルロフはさも当たり前のように答えた。

「……大勢殺したのか?」

 精一の物騒な問いにも、オルロフは淡々と答える。

「我々の目的は殺戮ではない。だが作戦を阻害する者は容赦なく排除する」

 否定も肯定もしないオルロフの言葉を聞いて、精一は唇を噛みしめた。

 オルロフに促され、精一と北野は港を出た。そして港の脇に止まっていた車に乗れと、オルロフは指示した。

「この近くに地震で半壊したまま放置されている空き家があった。〝お客さん〟はそちらに〝招待〟してある。貴方がたをそこまで送り届ければ我々の作戦はほぼ完了する。〝引き継ぎ〟が来た時点で我々は撤収する」

「ありがとう。感謝する」

 精一は短く応えた。

 オルロフが運転席、北野は助手席、精一は後部座席にそれぞれ乗り込み、車は走り出した。オルロフの言うとおり、五分ほど走ると穴澗の郊外に建つ目的地に到着した。かなり大きめの木造平屋の住宅と思われる建物は雨露くらいは凌げそうではあるが、窓ガラスは割れ全体がひしゃげていた。もし一九九四年の地震で罹災した建物なら、よくぞ今まで倒壊せずにもったものだと感心すらする。

 車を降り際、精一はオルロフに言った。

「オルロフさん……」

「ボリスでいい」

「ではボリス、これは別料金で構わないのだが――」

 新たに提案された精一の依頼を、オルロフは快諾した。その様子を、北野は無表情で見つめていた。


「タマルサン、貴方も誘拐されたのか?」

 建物の奥まった一室にいたミンスキーは精一の姿を見るや驚きの声を上げた。その部屋にはミンスキーの他、斜古丹村長のビリュコフ、穴澗村長のチーホノフ、そして精一がはじめて見るがっしりした体格の初老の男の四人がいた。この男はテレシコフといい、色丹島の国境警備隊基地司令だという。四人は並んで椅子に腰掛けていた。

 四人の男に、精一はまず頭を下げて詫びた。

「怖い思いをさせて申し訳なかった。これが今回私がこの島に来た本当の目的だ。皆さんにはまずこれを見てほしい」

 四人が精一の言葉の意味を理解できず唖然としている中、北野が鞄からノートパソコンを取りだし、四人の前にあるテーブルに据え動画を再生した。


 

『私は〝クリル自治委員会〟のイワン・ロギノフである。

 本日八月二七日、現地時間午前六時をもって、シコタン・クナシル・イトゥルップの各島並びにハボマイ諸島の全権を平和裡に掌握したことをここに宣言する。現在、これらを実効支配しているのは我々〝クリル自治委員会〟である。

 我々は、これらの島々の主権は日本国にあるという認識である。歴史的経緯、地理的条件、そして国際法に照らし合わせても、これらの島々が日本国の領土である事は疑いない。その事を踏まえ、日本国政府に要求する。

 一つ。我々はシコタン・クナシル・イトゥルップの各島並びにハボマイ諸島をもって日本国からの独立を希求する。ついてはその交渉のための特使をシコタン島・クラボザヴォツク、日本国でいうところの穴澗に派遣されたい。

 ここは我々、クリルに住まうものの島である。そして、クリルを興し、その自然と共存していたものの島である。日本国から独立したあかつきには、かつてこの島々に生まれ、図らずも故郷を追われた全ての人々を受け容れる用意が、我々にはある。

 二つ。我々の行動を快しと思わない勢力も残念ながら存在する。そのため、島内の治安維持のため日本国の自衛隊の出動を要請する。

 現在、日本国からの交流派遣団三七名がクラボザヴォツクに滞在しており、船の乗員一二名を含めて我々が彼らを確保している。我々は彼ら四九名の生命を脅かす意思を全く持たない。しかし併せて、彼らを我々の行動を快しと思わない勢力の攻撃から守る手段も、我々は持たない。繰り返すが、この島は日本国の領土であるというのが我々の認識である。

 これらの要求への日本国の回答を、日本時間本日午前一二時に、日本放送協会の持つ全てのチャンネルを使って発表されたい』


 北野が再生した動画の中で〝イワン・ロギノフ〟を名乗る男は黒のシャツに白いサマージャケットを着、顔を白いマフラーで覆っていた。しばらくの沈黙の後、〝イワン・ロギノフ〟はゆっくりと顔を覆っているマフラーを取った。

 現れたのは精一だった。四人は一様に驚きの声をあげた。

 この動画は精一と田中との二回目の会談の時、田中が乗ってきた車の中で撮影された。読み上げられた声明は田中が原稿を用意し、それを北野がロシア語に翻訳したものだ。

「この動画を、日本にいる同志が午前六時、日本時間では午前四時だが、インターネットの動画投稿サイトにアップロードした。私が最後に顔をさらすところだけはカットしたが」

 呆然とするミンスキーらに、精一は言った。まず警備隊司令のテレシコフが口を開いた。

「クリルの全権を掌握など、たったひと晩のうちに出来る訳がない! 貴様、どうやってクリルを乗っ取った?」

「その通り、出来る訳がない。まして乗っ取ることも出来ないし、その意思もない」

「何……?」

 精一はあっさり、ロシア側がクリルと呼ぶ北方四島の全権掌握を否定した。そして、これまでの経過と現状を説明した。

 八月上旬、精一の依頼を受けたロシアのPMCは、ロシア政府環境保護当局の許可証を偽造し、大学の野鳥調査チームを装ってサハリンからの定期便で国後島そして択捉島に入った。国後島に入ったチームは国後島に残るチームと色丹島へ向かうチームの二班に分かれ、色丹島へは地元の漁船をチャーターし渡った。

 同時に複数の筋を使い、「八月二六日深夜から翌日未明にかけて、色丹島南方沖で大規模なサンマの密漁が行われる」という情報を流した。

 そして昨夜、国後、択捉、そして色丹に駐屯する国境警備隊は密漁船を検挙するためにそれぞれ基地の大半の警備艇を動員、色丹島南方沖へ派遣した。しかし警備艇を待ち受けていたのはサンマの密漁船ではなく、それを偽装したPMCの戦闘要員を乗せた船だった。

 PMCが用意した船は全部で四隻。その全てを今日未明警備艇は捕捉し、そして襲撃を受けた。

 時を同じくして各島に潜入しているチームは行動を開始した。まず国境警備隊基地を襲撃、港に停泊していた警備艇の航行装置と通信機を破壊し使用不能にすると、基地の通信アンテナと自家発電装置を破壊し基地を無力化させた。国後島と択捉島では軍の駐屯地と空港も併せて襲撃、同様にヘリコプターなどの移動手段と通信施設を破壊した。次いで島の衛星通信送受信施設と携帯電話基地局を襲撃し、通信システムを破壊。さらに島の変電設備を破壊、電力供給を停止させた。どの島も限られたところに人口が密集しているため、それぞれへの移動は容易だった。色丹島ではそれに加え、ミンスキーら要人四名を確保。ミンスキーは本来前日に択捉島からヘリコプターが迎えに来る手筈だったが、択捉島の潜入チームが事前にクラボストロイ社所有のヘリコプターに工作し故障させたためそれが叶わず、ミンスキーは色丹島での足止めを余儀なくされていた。

「……つまり今四島は完全に孤立し、ロシア当局が事実確認をしようにも出来ない状態になっている。〝えとぴりか〟もこちらで抑えているから日本政府も同様に事実確認が出来ない。今ロシア当局が出来るのはサハリンの空軍基地から偵察機を飛ばして霧で覆われた島を空から調査する事ぐらいだ」

「何ということを……何が『平和裡に』だ。これはテロじゃないか」

 チーホノフが怒りに顔を紅潮させながら呻いた。精一は無言だった。

「あまり我々を舐めないことだ。すぐに本国からの制圧部隊が貴様らを駆逐するだろう」

 テレシコフが言うと、精一は反論した。

「それは勿論想定している。しかし日本と違いロシアは広い。制圧部隊が急遽編成されたとしてもこの島に来るまでまる一日はかかると見ている。それまでが勝負だ」

「……タマルサン、貴方の目的は一体なんですか?」

 ビリュコフが尋ねた。

「声明で言ったとおりだ。この地にロシアでも日本でもない、今の島民も元の島民も共生する独立国を作る。……だが、そのトップは俺ではない。〝クリル自治委員会〟の委員長はアンタだ、ミンスキー」

 精一に名指しされたミンスキーは驚き、その顔を強ばらせた。


              *


 老人と北野を降ろした〝えとぴりか〟は穴澗港の桟橋を離れ、穴澗湾内に停泊した。おそらく人質が脱走するのを防ぐのが目的だろう。

 信ら参加者と船長以下乗員は二人のテロリストの監視の下、ひとかたまりになって食堂のテーブルに付いていた。あと二人は厨房で食事を作っている乗員の監視に回っていると思われる。

 信をはじめ、ほとんどはテーブルに突っ伏し寝ている。みんな早朝に叩き起こさたの加え寝るくらいしかする事がないのだが、こんな状況で本当に寝ている人間が果たしてどれだけいるだろう。

「さしずめ〝えとぴりか号人質事件〟って呼ばれるのかな……」

 腕を組み窓の外の一点を見つめていた結城が信の横で呟いた。夜は明けていたが外は暗い。そして厚い霧がかかっていて島の様子も窺えない。

「何が?」

 信はテーブルに突っ伏したまま小声で結城に応えた。

「この状況。これが日本国内なら今頃報道のヘリが上空を飛び回っているところだろうが、さすがにここまでは来られないわな」

「ここも〝日本国内〟よ、一応は。……でも、今どういう風に報道されているのかしら?」

「向こうが犯行声明をどんな形で送りつけたかによるだろうな。あるいは報道協定が結ばれているかも知れないし」

「やっぱり身代金目当てなのかな?」

「他に何があるよ? 田丸翁を連れ去ったことでもそう見て間違いない」

「そう、その田丸さんと……」

 言いながら信は勢いよくテーブルから跳ね起きた。すると目が合ったテロリストの一人が素早く信に銃口を向けた。

「……! ノー! じゃない、ニエットニエット……」

 信は慌てて両手を挙げ激しく首を振った。向けられた銃口は外され、信は大きく息をついた。

「行動はゆっくり。急に動くと誤解されて撃たれるぞ」

 結城は小声で言った。言われたとおり信はゆっくりと両手を下げた。

「……その田丸さんと北野さん、随分早起きなのね。あの二人だけでしょ、きちんと身なりを整えていたの」

「早起き。……なるほど、素人はそう考えるか」

「何よ?」

 なんだかバカにされたような感じがして信はムッとした。

「おかしいと思わなかったか? 態度といい、あの二人だけまるで誘拐されるのを予想していたみたいだった」

 信も狼狽えもせず黙って連行された二人の態度に確かに違和感は感じたが、誰がこんな状況を予想する事が出来るだろうか?

「それから、田丸翁はともかくなぜ北野氏だったんだ?」

「田丸さんの通訳のつもりで連れて行ったんでしょ?」

「それなら本職の通訳を連れて行くだろうよ。大嶋氏でもよかっただろうし、他にも通訳は三人もいるんだから。しかも北野氏は名指しだ。何か北野氏にも用があったのか……」

「単純な勘違いじゃないの?」

「……素直だねぇ、まこッちゃんは」

 呆れるように結城は言った。

 結城の疑問はもっともだが、今は二人の身の安全を願うだけだ。疑問が解決されたところで、私たちに出来る事など何もないのだから、と信は思う。

「……ところでさ、全然関係ないんだけど」

「えっ?」

 結城が遠慮がちに訊いてきた。

「その、背中の〝はんにゃ地区青年会〟って何? レディース?」

「よく間違われるけど、これそのまま〝ばんじゃく〟って読むの。って、誰がレディースよ? これは地元の青年団の継走大会のユニフォーム」

「けいそう大会?」

「いわゆる駅伝よ。うちの市で憲法公布を記念して地区青年団対抗で始まって以来、今も続いている伝統ある大会よ」

「へぇ。まだそんなのやってるところがあるんだ」

 その時、テロリストの一人がこちらに向かって何やら怒鳴った。結城は大げさな素振りで口元を覆い「イズヴィニーチェ」と返した。

「……うるさいって」

 結城は口元を覆いながら小声で信に言った。信も慌てて口元を覆う。いつの間にか二人とも声のボリュームが普通の会話レベルになってしまったようだ。

 そこへ、信たちの前に朝食が運ばれてきた。大皿に大量に乗せられた塩むすびだった。

「おにぎり……」

「これはあれだ、きっと厨房で包丁を使うなとか指示されたんだろう。今日はおそらく三食ともこれだ」

 うんざりしたように結城は言った。

 縛られてこそいないものの、自分たちは囚われの身である事を信は自覚せざるを得なかった。


              *


「仮に君たちが望む形で日ロの領土問題が解決したとしよう。すなわち、クリルはロシアの領土だと日本が認めた場合だ」

 精一はミンスキーら四人の前で語り始めた。傍らでは北野がノートパソコンを使いその発言を記録している。

「そうなればロシア政府が今やっているクリル開発計画は中止もしくは無期延期になるだろう。ロシアの極東地域はどこも過疎化が進んでいる中、こんな僻地に不似合いなほど立派な学校やら病院やらを政府が建てたのは何のためだ? クリルの実効支配が揺るがない事を日本にアピールするためだ。その必要がなくなれば当然予算はカットされ、別のところに回される。後は、極東の他の村々と同様、この島はロシアの発展から取り残されるのみだ」

 ミンスキーたちは無言で精一の話を聞いていた。精一はさらに続ける。

「逆に、クリルは日本の領土だとロシアが認めたとする。しかしその仮定は現実的ではない。もしそうなれば日本の資本の投下でこの島も潤うだろうが、同時に日米安保条約に則り、米軍の基地が北方四島に作られるだろう。ロシアにとって国後島と択捉島の間にあるエカチェリーナ海峡の安全保障上の重要性は今更言うまでもない。それが解っていながらロシアが日本へ北方四島を引き渡すなどありえないのだから」

 四人は黙って頷いた。

「では、いつまでも現状のまま日本とロシアが領土問題で揉めていた方がこの島にとってはいい事なのか? 領土問題が解決されない限り、日本の人もカネも北方四島には入らない。日本の企業がこの島に進出したくても出来ないし……クラボストロイ社も日本の企業とはいつまで経っても取引は出来ない」

 精一はミンスキーを見据えながら言った。ミンスキーは思い詰めた表情で俯いていた。

「貴方の言う事は理解できます。しかし、クリルが独立など出来るのですか? ダヴィトフ大統領も日本政府も認めるとは到底思わなれないし、仮に独立出来たとしても、クリルが自立出来るとも思えない」

 そう訊いたのはビリュコフだった。精一が答える。

「実は日本政府とは既に話がついている。日本はクリルの独立を認める方針だ。その中心になって動いているのが、君たちもよく知っているだろう、内閣官房副長官を務める向口茂だ」

「ムコグチサン……」

 日本が認める方針だと聞いて一同は驚き、そして向口の名前を聞いてさらに驚いた。

 向口はビザ無し交流で幾度となく北方四島を訪れており、ビリュコフら島の要人とも人脈がある。穴澗にあるディーゼル発電所は日本の人道支援で建てられたものだが、この時建設に尽力したのが向口だった。その事を知らない島民はいないとまでいわれている。

「ここにいる男はその向口の側近だ」

 精一は北野の方へ向き言った。水を向けられた北野が口を開いた。

「向口副長官は常々言っておられます。外交というのは、その国を訪問することでもなければその国の高官に会うことでもない。人間関係を築き、事を動かしていくための努力の積み重ねが外交なのだと。副長官がこの度動かれたのは、ひとえに島に住む皆さんの、そして日本とロシアの将来を慮ってのことだと私は理解しています。

 副長官は今日まで、これまで培ってこられたロシア政府高官との人脈を使い、クリル独立とその先にある日ロ平和条約締結の可能性を模索してきました。副長官はロシア側から手応えを感じられており、後はダヴィトフ大統領の決断のみというところまで来ているようです」

「日本は〝固有の領土〟を放棄し、ロシアもまた〝第二次世界大戦の結果得た領土〟を放棄する。領土問題は双方〝相討ち〟という形で決着させ、その上で新しい日本とロシアの関係を築き、双方が実利を得る。これが向口の考えだ」

 精一が北野に続いた。四人はそれぞれ腕を組み、思索に耽った。

「そして独立した後、クリルが自立出来るかという話だが……」

 精一はさらに話を続ける。

「君たちはクリルの潜在能力を過小評価している。例えば水産資源。最近、ロシアの排他的経済水域内でのサケ・マスの流し網漁が禁止になったが、歯舞・色丹の排他的経済水域内だけでも流し網漁でおよそ二五〇億円の富を生む。これは根室市の年間予算に匹敵する」

「流し網漁の禁止は水産資源の保護のために正当なものだ。我々がそれをやればたちまち水産資源は枯渇する」

 チーホノフが反論したが、精一は意に介さず応えた。

「それは科学的根拠がない。禁止になったのは定置網漁中心のカムチャツカ地方の漁業団体の強い働きかけがあったからだともっぱらの話だ」

「……」

 チーホノフはそれ以上言葉を継ぐことが出来なかった。

「さらに、歯舞群島や色丹島は良質な昆布の漁場だ。しかしロシアでは昆布を消費しない。昨日イネモシリに行ったが、山のように打ち上げられた昆布が放置されていた。毎年なけなしの入漁料をサハリン州政府に払って歯舞で昆布漁をしている根室の漁師には見せられん光景だ。

 独立したら、昆布はうちが買い取ろう。昆布だけじゃない、クリルで水揚げされた魚やカニは全てタマルフーズが面倒を見て日本中に流通させる。無論、クラボストロイ社製の水産加工品も然りだ」

 精一にしか言えない台詞だった。腕を組み微動だにしなかったミンスキーの体が、ぴくりと動いた。

「ミンスキー」

 精一はミンスキーに向き直り言った。

「君を委員長に推したのはそこだ。うちの会社と組めばクラボストロイ社はますます発展し、結果クリルも発展する。そしていずれ〝クリル自治区〟は〝クリル共和国〟に移行する。君は豊かになった島民からの支持を得て共和国の初代大統領に選ばれるだろう。どうだ? ひとつこの話に乗ってみないか?」

 ミンスキーは顔を紅潮させ、じっと精一の目を見つめた。

「……私は、タマルサンの考えを支持する」

 口を開いたのはミンスキーではなくビリュコフだった。ビリュコフは続ける。

「昨日、ビザ無し訪問団長からロシアと日本の間に平和条約がない事についてどう思うかと問われた。冷戦時代ならともかく、今ロシアと日本が敵対する理由はない。にもかかわらず平和条約が結ばれていない原因はただ一つ、このクリルだ。

 私はいずれ両国政府が領土問題に折り合いをつけて平和条約を結ぶだろうと思っていたし、それを希望していた。その結果たとえシコタンが日本領になったとしても私は受け容れるつもりだった。そうなれば日本とこの島のモノやカネの交流が拡大し、私たちの生活もさらに高まる」

「ヴィクトル、それは……」

「レフ、聞いてくれ」

 ビリュコフの言葉を遮ろうとしたチーホノフを制して、ビリュコフは続けた。

「シコタンが日本領になったら、私はロシア人ではなくなる。だがそれでも構わない。私の故郷はロシアではなくこのシコタンだからだ。……だが、この考えに共感する島民は少ないだろう。多くの島民が本国に引き揚げると思う。私はそれが気懸かりだった。

 また、そうなれば私たちは両国政府の決定でシコタンを離れなければならないかも知れないという懸念もあった。過去にビザ無し交流で島に来たどの日本人に聞いても『それはありえない』と言われたが、政府の決定はどうなるか分からない。

 でもタマルサンの提案なら私たちがシコタンを離れる必要はない。そして、念願である日本とシコタンの交流の拡大も果たされる。

 この島はモスクワはもとよりユジノサハリンスクからも遠すぎる。あの地震の時、サハリン州政府は私たちに何をしてくれた? あの時救いの手を差し伸べてくれたのは日本であり、ムコグチサンだった。しかしその日本ですら領土問題があるから人道支援が限界だと、島の本格的な復興に協力してはくれなかった、いや、出来なかった!

 この家を見ろ! あの時の地震のままだ。あれから一体何年経つと思う?」

「ヴィクトル、落ち着け」

 口角泡を飛ばし激昂するビリュコフをチーホノフは宥めた。ビリュコフも我に返り、「すまない」とばつの悪そうな顔をした。

「私からいいか?」チーホノフが精一に尋ねた。

「やはり私はこの計画は非現実的だと考える。その理由はエカチェリーナ海峡だ。エカチェリーナ海峡が日本の手に落ちないのはいいとしても、ロシアがエカチェリーナ海峡を失う事実は変わらない。それをダヴィトフが良しとするだろうか?」

「私が世界に配信した動画では『平和裡にクリルを実効支配した』と言った。……確かに先程君が言ったとおり、ここまでの行為はテロ以外の何物でもない。君の怒りはもっともだし、その誹りを免れない。しかし、これから実際に実効支配を行う過程では武力を背景に島民を脅すような真似は決してしない。あくまでも対話でその正当性を島民に訴えるつもりだ。

〝クリル自治区〟そして〝クリル共和国〟で軍隊を組織するつもりはない。だからロシアと安全保障条約を結びロシア軍をクリルに駐留させる」

「あっ……!」

 精一の回答にチーホノフは絶句した。精一は続けた。

「これならエカチェリーナ海峡は実質ロシア軍が抑えることになり、今までどおり太平洋への玄関口として確保し続けることが出来る。そしてクリルに既存のロシア軍基地もそのまま運用させればいい。クリルの独立はロシアの安全保障上、何の不利益ももたらさせない」

「そんな事を日本政府が認めるだろうか?」

 なおも食い下がるチーホノフに対し、北野が口を挟んだ。

「我が国は、なにも安全保障上の観点からロシアに北方領土の返還を求めていた訳ではありません。日本に返還されたところで北方領土の軍事化を必要とする理由がないからです。しかもロシアと平和条約が締結されればロシアは安全保障上の脅威ですらなくなります。我が国は北方四島、クリルが独立したあかつきにはその自主性を尊重します」

「そう。独立したところで日本の属国になるつもりもないし、またロシアの属国になるつもりもない。目指すのは、クリルが日本とロシアの友好の〝架け橋〟になる事だ」

 精一がそう結ぶと、ビリュコフは大きく頷いた。

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