エロについて
「エロスを書かなきゃいけなくなったんだ」
と真田はスタープリックス二階で打ち明けた。
「といっても下種な官能小説じゃない。18金すれすれでエロスを追及しつつ、人間学的なテーマを内包するという非常に高度かつ文学的な企画なんだ」
私としては「へえ、そうなの」と返しておくしかなかった。内心では今夜の夕食のおかずをどうしようかと考えている。夜のおかずではないので、あしからず。
私の微温度の反応を気にする風もなく、真田は一大決心でもするような形相で、一つ大きく息をのみ、恥らうように顔を斜め下方にそらして、何事かをぶつぶつと呟きはじめた。
「僕の作品の美を理解しない君にだから告白できるんだが……僕は、僕は実はエロスが苦手なんだ。というのも、もう何度も書いては、書き直し、書き直しては破り捨て……いやデリートしているんだが一向に満足できるものが仕上がらないんだ。純文学を志向するものとして、エロスが書けないなんて物書き仲間には相談できなくて……」
ここで一つ但し書きをつけておくと、真田は別に小説家ではない。単に趣味で文章を書き、その駄文をネットで世界に発信して恥じないアマチュア物書きである。
活動の場はオンライン、物書き仲間もオンライン、ちなみに彼のファースト・ライフもオンライン。
真田自身は文筆業に縁がない、どころか社会人でもなければ大学生でもない、現実逃避気味の浪人生である。彼と同い年の私が今、大学二年生。
昨日電話で『相談事があるんだ』と打ち明けられ、浪人生活二年ようやく己の人生と真剣に向き合う気になったのかと思ってボランティア精神から会ってやってみれば、『エロ小説を書かなきゃいけないんだ』と来たもんだ。
まず間違いなく、彼の両親は泣いている。でなけば当の昔に見放したか。
「それで? 真田君がエロい小説を書けない事と、私と一体なんの関係が?」
「エロじゃない。エロスだ」
と真田は憮然とした顔で訂正し、強調した。
「文学的なんだ」
そこで額の汗をぬぐって、ダブル・トール・ラテにちびりと舐めると、真田は視線を泳がせた。
「気付いたんだ。僕がエロスを書けないのは、僕自身の私生活が割とそういった方面をおろそかにしてきたからじゃないかって。つまり知らないものは、書けない。無論、小説家を志すものならば、想像やリサーチで経験不足を補うという技術は必修だが、そういった応用技術を適用できるほどには僕のエロス値は発達していない。つまりは、そういう事なんだと思う」
「童貞?」
色々と突っ込みどころは満載だったが、とりあえずそう聞くことにした。
真田はしばらくキョトンとしていたが、やがてシナプスの回路がめぐったのか、遅ればせら顔を赤らめた。怒りか羞恥か、赤面の理由は私には見当もつかない。
「君は何か勘違いしているようだが、別に僕は未経験者という訳ではない。知的好奇心と年頃の男としての興味、また友人や機会などに恵まれて性風俗店に行った事もある。だからといって素人童貞というわけでもない。こう見えて素人の女性とも性交渉を持ったことがある。ただエロスを追及できるほど、深い関係であったかと聞かれれば答えは否だ。
普通に言って、高校生同士のカップルといえば未経験者あるいは初心者同士の組み合わせとなる。そういう間柄では男側にしてみれば失敗しない事が第一義だ。スムーズに挿入までこぎつけられれば失敗ではないわけで、性交渉での快楽を追求する余裕はない。そしてそんな生半な経験ではエロスに対する考察は深められない」
『性交渉』という単語を耳ざとく拾った隣の席の中年女性の二人組が、私達を向く。
「だから私に何をしろと?」
「何、僕よりはまだ君のほうが経験豊富だと思ってね。僕の経験の浅さを君の経験によって補完し、君の文学的素養の欠落を僕の待望の新作によって補うという、お互いにとって実りある相互補完の関係を築かないかと提案しているんだ。といってもベッドの上で実地のレクチャーをしてくれと言っている訳じゃないんだ。はっきり言って君とそういう関係になっている自分は想像しづらいし、したくないんでね」
私はさっきまですすっていた抹茶フラッペなんたらに視線を落とす。
これをこのまま相手の顔にぶっ掛けて、店を出て行く事も勿論できる。
「だから君の性体験を聞かせてほしい。とりあえず君が今まで付き合ってきた異性、あるいは行きずりの関係の男性との間で、性的興奮を覚えたシチュエーションを包み隠さず細部まで語って聞かせて欲しい。ああもちろん、女性相手の経験でも構わないよ」
こういう人間に真っ向から切り替えしても虚しいだけだと、私は長い忍耐のすえ学んだ。
「つまりはその企画の小説作りに、私に協力して欲しいという事ね。エロとは何かの考察を深めるために」
「簡潔にまとめるとそうだな。だがエロではなくエロスだ」
「じゃさ真田君にとってのエロって何よ。人の数だけ萌えの種類はあるだろうし、自分が萌えなきゃ書けるもんも書けないでしょう」
「エロではなくエロスだが」
真田には粘着質で諦めの悪いところがある。きっとベッドの上でもそうなのだろう。
「僕にとってのエロスとは、挿入以外の行為にあると思う。別に挿入は挿入で非常に結構なのだが、それが実行に移された状況のほうがより重要であると考える」
「シチュエーション至上主義? 本番なしイメクラ?」
「完璧なものは美しくない。文学ではない。未完成や奇形のほうが人間の心理に強く訴えかけるものだ。性行為においても同じで、通常のカップルが挿入、射精と共に性行為が完成を見たとき、それはもはや健全すぎてなんらエロスを奮起させるものではない」
「つまり、X%[&*とかは萌える?」
伏字の内容は適当に想像されたし。
「ああ。でも&^^^%%の方がいいな。ある程度の強制性があるほうが文学に昇華しやすい」
真田にとっての文学とは、萌えそのものなのかも知れない。強制性……つまり緊縛プレイや調教といった感じの方向性か。
「ふぅん。相手の女の子はどんなのがいいの? 胸フェチ? それとも、」
「足」
即答だった。
「髪は? ロング? ショート?」
「どちらでもいい」
少し意外な答えだ。
「長髪はこれから切られるのかという期待感があるし、短髪には切られてしまったという哀愁がある」
どうやら真田の萌えは髪の長短ではなく、切るという行為の方にあるらしい。セミロングはどうなのか聞いてみたいところだ。
「性格は? ツンデレ? それとも純文学嗜好だから……」
そう、指向ではなく嗜好だ。
「大和撫子とか数奇な運命に翻弄される人妻とか?」
愛欲の、とか肉欲の、とかをつけたらそのまま成人向けビデオのようだ。
「ある文人はこう言っている。一番手っ取り早く『話』として成り立つ物語の筋は、幸せな人間を不幸にするか、不幸な人間を幸せにするかの二通りだと。これをエロスに当てはめてみると、性を知らない人間が性に目覚めていく過程を書くか、すでに知っている人間がそれを放棄する過程を書くかという事になる。僕は初心者だからそのどちらかにするのが妥当ではないだろうか?」
ないだろうか、と聞かれても聞きたいのはこっちのほうだ。
「目覚めていく過程はともかく、放棄する過程って何よ。去勢? 史記を書いた司馬遷とか?」
「加齢による交渉不能という線もある。うん、EDというのも面白いかもしれないな。残念ながら僕はそのような症状をわずらった事がないので、上手く書けるかどうか少し不安だが」
着想を得た真田は一人うなずいている。EDを未経験なのが残念とは純文学は色々と大変らしい。
「しかし交渉不能という線は興味深い。男女の性差がそこに端的にあらわされているとは思わないかい? 男は性的興奮状態、まぁそうでなくとも生理的に反応している状態でなければ性交渉に従事するのが物理的に不可能であるのに対して、女性の場合、基本的に性交渉の可否は心理・肉体の状態とは無関係だ。となると女性の性的興奮や絶頂の有無は、性行為においては副次的あるいは派生的な位置を占めるのではないだろうか?」
隣の中年女性の二人組みが私達を見ながら、今度はひそひそ声でささやきはじめた。
「むろん女性の快楽、その結果として生じる膣分泌液の有無は、子宮へ向かう精子の活動を助け受精の確率を左右する。だが避妊具が性交渉の基本装備になった現代においては、むしろこれは当事者達にとって望ましくない事態である場合のほうが多い。つまり現代社会では女性が性的興奮を覚えないような性交渉の形態が望ましい」
真田を女性人権団体に突き出してやったら面白いものが見れそうだ。
「それを言うなら、受精・妊娠・出産のシークエンスを目的としないセックス全般がエロの源なんじゃないの?」
真田は顔を赤らめて、視線を落とす。
「女性がセックスなどという単語を公共の場でむやみやたらに発声するものではないよ。恥ずかしいじゃないか。見たまえ、隣の席の妙齢を当に過ぎたご婦人がたが微妙な視線をくれているじゃないか。それとエロではなくエロスだよ」
やはり蓋をはずしてアイス・ドリンクをぶっかけてやった方がいいかもしれない。というより性交渉という単語をはきはきと口にするのはどうなのか。
ちなみに真田は興奮すると……あるいは興奮しなくとも口調が妙に文語調になる癖がある。ベッドでこれをやられた相手は可哀想だろうなと私は顔も知らない女性達に同情した。
「だがまあ君の言う事にも一理ある。エロスとはやはり生殖以外を目的とした行為のことを指すのだろう。風俗などはその好例だね。顔■とか素×とか、風俗のテクニックは生殖から逆行する事を至上目的としているかにも見え、それゆえに多分にエロス的だ。だがその精神性はやはり二次元にこそ体現されていると僕は思う。なぜなら現代人は漫画絵やアニメ動画で性的興奮を覚えることが出来る。具体的な映像や生身の女性ではなく、抽象化されたシンボルに発情することが。つまり、」
一段と真田の声が高くなった。隣の中年女性二人組みの様子はもう窺うまい。
「突き詰めてみると抽象化のレベルこそが、エロスの度合いという事ではないだろうか? 三次元よりも二次元。リアルな映像よりも抽象的なシンボル」
だんだんと真田が何処へ向かっているのか分かる気がした。
「そしてその追求の果てにあるのが文章という媒体だ。エロス=抽象化の追求を極めた先には文字がある。文章というそれ自体はエロス的でも何でもないシンボルの連なりを言語野で処理して、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の五感の官能に代替させる行為。これこそがエロスの真骨頂だ」
「それはつまり脳内妄想のおかず……」
本。
「ありがとうっ!」
感極まった真田は椅子から身を乗り出してダブル・トール・ラテをゴミ箱に放り投げると、代わりに私の手を握った。
「君と話したおかげで方向性が見えてきたよ。僕のやってる事に間違いはなかった。文章これすなわちエロス。エロスの真髄は文字にこそあったんだ」
興奮のあまりいささか論点がずれ、しかも飛躍しているようだ。いつものことだが。
「ああ、こうしちゃいられない」
真田を慌ただしくデイパックをひっ掴んだ。
「インスピレーションや構想が消えないうちにキーをたたかなきゃいけないから、君に付き合ってる場合じゃない。悪いね、君の性体験についてはまた後日にでも聞いてあげるから」
ガタガタと椅子の足を鳴らして、真田は疾風のごとく去っていった。私は空になった抹茶フラップうんたらの入っていたプラスチックを握りつぶし、中年女性二人組みの最後の白眼視を一人で浴びる羽目となった。
その後真田がどんなエロ小説を書いたか私は知らないし、知りたくもない。その日スタープリックスの二階で私が知ったのは、真田が足フェチだということ、X%[&*をされるよりも、&^^^%%をさせる方が好きだという事、EDではないということ、童貞やセックスという単語に顔を赤らめるという事……
今ロングの髪を切った方がいいのか、切るとしたら真田の前で切ったほうがいいのか。考えながら私は伸びた前髪をいじった。