狭間の回廊
万力に圧し潰される夢を見ていた。
夢の中でこれは夢なんだと気づいて、目を覚まそうと格闘していた。
何度も目を開けているはずなのに、周りを覆う暗闇が深すぎて、自分が目を開けているのか閉じているのかすらわからなかった。
まぶたがひどく重かった。
だが眠ってしまえば、また悪夢の続きを見ることになる。頭の中に残るひしゃげた体の感覚がそれを確信させた。
地面に磁石で吸い付いているように体が重かった。
だがおれは無理やり力を込めて体をひっくり返し、腕を立てて意識が覚醒に向かうのを待った。
息をつき喘ぐ自分の呼吸音の他に、ざわざわと、木擦れのような音が響いていた。
ここは、どこだろう。
少なくともおれは部屋にカーペットなんて敷いていない。
確かめるように、手を探ると壁が手に触れた。お馴染みの、工業規格品の壁紙のぬくもりが、おれをどこか安心させた。
おれは、壁に体重を預けながら立ち上がり、そのまま聞こえてくる音を聞いていた。
しばらく待ってみても、目が慣れる様子はなかった。
手の甲を目の前に持ってきてひっくり返しても、わかるのは自分が手を動かしているという肉体の感覚だけだった。
このままここにいてもどうしようもないだろう。
深呼吸をして、壁伝いに音の聞こえてくる方へ歩いた。
しばらく壁に沿って歩いていると、音の反響と壁の長さで、ここは廊下なのだろうと推測できた。
ここが廊下だとしたら、今触れてる壁の反対側に、平行して壁が続いているだろう。
ふと思い立って、反対側の壁に向かって手を伸ばした。
だがいくら手を伸ばしても、手は宙を空かすばかりで指先に触れるものは何もなかった。
もう少し先へ、手を伸ばしてみたい。
だが今、この手元の壁から指を離したら、おれはどうなるだろう?
暗闇の中、この壁伝いの手の感触を失うのは怖かった。
壁に触れている間は、まだ安全圏にいるという気がする。
だがそこから外れてしまったら?
ここが断崖の絶壁だったら?あるいは、向こう側にだだっ広い空間が広がっているだけだったら?
おれは自分を支えるただ一つの座標さえを見失ってしまうだろう。
全てはただの想像だった。だがそんな想像が、自分の足をすくませた。
想像するのは、止めるべきだ。人間は暗闇の中で想像に耽るべきじゃない。
くだらない思いつきを試すのは、やめだ。
おれは、音を立てて息を吐き、壁の感覚を頼りに歩みを進めていった。
砂を踏むようだった足取りの感覚は次第に地面を掴み、あやふやだった体の輪郭が徐々にはっきりしていくのを感じる。
いくつかの曲がり角を曲がると、行く先がぼんやりと薄明るくなってきているのに気づいた。
広げた手のひらが白く浮かび上がって見えた。
明かりだ。
太陽の光ではない。月明かりほどもないだろう。だが雲で覆われた星空ぐらいには明度があった。
自分がほっとしているのに気づいた。
幼子の手が母親の指を求めるように、自分がその光を切望していたのだとわかった。
自分の胸が、高鳴るのがわかった。
前方の明かりはおれの体を浮かび上がらせ、同時に、おれが通ってきた背後の空間をぼんやりと照らし出している。
無明の闇の中では、前後の境はなく、暗闇という一つの衣に包まれていられた。
だが明かりが差し、明度の差が生まれると、目の端から自分の背後へ続いていく暗闇がどうしても気になった。
幼いころ、習い事を終えて電灯のない道を帰る時、おれはいつも何かに追われるように走った。
もちろんおれはそこになにもいないことを知っていたし、暗闇の中で、その何かが自分を害したことなど、一度もなかった。
だがあの頃も今も、暗闇の中の形ない影が自分の背中を引くのを想像せずにはいられなかった。
ぞわぞわと、形ない気配が背中をなぞった。
背中の毛が逆立つのを感じた。
走り出したい。
そして後ろを向いて、自分の背後を確かめてみたい。
大丈夫だ。何もありはしない。
なんでもないことだ。ちょっと振り向いて、また前を向くだけだ。
地獄から妻を取り戻そうとしたオルフェウスのように、振り向いてはならないということはないはずだ。
だがそこには振り向くことを躊躇させる何かがあった。
何かがその禁忌から、自分を遠ざけようとしているという感覚を拭い去ることができなかった。
夕暮れのカカシの佇まいが、田畑への侵入をためらわせるように、そこには静かな制止の気配があった。
……行く手の光が明滅している。映写機の投げかける映像ほど、かすかに。
甲虫が誘蛾灯に惹かれるように、体が赴くがまま、おれは行く手の光に向かって走った。
進むにつれて、前方の光が部屋から漏れる明かりだとわかった。
入り口をかたどる光が見えると、胸を撫でる細波のような焦りが解きほぐされていくのを感じた。
おれは走りを緩め、やがて入り口の前で歩みを止めた。
その部屋に、ドアはなかった。簡素な木枠がその入り口を縁取っているだけだった。
部屋をのぞくと、中で、古いブラウン管のパソコンがスクリーンセーバーを起動させていた。
暗闇の中で聞いたざわめきがそのパソコンのスピーカーから響いていた。
誰か、居るだろうか?
おれは息を整え、入り口に立ったまま、そばの壁をコツコツと叩いた。
反応はなく、人の気配もなかった。
おれは二度目のノックをした後、部屋に入り、パソコンの側へと立った。
そのパソコンは、ずいぶんと色褪せていた。それはそのスペックが必要とされた職場で使い込まれ、やがて時代遅れになって払い出されたかつての先端機という感じがした。
前触れもなく冷却ファンの音が一段上がり、画面が切り替わった。パソコンに染みついていた煙草の薫りが、微かに匂った。
映し出された画面は、ごちゃごちゃした線と点で埋め尽くされていた。スピーカーから聞こえてくる音も、あんな場所まで聞こえてきていたのが不思議なほど小さな音だった。
少しずつ、段階を踏んで音量が上がり──やがて、上げ止まった。
耳を澄ますと、スピーカーのざわめきは様々な言語の話し声がごたまぜになって流れているものだとわかった。
「Ahora? después?」
「Tū quoque」
「Evol rouy dnif ll'uoY」
たわいない問い。疲れた声。遠く、愛する人に向けられた言葉。
世界中の街のベンチで紡がれた言葉をいっしょくたにして流せば、こんな風になるだろうか?
同時に、線と点で埋め尽くされていた画面も、大小の違う無数の種類の文字の羅列によって埋め尽くされているものだとわかった。
画面から点と線が欠けていき、見覚えのある文字だけが残っていった。
無数の言語の話し声も、5人、4人、3人とその数を減らしていった。的が絞られるように、音がはっきりしていった。
ラジオのチューニングが行われて、電波のノイズが一つの声に定まっていくような感触。
英語、スペイン語、学部で習った、いくらか理解できる言語たち。いくつか残っていた文字が消えて、最後に日本語だけが残った。
「こんにちは」
数瞬、沈黙がその場を支配した。
それは若い男の声だった。
その言葉が、自分に向けられた言葉だというのが不思議とわかった。
とまどいに固まった体が動き出す前に、画面は、次の言葉を映した。