外套の考察と入り口のないダンジョン
頭を整理して、優先順位をつけていきたい。
まず、塔に登ること。これの優先順位は、低い。知的好奇心を満たすのは、後でいい。
今、おれに差し迫っている状況。それは、自分が水も食料も持たず、安全な寝床もない。つまりは、明日生きていられるかもわからない、危機的な状況に陥っているということ。
高所からの落下という、今、自分が死ぬかもしれない状況というのは、去った。
……去ったよな?上から追加の瓦礫が落ちてきたりしないよな?
一応、ちょっと塔から距離を置いておく。
ひとつ息をついて、考える。
間近に差し迫った危機が去ったならば、まず考えるべきは明日についてのことだ。明日を生き抜くためにおれのするべき行動というのはなんだろうか?それはまず水を確保することだ。水こそが、明日を生き抜くための生命線だ。
水を得るためには、水場を探すという方法がある。
水を作り出すという方法があるが、それは二の次でいい。なぜならば、朝露を集めたり、蒸留したり、器やらなにやらの道具をかき集めて必死こいて水を作った後、すぐそばで川を見つけたりしたら、目も当てられないからだ。
水場を探すべき場所として、まず、この野外がある。この、塔を中心として広がる平地とその周りに生える広葉樹の森。ここに生えている広葉樹の葉は、まだ青々としている。この世界の木が、元の世界と同じかどうかはわからないが、もし同じならば、それなりに降雨があるはずであり、小川か何かがあってもおかしくはない。上空を覆っていた雲の海からみても、降雨があるのは間違いないはずだ。
そして、もうひとつ、水場のある可能性のある場所がある。
それは、あの塔の中。
塔の中で見かけた、アリや植物。彼らにも水が必要なはずだ。それもあれだけの大きさや、数を維持するだけの水が。
だが一方で、水がない場合もある。彼らが、それなしに生命を維持できる機構を持っている場合。
だがその可能性は、この周りに生える木々に関しても言えることだ。そしておれ自身にも。
この木々が、水を必要としないものなのかもしれないし、おれ自身も、もはや水を必要としない存在になってしまっているかもしれない。
その場合、今おれがこうやって水を得ようと考えていること自体が、無意味なわけだが。
だがしかし、なんだか水を飲みたいと思うこの渇きは、本当なわけで、とりあえずその感覚を信じてやっていくしかない。
それでだ。塔にいた巨大なアリや植物、それらが水を基に活動しているなら、彼らの行動範囲には、水場があるはずだ。そして当然、水場に行けば、それらの生き物がいるはずだ。それは、野外の水場においても同じこと。外には外の野生動物がいるはずだ。
ゆえに、生物がいる付近を探索すれば、水場に辿り着くはずだ。あとは、生物がいない隙をみて、水を手に入れればいい。
そして、生物の存在を探り当てるのに、恰好の方法がある。それは、この外套を通して、世界を見ること。外套を被っている時、見える光。あれに注意すれば、少なくとも、あの巨大アリのような存在の居場所は、わかるはずだ。あとは無生物の、扉のようなものが光っている場合もあるわけだけだが、それは、動きの有無と、形を見て判断していけばいい。
問題は、この外套を被ることにデメリットがあるのか、ということだ。
外套の着脱に、体の負担は感じない。被っている間、息苦しくなったり疲労してくるということもない。色のついた眼鏡をかけるように、目に見える世界の変化は、スムースに違和感なく行われる。
だが、外套を被ることによってもたらされた変化は視覚的な部分だけではない。
ひとつは、皮膚感覚の違い、体を包む風や空気感の違い。塔から落下し始めた時、おれは体に吹きつけられる風を感じていた。だが、外套に包まれ、視界の色が変わった時、体を吹きつける風は、なくなった。同時に、耳に轟々と響いていた風切り音も、塔が崩れていく音も、分厚い壁に阻まれたように、遠くなった。
自分が、現実の世界から、隔てられているという感覚があった。ひりつくような現実の世界から、薄皮一枚隔てた世界へ。嵐の吹き荒れる屋外から、屋内へ。
外套の下から出た時、あたりはまだ、砂埃が立ち込めていた。それが、外套の中と外では、違う空気が流れているという明確な証。
外套の中に居続けることに、明確な危険はあるのか?
短期的には、問題はないように思える。注意すべきは、地の底。タールのような液体の中に落ちた時、この外套は明確な意思で持っておれをそこから引き上げた。それは偶然か?おれの勘違いか?風船が水に浮くように素材の性質の違いによって浮き上がっただけなのか?もしそうだとしても、それだけではないはずだ。この外套は、なんらかの意思のようなものを持っている。そしてその外套は、その意思でもって塔から落ちていくおれを助けた。この外套が、おれが地の底に行くのを回避させようとしているなら、ひとまず、それに従わない理由はない。それに、死んだ魂が行き着く場所が、どういうところなのか、身をもって試すには危険すぎる。
問題は、長期的に外套の中に居続けた場合に問題があるのか、ということ。何も問題はないのか、一酸化炭素の中の眠りのように、無味無臭の毒が自分を蝕んでいくことになるのか。今のおれに判断はつかない。それは、そういうことに詳しい誰かに聞くか、徐々に外套の中に居る時間を増やしていくことで、自分で試していくしかない。
要は、今おれに突きつけられているのは、どちらのリスクをとるのか、ということだ。外套は使わずに済ますのか。あるいは、可能な範囲で、この外套を利用していくのか。
それは大した選択じゃない。こんなことは、本来迷うべき必要すらない。ただおれは、自分自身を納得させるために、こんな風に考えてみることが必要だった。
この外套とは、たぶんこの先、長い付き合いになる。立ち止まっている時間は終わりにしなければならない。
さあ、行動開始だ。
外套を被り、壁に触れながら、塔の周りを回っていく。
上空から落下していた時、おれは塔を囲む輪をかすめた。はっきりとそう断言できるかといえば、自信がないが、かすめたと思う。その時、自分の体に衝撃はなかった。
おそらく、外套を被っている間、おれは壁をすり抜けることができる。
今、壁に触れる手は、壁の輪郭を越えて内部に入り込んでいる。
そして、この透過する線描の世界で、わかる。この塔は、入り口を持っていない。ドアのような開口部を持っていない。少なくとも、地面のそばには、ドアはない。
実に、おれにおあつらえ向きのダンジョンだ。この塔は初めから、壁を抜ける力を持つ者に対してしか、開かれていない。
どうする?
うまく出来すぎている。
この塔は、外套を持つ者が、いざなわれるようにできている。
いつもの自分なら、考えなしに突っ込んでいたと思う。
だが、おれには頼るべき指針がある。
まず見るべきは、近くに生物がいるのか、だ。
見上げても、見える範囲に生物の光はない。
無人のダンジョン。探索には、うってつけだろう。
だがおれが求める水場がある可能性は、低い。いまここでダンジョンに突っ込めば、延々とあてのないアイテム探索を繰り返すはめになる。
それに、このダンジョンには、正体不明のトラップが多すぎる。今、おれが生きていられるのは、偶然に過ぎないということを、意識するべきだ。
決めた。ダンジョンへの侵入は、なしだ。
森を後景に、野外を眺める。
ぐるりと見渡した木々の一角。その枝先の一本に光がある。
――鳥だ。
ゆっくりと、近づいていく。
鳥は、枝の上で頻繁に動き回りながら、何かをついばんでいる。
こちらには、まだ気づいていない。
……今、おれはあちら側の世界からは、どう見えているんだろうか?
鳥の反応を見るに、普段どおりには、見えてなさそうだ。半透明か、迷彩か、それともまるっきり透明か。なにかしら見えにくくはなっているはずだ。
もっと近づいてみれば、わかるはずだ。
ふと思い出すのは、アリのこと。
瓦礫の上で、死にかけていたアリは、おれを見ていただろうか?
……わからない。
木に触れてみる。手は、まるっきり木を透過する。
手をかけることはできない。
……これ、どうすんだ。
登れんのじゃないか?おれは。
足をかけることは……あ、できた。
足裏は、壁抜けの対象外なのか?これ、塔から落ちた時、足から地面に落ちてたら、やばかったんじゃないか?粉砕骨折だろ。
スカートを持ち上げるようにして、外套を持ち上げてみる。これって、どうなってるんだ?足先だけ向こう側の現実にいるんだろうか?靴だけがひとりでにパタパタしてるのか?怖っ!
あっ、鳥が反応して、別の枝に移った。今のは、見られたのか?
別の木に近づいて、足をかけてみる。でも足だけじゃどうにもならんな。
鳥の死角になるように、手を外套から出し、鳥がいる枝とは反対側の枝を掴む。
これも、ホラーなんだろうな。腕だけが、にゅっと虚空から出てるわけだ。
木登りなんか、久しぶりだ。
でも案外おれは、得意だったんだよ。
目の前に、小鳥が見える。野生の鳥を、こんなに近くで見たことはなかった。まるで気づいていない。
手を、伸ばしてみる。外套からは手を出さずに。
案の定、手は鳥を透過する。鳥には、なんの反応もない。くすぐったりする素振りもない。なにごともなかったかのように動き、触れた手の範囲外に逃れる。おれという存在は、そこには存在しない。
外套の下から、手を出す。
どうする?触れてみるか?
……いや、やめておこう。有毒の鳥だったら、やばいからな。
驚かせるだけに、しておこう。
おれは、鳥のすぐそばの枝を叩いた。
鳥は、驚き、飛び去っていった。
はは。
……同時に、バキリと、嫌な音がした。
あ……体重を支えていた方の枝が、折れた。
――地面に、激突する。
――おふっ!
頭が、漆黒の地面にめり込んだ。
地面の、世界が見える。地表からみるより、透明度があるな。地面に、何か埋まってる。動きはない。扉を見た時と同じように。
飛び起きる。
漆黒の地表を見渡す。さっきまで、わからなかったが、地面になにか埋まってる部分は、微妙に色がまだらだ。泥水に下からスポットライトをあてれば、こんな風に見えるか?
外套を一度脱ぎ、場所を確認する。
深い。簡単に掘り出せるような場所じゃない。
ひざまづき、外套を被りなおして、地面に頭を突っ込む。
見えた。箱だ。箱には、幅広の肩紐がついてる。肩掛けカバンだ。
こちら側から、箱を取り出せるか?
漆黒の地面の下で、指先だけ、外套の下から出す。肩紐を掴み、外套の下に、引きずり込んでいく。
重い。だが動く。苦闘の末、おれは、箱の全てを、外套の下に収めた。
箱を、地面に置き、箱とおれ自身を覆う外套を、取り払う。
これは、塔の上で見た、外套に包まれていた箱だろうか?
鍵はない。革製のベルトで、留めてあるだけだ。おれは蓋を開け、箱の中身を見た。