(その1)
釧路市内にある総合病院の特別室。田丸精一はその扉を静かに開けた。
広い部屋の中央には応接セット。その奥にベッドはあった。鼻に酸素吸入用のチューブをつけて横になる老人の姿を精一は見つけた。
精一は円椅子を引き寄せ、老人の傍らに座る。
「……おう」
最初に口を開いたのはベッドに横たわっている老人の方だった。
「何だ、起きてたのか」
てっきり寝ているとばかり思っていたので精一は軽く驚き、そして言葉を継いだ。
「どうだ、按配は?」
「ダメだ。もう長くない。……スマン、寝たままでいいか?」
仰向けのまま、老人はかすれた声で応えた。
「ああ。無理するな。……痛いのか」
「痛いというか……辛い。何をするのも」
「……」
「……博、何だって?」
「いや、何も……。今日は久々に顔を見に来ただけだ」
嘘だった。
老人の長男の博から電話があったのは昨夜だった。
――親父、いよいよ危ないらしい。生きてるうちに一度会いに行ってほしい――
分からないものだ。昨年の今頃は普通に歩いていたじゃないか。自分より矍鑠としていたくらいなのに……。
転んで腰の骨を折る怪我をしたのがいけなかった。二ヶ月病院のベッドで過ごすと、怪我の癒える頃はすっかり足の筋肉が落ちてしまって歩行もままならなくなっていた。それでは歩行のリハビリを、となるはずが、心肺機能がリハビリについていけないくらい衰えてしまっているというのだ。
不整脈が出て肺には水が溜まっている、心臓も肥大していて、いつ心不全の発作が起きてもおかしくない。博の話ではそういう状態らしい。
「お前こそ、達者か?」
老人が精一に訊いた。
「俺は健康そのものだよ。頭も内臓も異常なし。先月の健診でも医者に『六〇代の身体能力だ』って言われたわ。『これは奇跡だ。死んだら解剖させてくれ』だとよ、ははは……」
つとめて明るく精一が言うと、老人は無言で口元を歪めた。
「……なぁ、セイちゃん」
一瞬、精一は自分の事と解らなかった。この男が自分の事を〝セイちゃん〟などと呼ぶのはいつ以来だろう。
老人は言葉を継いだ。
「やっぱり……島には帰れんかなぁ……生きてるうちは」
「島か……」
大概の事なら気休めと悟られつつも相槌くらいは打てる。しかし、さすがに〝島〟の事となるといい加減な返事は憚られた。
「あの頃は楽しかったよなぁ……。ショウちゃんもいたし。よく三人で昆布拾ったよなぁ」
「そうだな。一家総出で昆布取り。夏場は学校にも行くな、こっちを手伝えって親から言われるくらいだったっけ……」
「今、いったいあの島はどうなってんのかなぁ……」
「……」
「帰りてぇなぁ……島に……故郷に……。たとえ骨になってでも」
そう言うと老人はひとつ洟をすすった。
小一時間は昔話をしただろうか。自分たちの故郷である、あの島での思い出話を。
看護師が検温と血圧測定に入ってきたので、これをきっかけに精一は老人の元を辞去することにした。
「元気そうで良かったよ。……じゃあ、また来る」
老人は無言だった。精一は特別室を後にした。
また来る、とは言ったものの、これがあの男と話をする最後の機会になるのではないかという予感の方が強かった。
そして二日後、その予感どおりとなった。
タマルフーズホールディングス前会長・中村良三氏逝去――。
全国紙の経済面でそのニュースは報じられた。
一
「一体、政府は北方領土の返還を本気で考えているんですか?」
桜井信の怒号は、それでも懇親会の会場の喧騒の中では周りの数人の耳目をひくのに留まった。
二七歳の信は目の前にいる、親子ほど年の離れた外務省ロシア課長補佐相手に一歩も引かない構えだった。
信が怒っているのは、昨年暮れのダヴィトフ・ロシア大統領訪日の際の政府の対応だった。
ダヴィトフ大統領は首脳会談の席で、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島のいわゆる北方四島の帰属問題を討議するために訪日したのではないと言い放った。これに対し日本側はこの発言に抗議するどころか、領土問題解決に向けた環境作りの一環として北方四島での日ロ共同経済活動を打診したのだ。
信はさらに語尾を荒げて課長補佐に詰め寄った。
「これじゃ平和条約がなくとも日ロ関係は発展する、北方領土なんか返さなくとも経済交流が盛んになるって、向こうは思うんじゃないですか?」
「いや、ダヴィトフは領土問題を心から解決したいと言っているわけで……」
「それ、本心でしょうか? 実際に大統領に会ってるんだからニュアンスとか判りそうなもんでしょう?」
「それは……何とも……」
「だいたいあの時の共同声明にしたって、北方領土の帰属の問題には全く触れられなかった。にもかかわらず神谷首相は『平和条約締結への重要な一歩』ですって? がっかりですよ。私たちがいくら民間レベルで返還運動をやっても、政府がそんな体たらくじゃ還ってくるものも還ってきませんよ!」
「まあまあ、まあまあ!」
信が一気にまくし立てたところで、大柄な男が二人の間に割って入ってきた。黒のスーツが壁となって立ちはだかり、課長補佐はそそくさとその場を後にした。
身長一六五センチの信の目の高さにネクタイの結び目がある。しまった、ちょっと言い過ぎた、つまみ出されるかしら……。信の熱くなった頭が一瞬で冷める。
「お疲れ様です。外務省の北野と申します」
野太い声が信の頭上から聞こえ、目の前に名刺が突き出された。
外務省欧州局ロシア課外務事務官 北野平和
とある。
「あ、ああ……どうも。よろしくお願いいたします」
愛想笑いを浮かべながら信は北野を見上げた。
年齢は信の一回り上くらいだろうか。目は細く目尻が下がっている。そして短く刈り込まれた頭髪に無精ひげ。外交官という雰囲気は微塵も感じられない。工事現場の監督といった風情だ。スーツより作業服のほうが余程似合う。
信は目礼しつつ名刺を受け取った。そしてピンクの名刺入れをポケットから取り出し、自分の名刺を北野に渡した。
独立行政法人北方領土問題対策協会推進委員 桜井 信
「ええと……〝のぶ〟さんでよろしかったでしょうか? それとも〝しん〟さん……?」
「〝まこと〟です」
「あっ……」
北野がここでようやく、気づいたようだった。
「女性……でしたか。失礼しました」
黒のパンツスーツに髪型はベリーショートという出で立ち、貧乳ずん胴の幼児体型に加えてこの名前。しばしば男子中学生に間違われる事もある信にとって、相手のこういう対応は慣れてはいるが、やはり気分の良いものではない。
なにこの人。そんな事黙っていれば分からないのに……と内心毒づきつつ、それでも信は笑顔を作って北野の詫びに応えた。
北方領土問題対策協会、略称〝北対協〟とは内閣府所管の独立行政法人だ。
もともとは太平洋戦争の終戦とともに漁場を追われた北方領土や北海道東部在住の漁師に低利で事業資金を融通する特殊法人として設立されたものだが、後に北方領土問題の啓発や調査研究という業務が付随されていく。
一九七二年に沖縄の本土復帰が果たされると、次は北方領土だとばかりに国内で北方領土返還運動の機運が高まってきた。そこで一九七五年より北対協は各都道府県に〝推進委員〟と呼ばれる、地方行政機関と返還運動を展開する民間団体とのパイプ役を一般市民に委嘱する制度をスタートさせた。両者の連携により返還運動を国民一丸となった運動にする事が狙いであった。
信は今年前任者からそのバトンを渡され、はじめて今日の推進委員全国会議に臨んだ。ちなみに全国に四七人いる推進委員の中で信は最も若い。
推進委員の委嘱には各都道府県知事の推薦が必要だ。無論、たとえ女性であろうが、あるいは二〇代の若者であろうが前任者の推す人物に対して知事サイドが推薦を拒む理由はどこにもない。
推進委員に委嘱されたものは北対協の方針の伝達や各都道府県の推進委員同士の情報交換のために、毎年四月に東京で開催される全国会議に出席する事になっている。会議終了後は参加者による会費制の懇親会を行うことが恒例となっていた。
「でも凄いなぁ。女性で推進委員というのはやはり珍しいのではないでしょうか」
北野はテーブルの上にあったビールを取り信に勧めつつ、自分より明らかに年下であろう信に慇懃に尋ねてきた。
信が手にしたコップにビールが注がれる。
「こういう仕事に男や女は関係ないんじゃありませんか?」
つっけんどんに信はそう答え、注がれたビールを一気に煽った。事実そうだし、推進委員に限らず女性だからと特別視されるのは嫌だ。
「あ、いや、お気に障ったのならすみません。そういうつもりで言ったんではないんですが……」
北野はたじろぎながら短髪の頭を掻いた。
信は黙ってコップを置き、北野の持っていたビール瓶を奪いその口を北野に向けた。しかし北野はやんわりとそれを制した。
「私はまだ仕事が残っていますので……」
そう言いつつ、北野は隣のテーブルでかいがいしく他の推進委員にビールを勧める小太りの男を顎でしゃくった。
来賓として招かれた、外務政務官の向口茂だった。
ポマードか何かで固められた黒々とした頭髪からは意外に若い印象を受けるが、確か今年還暦を迎える信の父親とそんなに変わらない歳のはずだった。おそらく髪は染めているのだろう。
通常なら来賓は会議の冒頭で挨拶した後に公務多忙な為とか何とかで中座してそれでお終いのはずだ。しかし向口は会議を中座した後再び懇親会にまで顔を出している。
「……なんであの人がいるんですか?」
向口が来ている事に意表をつかれ、信は疑問を口にした。
「地域で返還運動に従事していらっしゃる皆さんの労をねぎらいたいとおっしゃるので……。実は私たちも政務官がどうしても出ろと言われるのでお邪魔させていただいているんです」
そうなのだ。確かに全国会議に北方領土問題の政府説明のために出席する外務省の役人が、懇親会にまで出席するのは前例がない事らしい。だから信もこの場で、酒の力を借りながら思いのたけを外務省の役人にぶつける事ができたのだが……。
北野が続ける。
「まぁ、そのお陰で今日は推進員の皆さんの情熱を感じる事ができました」
「あ……いや……先ほどは失礼しました」
〝皆さん〟と濁してはいるが、自分の事を指しているのは明らかである。先刻思わず熱くなってしまった自分を思い出し、赤面しながら頭を下げる信に、いえいえと言わんばかりに北野は微笑で応えた。
「私たちは外交機密を扱っている関係でこういう場ではどうしても言葉を選んでしまいます。こちらこそ、通り一遍のお答えしか出来ない事をお赦しください。
多分政務官もそういう事情を踏まえて、私たちを推進委員の皆さんのガス抜きのために懇親会に連れて来たんでしょう。これも仕事のうちです。どうぞ気になさらずに」
北野はウーロン茶の入ったグラスを口に運び、続けた。
「それはそうと、政務官は北方領土問題の解決には並々ならぬ情熱を持っています。これは間違いのないところです」
向口茂は北海道選出の代議士だ。しかも選挙区は北方領土近海を操業する漁業関係者が多い根室市や釧路市である。
地元利益誘導型の古いタイプの政治家、というのがマスコミによる向口の評価だ。基盤整備の遅れている道東地域において彼の政治姿勢を支持する地元有権者が多い一方で、公共工事のバラ撒きなど地元建設業界との癒着も噂されている。また、政界随一のロシア通としても知られ、良きにつけ悪しきにつけ何かとマスコミへの露出の多い政治家ではある。
地元の問題だもの、一生懸命なのも無理もないんじゃ? と信は思う。
「まあ北方領土もいわば向口センセイの〝選挙区〟ですからね。領土問題に真剣取り組んでいる姿勢を見せれば、選挙のときに格好のアピールポイントになるでしょうし……」
嫌みっぽく信は、向口を持ち上げる北野に応えた。
「おうおう、ご苦労さんご苦労さん」
そこへ両手にビール瓶を持った向口が信たちのいるテーブルにやってきた。慌てて信は口をつぐんだ。
「君は若いな! 役場のモンか?」
推進委員の中には、地元の運動体の事務方を務める県庁の職員を随行させてくる人もいる。向口の目には他の推進委員より二周りは若い信がそういった随行職員に見えたようだった。
大きな胴間声に圧倒されかけながらも信は応えた。
「い、いえ。私も推進委員でして……」
「ほう! 若いのに感心なことだ。
返還交渉が長引く中、運動関係者の高齢化が最近顕著になっている。北方領土を追われた元島民の高齢化はさらに深刻だ。君のような若い世代が地域での返還運動を引っ張ってくれるのは実に心強い!」
向口は持っていたビール瓶を傍らのテーブルに置き、信に握手を求めてきた。
だいたい返還交渉が長引いているのはアンタら政治家がしっかりしないからでしょう。元島民の高齢化を承知しているんなら、一刻も早く元島民が故郷に帰れるように交渉を進展させればいかがですか?
信はそう突っかかりたい衝動を何とか抑え、無理矢理顔に愛想を作りながら両手で向口の手を取った。そんな事を言っては今度こそつまみ出されるかもしれない。つまみ出されないまでも空気が悪くなる。
そこで向口がおや? という顔をする。
「なんだ君、女か?」
アンタもかよ……。
今度は引っぱたいてやろうかという衝動を抑えるのに信は苦労した。が、おそらく無意識のうちに感情が顔に出ていただろう。
択捉島、国後島、色丹島、そして大小十数個の島々からなる歯舞群島。北海道の東方、根室半島と知床半島の間に銜え込まれるような位置にあるこれらの島々を総称して〝北方領土〟と日本では呼ばれている。
総面積は五〇三二平方キロ。これは千葉県ないし愛知県の面積にほぼ匹敵する。また、択捉島と国後島はそれぞれ単体では沖縄本島よりも大きい。
北海道からの距離は、択捉島までが一四四・五キロ、国後島までが一六キロ、色丹島までは七三・三キロ、歯舞群島に至っては、最も近い貝殻島まで三・七キロに過ぎない。
北方領土の歴史を紐解くと、それは一六世紀まで遡る。
一五四九年、若狭武田氏の流れを汲む蠣崎氏の第五代当主・季広は、当時蝦夷地と呼ばれていた北海道を支配していたアイヌ人達と永い抗争の末和睦し、その支配権を確立する。
戦国時代には季広の子・慶広が上洛。慶広は豊臣秀吉の命により国侍として九戸政実の乱に参戦する。その働きぶりが認められ、慶広は所領の安堵と、樺太を含む全蝦夷地の支配権を与えられる事となった。
秀吉の死去後、慶広は徳川家康と誼を通じるようになり、家康の旧姓の一字を取り〝松前〟という姓を名乗る。家康が天下を取ると慶広は大名に列し、蝦夷地は松前藩となった。
松前藩が自国領として幕府に献上した地図には、樺太と並び北方領土を含む千島列島が記載されており、それを元に一六四四年に作成された〝正保国絵図〟をして、この頃から日本が江戸時代から北方領土を実効支配していた証拠とされている。
しかし一方で、〝正保国絵図〟は松前藩が北方領土を実効支配していた証拠にはならないという見解もある。この地図に記載されている北方領土は位置も形も実際の物とは大きく異なり、他の松前藩の多くの地域と同様、未開の地に過ぎなかったからだ。
実際に運上屋と呼ばれる、松前藩の出先機関が置かれるようになったのは一八世紀に入ってからだ。これは島に居住するアイヌ達と交易するための拠点として設けられた。
一七六九年に幕府老中格になった田沼意次は蝦夷地開拓を企画。その命により一七八五年に蝦夷地検分隊が組織され、最上徳内らが派遣された。その後田沼の失脚により蝦夷地開拓は中止となるが、一七八九年に国後島のアイヌがその待遇に不満を持ち蜂起、松前藩の御用商人と衝突し死傷者が出る事件が発生。さらに一七九二年、帝政ロシアからの最初の遣日使節、アダム・ラクスマンが漂流民の送還と通商交渉を目的に根室に来航した。
帝政ロシアの南下を脅威と感じた幕府はさきのアイヌの蜂起を口実に、一七九九年に千島列島を含む北海道太平洋岸地域を松前藩から召し上げ、公議御料、すなわち幕府の直轄地とした後、津軽藩や南部藩の藩士を駐留させ防衛警備に当たらせた。これは、万一帝政ロシアが進出してきた場合、松前藩では対応できないであろうという判断によるものだった。その懸念は図らずも実現し、一八〇六年から一八〇七年にかけて、文化露寇と呼ばれる、一向に通商交渉が進展しないことに不満を持った帝政ロシアの二度目の遣日使節、ニコライ・レザノフの部下が樺太と択捉島の紗那を襲撃し、幕府軍が一時紗那を放棄するという事件が発生している。
一八五三年、黒船来航。その翌年、幕府とアメリカとの間に日米和親条約が、イギリスとの間に日英和親条約が締結され、二五〇年近く続いた〝鎖国の時代〟は終わった。
黒船来航の一ヶ月半後、帝政ロシア遣日使節・エフィム・プチャーチン海軍中将が旗艦以下四隻の船を伴って長崎に来港した。その目的は時の皇帝・ニコライ一世の命により、日本と平和裡に通好条約を締結する事だった。
プチャーチンはその後、クリミア戦争の勃発や乗船が沈没するなど不意の出来事に見舞われたが、一八五五年二月七日、幕府全権の筒井肥前守政憲・川路左衛門尉聖謨両名との間で日魯通好条約の締結を果たす事に成功した。
日魯通好条約では、さきに締結された日米・日英の和親条約同様、船舶が寄港し補給に用いる港の開港と領事の駐在などが規定されたが、これらにはない条文がこの条約にはあった。日本と帝政ロシアとの国境線に関する規定だ。
条約にはこうある。
「今より後日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし」
すなわち、日本とロシアの国境を択捉島と、その北東にある得撫島の間に設けるという規定がこの条約によってはじめて明文化されたのだ。
これ以降両国の国境は、一八七五年に締結された樺太千島交換条約で「カムチャツカ半島ロパトカ岬と占守島との間」となり、一九〇五年に締結されたポーツマス条約では前者に「樺太における北緯五〇度線」が加わった。
太平洋戦争を経て一九五一年、日本はアメリカをはじめとする四八ヶ国との間で日本国との平和条約、いわゆる〝サンフランシスコ条約〟に署名。この条約において日本は「千島列島」と、「ポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島」の権利権限を放棄した。
なお、日本は放棄した領土をソビエトに譲渡する、などという条文はこの条約にはない。それ以前にこの条約にソビエトは署名すらしていない。
日露戦争の講和条約であったポーツマス条約は別として、日本とロシアの国境に関する取り決めを定めた条約は、樺太千島交換条約以降、二一世紀の今日に至るまで両国間で未だに交わされてはいない――。
向口とロシア課長補佐が開始一〇分程度で中座したのに対し、北野は他の推進委員に捉まり中座するタイミングを逸したのか、それとも向口の指示だったのか、結局懇親会終了まで会場に残っていた。終了後、「この後ご予定はありますか」と北野は信を誘った。
信にしてみれば渡りに船だった。向口の出現でどうにもくさくさしてしまい、気晴らしに呑みなおさなければ収まりがつかなかった。しかし慣れない東京の夜の街に一人で繰り出すほどの度胸はさすがになく、かといって親ほど歳の離れた推進委員の先輩たちについて行くのも気がひけた。
東京体育館、明治神宮野球場、秩父宮ラグビー場、そして建設中の国立競技場とスポーツ関連施設が集中するロケーションにあるホテルで開催された推進委員全国会議。その会場を二人は後にした。
ホテルのすぐ目の前に建つ明治神宮野球場ではプロ野球のナイターをやっているようだ。照明が煌々と灯り、時折わっという歓声が聞こえる。
二人は会場の近くで〝舶来居酒屋〟と看板にある店を見つけ、そこに入った。
鮪とアボガドのサラダ、草履ほどもある大きなハンバーグ、そしてチーズフォンデュ……。確かに〝舶来〟だ、と笑いながら二人の会話も弾んでいった。
酒も程よく回った頃、北野は信に推進委員になったきっかけを訊いた。信は待っていましたとばかりに話し始めた。
「ダメなものはダメ。『無理が通れば道理が引っ込む』なんて社会は絶対認めない。これ、私のポリシーなんです。北方領土問題ってまさしくそれじゃないですか」
「なるほど」
北野が相槌を打つ。信はさらに続けた。
「私は地元の青年団で領土問題の学習をした事がこの運動に携わるきっかけだったんです」
もともと元島民や漁業関係者が北海道などの限られた地域で展開されていた北方領土返還要求運動。これを全国的なものにまで発展させたのは、地域青年団の全国組織である日本青年団協議会による運動の成果だった。日本青年団協議会は、婦人団体の全国組織である全国地域婦人団体連絡協議会と連携して、一九六〇年代から沖縄の返還要求運動と平行して北方領土の返還要求運動を展開していた。
そして北対協が推進委員制度をスタートさせた頃、両団体が中心になって、労働組合や経済団体を巻き込んで北方領土の啓発を目的とした連合組織、北方領土返還要求運動連絡協議会、略称〝北連協〟を立ち上げ、日本青年団協議会が議長団体となった。
北対協が全国都道府県の〝横のレベル〟で啓発活動を行うのに対し、北連協は各業界や団体などを通じた〝縦のレベル〟で運動を推進している。
また、根室・納沙布岬にある〝四島のかけはし〟と呼ばれるモニュメントの袂には灯台があり、この種火は全国の青年団が沖縄からキャラバンを組んで納沙布岬まで運んだものとして知られている。このように、北方領土の返還要求運動と青年団とのつながりは深いのだ。
一方、信は昨年まで地元の県の連合青年団の団長を務めていた。二〇代の、しかも女性が県組織の代表を務めるなどという事は他県は別として信の県では前例がない事だった。しかし、それは信が類稀な才能を有していたからでもなければ、傑出した実績を残したからでもなかった。
信の場合は、何の事はない、他に手を挙げる人間がいなかっただけだ。信の県では近年、連合青年団を組織する市町村青年団の衰退が著しく、県組織のリーダーのなり手もいない有様だった。信にしても最初から県青年団の団長などやる気は更々なかった。しかしある日の会合での前任団長のあまりの不甲斐なさ、やる気の無さに憤り、つい勢いで手を挙げてしまった、というのが団長就任の顛末だ。
勢いとはいえ会長になってしまったからには加盟団の団員やOBにバカにされたくない。持ち前の負けず嫌いさも手伝って信は団長在任中必死に勉強をしたのだった。
北野が相槌を打つ。
「青年団がそんな活動をしていたとは知りませんでした。私は地元の高校を卒業してすぐ進学のために上京してしまったので、青年団といわれても祭りで神輿を担ぐくらいしかイメージがないんですが……」
北野が青年団の話に食いついてきたので、信は生ビールのお代わりを頼みつつ、話を続けた。
「その認識で間違いありません。しかし、青年団のそもそものテーマは自分たちの生活を良くするという事なんです。そのために地域の祭りだけじゃなくいろんな社会活動を行います。
北方領土問題にしてもそうです。今なお島を追われ、生まれ育った故郷に帰れる事が出来ない元島民の方が大勢います。そして、銃撃や拿捕の危険に晒され、入漁料などという理不尽な経済的負担を強いられながらも、生活のために海に出ざるを得ない漁師の方もいます。それは確かに私個人には直接関係のない話かもしれません。
しかし! 『小指の痛みは全身の痛み』という言葉があります。元島民や漁業関係者の痛みは同じ日本で生まれた私たちが共有しなければいけない痛みなんです!」
いつの間にか立ち上がり、アジ演説さながらに信は一気にまくし立てた。小さな店で、しかもよく通る信の演説に何人かの酔客がおお、と歓声を上げた。
「よし! よく言った兄ちゃん!」
「姉ちゃんよ!」
太平洋戦争末期の一九四五年。日本は〝絶対国防圏〟と呼ばれたサイパン・グァム・テニアンの各島を失い、連合艦隊は壊滅状態。戦争継続のための物資も底を尽き、もはや敗戦は必至の情勢だった。
そんな折り、ソビエト連邦の保養地・ヤルタにソビエト・アメリカ・イギリスの各首脳が集い、会談がもたれた。
この会談の目的は、おもにヨーロッパにおける世界大戦後の新秩序の構築についてであるが、この席でアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とソビエトのヨシフ・スターリン書記長との間にある密約が交わされた。
実はアメリカは太平洋戦争の早い段階でソビエトに対日参戦を要求していた。しかしソビエトは日本とソビエトの間で締結されている日ソ中立条約を盾に――というより、西にドイツ、東に日本という二正面作戦を嫌って――この要求を拒んでいた。
しかし、ドイツとの戦いで勝利の目算が立ったと見るや、スターリンは対日参戦の可能性を示唆、その見返りとして当時の日本の領土である樺太の南半分と千島列島の領有をルーズベルトに対し主張してきた。
〝大祖国戦争〟を戦い抜き疲弊した国民をさらなる戦争、それも何ら大きな問題を抱えている訳でもない国を相手にする戦争に駆り出すためには「一定の政治的条件」、すなわち国民が理解し納得し得るだけの〝報酬〟が必要である、という理屈だ。
一方、ルーズベルトは焦っていた。
対日戦争での我が国の勝利は揺るがない。しかしこの戦争はいつまで続くのか? いつまで我が軍の将兵たちは血を流し続けなければいけないのか……?
サイパンでもグァムでも、奴らは全滅するまで戦闘を止めなかった。とても正気の沙汰とは思えない。その上、〝一億総玉砕〟などというスローガンを掲げて、全ての国民が死ぬまで戦争を継続するなどと! そんな狂気に付き合う道理はない。
この戦争を早く終わらせるためには、不本意ではあるがあのコミュニストの条件を呑むしかないのか――。
かくしてルーズベルトは、日ソ中立条約を破棄し対日戦に参戦する事を条件に、その主張を受け容れた。
後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相もこれを承認し、ここに三国によるヤルタ協定が成立する。
このルーズベルトの〝焦り〟が、この年から本格化する日本全土に及ぶ無差別爆撃や、次のアメリカ大統領であるハリー・トルーマンによる広島・長崎への原爆投下に繋がるのだが、ルーズベルトの判断は余りにも大きな〝過ち〟だった。
遡る事一九四一年八月、ルーズベルトとチャーチルは大西洋憲章と呼ばれる共同宣言を発表した。この中で「両国国策の共通原則」として「領土的その他の増大を求めず」、すなわちこの戦争によって領土を拡大する意図はないことがはっきり明文化されている。
そしてその年の九月、モスクワで行われた会談で、アメリカ・イギリスはじめとする連合国陣営がソビエトの援助を決定、「ソビエト政府は太平洋憲章に同意する」としてソビエトが連合国陣営に加入する。さらに翌年、ソビエトを含む連合国陣営が、太平洋憲章に賛同し各国総力をもって大戦を完遂させるという内容の連合国共同宣言を発表した。
したがって、「樺太の南半分と千島列島の領有」などと要求するスターリンは言うに及ばず、それを容認するルーズベルトも、太平洋憲章や連合国共同宣言に明らかに反する約束を交わしたことになる。だから〝密約〟だったのだ。
アメリカの〝過ち〟はまだある。
一九四五年八月八日、スターリンはヤルタ協定を履行する。連合国からの参戦要請を名目に日本へ宣戦を布告し、日ソ中立条約を事実上破棄した。
翌日未明よりソビエト軍は満州への侵攻を開始。シベリア鉄道を活用して陸海総数一五〇万を超える兵力を動員したソビエト軍に対し、満州を守備する関東軍はほぼ奇襲に近い戦闘突入に総崩れとなった。
そして八月一五日。ソビエト参戦からおよそ一週間後、日本は全軍の無条件降伏を求めた連合国によるポツダム宣言の受諾を発表し、太平洋戦争は終結した……はずだった。
千島列島の占守島にソビエト軍が侵攻を始めたのはその三日後の八月一八日未明の事だった。
日本軍占守島守備隊は武装解除を進めていたが、自衛のためソビエト軍との戦闘を余儀なくされる。戦況は守備隊がソビエト軍を圧倒するも最後は守備隊が降伏し、占守島はソビエト軍の手に落ちた。
以後、ソビエト軍は千島列島を南下し、八月三一日に得撫島に到達、これを占領。これをもってソビエト軍の千島列島の占領任務は完了したかに見えた。
得撫島が占領される三日前の八月二八日、ソビエト軍は択捉島に進出を開始。これは千島列島を南下してきた部隊ではなく、八月二五日に樺太を占領した、別の部隊によるものだった。
以降、その部隊は九月一日に国後島並びに色丹島に上陸し、日本が降伏文書に署名した九月二日以降の、九月三日から五日にかけて歯舞群島全島の占領を完了させた。
そして連合国軍最高司令官総司令部は九月二日、一般命令第一号を発令して「樺太及び千島列島にある日本軍はソビエト極東最高司令官に降伏すべき」とした。
択捉・国後両島が千島列島に属するかどうかは置いておいて、アメリカはこの両島が日露戦争以前から日本の領土だったということを知ってか知らずか、それを無視した。それどころか、明らかに一般命令第一号でいうところの「日本国本土、これに隣接する諸小島」に当たる色丹島、歯舞群島までも千島列島の一部として扱ってしまった。
さらに、翌年一月二九日に発令された連合軍最高司令部訓令第六七七号で、日本の施政権を停止する区域として千島列島と色丹島、歯舞群島を明示したのだ。
この二つの指令が、今日までロシアが北方領土を実効支配している〝根拠〟となっている。
アメリカは、歯舞群島と色丹島はもとより、他の千島列島の島々と歴史的経緯が異なる択捉島と国後島をはっきり区別すべきだったのだ。この両島の間の国後水道と、択捉島北東の択捉海峡はロシア海軍太平洋艦隊がその根拠地であるウラジオストックから太平洋に進出するための重要なシーレーンだ。スターリンは千島列島という領土よりむしろ、このシーレーンが確保できた事を殊更喜んだという。
事の重大性にアメリカが気づいたのは、世界がいわゆる〝冷戦時代〟に突入してからのことだった。
一九五六年、日本とソビエトとの国交正常化の交渉に際しアメリカ政府は「歴史上の事実を注意深く検証した結果」として、「北方領土は常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならない」と、余りにも遅きに失した公式見解を発表した――。
「……だからいちばん悪いのはアメリカだ! って、先輩は言うんですけどぉ、どう思いますぅ?」
河岸は変わり、二人は居酒屋の並びにあった小さなスナックのカウンターに座っていた。
次に行こうと誘ったのは信だった。
信はもう随分呑んでいた。居酒屋で生ビールを四杯、ここに来てからジントニックを既に三杯空けている。
「うーん……GHQの指令なり命令はサンフランシスコ講和条約の発効にともなって失効してるんですけどね」
北野はやんわり反論した。北野の方は呑んでいるのか呑んでいないのか、少なくとも顔や態度に変化はなかった。
「でも、その命令で北方領土は一時的にでも日本の統治から外れるんでしょ? そこにソ連が入ってきた。……なんて言ってたかなぁ、せんせん……せんせん……」
「〝無主地先占〟ですか?」
「そう、それ! 誰の物でもない土地に先に入った国がその国の領土に出来るってやつ。そんな、ソ連に火事場泥棒みたいな事をさせる原因を作ったアメリカがいちばん悪い!」
うーん、と腕組みをして北野はしばし沈黙した。
「これは無主地先占の事例には当てはまらないと思いますよ? 火事場泥棒は否定しませんが」
ややあって北野が応える。信はうんうんと頷いた。
「ですよねぇ、やっぱり。先に入ったのは日本人ですもの。なに言ってんだか先輩」
「でもよく勉強してますよ。感心するなぁ」
「いやぁ……」
照れながら信はグラスに入ったジントニックを空けた。北野が褒めたのは、信がいうところの〝先輩〟なのだが。
信はジントニックのおかわりを注文した。
「……でもお強いですね」
「そんな事ないですよぉ、青年団なら普通です」
とは言え、かなり酔っている事は信も自覚していた。
「その、たびたび出てくる先輩って、桜井さんの前に推進委員をされてた方ですよね? 若い方ですか?」
北野が訊く。
「私の六コ上です」
「もしかして、憧れの存在だとか?」
「……ッ! 冗談ッ!」
信は思わず口にしていたジントニックを吹き出しそうになった。
「あの人は女性に対して差別はしませんけど、区別もしないんです。だから未だに独身なんですよ!」
「はぁ……」
北野が曖昧に相槌を打った。
「あの人、青年団の先輩でもあるんですけどね、いつだったか、東京であるリーダー研修に参加するから空港で待ち合わせしようって事だったんです。でも私、その日大寝坊しちゃって、待ち合わせの時間になっても家で寝てたんです。
で、先輩からの電話で飛び起きて……。私の家から空港まで、車を飛ばしても三時間くらいかかるんですよ。だから参加は無理だなって思ってたら、先輩なんて言ったと思います?」
「……?」
「俺ら予定の便に乗って先行くから、今から追っかけて来い! ですって。か弱き女子に! ありえなくないですか?」
「それは……。で、どうしたんですか?」
「勿論追っかけましたよ。東京まで飛行機のチケット取り直して」
「追っかけたんだ!」
「まぁ、寝坊したこっちが悪いですから反論できなかったってのあるんですけどね」
というよりも、信にしてみれば「追いかけて来い」と言われて「無理」と言いたくなかったのだ。別に先輩を敵視している訳ではないのだが、そう言う事で負けた気がするからだ。
信は、何事に於いても負けるのが嫌いだった。
「それにしても……」
信はグラスを弄びながら独りごつように言った。「北方領土は本当に還ってくるのかなぁ」
北野は無言だった。
「私、推進委員になって時々思うんです。こんな事やっても無駄じゃないのかなって」
「言いにくいことなんですが……」
「……?」
「これはあくまでも私個人の見解なんですが、我が国が主張している『北方領土は日本固有の領土』という主張は世界では通らないと思うんです」
「えっ?」
信は目を見張った。
「例えば、ロシアにカリーニングラード州というところがあります。ここはもともとケーニヒスベルクと呼ばれたドイツの領土で、第二次世界大戦後に当時のソビエト連邦に併合されたんです」
「……」
「日魯通好条約を〝日本固有の領土〟の根拠とするのなら、その発効からせいぜい一六〇年余り。一方、ケーニヒスベルクの成立は一三世紀。実に七〇〇年以上もの間ドイツの領土だったんです。にも関わらずドイツはこの地を『我が国固有の領土だから還せ』とロシアには言っていません。それは『第二次世界大戦の結果だ』と受け容れています」
「そ……それはそういう降伏条件をドイツが受け容れたからでしょ? 北方領土とは事情が違うんじゃ……」
「さらに、我が国はロシアが北方領土を〝不法占拠〟していると主張していますが、では具体的にどの法律ないし条約のどの条文に違反しているのか、誰も説明できないのが現状なんです」
「それじゃ、私や先輩達が今までやってきたことは一体……!」
「しかしながら」
信の言葉を遮るように北野は語気を強めて言った。
「私たちは日本の、日本国民の利益のために働いています。国民が望んでいない事を仕事としてやる訳にはいきません」
「……はい」
北野の改まった口調に、信は思わず背筋を伸ばした。
「国益という観点からいうと、北方領土近海の水産資源や海底の地下資源の確保は我が国にとって大きなメリットです。さらに、我が国の安全保障という観点からもロシアとは一日も早く平和条約を締結しなければならない」
「……」
「そしてご承知の通り、一九九三年の東京宣言でうたっているとおり、四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するために私たちはロシアと交渉を行っています。
しかし、日本国民がはっきりと『島を還せ』と声をあげている以上、私たちの立場としてはそれを無視は出来ない。国民の声を無視して我々が返還交渉なんて出来ないですよ」
信は無言で頷いた。北野はさらに続ける。
「昨今、国内では北方領土の返還に否定的な声がある事も承知しています。領土問題は棚上げにして、早急にロシアと平和条約を締結した方が我が国の国益に叶うのではないか、と。その声の方が大きくなるようなら、政府としても方針の転換を迫られ、我々もその方向で動く事になる」
「そんな……」
「そう。それでいいのか? という話なんです。声を上げるのを止めたらそこでお終いです」
「……難しいなぁ」
反論なり同意なり、色々と言いたいこともあったが、信はそれ以上言葉を継ぐことが出来なかった。
信が地元へ帰る新幹線の車内で頭を抱えていたのは、なにも昨夜の酒が残っていたせいばかりではなかった。
今朝スマートフォンに届いた、北野からのメールを信は読み返していた。
昨日はお疲れ様でした。そしてありがとうございました。
お体の調子はいかがですか?
推進委員としてこれから益々のご活躍をお祈りしています。
なお、八月の交流事業には私も参加の申請をしてみます。
八月に根室でお目にかかれることを楽しみにしています。
この、〝八月の交流事業〟ってのはどう考えても〝あれ〟の事よねぇ……。
私、参加するなんて言ったかなぁ……。
信は溜息混じりにつぶやいた。
実は信には、昨夜二件目のスナックを出たあたりからの記憶が全くなかった。いつ北野とメールアドレスを交換したかという事すら思い出せない。勿論どうやって宿泊先のホテルに帰ったのかという事も。
幸い、北野に妙ないたずらをされた形跡はなかったが、財布の中身を見て愕然とした。昨夜はおそらく、少なくとも覚えている以外にももう一軒どこかの店に入ったようだ。それに付き合った北野も北野だが。
調子に乗りすぎた……。
信は、これまで幾度となくした後悔を東京でする羽目になった。
〝八月の事業〟とは、毎年北対協が実施している北方四島交流事業、通称〝ビザ無し交流〟と呼ばれているものだ。
戦後北方領土をソビエトが実効支配すると、まず駐留しているソビエト軍兵士の家族が島に渡ってきた。一時期、彼らは元からいた四島併せて一万七千二百九十一人の島民――もちろん日本人の――と共生していたが、ソビエト軍兵士による略奪や暴行、成人男女を連行しての強制労働から逃れるために島民の約半数が島を脱出、残った島民も一九四八年、スターリンの命令で強制的に内地に送還させれられ、北方四島はこれ以降ソビエト人のみ居住する島となった。
その後、ソビエトは実効支配をより強固なものにするべく、移住者には賃金を余所より多く支払う、あるいは年金の受給年齢を引き下げる等の優遇政策を使って国民を四島に移住させた。とりわけソビエト政権下で〝農奴〟と呼べるほどの搾取と弾圧を受けていたウクライナの農民が、新天地を求めて敢えてこの極東の島へと渡るケースが多かった。
こうして歯舞群島を除く三島には現在、およそ一万七千人ほどのロシア人が居住している。
そんな、北方領土に住むロシア人と日本人との交流事業が北方四島交流事業だ。日本人が北方領土に渡り、また逆に北方領土に住むロシア人が日本を訪れ、相互交流を行う。
この事業は一九九一年にソビエトのミハエル・ゴルバチョフ大統領と日本の海部俊樹首相が調印した日ソ共同声明が発端となって実施されるようになった。
声明には「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定」と、北方四島の名前を挙げて日本とソビエトの間に領土問題が存在する事が明記されている。これまでのソビエトの「日本とソビエトの間に領土問題は存在しない」とする主張が修正された画期的なものなのだが、この声明の中で「日本国の住民と上記の諸島(北方領土)の住民との間の交流の拡大、日本国民によるこれらの諸島訪問の簡素化された無査証の枠組みの設定」という一文がある。
一般の海外渡航と同じ要領でソビエトの入国ビザを申請してそれが受理されれば、日本人が北方領土に渡ることは可能だ。しかしそれでは日本がソビエトの北方領土における主権を認め、「北方領土は日本固有の領土」という日本の主張に反することになる。これまで日本政府は、どうして〝国内の移動〟にパスポートやビザが要るのか、という立場にたって、ソビエトのビザで北方領土に渡ることを国民に対して自粛を要請していた。
この声明を受けて同年一〇月、両国外相の往復書簡により、日本国民と北方領土在住ソビエト人との間で、パスポートやビザを要さず政府が発行する身分証明書によって相互渡航を行うことなどの枠組みが作られた。
この事業が〝ビザ無し交流〟と呼ばれている所以だ。
しかしながら実のところ、信はこの北方四島交流事業には疑問を持っていた。
この事業に参加する者の条件は内閣府及び外務省告示によって規定されている。
一、北方領土に居住していた者、その子及び孫並びにそれらの者の配偶者。
二、北方領土返還要求運動関係者。具体的には北方領土問題対策協会の都道府県推進委員、北方領土復帰期成同盟を含む都道府県民会議の構成団体に所属する者で、当該都道府県民会議から推薦された者。
三、北方領土返還要求運動連絡協議会の構成団体に所属する者で、同協議会から推薦された者。
四、国会議員及び地方公共団体の議会議員。
五、報道関係者。
六、訪問の目的に資する活動を行う、学術、文化、社会等の各分野の専門家。
七、その他、実施団体の役職員、内閣府及び外務省職員、医師や通訳など内閣総理大臣が適当と認めた者。
信が参加する場合、条件の「二」に該当する。
北方領土に以前居住していた者やその子や孫が行く分は問題ない。むしろ、そういう人たちが島に残された墓に墓参りをする北方墓参という制度が別にあるにしても、故郷を追われた彼らが〝里帰り〟できる機会を無くすわけにはいかない。
しかし、運動関係者がビザ無し交流に参加するのはどういう意味があるのだろう?
ビザ無し交流の目的は、北方領土現地での体験や見聞を参加者それぞれの地元で様々な人に伝えて返還要求運動の啓発に活用する事だ。そうする事によって一人でも多くの人にこの問題に関心を持ってもらう。それは解る。
でも、これまで四半世紀にわたり継続されてきた事業なのに、それで具体的な成果があったのか?
参加にはそれぞれ住んでいるところから北方領土へ向かう船が出る根室に行くまでの交通費や宿泊費を含めて、個人負担は原則必要無い。つまり税金によってこの事業は運営されている。
はっきり言ってこれは税金の無駄遣いではないのか? 事業開始当時はともかく、ビザ無し交流は今やただの観光旅行になってはいないか?
……という趣旨の発言を、信は昨日の推進委員全国会議でしたばかりだった。そういう発言をした人間が、どの面下げてその年のビザ無し交流に参加できるというのか?
また、信がビザ無し交流に参加するためにはもう一つクリアしなければいけない問題があった。
昨日の推進委員全国会議で示された日程案によると、この事業は四日間の日程で行われる。つまり、信の地元から島へ渡る船が出る北海道根室市までの行き帰りの行程を含めて、およそ一週間近く会社を休まなければならない。
多くの推進委員は推進委員の職のみで生計を立てている訳ではなく、別に〝本職〟を持っている。北対協から毎年わずかながらの活動助成金が交付されているものの、推進委員はいわばボランティアに近い形で活動している。
信の本職は建設会社社員、いわゆる〝現場監督〟だ。
週休二日が当たり前のご時世で、土曜日まで仕事があるのはこの業界くらいではないかと思うくらい、建設業界というところは休みが取りにくい。何とか有給休暇を取って参加した今回の会議だって、本来ならせっかく上京しているのだから、会議の翌日は渋谷や原宿などに遊びに行きたいところを、地元に朝イチでとんぼ返りして午後から仕事というスケジュールだ。
果たして一週間も休みが取れるだろうか? あの会社では無理だ。絶対、無理だ、と信は思う。
しかし――。
仕事が忙しいので参加できなくなりました。北野さんゴメンなさい……と、北野に詫びを入れるのは簡単だ。ただ、北野に、ああ、酔っ払って適当なことを言ったんだな、と思われるのは面白くなかった。
そして、自身の北対協推進委員という立場を考えた時、自分の考えがこうだから私を含めて我が県からビザ無し交流には元島民以外は参加しません、というのも無理がある。それは推進委員としての責務放棄に等しい。
あの人ならこう言うだろうな……。
ふと、信は前任者の先輩のことを思い浮かべた。
だいたい行ったこともないくせに何が「必要無い」だ? いつもそうだ。口じゃ偉そうなことを言うくせにやってることが伴わない。
具体的な成果が上がってないって言うんなら、まずお前が行って成果を上げろよ――。
……どっちが偉そうなのよ。
勝手な想像から勝手な怒りが湧き、信の胆は決まった。
信の務める磐若建設はこの地域では中堅の建設会社だ。郊外にある四階建ての社屋の一室は、午後七時を回っても煌々と上がりが点いていた。
工務部のオフィスには信を含め六人の社員が残業をしていた。
自分の仕事が一区切りついたところで、信は自分の席を立ち工務部長の木村のところへ向かった。
「部長、よろしいでしょうか?」
木村はパソコンのディスプレイから視線を外し、無言で信の方に向いた。
「あの……八月の下旬ごろに、一週間くらいお休みをいただきたいんですが」
「八月?」
信の問いかけに木村は、休みの長さではなく時期に反応し大きな声をあげた。その声に社員が一斉に振り向く。
「またえらい先の話だな。その頃の仕事の段取りはどうなっている?」
「今やってる現場は、工程だと外構工事をやっている頃です」
「ふぅん……。山さん、聞いてた?」
木村は信とコンビを組んで現場を担当している山下に声をかけた。
山下は五〇代のベテランで、信の入社以来一緒に仕事をすることが多く、いわば信の仕事上の師匠といってもよかった。
信はその日の昼休みに山下に休暇の件を打診していた。しかしさんざん嫌みを言われた挙げ句、それは部長に聞かないと何とも言えないと、その時はお茶を濁されていた。
山下は協力業者の見積書に目を落としたまま応えた。
「ええ、こんな女別にいなくても問題ありませんよ」
何人かの社員から失笑が漏れた。
こんな女呼ばわりさえて面白いはずもなかったが、山下の口の悪さは今に始まった事ではない。それより、山下から事実上のOKサインが出たことにひとまず信は安堵した。
「まぁ、山さんがそう言うんなら構わんよ。明日にでも総務に有給の届け出、出しときな」
「ありがとうございます!」
信は大きく体を折って木村に頭を下げた。
「ただ……」木村は続けた。「八月なんて先の話だから、どうなるか分からんけどなぁ……」
もし仕事が入ったらその時は諦めてくれよと、木村は言外ににじませた。
「はい……」
信はとりあえずそう応えるしかなかった。
木村はさらに信に訊いた。
「でも何だって一週間も? 出産か?」
「ちっ……違います!」
「誰の子だよ!」
これに同僚の森川が爆笑した。
「森川さん、そこ、笑うところじゃないから」
信は森川をきっと睨むと、森川は目が笑ったまま首を竦めた。
「……実は、色丹島に行ってみようと思って」
信は木村の方に向き直り応えた。
「シコタン島……? バリ島とかあの辺か?」
「いえ、北方領土の色丹島です」
「ああ、色丹島ね。……いや、北方領土ってそんな簡単に行けるの?」
木村が訝しげに訊いてきた。
信はビザ無し交流の説明を木村にした。いつの間にか、信の説明にオフィスにいる全員が手を止め聞き入っていた。
「……なるほど。いや、大したもんだ。その、県に一人しかいない推進委員ってのをやってるんだ」
感心したように木村が頷く。
「俺も町内会で役員やってるから解る。いや、仕事に差し障りなければそういう社会活動は大いにやればいいと思うよ」
「差し障りますよ。一週間も休まれちゃ」
山下が口を挟み、またオフィスに失笑が漏れた。
何はともあれ、とりあえず会社や同僚の理解は得られたようだ。信は安堵した。
「でもまこッちゃん、北方領土なんか行ってどうするのさ?」
そう信に訊いてきたのは森川だった。
「俺、そんなのにあんまり関心無いけど、まこッちゃんが行ったところで北方領土が返ってくる訳じゃなし……」
「森川さん」
信は森川を睨みつつ、歩み寄って言った。
「推進委員の仕事は北方領土を返して貰う事じゃありません。それは外務省や政治家の仕事です」
「……はい」
「私はこの目で実際に北方領土を見て、そしていろんなところでその話をして、多くの人たちに返還運動に関心を持ってもらうと思ってます。帰ったら森川さんにも向こうでのお話をさせて頂きますので」
「ああ、そうすか。頑張って下さい」
森川はそう応じたが、それは完全な生返事だった。
分かってはいたが、同僚に推進委員の仕事まで理解してもらうまでには至らなかったようだ。