空の鎧と底の女
なあ、こんな話を知ってるか?
その昔、あるダンジョンでパーティーの一人が足を滑らせて、井戸に落ちてしまった。
それは枯れた井戸で、底が見えないほど深いものだったが、幸いにして彼女は命を取り止め、井戸の底から仲間に助けを求めることができた。
だが彼らは、彼女を引き上げるための道具も、その術も、持ち合わせてはいなかった。だから彼らは彼女に、助けを呼びに行くと声をかけ、彼女を残してその場を離れた。
彼女は痛む体に耐えながら彼らを待った。光一つない暗闇の中で、一人きりで。
……だがいくら待っても、彼らは戻ってはこなかった。
帰る途中でモンスターにやられてしまったか、もう一度彼女が落ちた井戸を見つけることができなかったか、そんな、どうしても助けに戻ることができない状況にあったのかもしれない。あるいは残酷だが、彼女を見捨てたか。
だが一番残酷なのは彼女が見捨てられたことじゃない。
もたらされた希望が叶えられなかったことだよ。
助ける気がなかったのなら、助けられないとわかっていたなら、いっそその場でお前を見捨てると言い放って、立ち去ればよかったんだ。
その方がどんなによかったことか。
仲間を罵り、自分の身に降りかかった不幸を嘆きながら、恨みに身を染めて死んでいくことができれば、どんなに楽だったことか。
いつか助けに来てくれるかもしれない、そういうかすかな希望が彼女の心を慰め、そして苦しめ続けた。
いつか自分が井戸の底から救い上げられるという想像を、戻ってきた仲間にくだらない恨み言を言う想像を、彼女はしたかもしれない。だが時がたてばたつほど、彼女の望みは遠のき、薄く、薄くなっていった。救いの手は遠のき、繰り返し、深いあきらめが心を満たしていった。
その井戸の底では、1日の内に一度だけ、その底にまで太陽の光が差し込むんだ。彼女にとってそれは天啓を受けるような非現実的な生の体験だった。その光が差す時間だけ、彼女は生きている心地がした。暗闇の中で日ごとやってくるそれが、彼女の正気を保った。
彼女の抱え込んでいた願いは、決して切れることのない糸なんだ。地獄に降りてきた蜘蛛の糸のように簡単に切れたりはしないんだ。どんなに望みが薄くなっても、彼女はその想像を捨て去ることはできなかった。仲間を信じたいという気持ちが彼女を苦しめることになった。
どんなに残酷な想像も、仲間を信じたいという気持ちがたしなめた。
そんな想像をするなんてお前は酷いやつだ、彼らは約束したじゃないか?
ほら、いまにも山を越え川を越えて仲間たちがお前を助けにやってくるぞ。
ほら足音が聞こえてくる、もう、すぐ、そこまで。
倒れ臥した地の底で、そんな音を何度も聞いた。
そんな、絶望と希望に揺れ動きながら、狂おしいほど救いを求めながら、彼女は時間をかけて死んでいった。幾度となく虚空に手を伸ばしながら、その手は誰に掴み取られることもなかった。
彼女の名も、幾度も呼ばれた仲間の名も、もはや誰も知らないように、いつしか枯れた井戸は忘れられ、蓋が閉められた。
そのころからだ。ある声が井戸の底から聞こえるようになったのは。それは死んでいった女の亡霊で、井戸を覗き込んだものを引きずり込んで殺してしまうんだ。違う、違うという言葉が、恨み言のように、嘆き悲しむように、聞こえてくる。その女の亡霊の頭は彼女が殺した死体の頭と繋がってるそうだ。彼女は多頭一身の怪物なんだ。
だが他人の頭を自分につなげても、彼女は決して救われることはない。なぜならば、そこに他人はいないからだ。自分の頭に繋がれた誰かは、自分に属する何かでしかない。
かつて、彼女と直接対峙した竜の少女が、戦いを終えたあと、こんな風に言っていた。彼女を置いていった仲間が、少しでも彼女を救いたいと思っていたなら、誰か一人が井戸に飛び込んで彼女と一緒にいてやるべきだったんだ、とね。バカバカしい解決法だが、それは確かに、そうなんだ。あるいは飛び込むとまではいかなくても、一人が残って声をかけ続けてやればよかったんだ。彼女を一人にしてはいけなかったんだ。誰か一人がいてくれれば、最終的には井戸の底で死んでしまったとしても、あれほどの孤独と絶望に苦しみながら死んで行くことはなかっただろう。井戸に落ちた自分を罵るでも、一緒に嘆き悲しんでくれるでもいい。他人がいるという事実が、自分のために誰かが残ってくれたという事実が、彼女を救うんだ。
ダンジョンの中で目覚め、今日に至る今まで、その女の話が俺の頭の中にある。その女こそが、この空の鎧にしがみついてまで、俺が救いたかった誰かだったという気がする。
フリーゲーム『らんだむダンジョン』とその作者、はむすたさんに限りない尊敬と感謝を込めて。