(その3)
三
五月、六月と信は忙しく過ごした。
本業の仕事もさることながら、自らの北方四島交流事業参加の手続きのために奔走したからだ。
北方領土問題対策協会が主催する北方四島交流事業、いわゆる〝ビザ無し交流〟は、募る参加者によって三つに大別できる。
一つ目は〝一般訪問〟と呼ばれるもので、文字通り一般から参加者を募り実施されるもの。
二つ目は〝教育関係者・青少年訪問〟。これは学校教諭を含めた教育関係者と、中高生を中心に参加者を募る。参加者には交流事業での体験をその後の教育・学習に反映してもらうというのが狙いだ。
そして三つ目は〝後継者訪問〟といい、参加者は四〇歳未満のものに限られる。その狙いは、若い世代を近年高齢化が進む返還要求運動リーダーの〝後継者〟と位置づけ、参加者には交流事業をきっかけに地域や職域で運動の中心的役割を担ってもらうというものだ。今回信はこの〝後継者訪問〟に参加する。
それぞれには参加定員が設定されていて、希望すれば必ず参加できるというものではない。
まず、四月の推進委員全国会議でその年の各都道府県別の参加者の割り当てが決められる。しかし割り当てによっては、ある県のその年は〝教育関係者・青少年訪問〟の参加者枠はあるが〝後継者訪問〟の参加者枠がない、という事もありうる。ここが推進委員の力量が問われるところで、北対協が案として提示した参加者枠で自身の出身都道府県の割り当てがない、あるいは少ないと判断した場合は、他の都道府県の推進委員と掛け合い枠の変更に関する交渉を行う。例えば、うちは今年の〝教育関係者・青少年訪問〟の参加者枠を譲るから、その代わりそちらの〝後継者訪問〟の枠を譲って欲しい、といった具合だ。推進委員全国会議とは、そのための会議だといっても過言ではない。
今年の場合、たまたま信の出身県に一名の〝後継者訪問〟の枠が割り振られ、その事に特に異論が出て来なかったのでそのまま確定となった。
枠が決まると、推進委員は地元の都道府県民会議に参加者を推薦するよう依頼し、それを受けて都道府県民会議事務局は参加者を構成団体から募る。
都道府県民会議とは、北方領土問題の啓蒙活動を行う事などを目的に日本全国の都道府県単位で組織されている市民運動団体の事で、一般的には「北方領土返還要求運動○○県民会議」などと称される。その構成団体は青年団、婦人会、労働団体、青年会議所等の県組織、商工会議所連合会等の経済団体や農林漁業の業界団体等多岐に渡る。
これらの団体はそれぞれ独自に北方領土の返還要求運動を通年の事業に盛り込んでいるのだが、それならば同じものを目指す者どおし連携し、効率的に運動を展開できないか、という趣旨で都道府県民会議は生まれた。
信の県の場合、県民会議の会長は県議会議長がいわゆる〝充て職〟で就任しており、また事務局は県庁内にあり、書記と呼ばれる事務局員は県職員が兼務している。このため都道府県民会議は都道府県が主宰していると思われがちだが実は違う。あくまで民間の運動体なのだ。返還要求運動は国なり自治体なりからやれと言われてやっているのではなく、自主的に市民がやっている運動だから自治体も加わって事務方でサポートしてほしい、というのが都道府県の位置づけだ。
都道府県民会議の役員を兼任する推進委員は少なくなく、信も地元の県の県民会議の事務局長を兼任している。これはいかに事務局とはいえ、その長まで自治体の職員に任せては民間の運動なのか官主導の運動なのか分からないという考えによるものだ。
推進委員全国会議から地元に帰ってきた信は翌週事務局が置かれている県庁の総務課を――無論勤務先から半休をもらって――訪れ、全国会議の報告と今年のビザ無し交流の参加者割り当てを、今年は自分が〝後継者訪問〟に参加したいということと併せて伝えた。
この時、信は書記を務める総務課職員から、一名しかいない参加者枠で、もしも構成団体から〝後継者訪問〟の参加希望者が出て来たらどうするか、と訊かれた。
当然の指摘で、今年は自分が参加するから〝後継者訪問〟の参加者の募集はしません、というわけにはいかない。
信は、とりあえず募集はかけて、その上で希望者がいないようなら自分が参加します、と返答した。
参加には四〇歳未満という年齢制限があるため、構成団体から〝後継者訪問〟の参加希望者が現れるとしたら、県連合青年団か青年会議所県ブロック協議会くらいのものだ。前者は自分の出身団体なのでいくらでも言いくるめて抑えられる。後者、または他の構成団体から参加希望者が現れた場合は少し面倒だが、他県に頭を下げて参加者枠――希望者がおらず枠を埋められない場合――を譲ってもらうか、〝一般訪問〟の枠にねじ込めばいい、と目論んでいた。
ちなみにそれぞれの交流事業で定員を超える参加希望者が現れた場合、「北方領土問題への知見や関心が高い者を優先する」というガイドラインが一応設定されてはいるが、信の県では原則として先着順で推薦者が決められている。
かくして今年のビザ無し交流の参加者募集が始まったが、〝後継者訪問〟が実施される二ヶ月前にあたる六月末日までに参加希望者が現れなかったため、信が参加者として県民会議から推薦され事業の参加が内定した。
七月に入ったある日、仕事中の信のスマートフォンから北対協事務局からの着信を告げる音楽が流れた。
信が電話に出ると、いつもお世話になります、と北対協職員は切り出し、信を含めた〝後継者訪問〟の参加者が確定したことと、信に今回の訪問団の団長を務めて欲しい旨を伝えた。
どうして私が……と驚く信に、電話の向こうの北対協職員が言うには、参加者のうち団長に予定していた青年会議所理事長氏が急遽参加を取りやめたというのだ。いわく、「もしも自分が参加の留守中に衆議院の総選挙があったら、自分は地元で生きていけない」と。
確かに信も、永田町で解散風が吹き始めている、という話をテレビで見聞きしていた。
神谷内閣の支持率はここのところ緩やかな右肩下がりで、つい一ヶ月前にも内閣改造が行われたところだ。あの向口外務政務官もこの内閣改造で内閣官房副長官に任命されたという事を、信は新聞の片隅に見るともなく見て知った。
にも関わらず支持率は回復しない。そこで神谷総理は近々、思い切った経済政策をぶち上げ、また野党が効果的な経済政策を打ち出せない今のうちに国民の信を問う解散総選挙に打って出るのではないかという憶測が永田町界隈に流れているというのだ。
電話の向こうの北対協職員は続ける。今回の参加者は大学生や大学院生がほとんどで、信より年上の参加者は数名しかいない。その中でも北対協推進委員という肩書きを持ち、かつ北方領土問題について高い見識を持つ信こそ団長として適任だ、と。
信は、地元のセンセイの選挙応援と〝後継者訪問〟を天秤にかけること自体不見識にも程がある、などと参加を取りやめた理事長氏に散々悪態をついた上で、団長就任を受諾した。
八月。いよいよ信は明日〝後継者訪問〟参加のため北海道根室市へ発つ。朝から飛行機で羽田に向かい、羽田で釧路行きの飛行機に乗り換え、そして釧路で北対協がチャーターしたバスに乗る。根室に到着するのは夕方だ。そこで結団式とオリエンテーション、事前研修が行われ、その日は根室市内に宿泊。目的地の色丹島へ船で向かうのは翌日になる。
幸い、信が担当していた工事は予定通り進捗し、信が一週間程度現場を離れても問題は無いだろうという状況までこぎつけられた。
信は現場事務所で一人パソコンを使って工事関係の書類を作成していた。〝後継者訪問〟から帰ってきたら仕事が溜まりに溜まっているであろう事は容易に予想できたので、少しでも片付けておこうと残業を申し出たのだ。
信は椅子に座ったまま伸びをすると、作業着の胸ポケットからスマートフォンを取りだし、時刻を確認した。
午後一〇時を少し回ったところだった。
明日の朝は早い。これで寝坊して飛行機に乗り遅れたら洒落にもならない。まだまだやりたいけどここまでね……と思ったところで着信音が鳴った。
スマートフォンの画面が切り替わり発信者の名前が現れる。
川崎 晃
先輩……?
信にとっては意外な人物からの電話だった。
「……もしもし」
『おう、信。寝てたか?』
「いえ。ご無沙汰してます。どうしました?」
かれこれ二年ぶりだろうか、信を自身の後任の推進委員に推した先輩の声を聞くのは。
『いやな、お前が〝ビザ無し〟で色丹島に行くってちょっと小耳に挟んだもんでな。水臭いな、なんで俺に報告しないの?』
「別に報告する義務はないと思いますが」
『つれないねぇ、まこッちゃん』
「あの、要件を。私まだ仕事中なんですけど」
『そうか、悪い悪い』
言葉尻からつい苛立ちが滲み出た。それを察したか川崎先輩は恐縮して詫びた。
『参加するにあたって一つ言っておこうと思って』
「何でしょう?」
『島の住民との対話集会ってのがプログラムにあるだろ?』
「はい」
『お前な、いつもの調子で正論並べ立てて相手を追い込むのは止めろ』
「……は?」
『なんかね、目に浮かぶんだよ。島の住民に青筋立てながら日本の主張を捲し立ててるお前の姿が』
「青筋立てながらは余計です。でもその辺はきっちり主張しなきゃダメでしょ?」
『そんな事はね、あっちの人は充分知ってるんだよ、お前に言われるまでもなく。ビザ無し交流何年やってると思ってるんだ?』
「……」
『それにな、ここは日本の領土だからロシア人は出て行けとでも言うつもりか? 少なくとも日本政府はそんな事考えちゃいない。それじゃスターリンがやった事と一緒だ』
「別に私はそこまで……」
反論しつつ、信は思った。突き詰めると結局はそういう話になる。
『ビザ無し交流の目的をはき違えるな。四島在住のロシア人をへこます事が目的じゃないだろ? 島の住民が、参りました、あなたの仰るとおりです、と言ったところで島は還ってこない』
「……はい」
『日本人ってのはロシアについてほとんど関心が無い。隣国なのにもかかわらず。中国や韓国・北朝鮮なんて悪い意味でみんな関心があるのにどういう訳かロシアについてはさっぱりだ。領土問題なんて、本来は解りやすくかつ国民全員が関心を持たなきゃいけない問題の筈なのに実際はそうじゃない。長年続けているビザ無し交流の具体的な成果が見られないのはその辺が原因だと思うんだよ』
誰かが言った言葉を信は思い出した。〝好き〟の反対は〝嫌い〟ではない、〝無関心〟であることだと。
そして、信が懸念していることを川崎先輩も感じていたようだ。しかし川崎先輩は自分なりにその原因を考察しているのに対し、信は「税金の無駄遣い」とまで言い切り懸念をそのまま主催者である北対協にぶつけた。自分の発言がいかに筋違いだったかと信は気付き、赤面する思いに駆られた。
信は思いきって尋ねてみた。
「じゃあ、どうすれば成果が上がるんでしょうか? 推進委員として私は色丹島で何をしたらいいのでしょう……?」
『推進委員である前に、一人の日本人として、まず島の住民たちを知ろう。かれらが何を考えながらどういう生活をしているのか。これはビザ無し交流を通じてでしか知り得ない』
「……」
『そして、地元に帰って多くの人に島のことを、島に住んでる人のことを語る。そうしてロシアや北方領土に関心を持ってくれる人が一人でも増えてくれればそれは成果だと思うけどね』
「……そうですね」
『そして推進委員は、ビザ無し交流という機会を地元の人たちに提供するのが仕事だ。北方領土に関心を持ってくれた人がビザ無し交流に参加して、帰ってきてから職場や家庭で島での体験を語り、さらに関心を持ってくれる人が増え、そういう人がビザ無し交流に参加して……って、連鎖して広がれば信が参加した甲斐があったってもんだよ』
「はい!」
思わず大きな声が出た。目の前にかかっていた靄がすっと消えて無くなったような思いだ。
信は、今はじめて自分が今回の〝後継者訪問〟に参加する意義を理解したような気がした。参加すると決めたはいいが、それは「北野に酔った勢いで適当なことを言ったと思われたくない」という独善的な理由からだった。積極的にこの事業に参加したかったかと問われれば、出来れば参加せずに済めばそれに越したことはない、とこれまでは思わないでもなかった。
今は違う。自分がこの機会を生かして日本とロシアの友好の架け橋にならなければならない、と使命感にも似た思いが湧き上がってくるのを覚えた。
やはりまだまだ先輩には敵わない。ありがとうございます、と信は心の中で呟いた。
『ところで……』
電話の向こうで川崎先輩が訊いた。
『ビザ無し交流に参加しようって思い立ったのは、何がきっかけだったわけ? 以前俺が推進委員やってた頃誘った時は、仕事が忙しいから無理とか言ってたのに。それとも仕事が暇になったとか?』
「そ、それは、あの……やっぱり推進委員として一度は参加しておくべきかなって思って……」
酔っていてよく覚えていないなど、言える訳がない。信はそう言ってお茶を濁すしかなかった。
*
精一のもとへ〝田中愛〟から再び連絡があったのは七月に入ってからだった。
ロシアのPMCへ送金した翌日、案の定博から電話があった。銀行の頭取から直接連絡があったという。
あんな大金、どうするつもりだと問う博に、あの時釧路支店長に説明したとおりロシアでの新規の取引先を獲得するための一種の投資だと返答した。
それはある意味、嘘ではない。
それなら事前に一言欲しかった、と憤る博には素直に詫びた。しかし、頭取が「認知症の疑いがあるのでは」と言っていたというのを聞いて、逆に精一は憤り、否定した上で「妙な噂を流したらお前のところの預貯金を全部引き上げる」と頭取に言っておけと釘を刺した。
ともあれ、それから二ヶ月あまり経過しても何の音沙汰も無かったので、さすがの精一も不安になっていた。
〝田中愛〟は電話で前回同様、阿寒湖湖畔のホテルで食事をしながら〝インタビュー〟をしたいと申し出た。精一はこれを了承すると、数日後これまた前回同様、銀色のワンボックスカーが迎えに来た。
前回と異なるのは、そのワンボックスカーに運転手とは別に一人の男が乗っていたことだった。
大柄でがっしりとした体格。口髭を蓄えてはいるが、細目の上にたれ目のせいで凄みは感じられない。田中が黒のスーツ姿なのに対し、この男は白い無地のポロシャツ姿とラフな格好をしていた。
精一と田中が車に乗り込み、精一は後部の座席に、田中は前側に座る男の横に座った。
車が走り出すと、男は狭い車内で窮屈そうに体を曲げ、自己紹介を始めた。
「はじめてお目にかかります。私、内閣官房で事務官をしています北野と申します。この度向口副長官の命を受け、田丸さんの計画のサポートをさせていただきます」
男はそう名乗り、名刺を差し出した。
「官僚には見えねぇな。見た目だけならその辺にいる漁師だ」
「よく言われます」
北野は目尻をさらに下げながら応えた。
「するとアンタが向口さんの代理人ってわけか」
精一が質すと、北野が答える代わりに田中が口を開いた。
「代理人というか、日本政府サイドの協力者と考えていただければ。北野さんは最近まで外務省ロシア課に勤務していて、ロシアの事情に精通しています。無論ロシア語も堪能で、向口さんの信頼の厚い方です。先日の内閣改造の際に向口さんが外務省からの出向という形で引っ張ってきたんです」
「なるほど」
精一は頷いた。
「さて、本題に入らせていただきます」
田中は口火を切ると、アタッシュケースから大判の封筒を取り出し、精一に渡した。封筒の下部には北方四島の地図とともに〝北方領土問題対策協会〟と記してあった。
「田丸さんと北野さんには、来月開催されるビザ無し交流に参加してもらいます。既に手続きは完了し、これがその詳細です」
「ビザ無し交流?」
精一は封筒の中身をあらためながら言った。
「えっと……そこから説明、要りますか?」
「いや、ニュースで聞いた事はある。ビザもパスポートも不要で北方領土へ行ける手段があるらしいな」
実際、ビザ無し交流についてそれ以上の知識は無かったが、精一は怪訝そうに尋ねる田中を制した。
本来色丹島の元島民である精一のところにビザ無し交流参加の案内がこれまで来て然るべきだった。しかし、一度たりとも精一のところに案内は来ていない。これは、北海道で返還要求運動を展開している北方領土復帰期成同盟や、元島民とその後継者からなる千島歯舞諸島居住者連盟といった組織が、今まで精一が元島民である事を把握していなかったことを示している。
田中は続けた。
「本来この事業は四〇歳未満の人が対象なのですけれど、田丸さんは元島民、北野さんは政府職員という立場での参加です」
封筒の中には〝北方四島交流後継者訪問(色丹島)実施要項〟と銘打たれた書類と、その事業日程と参加者名簿、さらに〝北方領土交流の手引き〟というA4版の冊子が入っていた。
田中の説明によると、ビザ無し交流で使われる船は高齢になった元島民に配慮して設計された専用の船で、この事業に乗じて色丹島へ渡れば精一の肉体的負担も軽減できるという。さらに、精一がこの交流事業に参加する旨をロシア側に伝えたところ、あのミンスキーが精一と面会したいと事業に合わせて色丹島に来る事になったらしい。精一にとっては好都合だが、ミンスキーの狙いがクラボストロイ社の売り込みであろう事は疑いない。ビザ無し交流で島に渡って、個人的に経済交流や産業協力の話をすることは禁じられており、本来なら主催者である北対協が、それは出来ない、と突っぱねるところなのだが、向口の働きかけで、それぞれ立場を離れて一切商売の話をしないという条件なら精一との面会について配慮すると回答したところ、ミンスキーは了承したという。
田中が一通り概要を説明したところで精一は口を開いた。
「老骨に鞭打ってマフィアどもの船に乗らずとも色丹島へ渡れるようになったのは感謝する。だがな……」
精一は自身の名前も記してあるビザ無し交流の参加者名簿を指しながら言った。
「この、俺と北野さんを除く三五名の参加者はそうとは知らず俺達の巻き添えを食う事になるのか?」
一瞬の沈黙の後、田中は答えた。
「多少、この人達の活動に制限が出るのはこの際やむを得ない事です」
「ちょっと待て。そんなバカげた話が……」
「しかし!」
田中は強い口調で精一を制した。
「この人達の生命が脅かされることは絶対にありません。もちろん、田丸さんや北野さんも含めて。そう、ロシアのPMCと確約を取ってあります」
「……目的達成のために多少の犠牲は目を瞑れってか」
「けして犠牲などではありません」
田中は反論したが、精一は納得できなかった。
あらためて精一は参加者名簿を見た。
訪問団の団長は女性だ。この名簿には年齢まで記されていないが、四〇歳未満の若い女性なのだろう。もしかしたら小さな子どもの母親なのかも知れない。そして半数以上が大学生や大学院生だ。地元である北海道の新聞記者も一人いる。随行の通訳、医師、何も知らされていないであろう北対協の職員……。
「絶対に命の危険は無いんだな?」
精一が念を押すと、田中は、はい、と頷いた。しかし俯いたまま視線を精一に合わせることはなかった。田中らしくない歯切れの悪い対応だ。おそらく一〇〇パーセント安全であるとは田中をしても言い切れないのだろう。
気に入らない、と精一は思った。今更自分自身の命など惜しくない。だいたいその覚悟がなくては最初からこんな計画に乗りはしない。だが、自分の巻き添えで無関係の人間が命を落とす可能性があるとなると話は別だ。
この計画は中止しよう。そう言おうとしたところで最初の挨拶以来沈黙を保っていた北野が口を切った。
「あの……どこで出そうかと思っていたんですが、副長官から田丸さんへ手紙を預かってきていまして」
そう言いながら北野は持参していた鞄から封筒を取りだし、精一に差し出した。
無言で精一はそれを受け取り、その場で開封した。
向口本人の筆であろう手紙にはまず、今回精一を巻き込んでしまった事、そしてこれまでの自分や田中の無礼な対応への謝罪が延々と書き綴られていた。
――この計画は絶対に外部に漏れてはいけない。電話では盗聴の可能性も否定できないので極力電話を使わないようにした。使うことがあっても敢えて内容をぼかし、第三者が聞いてもそれと察することが出来ないようにする必要があったため、田中の身分を偽装したり、また先日精一からの呼び出しで電話をかけた際あのような応対になってしまった。
特に知られてはいけない相手が外務省で、この計画が成ったなら、今まで外務省が積み上げてきたものが一瞬にして崩れ去る。もし発覚すれば彼らはなりふり構わず全力で阻止に動くはずで、そうなれば向口自身は言うに及ばず、田丸そしてタマルフーズホールディングスは多大な迷惑を被る事になるだろう。したがってこの計画を知っている政府関係者は自分と神谷総理、そして北野の三人のみである。北野は外務省出身で年齢も離れているが、思いを同じくするいわば同志であり、有能でかつ信頼に値する人物だ。
そもそもこの計画は単なる思いつきではない。いろいろな手段を考えてはいたが、結果としてはこうなるのがベストであろうという事は一〇年以上前から頭にあった。ただ、中村先生の葬儀の場で話を持ちかけた事は早計に過ぎたと猛省している。自身の心中に焦りがあった事は否めない。既に田中から聞いていると思うが、無理強いするつもりは全く無かった。いっそ荒唐無稽な話だなどと笑い飛ばしてくれればその方がよかったとすら思う。
しかし、精一は自分の思いを受け止めてくれた。のみならず自らの命を賭して色丹島へ渡るとまで言ってくれた。これで自分は決心がついた。かくなる上は自分も命懸けでこの計画を成就させる決意である――
……いささか誤解もあるようだが、取りあえず今まで不明だったところがこの手紙で見えてきた。精一はさらに読み進めた。
――懸念されるべきはビザ無し交流に参加する他の参加者である。何も知らない一般国民を命の危険に晒すなど、政治家として絶対に許される事ではない。その提案を受けた時、自分は即座に反対した。しかし、他に適当な手段が無く、かつ参加者の身の安全には万全を期すという事なので神谷総理と協議の上最終的にその提案を了承した。
了承した以上、責任は自分にある。精一や精一の会社に累が及ぶような真似は絶対にしないと誓う。もし万一のことがあれば自分は逃げも隠れもしない。全てを自分が被った上で死んで国民にお詫びする――
……いちいち言う事が大げさだ、と精一は思った。〝命懸け〟だというのを伝えたかったのだろうか。それにしても簡単に「死ぬ」などと言われては逆に胡散臭く思われるだけだろうに。
――自分に私心はない。ただただ、我が国の国益と、一日も早く道東の海に平安が戻る事を希求するのみである。
そのために自分が導き出した結論は、我が国は〝固有の領土〟を失い、そしてロシアは〝第二次世界大戦の結果得た領土〟を失うという、双方が〝ルーズ・ルーズ〟という決着をもって領土問題に終止符を打つ他ないと確信するものである――
……手紙は、前回田中の口から聞いた向口の信念をあらためて表明して結ばれていた。
手紙を読み終えた精一は手紙を封筒に戻し、北野に差し戻した。
「こういうものを俺の手元に残しておいちゃ拙いだろう。アンタの方で処分しておいてくれ」
「ご高察、恐れ入ります」
北野は恭しく封筒を受け取り、鞄にしまった。
「別にこの手紙を読んだからどうこうって訳じゃないんだが」
精一は田中に向き直り言った。田中も姿勢を正し、真剣な眼差しを精一に向けた。
「約束してくれ。関係のない人間に被害が及ばないよう万全を期すと」
少し間があいたものの、田中は今度は精一の目をしっかり見据え、「必ず」と応えた。
精一の沈黙を了承と受け止めたのだろう。田中は説明を続けた。
「このことを受けて、PMCと協議の上最終的な実行プランを立案しました。決行はビザ無し交流事業の四日目、八月二七日です。まず――」