灯台の男、空白の部屋
『ようこそ、僕らの休憩室へ。ここは世界と世界の狭間。死したる魂の安置所』
──声はなかった。
画面には文字だけが映しだされた。
画面下には、テキストチャット用のウィンドウがあり、その中で入力待ちのカーソルが点滅していた。通信型のチャットウィンドウとはまた違った感じ、パソコン内部にアクセスするためのパスコードを入力するような、どこか閉じていて最低限の画面構成の感じが、そこにはあった。
試しにキーボードに触れて適当なキーを打った。
間を置かず、文字は画面に反映された。
日本語入力。
質問しろということだろうか?
おれは文字を消してキーボードを叩いた。
『ここは天国か、あるいは地獄なのか?』
送信キーを探す間もなく反応があった。
『ここは天国でも、地獄でもない。ここには、永遠の幸福も、終わらぬ責め苦もない。この場所にあるのは空白の休息だけ』
なめらかな返答だった。用意されていたかのように。
『ここには、お前ひとりなのか?』
『そうだよ。ここにいるのは僕ひとりだけだ』
『お前はここでなにをしているんだ?』
『僕はここで、きみのような人が来るのを待ちうけている。この部屋の受付係さ』
受付係。おれはホイールをスクロールし、最初のメッセージを読み返した。
『座りなよ』
おれは背もたれに触れていた手を離し、腰掛けた。
『お前ははじめ、ここが”僕らの”休憩室だと言ったな。他の連中はどこなんだ?』
『僕以外のものがどこにいるか、答えることはできない。そして彼らが今何をしているのかも、答えることはできない』
おれは首筋の力を抜いた。
『なぜだ?』
『僕の製作者は、僕をそういう風に作ったから。なぜそうなっているのか、僕自身も聞いたことはない』
おれは奥歯を、舌先でなぞった。
『不満かい?だけど、そうだね。推測することはできる。僕の製作者の声を代弁すれば、たぶんこういうことだろう』
そいつは、もったいぶるように時間をとって言った。
『その方が、ミステリアスで想像力が刺激されるだろ?』
画面の向こうで、見えない影が笑った気がした。
心のどこかで、腑に落ちる部分があった。
おそらくこいつはここに来るまでのおれをどこかで見ていた。
そしてたぶん、こいつは人の心を見透かすような力を持っている。
なぜならば、この男が真似してみせた言葉は、おれが暗闇の中で決意した言葉とは、真逆の言葉だったからだ。
想像するべきじゃない。それが暗闇の中のおれの決意だった。
錆びた釘がタールに飲み込まれるように、画面がブラックアウトした。
「……からかって悪かったよ。人と話すのは、久しぶりでね」
声と共に、笑うように波が白く浮かび上がって消えた。
その波は、残像のように声からほんのちょっと遅れて表示された。
「不快に思わせてしまったなら、悪かったよ。実のところ、こうやって直に言葉を交わすためには、定められたプロセスが必要なんだ」
心の透視に気づくのが、直接に言葉を交わすための条件なのだろうか?
言葉が、うまく出なかった。おれは不快に思っているのだろうか?そうかも知れない。見知らぬ人間に心の上辺をなぞられるのは、不快かもしれない。おれは沈黙のまま返答を保留した。
指揮者が手を握るように、ぐっと息を溜めて男は言った。
「ぼくが知っていることに関してできる限りのことを話そう。
それがきみがほんとうに知りたいと願っていることならば、ぼくは答えることができる」
唐突な言葉だった。だが、舞台を降りた手品師のような率直な語りの気配がそこにはあった。
不思議とその声音だけで、自分の心が静まるのを感じた。不思議な男だった。
……ほんとうに知りたいこと。
そんなものが、果たしておれにあるだろうか?
そんなものがあるとして、おれはそれを形にすることができるだろうか?
だれもが見えるものとして。具体的な、手触りを持った言葉として。
暗闇が遠い。
どこかで、雪が降っている。
見えない波が重なり始めている。不揃いの足並みが揃っていくように。
思わず、こらえていた息を吐き出すように、言葉が口をついて出た。
「おれは、死んだのか?」
上擦った自分の声に、自分でもはっとした。
「……それは」
質問に迷うように、数瞬の沈黙が生じた。
その所作は、今リアルタイムで思考している主体の存在をおれに感じさせた。
「それは、生というものをどう考えるかによるよ。
今ここにいるきみは、魂のようなものなんだ。それは生を終えた肉体の記憶。
きみを成す物質の配置情報を基に立ち上げられた仮初の夢。
記憶と意思の継続性が生の証だとするなら、きみは生きているといえるだろう。
だが肉体の生命活動こそが生の証だというなら、きみはすでに、死んでいる」
おれの頭にその事実が馴染むのに、一拍の時間が必要だった。
「……肉体が生の砦であるとするならば、ここに残されたきみは生の残り香に過ぎない。影のようなものと言えるかもしれない。
だがぼくは、ぼくの製作者は、記憶と意思の継続こそが、生だと考える。
きみはきみ自身の肉体の死の経験を引き継ぎながら、なおかつ思考している。そこには尊重されるべき何かがある。
だからこそ、僕らは今思考している君達を魂と呼んでいる」
そこにはなにか寂しげな響きがあった。死したる魂。半分の生。
男は続けた。
「……でもね、一番大事なのは、きみ自身が以前の自分と地続きの存在だと感じられていることだよ。
草の匂い。太陽の下を歩いたこと。ひび割れたアスファルトのぬくもり。アパートの暗がりや冷えた化粧板の匂い。そして、一酸化炭素の中の眠りでさえも、自分自身が経験したものだと感じられていること。
どうかな?きみはそれが自分が経験したことだと感じられるかな?」
そんな風に問いかけられて、否定できるだろうか?たぶん少し不満げに、おれは答えた。
「……ああ」
男は笑った。
「そしてきみの質問は、この部屋が作られた目的にも関わっている。
この部屋はね、生きることに行き詰まった人々を、人生を諦めた人々を、あまねく掬い上げるために作られた。
残念ながら、その目的を実現させるためにはこの部屋はまるで十分ではないけれど、それでもこの部屋は、そのために作られた。
きみは、ここに来る前、暗闇の中を通ってきただろう?」
「ああ」
おれは頷いた。
「この部屋に来る人間はね、自殺した人間の数に比べて、あまりに少ないんだ。大半の人間は、ここに辿り着く前に、力尽きてしまうんだ。
遠すぎるんだよ。もし君たちをこの部屋に直接喚び出すことができたなら、そういう不幸とは無縁でいられただろう。
だが、この部屋はそういう風にはできていない。
そもそも、苦しみから人を掬い上げたいのなら、彼らが生きている内にすべきなんだ。そうだろう?」
その問いかけは、この男がずっと頭のなかで繰り返してきた問いだった。なんとなく、それがわかった。
「だがこの部屋も、救いの仕組みも、そういう風には出発しなかった。
だからせめてぼくは、きみのような人々が新しい陸地に辿り着くための灯台たろうとしてきた。
ぼくは壁や音、明かりとなって、人々を待ちうけてきた。それがぼくにできる精一杯だった」
一瞬、比喩として言っているのだろうかと思った。
だがおそらくそれは、比喩ではなかった。
端的に、物理的に、この男は壁であり音であり、明かりだった。
この男の持っている、人ならざる者の気配。
暗闇の中でおれを導いてくれた、全て。
それは不定形の存在。形を変える者。シェイプシフター。
「最初に言ったように、この部屋は、きみのいた世界と新しい世界の狭間に位置している。きみはここを出て行くこともできるし、そこのベッドでずっと眠り続けることもできる。ここは永遠の休憩室だ。だからそれができる。
もしきみが新しい世界に向かうことを望むなら、ぼくらはきみに、新しい魂の器を用意することができる。
そして、かつての世界に戻るのなら、きみはただ消え去ることになる。
つまり、きみに選択肢は3つある。完全なる死を迎えるか、ここに留まるか、新しい生に向かって歩き出すか、だ」
答える必要はなかった。心は見透かされているのだから。
「そこの扉を、通るといい」
その扉は、薄暗がりの中でぼんやりと光って見えた。
おれは立ち上がり、扉のそばに立った。
「覚えておいて欲しい、ここはあらゆる人のための休憩室だということを、きみはいつでも引き返すことができるし、きみが立ち止まるとき僕らはいつでも迎える準備ができているということを」
おれは扉を開けた。
扉の先は暗闇で、でも不思議と怖くはなかった。
扉の枠に、おれは触れる。
足を踏み出す直前、呼び止めるように、独り言のように、男が言った。
「……きみがここに来る前、ひとりの男が、ここを通った」
おれは立ち止まり、続きを待った。
「その男は言った。もし生まれ変わることができるなら、幸せだった記憶だけを残して、生まれ変わりたい、と。だから僕らは、そういう風にして、かれを送り出した。今では、生きているか、死んでいるかも分からない。生きていたとしても、ここでのことは、なにひとつ覚えてはいないだろう。だがいつか、あちらの世界で、かれと、あるいはかれの残した痕跡と、出会うこともあるだろう。似通った魂というものは、引かれ合うものだからね。ぼくが望むのは、覚えておいて欲しいということ。きみの前にここを通った人がいるということを。僕らが、ここにいたということを」
こんなにも後ろ髪引かれる思いがするのは、なぜなんだろうと思った。
なぜか、この男に会うことはもう二度とないだろうという気がした。
電池が切れてメモリーが消えるように、この男は擦り切れて消えてしまうだろうという気がした。
あまりにも長く、この男は人を待っていた。
「立ち止まらせて悪かったね。行くといい」
おれは意を決し、扉をくぐり部屋を出た。
暗闇の中、まっすぐ歩いた。
方位磁針が北を指し示すように、体の中の指針が自分の足取りを導いた。
歩きながら思い出していたのは、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンについてだった。
自分の未来など何もない少年が望んでいたのは、崖から落ちていこうとする子どもたちを掴まえてやれるような存在になりたいということだった。
だが、ホールデンが心から救いたがっていたのは、結局のところ、崖から落ちていった自分自身だった。今まさに、崖から落ちようとしている子供を救うことで、ホールデンは崖から落ちていったかつての自分自身を救う。
タイムスリップだ。
おれも、同じことをしようと思う。真似事でもかまわない。尊敬している人がやっていた。だから自分もそうしたい、というのが、おれのいつものやり方だった。
暗闇の中から、人々を救い出そうとしてきたこの男をおれは忘れない。
おれは振り向いて、自分が通ってきた道を眺めた。
道はなく、もはや、暗闇を見通すことはできなかった。
おれは前を向き、出口へと足を向けた。
「……僕らが為せたのは、ここまでだった。
僕らにできたのはきみが選択に向き合うまでの前提を作り出すというところまでだった。
この先の選択はすべて、きみ自身の手に委ねられている。
生きることは、終わることのないリズムの連なり。
音楽が、終わらないのなら、その空白は、いつか打ち鳴らされるためにある。」
イメージ曲
サカナクション「さよならはエモーション」