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ルーズ・ルーズ  作者: 神子原 光
5/7

(その5)

                五


 精一は一九二五年、色丹島のとまりという集落に生まれた。

 色丹島全体では当時一〇〇〇人余りの日本人が住んでいたが、泊は小さな入江伝いに七世帯ほどの漁師の住む小さな集落だった。

 島で最も大きな集落である斜古丹まで行くには山道を徒歩で半日以上もかけなくてはならない僻陬だったが、急病人が出たときを除いて、生活にそれほど不便さを感じる事は少なかった。目の前の海へ船を出せばタラやカニなどが豊富に獲れ、また、ジャガイモを自家栽培していたため、食べるものには困らなかった。

 泊の漁師たちは皆、昆布漁で生計を立てていた。根室から来る業者が毎年昆布を買付に来て、ほとんど言い値に近い値で引き取っていったが、それでもそこそこの収入になった。漁繁期には取れた昆布を集落総出で浜に砂利を敷き詰めた干場に干したものだ。

 精一には同い年の幼なじみが二人いた。八歳のときに東北から島に渡ってきた昭二と、北陸から移住してきた家に生まれた良三だ。

 昭二は良く言えば闊達で奔放、悪く言えば落ち着きがない無鉄砲。対して良三は内向的でおっとりした性格だったが、学校の成績はきわめて優秀だった。昭二が「問題児」なら良三は「優等生」といえただろう。

 こんな二人と精一は何をするにもいつも一緒だった。おとなしい良三を昭二がけしかけ、突っ走る昭二を精一が諫め、それでも手に負えないようなら良三が理詰めで説き伏せるというのがお定まりだった。


 十二歳のとき、互いの将来について語り合った事があった。

 昆布の干場の砂利の上に、三人が海のほうを向いて並んで座る。今は昆布の獲れる季節ではないため、閑散とした干場は日向ぼっこをするには打ってつけだった。

 海を見つめながら、精一は良三に言った。

「良三、お前根室の学校に進学するんだってな?」

 精一たちが通う特別教授場の教師が良三に進学を勧めているところを、たまたま精一は見かけたのだ。ちなみに特別教授場とは分教場よりさらに規模の小さい学校の支所のようなもので、島に一つ、斜古丹にしかない小学校へ遠くて通えない児童のために、当時島内に四箇所設けられていた。

 小学校ですらその有様で、無論島には中学校も実業学校も無い。進学するためには根室に渡るしかなかった。

「えっ? なんだ、寂しくなるな。……でもまあ、しょうがないか。良三は頭だけはいいもんな」

 困惑した顔を良三に向けながらも、昭二は良三に頷いて見せた。

「……根室には行かないよ。先生にもそう言った」

 眩しいほどに陽光を反射する海に顔を向けたまま、良三はぼそりと呟いた。

「確かに僕、漁師には向いてないかもしれない。だから島の缶詰工場にでも務めるさ。僕ここの方がいいから……」

「勿体無いな。お前なら、学者にでも役人にでもなれるだろうに」

 昭二が嘯いた。心にもない事を言っているのは泳いだ目を見れば明らかだった。

「この島はいいよ、家族みんなが一緒にいられるんだから。

 僕が生まれる前の話。もともと親父は内地で百姓をやっていたんだ。だけど凶作続きでろくに食べるものもなかった。せっかく取れた少ない米もほとんど地主が持っていくんだ。

 本当は僕にはもう一人兄ちゃんと姉ちゃんがいるんだ。でも兄ちゃんは満州に渡って、いつの間にか便りもなくなった。姉ちゃんは人買いに売られていった……」

「……」

 言葉もなく、精一と昭二は良三の話を聞き入った。良三の目は潤んでいた。

「ばあちゃんが風邪をこじらせて死んだ夜、このまんまじゃみんな飢え死にだ、村を出ようって親父が決めた。それでこの島に渡ってきたんだ」

「……まあ、この島のもんはみんな内地で食えないからこっちに来た奴ばっかりだって、うちのおっ父も言ってたよ。うちも良三ほどじゃないけど、まあ似たようなもんだよ」

 昭二が相槌を打った。

「ところで、セイちゃんのおっ父はどこから来たの?」

 良三が話題を変えるかのように精一に訊いた。

「おっ父もおっ母もここの生まれだ。じいさんが昔この島に渡ってきたらしいけど、よく知らねぇ。じいさんは俺の小さい頃死んじまったから……」

 田丸家の家筋について、精一の父は不思議とあまり話したがらなかった。母にいたっては元来無口な上、そういった事が話題になるととたんに顔が曇るのだ。もっとも、そんな事は精一自身にもあまり関心はなかったのだが。

「じゃ、セイちゃんはここが正真正銘の故郷ふるさとなんだね」

「何言ってるんだ、お前だってここが故郷だろうが!」

 良三が言うと、昭二が何故かむきになって声を張り上げた。

「どこで生まれたなんて関係ねぇ。おっ父がいておっ母がいて、住む家があるこの島こそお前の故郷だよ」

「……そうだね」

 良三はにっこりと頷いた。

 精一も同感だった。今自分たちが踏みしめているこの島が、自分たちを養ってくれる目の前の海が故郷じゃないか。昭二が自分の気持ちを代弁してくれたようで、精一も思わず笑みを浮かべていた。

 昭二は立ち上がり、海に向かって叫ぶように言った。

「俺は学校を出たら漁師になる。そして一人前になったら、精一んとこの知子ともこを嫁に貰ってやるからな!」

「な……」

 精一の笑みが凍りついた。

 精一には三人の妹がいた。五歳の和子かずこ、七歳の栄子えいこ、そして一〇歳の知子だ。

「ば、ばかかお前! 誰がお前なんかのところに嫁がせるもんか!」

「じゃあ僕は勝ち気な栄子ちゃんがいいな」

「お、おい、良三まで……」

 泊や近隣の集落に年頃の女性がいないわけではなかったが、確かに精一の妹たちはみな母に似て目がパッチリとした器量良しと評判だった。しかしいくら何でも気の早い話だ。良三は調子に乗った冗談だとしても、昭二のほうは冗談には聞こえない。

 でも……と精一は考える。ゆくゆくはそういう日が来るのだろう。そして自分も所帯を持ち、漁師をやりながら家族と共にずっとこの島で暮らしていくのだろうと。

 精一にとって、それは疑いようのない事だった。


 一九四二年。精一が一七歳の時だった。

「精一、良三。俺は海軍に志願する」

 突然の昭二の宣言だった。

 前の年の秋、漁に出た精一たちは北へ向かう軍艦を多数目撃した。それに前後して、軍の命令でしばらくの間、島からの一切の通信を停められてしまった。これはただ事ではないと泊や他の集落でも話題になっていた。

 精一たちの見た軍艦は択捉島の単冠ひとかっぷ湾に集結するため北上する日本海軍連合艦隊だった事を後から知る。

 そしてその年の一二月八日、その連合艦隊のハワイ攻撃によって太平洋戦争の火蓋が切られた。

 どうやら昭二はこれに刺激を受けたようだった。

「卑劣にも米英は、自分たちの言いなりにならないからと我が国への石油の供給を止め干上がらせるという暴挙に出た。そのため船の油の値段がうなぎ上りなのは知っての通りだ。さきの真珠湾攻撃はまさしく調子付いた米国への正義の鉄槌である。

 それにも懲りず米国の奴らときたら、戦争が始まってからは潜水艦で俺たちの海を伺っているという。どこまでも貪欲な奴らだ。

 俺たちは海に生きる男だ。海あっての俺たちだ。その俺たちが鬼畜米英の跳梁跋扈を指をくわえて見ておれるか!」

 誰の受け売りか知らないが、昭二は捲し立てた。だいいちチョウリョウバッコなんて言葉が昭二の口から出るわけがない。

「お前のような粗忽者に護国の御盾が勤まるものか」

「義憤を感じるのもっともだけど、海兵団に入っても一人前になる頃にはこの戦争は終わってるよ」

 精一と良三は昭二を諫めた。しかし、はっきり「行くな」とは言えない。言えば非国民の謗りを受ける事になるからだ。

「……お前らの言いたい事は分かる。だが勘違いしないでくれ。俺は職業軍人になると言っているんじゃない。

 自慢じゃないが、このあたりじゃもはや操船や泳ぎで俺の右に出る奴はいない。これほどのもんが田舎で埋もれているというのはもったいないと思わないか? どのみちあと三年で兵役だ。俺は海軍に入り、さらに男を上げてくる。

 なに、勤めが終わったら必ず帰ってくる。心配は無用だ」

 若者独特の上昇志向というやつだろうか。そういう気持ちは精一も解らないわけではない。が、おそらく大人たちの誰かが昭二を嗾けたんだろう。こうと決めたらすぐ行動を起こすのが昭二の持ち味ではあるが、それにしても単純な奴だ。

 かくして、昭二は内地の海兵団に入団するため島を離れていった。


 良三の楽観的な見通しとは裏腹に、戦局は日増しに厳しいものになってきた。

 色丹島の北方、アリューシャン列島のアッツ島守備隊玉砕の報は、米軍が北から千島沿いに攻めてくるのではないかという噂を生んだ。その噂を裏付けるかのように、この島にも軍の守備隊が駐屯するようになった。

 島の若者も続々と召集され、ついに十九歳になった精一と良三も徴兵検査を受ける事になる。前の年に兵役の年齢が引き下げられたのだ。二人は甲種合格を得、揃って旭川の陸軍第七師団に入営した。

 ところがはじめて島を離れた精一には旭川の水や空気は合わなかったのだろうか、あるいは旭川までの移動で思いのほか消耗してしまったのだろうか、入営早々風邪をこじらせ肺炎に罹ってしまった。精一は一ヶ月あまり営舎の病床に臥した後、療養のため一時帰郷を許された。

 とはいえ、若い精一に悠々と療養など許されるはずもなかった。精一は島に残った他の大人たちと同様、守備隊の陣地や弾薬庫の建設作業に駆りだされた。

 島の誰もが、もはや漁などやっている余裕はなかった。


 一九四五年八月一五日。精一は太平洋戦争終結の知らせを斜古丹で聞いた。

 配給を受け取るために斜古丹に来ていた精一は、その日の正午重大放送があるからと守備隊の兵士らとともに村役場の前に集められた。

 ラジオから流れる天子様の御言葉は、雑音交じりでよく聞き取れなかったこともさることながら、精一にはその内容がにわかに理解できなかった。御言葉が終わりラジオから君が代が流れる中、畏れ多くも天皇陛下は、米英支蘇の無条件降伏要求を受け入れられたのだと、隣にいた守備隊の士官が涙ながらにその内容を教えてくれた。

 呆然とその場に立ち尽くす者、泣き崩れる者。その場は落胆の空気に包まれた。しかし、精一はむしろ安堵していた。

 戦争は終わった。これでまた漁ができる。そのうち昭二や良三も引揚げてくるだろう。そうすればまた元通りの生活が送れる……。

 泊の家に戻ると、栄子が戸を開けるなり飛び込んできた。

「ねえお兄ちゃん、日本が戦争に負けたって本当?」

 終戦の知らせは既にこの泊にも届いているようだった。十五歳になった栄子は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「ああ、俺も斜古丹で聞いた。これでやっと塹壕掘りから解放されたよ」

「何を気楽な事を言っているの」

 呆れたように口を挟んだのは知子だった。子どもの頃昭二が勝手に宣言した〝未来の嫁〟も、もう一八だ。

「欧米の戦争は負けた国が勝った国の奴隷になるのが普通なんですって。子どもは逃げないように鎖で繋がれて、大人は炭鉱に連れていかれて死ぬまで働かされて、女は慰めものになるって。もちろん逃げたり逆らったりすれば殺されるの」

「誰がそんな事を……」

「昭二さんのお父さん」

「あそこは親子揃って言う事がいちいち大げさなんだよ。まさかそんな鬼じゃあるまいし……」

「いや、あながち大げさでもねえかも知れねぇ」

「おっ父まで……」

 精一の父は部屋の中央で胡坐をかき、煙管を燻らせながら話を続けた。

「この前根室の街が空襲にあって丸焼けになっただろう。あれにしたって学校やら病院やら、戦争と全く関係ないところにまで爆弾が落とされたそうじゃねえか。

 あの時は志発島の漁師や女工も、飛んできた戦闘機の機関銃で撃たれて死んだそうだ。奴らは女子どもでも容赦しねぇ。鬼畜米英とは良く言ったもんだ」

 皺が刻まれた顔をさらに顰めながら父は言った。

 聞いていると精一まで暗澹とした気分になってきた。その気持ちを見透かすかのように、一二歳の和子がにじり寄ってきた。

「お兄ちゃん……これから私たちどうなるんだろう」

 精一は背をかがめ和子と栄子の肩を抱き、言ってやった。

「大丈夫、心配するな。いざとなったら俺がお前らを守ってやるから」

 うん、と二人は頷いた。

 不安そうな顔をして父の傍らに座っていた母は相変わらず無言のままだった。しかし精一の仕草を見て少し微笑んだようだった。


 九月三日、ソビエトの部隊が島に上陸した事を知った。斜古丹に駐留する日本軍守備隊の武装解除のためという。

 精一に理解できなかったのは、何故それが米軍でも英軍でも、あるいは支那軍でもなくソビエト軍なのかという事だった。

 そしてその数日後、ソビエト兵がこの泊にも向かっているという話が集落に流れた。

「一体、こんなところに露助は何をしに来るんだ?」

「女衆を連れ去りに来たんじゃねえか?」

「大変だ、ウチのやつも逃がさなきゃ!」

「子どもも隠せ!」

 集落は騒然となった。

 精一の家でも、母と三人の妹たちを裏山へ向かわせた。

「精一、お前も一緒に逃げろ」

 父が精一に言った。

「なんで俺まで……」

「奴ら、おそらく守備隊の脱走兵を探しているんだ。お前もきっと脱走兵と間違われて連れて行かれるぞ。それに、万一の事があったらお前が女たちを守れ!」

「……分かった」

 精一は渋々父に従い、手に銛を持ち女たちの後を追った。

 が、途中で踵を戻し、集落からほど近い藪の中に身を潜めた。

 父の言う「万一の事」が、女たちがソビエト兵に見つかった時の事を指すのか、あるいは父がソビエト兵に連行された時の事を指すのかは判らなかった。しかし、もし父が連れ去られるようならば自分も出て行って戦うつもりだった。

 やがてソビエト兵が五人、歩いてやって来た。

 若芽色の軍服と思しき服を着たソビエト兵は皆がっしりした体型で、しかも全員が小銃を携えていた。中には短機関銃であろう、銃身の根元に円形の弾倉を装着したものを肩から提げた兵もいた。

 あんなのと一戦交えたならひとたまりもない。精一は今更ながら慄然とする思いだった。

 しかしいざとなったらそんな事も言ってられない……。

 精一は息を殺しながら様子を伺った。

 ソビエト兵たちは集落の家々を一軒一軒訪ねて回っていた。

 まるで何かを探しているかのようにも見えた。やはり女衆や脱走兵を探しているのだろうか。

 女子どもが一人もいない集落などあるはずがないのだから、この様子を見て奴らは暴れ出すのではないかと精一は思ったが、そのような気配は感じられなかった。

 小一時間ほど経っただろうか。目立った騒動もなく、ソビエト兵は引き上げていった。

 そして、完全にソビエト兵の姿が見えなくなったのを確認して、精一は家へ駆け出した。

「おっ父、大丈夫か? ひどい事されなかったか?」

 家の中は戸棚から箪笥の引き出しから全てが放たれ、また中のものも散乱していてひどい有様だった。さらに床を見るとソビエト兵の軍靴の跡が白く残っていた。奴らは土足で家に上がったのだ。

 その割りには父は意外と泰然としていた。部屋の中央で煙管を燻らせている。

「露助の奴ら、儂の腕時計やらお前の万年筆やら、金目のものは根こそぎ持っていきやがった。まるで盗人だ」

 父は吐き棄てるように言った。

 万年筆は兵役で旭川に行く際、これで家に手紙を書こうとなけなしの金をはたいて根室で買ったものだ。そんな物まで持っていくとは。

「やっぱり、女を捜しに来たのか?」

「よく分からん。奴ら、毛唐の言葉でがなりたてるもんだからな。何しろ露助ときたら銃を持ってやがる。いつそれが火を吹くかと思うと生きた心地がしなかったな……」

 そう言う父の煙管を持つ手が小刻みに震えていた。泰然と構えていたのはそう取り繕ったのに過ぎなかったのだ。

「……」

 一体奴らが何をしに泊に来たのかは分からない。しかし、ソビエト兵の傍若無人な振る舞いを許してしまった父を見て、精一はあらためて認めたくなかった事を認めざるを得なかった。

 色丹島にはもう、自分たちを守ってくれる軍隊はいない。

 色丹島は、ソビエト軍に占領されたのだ。

 精一は拳を握り締めた。


 混乱は時が経つにつれ薄らいでいったが、不安はむしろ募る一方だった。

 ソビエト兵はその後もしばしば訪れ、食料や煙草、酒などをたかりに来た。その都度、接近を察知すると精一は女子どもを連れて裏山へ避難した。

 隣の集落では沖に漁に出るため船を出したら、ソビエト兵が発砲してきたという話も伝わってきた。

 食べ物は取り上げられる。漁にも出られない。一体こんな生活がいつまで続くのかと誰もが落胆した。

 精一を含む集落の男たちは、浜に出て沖を見回してはため息をつくと言う日々が続いた。

 そして、泊にソビエト兵が姿を現してから二週間ほど経ったある日、転機が訪れた。


「……田丸さん、田丸さん……知子さん!」

 精一は表の戸を激しく叩く音と声で目が覚めた。

 ランプを手に戸を開けると、ナッパ服を着た大柄な男。

 懐かしい顔がそこにあった。昭二だった。

「おお精一! お前復員していたのか。よくぞ無事で……」

 差し出された手を精一は無意識に握り締めた。

「昭二……お前、今まで……」

「すまん、除隊してからすぐ向かうつもりだったが、船の調達に手間取った。いや、積もる話は後だ。すぐ荷物をまとめろ。島を出るぞ」

「何?」

 いきなり昭二が現れたことも驚きなら、島を出ると言った昭二の言葉にも耳を疑った。

「ここにいても全員露助にシベリアに送られるだけだ。俺は泊の衆を脱出させるために帰ってきた」

「お前、俺たちに島を捨てろと……」

「違う! 露助が引き上げたらまた帰ってくればいい。とにかく急げ。露助に見つかったら事だ。俺は他の連中を起こしてくる」

 言うなり昭二は踵を返し飛び出していった。

「……お兄ちゃん」

 知子が話しかけてきた。父や母、妹たちも全員起きていた。

「ここは昭二さんの言うとおり一度島を出ましょう。私たちもう耐えられない」

 やはり知子たちの不安と恐怖は極限までに達していたのだ。栄子と和子も、知子に同意だと目で訴えていた。ゆっくり考えている時間もない。もはや他に選択の余地はなさそうだった。

「……分かった。すぐ支度しよう」

「儂はこいつとここに残る」

 唐突に父が言った。父に寄り添うように座っていた母もゆっくりと頷いた。

「どうして? 一緒に逃げましょうよ」

 栄子が言った。

「逃げるったって、何処へ逃げるんだ。この島を離れて住むところなんざない」

「じゃあ俺も島に残る!」

 精一は咄嗟に叫んだが、父は諭すように言った。

「お前は知子たちと一緒に逃げろ。昭二はみんなのために露助の警戒網を命がけでかいくぐって来たんだ。気持ちを汲んでやれ」

「ならおっ父も……」

「精一、儂らの事は心配ない。だいいち露助が儂らを殺すなり連れ去るなりするならとっくにやっているだろう。だがお前たちは若い。昭二の言うとおり、捕まればこの島にいた守備隊の兵隊のようにソビエトの本国に連行されるだろう。小さい島だ、そうそういつまでも逃げ切れるもんじゃない。

 儂はこの島に生まれ育ってもう四十年以上経つ。今更よその土地で暮らすことなぞ考えられん。なに、露助が引き上げるまでしばらく辛抱すれば済むことだ」

「……」

「その代わり、露助が引き上げたら必ず帰って来い。それまで知子たちを守ってやってくれ」

「……分かった、必ず帰ってくる」

 精一にそれ以上の言葉は出てこなかった。

「おっ父、おっ母……」

 傍らにいた和子は泣いていた。

 精一も一緒に泣きたい心境だった。それは両親と別れる事を悲しんでではない。故郷を離れなければならない悔しさ、まだ子供の和子が両親と離れ離れにならなければならない理不尽さ、そしてそのような状況を作ったソビエト軍に対する憤り。それらない交ぜになった様々な感情を整理することが出来ないもどかしさが精一の胸を詰まらせた。

 しかし、せめて和子の前でだけは気丈に振舞わなければならない。

「……和子、泣くな。おっ父の言うとおりしばらくの辛抱だ」

 感情を胸の奥底に押し込め、精一は何とかそれだけの言葉を口から搾り出した。

「お兄ちゃん、準備は出来たわ。和子の着替えも用意した」

 いつの間にか知子は準備が整ったようだ。両手に風呂敷包みを持ち、リュックを背負っている。自分に比べて知子のなんと冷静なことか。精一も慌てて支度にかかった。

 着替えと、わずかばかりの食料を鞄に詰める。そこへ父が寄ってきた。

「これを持っていけ。街に出たら金がないとどうにもならん。それと……」

 父は何枚かの紙幣とともに、鈍く光る懐中時計を精一に手渡した。

「舶来ものだ。昔じいさんがもっていた奴だ」

 こんな時計をよく今までソビエト兵に取られず隠し持てたものだ。いや、それよりも……。

「やめてくれよ、まるで形見分けじゃないか」

「勘違いするな、貸すだけだ。ちゃんと返せよ」

 言いながら父はにっと笑った。

 精一たちが浜に出ると、集落の人間が次々と昭二の乗って来たと思われる四トンほどの船に乗り込むところだった。ざっと見回して二〇人以上。集落のほぼ全員がこの機会に脱出するようだ。

 何人かの男たちが食料や飲み水の入った樽を川崎船に積んでいた。その中に昭二がいた。

 昭二がその川崎船を指差しながら言った。

「悪いがお前らはこっちに乗ってくれ。小さな子どもや年寄りを優先させたら船のほうはもう定員いっぱいだ。こいつは船で曳いていく」

 昆布漁で使うちっぽけな川崎船で外洋へ出るのはいささか心許なかったが、この際止むを得ない。

「おい、ところで親父さんたちは?」

 昭二が両親がいないことに気づいた。

「島に残るって……」

「……そうか。いや、松本んところの爺さんも残るって言ってた。どうせ老い先も短い、この島と運命を共にするって」

「縁起でもないこと言わないで!」

「そうよ、軍艦の艦長さんじゃあるまいし。まるで島が沈むみたいなこと……」

 栄子が昭二にくってかかり、知子がそれに同調した。

「あ、いや、松本の爺さんがそう言ってたっていうだけで……。そう言う意味じゃない。悪かった」

 ばつの悪そうな顔をして昭二は謝った。

 東の空が群青色へと変わってきた。日の出は近い。幸い、海は凪いでいた。

 全員が乗船すると船のエンジンがかかった。煙突には醤油樽がかけられ、またエンジンも濡れ蓆で包まれているため、その音はくぐもっている。煙や音でソビエト兵に察知されるのを防ぐためだ。

 精一らと数名の男衆の乗った川崎船も少しずつ、浜から離れていく。

「お兄ちゃん、あれ……」

 知子が浜辺を指差した。

 人影が二つあった。まだ薄暗いので顔はよく見えない。しかしそれが誰だか精一たちには明白だった。

「おっ父ー!」

「おっ母ー!」

 栄子と和子が叫ぶ。ちぎれんばかりに大きく手を振った。

 知子も口元を手で押さえ手を振る。必死で泣くのを堪えながら。

「おっ父、おっ母、必ず帰ってくるからなあ!」

 精一は声の限り叫んだ。それは自分自身に対する誓いでもあった。

 浜辺の両親も手を振っている。父は両手を大きく広げ、母は右手のみを軽く挙げて。

 その姿はみるみる小さくなっていく。

 群青色の空が明るさを増してきた。

 遠ざかる泊の集落を見て、精一は嗚咽を抑えることが出来なかった。


 船は色丹島全島に展開しているソビエト軍に見つからないように一旦南下して沖に出て、それから色丹水道を西に抜け根室に向かうという。昭二が調達した船なら夜半には根室に着くだろう。

 とは言え、多楽島にもその西南の志発島にもソビエト兵が進出しているので、状況を見て迂回するかもしれないと昭二は言っていた。そうなれば船で夜を明かす事になるかもしれない。

 何といっても昭二は海軍上がりだ。少なくとも大海原で迷子になるということはないだろう。その点は心配はしていない。

 ただ、精一は天候が気になった。

 薄曇りの空からは時折陽の光が漏れ、海は今のところ凪いでいる。しかし、いささか西からの風が強い。

 海は夜半に荒れる。二艘の船に乗る誰もがそう考えているだろう。漁師としての判断、海に住むものの直感だった。

 何とか根室に着くまで保ってくれ……。そう祈らずにはいられなかった。

 栄子と和子は蓆に包まって眠っていた。知子は艫に腰掛け、すっかり小さくなった島を眺めていた。

 急に知子がこちらを振り向き、精一に語りかけてきた。

「ねえお兄ちゃん、お父さんとお母さんが島を離れなかった本当の理由なんだけど……」

「……?」

「お母さん、実はアイヌなんだって」

「……」

 特に驚きはしなかった。母はもちろん父からもそんな話は聞いたことがなかったが、思い当たる節があったからだ。

 彫りが深く目鼻立ちが整った母の顔は美しくはあったが、周りの女衆と比べて際立ちすぎていた。

 知子はさらに続けた。

「お母さんの家族はもともと北の占守しむしゅ島に住んでいたんだって。ところが国の命令で占守島を追い出されて無理矢理色丹島に移住されられた」

「なんで追い出されたんだ?」

「知らない。でもともかくアイヌには色丹の生活は合わなかったみたい。一〇〇人近くいたアイヌは病気で亡くなって半分くらいまで減ったらしいわ。お母さんはそんな頃島で生まれたのよ」

「……」

「お母さんの家族は島から逃げてそのまま行方がわからなくなったり、病気で死んでしまったりして、結局お母さんは独りぼっちになってしまったの。それを引き取って育てたのがおじいちゃんなんだって。

 おじいちゃんはお父さんや他の子どもたちと一緒に、お母さんを自分の娘として育てた。やがて二人の間に恋が芽生えて、そして結婚した……」

「誰からそんな話を聞いたんだ?」

「お母さん。私、以前自分の顔つきが他の子と違う事をすごく悩んでたの。それをお母さんに相談したら教えてくれた。

 お母さんも昔はよくアイヌの子って苛められたんだって。お父さんはそんなお母さんをかばってくれたんだけど、人付き合いが苦手になって、だんだんと無口になっていったの」

 母は無口で人前に出る事はほとんどなかった。家の中ですらも母は唖ではないかと思うくらい無口だった。

「随分とかわいそうな思いをしたんだなあ」

 アイヌであろうと何であろうと、精一にとってはかけがえのない母だ。精一は母に同情した。

「だから私たちが知らずに済むことなら知らないほうが良かったとも言っていた。自分たちがアイヌとのあいの子だと知ったら傷つくんじゃないかって……」

「お前は傷ついたのか?」

「うん、最初は驚いた。でも今は平気。ふふっ、むしろ美人に産んでくれたことに感謝しているくらい。……お兄ちゃんは? はじめて聞いたでしょうこんな話」

「うーん……」

 正直複雑な心境だった。アイヌは文字も知らない土人だと軽蔑する人を精一は何人も知っている。内地ではアイヌは差別にあっているとも聞く。だからといって今更母を軽蔑するつもりは毛頭ないが、母の言うとおりに知らないほうが良かった話だったかもしれない。

「お前、なんで俺にそんな話をした?」

「お父さんはお母さんを今も好いているのよ。だから島に残ったお父さんの気持ちも解ってほしいと思って」

「……?」

「お母さんが根室に渡ったら差別を受けて辛い思いをするかもしれない。多分そう考えたんじゃないかしら。

 お母さんの居場所はもうあの色丹島にしかないのよ。だったら、たとえ島に二人しかいなくなっても、お母さんを守っていくのは自分しかいない……。それでお母さんと一緒に島に残ったのよ」

「お前、まるで根室に渡ったら最後、二度と島に戻れないみたいな言い方をするな?」

「……実はね、私たち本当にもう色丹島に帰ることはできないような気がするの」

「知子……」

「ううん、お母さんやお父さんともう二度と会えなくなるとは思わない。でも、日本が戦争で負けたんだから、あの島も多分ソビエトに取られちゃったのよ。色丹だけじゃない。国後も、択捉も、その先も……。今度会う時は、お母さんもお父さんもソビエト人になってるんじゃないかって……」

 そう言うと、知子は言葉を詰まらせ口元を押さえた。

 島がソビエトに取られたなど信じたくもない。しかし島の現状を考えると知子の言うことには説得力があった。

 いや、精一たちが知らないだけで、実は日本という国そのものが欧米に乗っ取られてしまったのではないのか。

 父の言葉が精一の脳裏で反芻される。

 逃げるったって、何処へ逃げるんだ――。

 不安と恐怖が今更ながら精一を押しつぶしてしまいそうだった。


 色丹水道を抜け、多楽島の北で針路を南西に取り一直線に根室に向かう。遠目に多楽島、そして志発島を望みながら、精一たちはいつソビエトの監視船が現れやしないかと極度の緊張を強いられた。

 幸い、監視船が現れることはなかった。

 やがて陽が落ち、夜になった。しかし、これで監視の目も緩むだろうと安堵する余裕はなかった。

 雨が落ちてきた。天候の不安が的中したのだ。

 西風はますます強くなり、海がうねり出した。二艘の船は荒波に翻弄された。

 根室はもう目の前のはずだった。しかし、星すら見えない暗闇の中、陸地はおろかどちらを向いているのかすら分からない。

 知子は栄子と和子を両脇に抱えうずくまっている。三人とも船酔いがひどい。特に和子は限界だろう、知子の腕の中でぐったりとしていた。

 とにかく今は耐えるしかない。

「がんばれ! もう少しだ!」

 半ば自分に言い聞かせるように精一は叫んだ。

 そこへ黒い波が飛び込んできた。海水が船底に溜まり船が大きく傾く。

 精一たち男衆は飲み水が入っている樽の中身を棄て、その樽で海水を汲み出した。しかし翻弄される船上での作業は足元もおぼつかない。ともすれば船から投げ出されそうになる。

 もう一枚波が来たら保たない。せめて妹たちだけでも昭二の船に避難させられないか……。

 そう考えた瞬間、二枚目の波が襲った。

 大量の海水が船に流れ込み、そして船を呑込んだ。

 知子たちの悲鳴を聞いた気がした。精一もまた海中に没した。

 漁師の精一でさえ今まで経験したことのない水流が海中に引きずり込む。

 ようやく精一は水船となった川崎船にしがみつき、顔をあげることが出来た。知子は、栄子は、和子は……?

 姿は見えなかった。

「知子! 栄子! か……!」

 さらなる波が精一を襲った。頭から波を受けしこたま海水を呑み込んだ精一は再び海中に没した。

 力も入らない、何も考えられない。

 意識が朦朧とする中、自分が引き揚げられるような感覚を精一は受けた。

 精一は気を失った。


「精一……。気がついたか」

 板の間に横たわる精一の顔を心配そうに見つめる顔があった。

 良三だった。

「知子は? 栄子は、和子は?」

 ここがどこだとか、なぜ良三がここにいるのかなどを問う前に、精一の口から飛び出したのは妹たちの安否だった。

「……すまん」

 良三の傍らに座り込む昭二は辛そうに搾り出した。

「海が荒れるだろう事は分かっていた。しかし露助が島を占領している中、一刻も早く島を脱出しなければと……」

 理解できなかった。昭二は何を言っているのか……。

「知子はどこだ?」

 精一はもう一度、昭二に訊いた。

 昭二は目を伏せ、黙って拳を握り締めるだけだった。

 黙りこくる昭二に代わって、良三が口を開いた。

 船は未明に根室の港に到着していた。

 良三は、昭二が根室に戻る列車の中で偶然再会したのだという。昭二が船を漁師から借り受け色丹島へ向かう間、良三はとりあえず根室で自分たちが住む家を探していたらしい。

 波に呑まれた精一を救ったは昭二だった。昭二は腰にロープを結わえ付けただけで、自らの命も顧みず荒れる海に飛び込んだのだ。

 精一が気を失っている間にも、昭二をはじめ集落の男衆が辺りを捜索したらしい。

 しかし、知子たちをついに見つけることが出来なかった。

「いや、ひょっとしたら納沙布や水晶島あたりに流れ着いているかもしれない。まだ死んだと決め付けるわけには……」

 気休めのつもりで良三は言ったのだろう。しかし昭二に睨まれ、良三は口をつぐんだ。

 知子も、栄子も、和子もここにはいない。

 精一にはまるで実感が湧かなかった。

 はあ、と長い溜息を精一はついた。




「……結局、妹たちとはそれっきりだ。両親も、人伝に聞いた話だとその三年後樺太の収容所に送られ、病気か何かで間もなく亡くなったらしい」

 精一が言葉を切ると、〝えとぴりか〟の食堂は静寂に包まれた。

 時折、誰かが洟をすする音が聞こえる。桜井団長に至っては歯を食いしばり必死に泣くのを堪えているようだ。しかし、努力も空しくその顔から涙と洟が溢れて止まらない。

 精一はこんな話を人にしたことなど今までなかったし、今も家族を失った話までするつもりはなかった。しかし、思い出したくもない話だが、あの夜のことは昨日のことのようにはっきりと記憶していた。それでつい勢いで口を衝いてしまったのだ。

「まぁ、家族は失ったが、昭二と良三とはその後も家族以上の付き合いをさせてもらった。その二人も今は死んでしまったが、最近亡くなった良三が死ぬ間際に『骨になっても島に帰りたい』と言ったのが、今回参加したきっかけだ。

 さっき、その良三の思いを遂げさせてもらった。今更だが、あの時は勝手な行動を取って申し訳なかった」

 精一が言うと、団長は俯きながら無言でぶんぶんと首を振った。

「あの……質問、よろしいでしょうか?」

 傍らの桜井団長にポケットティッシュを手渡しながら、結城がおずおずと尋ねてきた。精一は無言で頷いた。

「昼間のホームビジットで島民に、元島民と共存できるかと質問をされましたが……その、田丸さんは今でもロシア人のことを恨んでいるでしょうか?」

「島民以前に、俺たち元島民の方に抵抗があるんじゃないか、って事か?」

 精一が言うと、結城は頷いた。

「他の人はどう思っているか知らんが、俺は恨んじゃいないよ、今も昔も。家族がソ連兵に殺された訳でもなし。まして、今住んでいる島民は関係のない話だ。恨むんならそれは逆恨みというやつだ」

 ただ……と精一は言葉を継いだ。

「理不尽さは感じるな。俺も今回参加が決まってからいろいろ調べたんだが、北方墓参って制度が出来てから一応は島に渡って墓参りが出来るようになったらしいな。しかしそれは一部に過ぎない。例えば俺の故郷の泊のように、ロシア人すら足を踏み入れていないところへ墓参りに行く事は出来ない。

 だいたい俺たちが島に帰れないのは誰のせいだ? ロシアか? それともそれを認めない日本政府か?」

 一同が沈黙する中、再び精一は言った。

「別にどっちの領土でもいいんだよ。自由に俺たちが島に行き来できるのなら」

 精一の言葉に、一同は複雑な表情を浮かべるのが精一杯の様子だった。

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